ロンパリ!考える椅子
川柳的逍遥 人の世の一家言
[
383
] [
382
] [
381
] [
380
] [
379
] [378] [
375
] [
377
] [
376
] [
374
] [
373
]
新しい旅立ち
自己肯定せねば生きてもいられない たむらあきこ
八 重
(画像をクリックすれば大きくなります》
「新たなる旅立ち」
斗南に移った会津藩士たちは、
厳しい気候風土の中で塗炭の苦しみを味わっていた。
この苦境を脱するべく、柴家の長男・
柴太一郎
と
川崎尚之助
が、デンマーク領事で商人でもあった
デューク
から、広東米を調達しようとするが、
仲立ちの日本人貿易商が契約を
履行しなかったためにデュークから訴えられ、
両名が責任を負って、獄に繋がれる悲劇も起きた。
拒んでも逃げても追うてくる氷雨 中井アキ
佐 久 み ね
(画像をクリックすれば拡大されます)
それでも
容保
や
容大
を中心にまとまって、
こっくべんれい
なんとか開墾を成功させようと刻苦勉励する
会津の人たちであったが、明治4年7月14日、
廃藩置県となり藩主は東京に、また藩士たちも、
身の振り方についてそれぞれ決断を迫られることになった。
座布団に化けているけどオニヒトデ 井上一筒
八重一家は藩の消滅と
尚之助の悲運に沈んでいた丁度その時、
死んだと思われていた兄・
覚馬
の無事の連絡が入る。
覚馬に京には京の妻がいると知った覚馬の妻・
うら
は
会津に帰ることを決心、うらを残して
八重
と母・
佐久
、
そして姪・
みね
の3人が覚馬の住む京都を訪ねる。
水たまり母をしのぶにことかかぬ 森中惠美子
それから・・・明治5年、覚馬は女子教育充実のために、
京都に
「新英学級及女紅場」
を設立。
八重はここで女子寮の監督をしつつ、
機織・裁縫や礼法などを教えた。
女紅場の補助金の増額を、
京都府知事・
槇村正直
に直接掛け合うこともあった。
さらに、若い頃には体重が83キロもある偉丈夫だった覚馬が
外出する際にも、力自慢の八重が手助けをした。
忙しい中からひとときを摘む 立蔵 信子
兄が人力車を乗降する時には肩を貸し、
歩く折には兄を背負った。
覚馬が東京で
木戸孝允
や
岩倉具視、江藤新平
ら要人を,
訪問した折にも、八重は兄に同道した。
八重は新たな環境で実に生き生きと、
積極的に兄を支えるのである。
※ 女紅場=女子に裁縫や礼法、読み書き、英語・数学などを教えた。
この花が咲くまでせめて散るまでは 河村啓子
そんな時、八重は会津戦争で新政府軍を撃ち倒したことを、
隠そうともしないし、
かつての敵である
木戸孝允
や
板垣退助
らも、
八重の勇気に感嘆はしても、
それを遺恨とするようなことは全くなかった。
また八重には、相手が要人でも平気で口を利き合えるような
肝の据わったところがあった。
「言いたいことをはっきりと言い、やりたいことをやる」
その彼女の考え方、生き方が、
苦境を撥ね返していくバイタリティーの源になっていた。
夢が風なのか風が夢なのか 山口ろっぱ
[3回]
PR
y2013/08/10 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
<<
会津の女③-山川捨松
HOME
八重・会津戦争を語る
>>
Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ
[PR]
カウンター
1日1回、応援のクリックをお願いします♪
最新記事
式部ー藤壺・花陽炎-①
(11/21)
式部ーどうにもとっまらない-賢子
(11/14)
式部ーどうにもとまらない賢子
(11/07)
式部ー賢子--跳んで弾けてとまらない
(10/31)
式部ー恋の手立ては手紙から
(10/24)
リンク
管理画面
新しい記事を書く
メールログイン
カテゴリー
演劇・映画 ( 8 )
ポエム&川柳 ( 1091 )
アルバム(風景) ( 2 )
アルバム(催事) ( 2 )
アルバム(動物) ( 0 )
雑学 ( 43 )
名言・辞世の句 ( 0 )
未選択 ( 0 )
プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開