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川柳的逍遥 人の世の一家言
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モノトーンの時間を壁が食べている  たむらあきこ

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203高地に立つ銃弾をかたどった慰霊塔(日露戦争の面影)

旅順要塞を攻めあぐねた日本軍は、作戦を変更し、

203高地の奪取を新たな目標とした。

1万6千名もの死傷者を出した激戦の末、

ついに1904年12月5日、高地を占拠。

ただちに28センチ砲で湾内のロシア艦隊を砲撃、

これを壊滅させた。


真っ青な夢に決断迫られる  谷垣郁郎

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「203高地、遂に落つ」  40分/3分

「司馬氏記」

『おぬしのその第3軍司令官たる指揮権をわしに、一時借用させてくれぬか』

 見事な言い方であった。

 言われている乃木自身でさえ、

   この問題の重要さに、少しも気がついていなかった。

 乃木がその性格からして、

   おそらく、生涯このことの重大さに気づかなかったであろう。  

 『指揮権を借用するといってもおぬしの書状が一枚ないとどうにもならん。

 児玉はわしの代わりだという書状を一枚書いてくれるか』

 

 まるで詐欺師のような言いまわしである。

 乃木は、この児玉の詐欺に乗った。

 『よかろう』 と、快諾した≫

ご要望土鍋のフタで受けました  井上一筒

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   28サンチ榴弾砲

かくして、第3軍の指揮権は児玉に移った。

児玉は、重砲隊の移動と、

「28サンチ榴弾砲」による「203高地への連続砲撃」を命じた。 

これまでの作戦とは180度の転換といっていい。
  

 しかし、これが功を奏した。 

暗証番号二回限りのやり直し  山本昌乃

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 203高地を目指す第三軍

旅順包囲戦では28インチ砲が威力を発揮した。

12月5日、午前9時より攻撃は開始され、 

午後2時には、203高地の占領がほぼ確定した。

 

児玉の関心は、 

「203高地から本当に旅順港が見下ろせるか」

 

ということにあった。

児玉からの有線電話に対し、山頂にいる将校はこう答えた。 

「各艦一望のうちに納めることができます」

 

残るは、「山越えに軍艦を撃つことだけ」である。 

まっさらな気持ちで開く第二章  竹内ゆみこ
 
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旅順陥落後、市街後方から湾内を眺める日本兵たち。

≪撃破されたロシアの軍艦が見える≫

砲兵司令官・豊島陽蔵の反対を「命令」の1語で覆し、

砲撃を開始する。

その命中精度は、百発百中といっていいほどのものであった。

その後、数日にわたる砲撃で、

戦艦4、巡洋艦2、その他十数隻の小艦艇を撃沈、

もしくは破壊、港内の造船所も破壊することで、修理も不可能な状況となった。 

明らかな日本軍の勝利であった。

 

その後も戦闘は続くが、

明治38年(1905)1月1日に、敵将・ステッセルはついに「降伏」を決断。

乃木とステッセルとの有名な「水師営の会見」が行われたのは、

1月5日のことであった。

(二日後の12月18日に続きます。)

未来への壁を破ってタクト振る  西村静子

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力むなと言われて河童皿を脱ぐ  岩田多佳子

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           水師営会見所

1905年1月5日、旅順郊外の「水師営の農家」で、

旅順要塞司令官・ステッセルと、日本側の乃木大将との間で、

「降伏文書」の調印が行われた。

≪左ー両将軍が会見した部屋。

   (戦争中は日本運衛生隊の手術室として使われていた)

   右ー当時のままに復元された会見所の建物≫

坂の途中で祭太鼓を待つことに  墨作二郎

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「旅順決戦」  40分/5分

日本陸軍にとって、「旅順」はさして重要視されていなかった。

旅順攻撃を命ぜられた第3軍の乃木希典大将にしても、 

「旅順はたやすく落とせるだろう」

 

と見ていた。

しかし、8月19日にいざ総攻撃を仕掛けてみると、

まるで歯が立たなかった。

死傷者は、16000人にも及び、

「旅順の大要塞」には、かすり傷1つ負わせることができなかった。 

悲しい日もっと悲しい人を見る  松田篤

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  旅順要塞跡ー1

≪内部は、分厚いコンクリートで覆われている≫

逆にいえば、

ロシア軍は、それだけ頑強な大要塞を、造り上げていたということになる。

しかも乃木軍は、なかでも最も堅牢な二龍山東鶏冠山の間を、

「中央突破」する、という作戦に出た。

これは、弱点攻撃が最も有効とされる「要塞戦の原則」の正反対である。

失敗しても不思議はない。 

挫折した下絵に残す熱きもの  富田美義

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   旅順要塞跡ー2

それにもかかわらず、

9月19日の第2次総攻撃でも、同じ攻撃法を採り、

同じ悲惨な結果を得た。

死傷者4900人で、これで既に2万人を超えた。

この責任はもちろん、乃木大将のもあったが、

参謀長・伊地知幸介の頑迷さによるところが大きかった。

「旅順要塞」は、海軍にとってもなんとしても、

落としてもらわなくてはいけない対象だった。

その重要性は、

陸軍よりも、海軍においてより大きいといっていい。 

頂点の椅子の軋みはつぶやきか  笠嶋恵美子

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          水師営の会見

≪乃木大将とステッセルの間で、旅順軍港攻防戦の停戦条約が締結される≫

「司馬氏記」

《 旅順の港とその大要塞は、

   日本の陸海軍にとっての最大の痛点でありつづけている。

 東郷の艦隊は、悲愴を通り越して滑稽であった。

 彼らは陸軍が要塞を落さないため、尚も、この港の口外に釘づけにされ、

 ロシアの残存艦隊が出たきて、

  海上を荒し回ることを防ぐための「番人の役目」を続けている。

 大戦略からみて、これほどの浪費はなく、

 これほど日本の勝敗に関して、あぶない状態はなかった。

 バルチック艦隊は、いつ出てくるか。 

 という報は、欧州からの情報はまちまちでまだ確報はない。

 無いにしても、

 「早ければ10月に日本海にあらわれる」

 という戦慄すべき説もおこなわれていた。

 ・・・・・〈中略〉・・・・・   

 海軍はあせった。

   東京の大本営も、あせりにあせった。》

 

少しずつ老いて狂ってゆく明日  元永宣子

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      203高地

海軍からすれば、「203高地」を攻め落としてほしかった。

203高地を取れば、

旅順港を一望できて、港内のロシア軍艦を陸軍砲で砲撃できる。

しかし、乃木軍は203高地には見向きもせず、正面攻撃に固執していた。

「乃木と伊地知を更迭せよ」

という意見も多かったが、 

「兵士の士気が落ちる」

 

ということで、大山が承知しなかった。 

ドアチェーン外し昨日を蹴り込まれ  谷垣郁郎

 

こうした追い詰められた状況のなかで、

11月26日、第3次総攻撃が行われたが、成功するはずはなかった。

旅順攻撃の象徴的存在ともいうべき「白襷隊」が、

出陣したのもこの時であるが、

いたずらに、死傷者の数を増やすばかりであった。

もちろん、 

「旅順市街へ突入せよ」

 

という命令が実現されるはずもなかった。 

またひとり友を失う寒椿  本多洋子

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       白襷隊

 ≪「白襷隊」=旅順要塞第三次総攻撃時の決死隊≫

隊員は、夜間相互の識別がしやすいように、

右肩から左脇下に白だすきをかけた。
 
そして、1904年11月26日、

午後9時より「夜間奇襲攻撃」を賭けるも、 

白襷隊総勢3100余名のうち、半数近くが一瞬で死傷し、隊は壊滅した。

 

≪この写真は彼らの最後の勇姿となった≫

矢印を信じています非常口  美馬りゅうこ

しかし、この総攻撃の失敗が、

乃木に作戦を変えさせるきっかけになった。

翌27日から203高地への攻撃が開始された。

結果は、203高地に日本兵の屍を積み上げるばかりである。

しかし、30日になって奇蹟が起こる。

香月・村上両隊の約500人が、ロシア軍歩兵1000人と白兵戦を演じ、

わずか50人程度であったが生き残り、

ついには、203高地を占領した。

11月30日午後10時のことである。

だが、この占領はあっという間に取り返されてしまう。

(二日後の12月16日に続きます)

マジシャンじゃないから雲は隠せない  清水すみれ

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鰯雲みんな纏めて面倒みるわ  岩根彰子

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遼陽南東の高地から砲撃を行う第一軍独立野戦砲兵

北上を続ける日本の3つの軍が、

3方向からそれぞれ
「遼陽」を目指した。

遼陽は、交通の要衝であり、戦略的意義が極めて高く、

この地で、ロシア軍を包囲殲滅することを目標とした。

一方、ロシア軍も、

日本軍を迎え撃とうと、この地に陣地を構築して待ち受けていた。

日本軍の兵力は約13万、ロシア軍の兵力は約22万が衝突。

「鴨緑江会戦」と並び、日本軍にとっては、はじめて、

近代陸軍を相手にした本格的会戦であった。

≪この会戦における日本軍の死傷者は約2万2千、

   ロシア軍の死傷者は、約2万5千とされている≫

生涯は一度落花はしきりなり  大西泰世

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「遼陽会戦の死闘」  40分/3分

陸戦は、いよいよ「遼陽会戦」へと向けて進んで行く。

8月初め、ロシアは、司令官・クロパトキン大将の下に、

歩兵201・5大隊、騎兵153中隊、砲673門を集結させていた。

クロパトキンはかねてより、遼陽での一大決戦を予定していた。 

サイコロで決まる光と影の位置  白川淑子

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  児玉源太郎             大山巌

日本軍との比較でいえば、

歩兵大隊数で1・6倍、騎兵中隊数で4倍、

火砲数で1・4倍と明らかに、ロシア軍優勢であった。

8月22日、総参謀長・児玉源太郎は、

大山巌の許可を得て、遼陽攻撃の命令を発した。

予想通りの激戦となり、日本軍は明らかに劣勢であった。

しかし、ここで日本軍に救世主が現れる。

黒木軍は、主力軍ではなく、遊軍の形で、右翼から太子河を渡り、

背後もしくは側面から、遼陽を攻める作戦に従事していた。 

ツナ缶を開ける見えない方の手で  井上一筒

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   将軍たち(左から) 

(黒木為楨、野津道貫、山県有朋、大山巌、奥保鞏、

乃木希典、児玉源太郎、川村景明)

 

「司馬氏記」

『黒木の軍団は3個師団ほどだというが、それはうそだ。あと3個師団はもっている』

 とクロパトキンは、判断するようになった。

 なるほど、ヨーロッパの軍事専門家の常識では、そう言うであろう。

 黒木が、あれほどに損耗をかえりみずに、

   猛攻を仕掛けてくるのは、

 「予備兵力をゆたかにもっている証拠だ」 というのであった。

 が実情は、黒木は裏も表もなく、3個師団の1枚看板だけでやっている。

 むろんこの日露戦争が長期にわたれば、

   日本軍は兵力不足になるであろう。

 日本の大きな戦略方針が、短期決戦主義ということになっている以上、

 いわば3個師団という晴れ着が労働着であった。

 着更えはなかった。》

出来心にしては用意周到ではないか  島田握夢

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クロパトキン

とにもかくにも、黒木軍は死闘を制した。

9月3日夜、クロパトキンは総退却を決意する。

遼陽会戦における日本軍の死傷者は、2万3533人で、

ロシア軍の約2万人を上回った。

外国人従軍記者の中には、

「日本軍の勝利ではない」 と報道した者もいるが、

幾分かの真実を、含んでいるようにも思える。 

50度のおじぎで風をやりすごす  桜風子
 
二日後の12月14日に続きます。

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とことん運だろうと冷ややかな妬心  たむあらあきこ

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東鶏冠山北堡塁(日露戦争の面影)

旅順を取り囲む三大堡塁のひとつ。

日本軍のたびかさなる攻撃にも、

「難攻不落」を誇っていたが、

日本軍の「28センチ砲」の爆裂により、

要塞の司令官だった猛将・コンドラチェンコが戦死したのを契機として、

1904年12月18日、ついに陥落した。

砂漠が増えたねと月が言うている  井上一筒

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「黒木軍と奥軍の明と暗」  40分/3分

一方の陸軍の方は、まだ動きが遅い。

仁川に上陸した韓国駐屯部隊が、京城に進駐している程度であった。

逆に言えば、

陸戦における第1戦を戦うに当たって、日本は慎重であった。

それには理由がある。

国家財政が底をついている日本としては、

戦費を外債に頼るしかない。

その外債が、人気化し買ってもらうためにも、

緒戦は華々しい戦果を求められていたのだ。

緒戦の目標は、「鴨緑江の敵を破り満州に出る」 ということに定められた。

その任務には、第1軍が当たることになったのだが、

そのトップには、「よほど勇猛な将がいい」 ということで、

黒木為楨大将が選ばれた。 

何もかもうす塩振って受けて立つ  山本昌乃
 
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   黒木為偵        奥保鞏(やすかた)

黒木為偵は、薩摩藩の出身で、

戊辰戦争にも参加している文字どおりの侍であった。

第1軍が、順調に、鴨緑江渡河の準備を行っているのに並行して、

遼東半島南部に上陸させる「第2軍の編成」が進められた。

軍司令官は、奥保鞏で、

旧小倉藩士という佐幕藩の出身であったが、

軍上手として定評があった。

この第2軍に与えられた使命は、

「金州・大連付近を占領せよ」 というものであった。

そして、満州平野に分け入り、

朝鮮国境を越えてやってくる第1軍と合流する予定であった。

上陸は順調だった。 

まちがっていないが納得いきません  三村一子

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   散兵壕での日本兵

しかし、苦難はその後に待ち受けていた。

第2軍が、本格的な攻撃を開始したのは、

5月26日のことであるが、「金州・南山要塞」は、

当時の「日本陸軍の想像を絶する近代要塞」であり難攻不落だった。

日本兵は、ばたばたと倒れ、

ただでさえ不足している砲弾も、あっという間に底を突いた。

この日本軍の危機を間一髪で救ったのは、

第4師団長の小川又次中将だった。

敵の弱点である左翼に予備弾まですべて撃ち込み、

艦砲射撃の援軍も得た。

その後は、歩兵の肉弾攻撃であり、

午後6時半、ついに占領し、ロシア軍は「旅順要塞」へと逃げ込んだ。

すこぶる不明確にユメムシの輪郭  山口ろっぱ

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「司馬氏記」

《 金州・南山のロシア軍は、いかに奥軍の攻撃が苛烈であったにせよ、

   こうも簡単に、退却すべきではなかったかもしれない。

   もし攻防がもう1日長引いていれば、すでに弾薬つき、

   死傷が全兵力の1割をう上回っている奥軍としては、

   攻撃再会まであと何日を要したか、想像もできない。

   なぜならば、銃砲弾の補給を本国から仰がねばならず、

   本国も砲弾のストックが、つねに底をついている以上、

   その船荷がいつ着くか、たれもわからなかったのである。

   奥軍のうけた予想外の大損害は、

   これを電報で東京の大本営に報じたとき、

   「電文の〇が1つまちがっているのではないか」

   と、大本営ではうたがったほどであった。

   ・・・〈中略〉・・・日本軍ははじめて、近代戦のすさまじさを知ったのである 》

十指みな使い果たした後だから  瀬川瑞紀

二日後の12月12日に続きます。

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消炭を摑む男の意地の果て  森中惠美子

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閉塞作戦で沈められた報国丸

「ロシア艦隊を旅順港内に封じ込めるため、

  外洋へ出入り口である狭い海峡に船を沈めて、

  出られないようにするという作戦。」

≪21隻もの閉塞船を出したが、砲台からの攻撃にあって成功しなかった≫

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「旅順港を”閉鎖”せよ」  40分/ 5分

仁川沖での勝利は、

連合艦隊としては、別働隊というべき働きである。

主力の仕事は、あくまでも「旅順港」の方だ。

ロシア海軍は、「極東艦隊」「バルチック艦隊」という2つの艦隊を持っていた。

極東艦隊では、旅順と浦塩という2つの基地を持っていたが、

この時期の浦塩港は、結氷期にあたるために、

極東艦隊のほとんどが、旅順港に集結していた。 

落ち葉踏む戦争なんて大嫌い  嶋澤喜八郎
 

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閉塞作戦を示したパネル

それを撃破しなければいけないものの、

「要塞砲」で守られている港内にいる限りにおいては、

攻撃の手段は、限られたものになってしまう。

2月8日夜、まず駆逐艦による「水雷攻撃」が実行されたが、

確たる成果は上げられなかった。

翌9日には、二等巡洋艦・ディアーナの挑発を受けて、

旅順港の外において、初めての主力決戦が行われた。

後に「旅順口外の海戦」と呼ばれるものである。

ここに来て運命線がゆがみだす  信次幸代

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旅順監獄展示室に陳列された報国丸の錨

 

しかし、両軍のダメージは小さなものである。

日本側から見ても、勝利には程遠かった。

言い換えれば、

「旅順要塞」の威力が、それだけ凄まじいものだということだ。

そこで、次なる作戦は、

旅順港から艦隊を出られないようにすること、

即ち「閉塞」となった。 

表札を人に盗ませてはならぬ  山口ろっぱ

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   一時休戦の写真

≪旅順要塞攻防戦の最中に、日露両軍の戦死者を収容するために一時休戦した≫

「司馬氏記」

≪ロシアと戦う場合、当然海軍の第1期作戦は旅順港との格闘になる。

海軍軍司令部の案として、「閉塞」ということは早くからあった。

旅順港に船を沈めて、その瓶の口をとざしてしまい、

港内の敵艦隊を物理的に、閉じ込めてしまうのである。

旅順の港口はじつに狭い、その幅は273メートルで、

しかもその両側は底が浅いために巨艦が出入りできるのは、

真ん中の91メートル幅しかない。

そこへ古船を横に並べて5、6隻沈めてしまう。

「それ以外にないのだ」

ということを、開戦の前から唱えていたのは、

東郷の参謀のひとりである有馬良橘中佐と、

戦艦朝日の水雷長である、広瀬武夫少佐である。

引き際の美学 微妙に揺れている  山本昌乃

ところが「閉塞」の権威であるはずの秋山真之は、

実際には、にえきらなかった。

彼は、「旅順要塞の事情」が分ってくるにつれ、

「サンチアゴ港でこそできたが、旅順要塞はまるで違う。

  サンチアゴ港の千倍の砲力をもっているし、

  第一港内の艦隊が、スペイン艦隊でなくロシアの大艦隊だ。

  やればかならず死ぬ」

と、言い出した。 真之は、

「流血のもっともすくない作戦こそ最良の作戦である」

と平素言い、「閉塞には冷淡」になった。

しかし、自分の先任参謀の有馬がみずからやるということを、

まっこうから反対もできず、煮え切らなかった≫

却下却下と澱粉質の声で  井上一筒

天才・秋山真之にして決断できなかった「閉塞作戦」は、

やはりうまくいかなかった。

2月23日薄暮、閉塞隊の5隻は、円島の東南20海里の洋上に集合し、

翌深夜作戦行動に出たが、

先頭の天津丸が、猛烈な砲火と探照灯に目が眩み、

進路を誤ったこともあって、2隻を除いて有効な閉塞は、

出来ないままに沈没した。 

ニアミスをしたこの世あの世の境目で  和田洋子
 
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ロシア船の甲板に横たわる広瀬中佐の遺体

   

3月26日夜、「第二次・閉塞作戦」のための4隻が出発した。

今回も、海岸にある砲台と艦艇からの猛射によって、

予定位置の手前で沈没、完全な封鎖はできなかった。

おまけに、後に、「軍神」としても謳われた広瀬武夫少佐が、

壮烈な戦死を遂げることにもなった。 

* 「軍神」=本来は武運を守る神様のこと。

明治以降の日本は、日露戦争の広瀬少佐を初めに、

戦死した軍人の中から模範となる者を神として扱い、国民が敬う対象とした。

 

「広瀬の場合は、出身地の大分県竹田市に広瀬神社が造られた」

人は皆生きてる途中で死ぬのだ  高橋謡子 

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広瀬の遺体を確認する海軍・陸軍将校の二人

「司馬氏記」

≪広瀬はオーバーの上に引廻しを羽織り、

    ボートの右舷最後部にすわって、

    ともすれば恐怖で体が硬くなろうとする隊員をはげまし、

    「みな、おれの顔をみておれ。見ながら漕ぐんだ」

    と、言ったりした。

  探照燈が、このボートを捕え続けていた。

    砲弾から小銃弾までがまわりに落下し、海は煮えるようであった。

  その時、広瀬が消えた。

    巨砲の砲弾が飛び抜けたとき、広瀬ごともって行ってしまったらしい。

    その隣りに座って、舵をとっていた飯牟礼ですら、

    気づかなかったほどであった≫

渡された切符は遠い海のいろ  清水すみれ      

2日後の12月10日に続きます。

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