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川柳的逍遥 人の世の一家言
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とことん運だろうと冷ややかな妬心  たむあらあきこ

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東鶏冠山北堡塁(日露戦争の面影)

旅順を取り囲む三大堡塁のひとつ。

日本軍のたびかさなる攻撃にも、

「難攻不落」を誇っていたが、

日本軍の「28センチ砲」の爆裂により、

要塞の司令官だった猛将・コンドラチェンコが戦死したのを契機として、

1904年12月18日、ついに陥落した。

砂漠が増えたねと月が言うている  井上一筒

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「黒木軍と奥軍の明と暗」  40分/3分

一方の陸軍の方は、まだ動きが遅い。

仁川に上陸した韓国駐屯部隊が、京城に進駐している程度であった。

逆に言えば、

陸戦における第1戦を戦うに当たって、日本は慎重であった。

それには理由がある。

国家財政が底をついている日本としては、

戦費を外債に頼るしかない。

その外債が、人気化し買ってもらうためにも、

緒戦は華々しい戦果を求められていたのだ。

緒戦の目標は、「鴨緑江の敵を破り満州に出る」 ということに定められた。

その任務には、第1軍が当たることになったのだが、

そのトップには、「よほど勇猛な将がいい」 ということで、

黒木為楨大将が選ばれた。 

何もかもうす塩振って受けて立つ  山本昌乃
 
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   黒木為偵        奥保鞏(やすかた)

黒木為偵は、薩摩藩の出身で、

戊辰戦争にも参加している文字どおりの侍であった。

第1軍が、順調に、鴨緑江渡河の準備を行っているのに並行して、

遼東半島南部に上陸させる「第2軍の編成」が進められた。

軍司令官は、奥保鞏で、

旧小倉藩士という佐幕藩の出身であったが、

軍上手として定評があった。

この第2軍に与えられた使命は、

「金州・大連付近を占領せよ」 というものであった。

そして、満州平野に分け入り、

朝鮮国境を越えてやってくる第1軍と合流する予定であった。

上陸は順調だった。 

まちがっていないが納得いきません  三村一子

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   散兵壕での日本兵

しかし、苦難はその後に待ち受けていた。

第2軍が、本格的な攻撃を開始したのは、

5月26日のことであるが、「金州・南山要塞」は、

当時の「日本陸軍の想像を絶する近代要塞」であり難攻不落だった。

日本兵は、ばたばたと倒れ、

ただでさえ不足している砲弾も、あっという間に底を突いた。

この日本軍の危機を間一髪で救ったのは、

第4師団長の小川又次中将だった。

敵の弱点である左翼に予備弾まですべて撃ち込み、

艦砲射撃の援軍も得た。

その後は、歩兵の肉弾攻撃であり、

午後6時半、ついに占領し、ロシア軍は「旅順要塞」へと逃げ込んだ。

すこぶる不明確にユメムシの輪郭  山口ろっぱ

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「司馬氏記」

《 金州・南山のロシア軍は、いかに奥軍の攻撃が苛烈であったにせよ、

   こうも簡単に、退却すべきではなかったかもしれない。

   もし攻防がもう1日長引いていれば、すでに弾薬つき、

   死傷が全兵力の1割をう上回っている奥軍としては、

   攻撃再会まであと何日を要したか、想像もできない。

   なぜならば、銃砲弾の補給を本国から仰がねばならず、

   本国も砲弾のストックが、つねに底をついている以上、

   その船荷がいつ着くか、たれもわからなかったのである。

   奥軍のうけた予想外の大損害は、

   これを電報で東京の大本営に報じたとき、

   「電文の〇が1つまちがっているのではないか」

   と、大本営ではうたがったほどであった。

   ・・・〈中略〉・・・日本軍ははじめて、近代戦のすさまじさを知ったのである 》

十指みな使い果たした後だから  瀬川瑞紀

二日後の12月12日に続きます。

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