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川柳的逍遥 人の世の一家言
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起きなさい朝日迎えに来てますよ  中野六助
 
 
 
        北条政子
 
 
① 『女人此国ヲバ入眼スト申伝ヘタルハ是也』
(女人が日本の国を完成するといい伝えられているのは、
 このことである)

② 『女人入眼ノ日本国イヨイヨマコト也ケリト云ベキニヤ』
(日本国は女人が最後の仕上げをする国であるということは、
 いよいよ真実であるというべきではあるまいか)
(慈円は『愚管抄』に「日本国女人入眼」とか
  「女人此国ヲバ入眼ス」などと繰り返し述べている)


むら雲の嗚呼の部分のうすべにの  宮井いずみ


「鎌倉殿の13人」 北条政子・藤原兼子+慈円




「女人入眼」
 
「入眼」は、絵を描く時など最後に瞳を点じて完成とすることから、
「物事を成し遂げる、仕上げをするといった意味」で、慈円政子
「男たちが戦で彫り上げた国の形に、玉眼を入れるのは、女人であろう
 と、私は思うのですよ」と、語る。
 「入眼」とは、古辞書に「成就」の意とある。
 日本の国の仕上げをするのは、「女性」だというのである。
 
 
一日に二回は空へ吠えている  森 茂俊


「日本国女人入眼」の例としては、北条政子、藤原兼子から後白河法皇
の女御・建春門院、さらには古代の女帝まで含めて、かなり広い範囲に
わたっており、女帝の問題は特に重視されている。
慈円には、女人政治を基準とする時代区分があるとし。
「奈良時代の末までは、女帝の時代、平安時代は皇室から女帝を建てず、
 藤原鎌足の子孫が妻后(さいこう)・母后(ぼこう)となり、后の父
 に政治を行わせた時代。そして、その後に来るのが、退位した上皇が
 天皇の父として院政を行う時代」 としている。


仕上げには星の雫を二、三滴  合田瑠美子



     慈 円


「なぜ女性が活躍するのか」

「人間は母胎から生まれ、出産の苦痛は、言語を絶したものであって、
 人は女性である母の恩を受けているのだから、母を敬い孝養を尽くす
 のは当然であり、それ故に女性が政治に活躍するのだ」
と、慈円は延べ、母性としての女性の特質から説明している。


母という万能薬を持っている  田辺豊子


藤原鎌足の子孫であり、摂関家の出身である慈円が、
子女を天皇の后として政権を握ってきた摂関政治を合理化しているのは
当然であるが、それに留まらず、女性の本質に関する仏教思想的な省察
が見られるようである。
慈円の言うように、鎌倉前期は、「女流政治家」の時代である。
兼子の先輩には、後白河法皇の寵を得た高階栄子(丹後局)がいるし、
政子が争った相手には、北条時政の後妻・牧の方がいる。
しかし、これらの中では、いうまでもなく政子のスケールが際立って大
きい。
(政子を詠ったものとして、次の句がある)


一盛り六十余洲後家差配   江戸川柳
 
 
 慈円は、女人政治家の特質を母性に求めた。
丹後局牧の方は、この条件でまず失格である。
彼らは権力者の母ではなく、妻であるから、陰で権力者を操る程度の
ことしかできない。
藤原兼子は、後鳥羽上皇の乳母で、上皇よりも25年も年長だから
上皇に対しては、母に準ずる立場にあったといえよう。
45歳で典侍としてスタートして雇用されたのだから、
よほど有能だったのだろう。
しかし、所詮は上皇の秘書にすぎないから、上皇の機嫌をとり、后妃
だけでなく上皇、お気に入りの白拍子の世話まで焼かねばならない。


幸せな振りをしている飾り窓    田中 俊子  


手腕を振るったといっても、上皇に内密に奏聞したにすぎず、
それも多くは官位の昇進についてである。
それに対し政子は、頼朝の妻であったが、活躍するのは夫の没後であり、
将軍頼家・実朝の母としてであるから憚ることなく、権力を振るうこと
ができたのである。
とかく恐れられがちな、政子という女人のために、
とくに弁明しておきたいのは、頼家・実朝に対する彼女の行為が、
当時としては、何ら異様なものではないということである。


俎板の模様は母の形見です  北島 澪


武士の家庭では、親は子に対して、絶対の権限をもっており、
子を思いのままに勘当すらできる。
それは主として、父の権限であるが、父の死後は母が行使する。
親から見て不肖の子であれば、それを勘当するのは、家門を繁栄させる
立場からいえば当然なのだから、政子頼家を勘当したのは、
親の権限によるのである。
頼家を殺したことに政子はあずかっていないし、実朝にいたっては、
政子や北条氏が擁立したのであるから、殺害を唆す筈もない。
子どもに対する仕打ちで、政子が非難される理由はまったくない。


一の波二の波父と母である  太田のりこ



       北条政子


それよりも慈円を驚かせたのは、政子が父の時政を幽閉したことであり、
確かに当時の家族のあり方からは非難されることである。
「実朝が母、頼朝が後家ナレバ」
と、説明しているように、時政の主人にあたる頼朝、実朝の後家であり
母であるから家来である時政を幽閉したのも、当然だということであろ
うが、当時の主従と親子の軽重からいえば、政子の選択が普通であると
は必ずしも思えない。

それだけ政子の行為が、公人としての、より高い立場からなされている
ことになるし、また実朝を大事と考えていたことが、この面からも論証
される。


春の日の紙飛行機は二人乗り  米山明日歌


しかし政子、「真に指導者として、独裁的な手腕を発揮した」のは、
実朝の没後であった。
慈円は妻后とか母后とか、男性との関係で女性政治家ととらえているが、
それでは男性権力者の影にすぎないことになり、
妻でもなく、母でもない、独身の女性の方が、独裁者の条件に相応しい
のではなかろうか。
あるいはまた、古代の女帝の多くがそうであったように、
政子は頼経が成人するまでの繋ぎの意味を、持っていたのかもしれない。       
                         (上横手雅敬)


心配は母の職業病と知る  伊藤良一 




「女人入眼」は、永井沙耶子さん著で現代版人気発売中です。
 2022年7/22発表の直木賞候補でしたが、今どき感が弱くて惜しむ
らく負けてしまいました。総合点では勝っていたのに、なぜか賞を獲得
したのは、窪美澄『夜に星を放つ』でした。が、ドラマ性は断トツの評。
ということは、面白いということ。歴史好きの方には、必読の書である
ことは間違いなし。なお、
今年の直木賞・芥川賞の作者は、両方とも女性だったことを書き添えて
おきましょう。まさに「女人入眼」です。

(あらすじ)
権勢を誇った後白河院の死後、都ではその寵妃・丹後局と関白の九条
兼実が権力争いを繰り広げていた。
丹後局は、鎌倉の頼朝を味方にするため、女官の周子を鎌倉に送り込み、
大姫を天皇に嫁がせようとする。
男たちが彫り上げた国という仏に目を入れるのは女たち……。
パワーゲームに翻弄され心を閉ざす大姫を、周子は救えるのか…
歴史好きの方には必読の書です。


クライマックスまで、3・2・・・・・ 山口ろっぱ
 


  丹後局(鈴木京香)


「藤原兼子」

卿の二位、あるいは今日の局とも呼ばれた藤原兼子
彼女は後鳥羽院の乳母であったことから、天皇の趣味・嗜好を熟知して
おり、後鳥羽が上皇になってからも彼に愛人や、美少年を世話するなど
して、うまくとりいった。
さらに当時、権勢を誇っていた源通親と結び、盤石の地位を獲得した。
陰から政治に口を出し、富と権力を欲しいままにしたのだ。
兼子は、任官叙位の権限まで握っていたので、
皆こぞって立身出世のために賄賂を贈った。
藤原定家などは、彼女を「狂女」呼ばわりしながら、
ちゃっかり昇進の斡旋を依頼している。


ひらがなのふの字の好きな人が好き  佐藤正昭


兼子はこうして得た金や土地屋敷を転売交換して、地価の上がりそうな
二条大路近辺の一等地を買い占めた。
財テク、土地転がしの手腕も一流だったのだ。
兼子は実朝の後継者について政子と折衝し、自分が養育した後鳥羽上皇
の皇子・頼仁親王を次期将軍にと画策したが、これは実現しなかった。
幕府の権力にまでその手を伸ばそうとしていたのだから恐れ入る。
まさに宮中随一のやり手バァであった。


海亀の甲羅びっしり苔むして  くんじろう
 


   松崎天神縁起 一人で旅する女性


「蛇足」 鎌倉時代の女は強かった。

「武家の女性は男性を陰で支えるもの」
というイメージがあるが、鎌倉時代はちょっと違ったようだ。
兄弟たちと並んで、女子も所領を相続することができた。
家を継ぐ嫡子は、通常は男であったが、ときには女が嫡子として
一族の惣領になることもあったのである。
また、夫が亡くなった場合は、後家として譲与され所領を一族の代表と
して管理しなければならなかった。
地頭職に就く女性もいたというから、この時代の武家の女は、
強くなければならなかったのである。


禁煙せねば灰皿飛んでくる  銭谷まさひろ



  前大僧正慈円

慈円は歌人としても名高く、6千首を超える数が残っている。
歌仙絵にもその独特の風貌が描かれている。歌仙絵の歌は、
おほけなく うき世の民に おほうかな  わが立つ杣に 墨染の袖 "


 「慈円」

「愚管抄』は、承久の乱(1221)が起る直前に書かれており、
この中で慈円は、後鳥羽上皇の無謀な倒幕計画を痛烈に批判している。
「愚管抄」の目的は、上皇の幕府転覆を阻止することにあったようだ。
摂関家という名門出身であり、加えて僧としても、天台座主も任じられた
ことのある慈円は、世の「変遷」「道理」の展開ととらえた。
藤原氏による摂関政治も、鎌倉幕府の成立すべて「道理」であり、
よって保元の乱(1156)以降の武家勢力の台頭は必然であると、肯定した。
慈円は、兄・九条兼実と同じく親幕府派の人物であった。
東大寺開眼供養の折に、上洛した頼朝と対面し、まるで旧知の仲のように
打ち解けたという。
疑り深い性格の頼朝がすぐに心を許したのだから、慈円の寛大な人柄が
想像される。


玄関で積乱雲になってます  森田律子

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横隔膜 流人の辿りついた波  高橋 蘭
 


                  橋を渡る人々

人々で賑わう四条大橋。当時の京の中心地であるとともに街道の出発点
でもあった。武士・僧侶・女・子供と様々な人が行き交う。

 
鎌倉二代将軍・実朝は、京風文化の憧れは強く、和歌や蹴鞠を好んだ。
特に和歌に熱中し、藤原定家鴨長明に指導を仰いだほどである。
元久2年(1205)9月、自らも数首ほど出した「新古今和歌集」が、
後鳥羽院より藤原定家の門弟・内藤兵衛尉朝親が届けた。

朝親 「もっと早くにお届けしたかったのですが…」
実朝 「いや~、待ち焦がれておった」
” 見渡せば花ももみじもなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ "
 実朝 「これは定家殿の歌だな…父上の歌もあるぞ…」
" みちすがらふじの煙もわかざりきはるるまもなき空の景色に "
相模国・三浦三崎にて (実朝の3句)
” 世の中はつねにもがもな渚こぐ あまのを舟の綱手かなしも "
伊豆の海と初島を眺めて
" 箱根路をわが越えくれば伊豆の海や 沖の小島に波のよるみゆ "
" 大海の磯もとどろによする波 割れて砕けて裂けて散るかも "

実朝の詠んだ和歌は、後に「金槐和歌集」に纏められた。


木漏れ日を浴びて詩人の顔になる  郷田みや
 


      鴨長明の草庵の想像復元図

 庵の東側に3尺余りのひさしを差し出して、その下を柴を折って
  燃やすところ(炊事場)とした。
② 東側隅にわらびの穂を綿代わりにした敷物を敷いて寝床にした。
 室内は西側北の部分に衝立を立て、その奥に阿弥陀如来と普賢菩薩
  の絵をかかけ、前には法華経を置いてある。
 西側の南半分に、竹のつり棚を拵えて、黒い皮籠を3つ置いた。
  中には、歌書・楽書さらに「往生要集」などの抜き書きを入れた。 
  その横には琴と琵琶をそれぞれ一面ずつ立ててある。
 南側に竹の簀の子板を敷く。


小さくなった庵の前に立ち庵を眺める長明


 
「鎌倉殿の13人」 鴨長明・方丈記&古今和歌集


『ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
 よどみにうかぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、
 久しくとどまりたるためしなし。
 世の中にある人と棲(すみか)と、又かくの如し』


この有名な書き出しで始まる『方丈記』の作者・鴨長明は、久寿2年
(1155)京・下鴨神社の禰宜(下級神官)鴨長継ながつぐ)の
次男として生まれた。
若くして、父方の祖母の家を継いだ長明の未来は、前途洋々だったが、
19歳で父を失うと急速に没落し、その後は失意の生活を送ることに
なる。30歳を過ぎてから、祖母の家を出て加茂川の畔の庵に移るが、
その大きさは、「以前の家の10分の1しかなかった」と、長明は書
き残している。
平家の没落から鎌倉幕府の樹立へと、激しく激動する時代のなか、
長明は、和歌と管弦の道に没頭し、やがて歌人として認められるよう
になった。


すーっと風洗い流してくれました  津田照子


建仁元年(1201)長明は、後鳥羽上皇によって再興された和歌所の
寄人(よりうど)として抜擢される。
しかし、ここでも長明の不運は続く。
後鳥羽上皇の庇護によって、いったんは下鴨河合社の禰宜に就くことが
決っていたが、同族の妨害によって実現しなかったのだ。
この生涯2度目の挫折に悲嘆した長明は、50歳で出家し京都・大原に
隠棲する。
だが、ここも安住の地ではなかったらしく、承元2年(1208)長明
は、大原から日野山の奥に移り、いわゆる一丈四方(4畳半程)の草庵
を結んだ。新しい住まいは、最初に作った庵の100分の1にも足りな
い大きさだった。


平均という甘い居場所にしがみつく  原 洋志
 




日野山に移ってから間もなく、長明『新古今和歌集』の選者の1人で
ある藤原雅経に伴われて、鎌倉に赴く。
すでに長明は、新古今和歌集に10首も入るほど、和歌の名手として知
られていた。
雅経は、こうした長明の才能を惜しみ、歌人としても名高い将軍・実朝
の歌道師範として推挙したのだ。
鎌倉では、実朝と何度も和歌談義し、指導もしたが、結局、この最後の
仕事も長くはつづかなかった。


階段はいらん養成所の裏手  酒井かがり


京へ戻った長明が、建暦2年(1212)3月、自らの生涯を顧み乍ら、
草庵での暮らしぶりを書いたのが『方丈記』なのである。
方丈記の前半は、長明が体験したさまざまな災害が簡潔で迫力に満ちた
文体で語られている。
そして後半では、自らの半生と日野山に庵を結んだ経緯と、
そして庵の形態や日々の暮らしぶりが綴られ、長明の院政生活を垣間見
ることができる。
長明がたどり着いた終の栖とは、どんなものだったのだろうか。


 あるときはナマコあるときはイタチ  笠嶋恵美子


長明「方丈の庵」は、組み立て式で、いつでも何処へでも運んでいけ
るつくりになっていた。
土台を組み、簡単な屋根をつくり、木と木のつなぎ目ごとにつなぎ留め
の金具をかけて固定した。
これは、その土地が気に入らなくなれば、手軽にほかの場所へ家を移動
させるためで、いわば、モンゴルの遊牧民の住居である「包(ばお)」
と同じである。
当然、家具もいたって少なく、わずかな所持品をおく棚、阿弥陀仏や菩
薩の画像、文机、炊事用の竈など、全部でも、荷車2台分しかない。
また寝床は、わらびの穂を入れた敷物を布団の代りにしていた。


八月はキャットタワーを塒とす  山本早苗
 




庵の周辺は南に懸樋(かけひ)があり、岩を組み立てて水が溜まるよう
にしている。
近くには林があるので、薪にする小枝には不自由しない。
念仏・読経に身が入らないときは、散策に出かけ、山草を摘んだり、
山芋を採ったり、時には、麓の田圃に行って落穂拾いなどもする。
所有欲を捨てた、まさに隠者のシンプルライフである。


『よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、
 久しくとゞまりたるためしなし。
 世中にある、人と栖(すみか)と、又かくのごとし』


思いっきりここで泣いてもいいんだよ  蟹口和枝


『たましきの都のうちに、棟(むね)を並べ、甍を争へる、
 高き、いやしき人の住ひは、世々を経て、尽きせぬ物なれど、
 是をまことかと尋れば、昔しありし家は稀なり。
 或は去年焼けて今年つくれり。
 或は大家(おほいへ)ほろびて小家(こいへ)となる。
 住む人も是に同じ。所もかはらず、人も多かれど、
 いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。 
 朝に死に、夕に生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似りける』


欠点をさらすと楽になる余生  靏田寿子


『不知、生れ死ぬる人、何方より来たりて、何方へか去る。
 又不知、仮の宿り、誰が為にか心を悩まし、何によりてか
 目を喜ばしむる。
 その、主と栖と、無常を争ふさま、いはゞあさがほの露に
 異ならず。或は露落ちて花残れり。
 残るといへども、朝日に枯れぬ。
 或は花しぼみて露なほ消えず。
 消えずといへども、夕を待つ事なし』


耳に落つ涙は海になってゆく  平井美智子


家を、人と世の無常の象徴としてとらえ、晩年に住んだ「方丈の庵」
思いを託した鴨長明の「方丈記」は、俗世間の煩わしさから解放された
隠者として生きることの宣言でもあった。

枕とていづれの草に契ちぎるらむ行くをかぎりの野辺の夕暮
(今夜は枕として、どこの草と縁を結んで寝れば良いのだろう)

見ればまづいとど涙ぞもろかづらいかに契りてかけはなれけん
(前世で結んだ契りのせいで、賀茂社と縁が切れてしまったのだろうか)


無印で生きて笑顔を友とする  柴辻踈星


   
    後鳥羽院             鎌倉右大臣実朝


「後鳥羽上皇の『古今和歌集』への熱意」


後鳥羽上皇が和歌に熱中し始めたのは、譲位の直後、「六百番歌合」
「花月百首」など、当代の天才秀才たちの作品に触れてからだった。
和歌は帝王学の基本の一つとして、元服以前から専門家の教育を受けて
きたが、そのような義務的な親しみ方の時には鬱陶しいばかりであった。
それが上皇となって、ゆったりとそれらの作品を味わうようになると、
たちまち興味を惹かれたのである。


人になる準備句集抱きしめる  藤本鈴菜


やがて、才気渙発な上皇は、正治2年(1200)7月、新しい勅撰集
『新古今和歌集』の編纂を思い立つ。
建仁元年(1201)には、和歌所を置いて、宮廷貴族の中の指折りの
和歌の名手たちに、何度も百首歌を詠進させた
後鳥羽上皇は、そこから二千余首の候補作を選び、何度も選考を重ねて
いった。
藤原定家など撰者に任命された者たちは、その作業の大変さに疲労困憊
したが、院はますます熱中するばかりだった。
「新古今和歌集」頼朝の和歌を採ったのも、幕府を傘下におさめよう
とする上皇の政治思想によるものであろう。
こうして元久2年(1205)、一応の完成を見た。
その序文には、
「歌は世を治め、民を和らぐる道とセリ」とある。
実朝はこの「新古今和歌集」をきっかけに、民のために政を行った朝廷
政治を学んだ。
そしてそれを将軍としての理想とするようになっていったのである。


君を見る丸い水晶体を持つ  河村啓子

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猫じゃらし風をなだめてまた遊ぶ  前中知栄
 


    「盟友でありながら油断がならぬおとこ」 歌川国芳
三浦義村を演じる市川団十郎
 

北条義時は若くして頼朝の側近となったが、その存在は庶代執権の父・
時政の陰に隠れていた。
しかし、時政が御家人を省みなくなると、姉の政子と協力し、父の政治
生命を絶った。
義時は、北条氏による幕政主導が、御家人層の利害を代表する限り批判
されることはないと実感していた。
ゆえに、それを崩す危険性のある傷害は、肉親でさえ容赦しなかった。


明日のこと放っといてんか葱坊主  山本早苗
 

  「鎌倉殿の13人」 権謀の人・三浦義村


 

        北条義時
 

「永井路子ナンバー1・論」

 義時は、姉の政子をナンバー1の座に据え
<自分はあくまでも、ナンバー2のまま>でいるという姿勢を貫いた。
義時に賛辞を贈りたくなるのはそこなのだ。
<人間誰でもナンバー1になりたい>
が、はその欲望を自分に禁じた。
できない芸当である。
<ナンバー2になってしまえば、ナンバー1は目の前ではないか>
が、義時は事ごとに政子をかつぎだす。
「尼御台の仰せには……」
「尼御台の御意見は……」 
あたかも義時は、政子の意見の執行者にすぎないふりをする。


ゆずの実の熟すを横目見て通る  曾根田夢


これはなぜか。義時が根っからの政治好き、権力好きだったからだ。
ー権力好きなら、<ナンバー1の座に駆けあがって、思うさま人に命令
をし、人をこき使うことこそ本望>ーと、考えるのは、皮相的(うわっ
つら)な見方である。
ナンバー1になりたがるのは、名誉欲の亡者である。
権力者の醍醐味は、こうしたおっちょこちょいの男を踊らせて、
事を思うままに動かしてゆくところにある。
その意味では、名誉もいらず、金もいらず、というところまで徹底しな
くては、本当の権力の権化とはいえない。


アク抜きをしたら私じゃないワタシ  荻野浩子
 
 

        三浦義村 (山本耕史)

<永遠のナンバー2…>ーそこに賭ける義時の執念はみごとなものだ。
鎌倉武士はなかなかしたたかで、彼にひけをとらない真の権力好き、
政治好きは何人かいた。
その中で最も注目すべきは、三浦義村である。
もともと三浦氏は、旗揚げ当時から頼朝に密着している。
当時は、北条氏より豪族としての規模も大きかったし、発足当時の鎌倉
の中心的存在だった。
その一族の和田義盛が、侍所別当(長官)になっているが、これは軍事政
権の陸軍大臣ともいうべき要職である。


天国の乃木大将が苦笑い  但見石花菜


「三浦義村とは」
三浦氏は源氏に仕えてきた一族として、平家追討に従軍し、鎌倉幕府に
貢献した。
北条氏と手を組み、藤原定家の日記『明月記』の中で
「義村八難六奇之謀略、不可思議者歟(や)」と、書かれた三浦義村は、
当時の人から見ても「理解不能なスケールの持ち主」であった。
感情に流されず、冷静に情勢を見極め、緻密な計画のもとに実行した
人物であった。
頼朝亡き後は、有力御家人の1人として北条氏とことに義時と手を組み、
乱世を生き抜いてきた。
有力者を失脚させたり、親族を裏切ったりするなど、義村の行動は北条
氏に大きなメリットを与えた。
 その辺り、政治家的判断を駆使し、北条氏を手玉にとった「権謀の人」
また、「八難六奇」な人物といわれる所以である。
(八難六奇=漢の劉邦に仕えた軍師・張良、陳平に匹敵するほどの策略
 家のこと)


正解を探し求める渦の中  上坊幹子


 
     三浦一族     義澄と義明

 北条氏はむしろ、その下風に立っていたのだが、頼朝の舅であることを
利用して、どんどん勢力を伸ばしてきた。
三浦一族にとっては、おもしろくなかったに違いない。
かといって、すぐ牙をむきだし、実力に訴えて勝負をつけるような両者
ではない。
鎌倉武士を「戦好きの単細胞の頭の持主」と考えるのは大間違いで彼ら
の駆引きは現代政治家以上である。
北条と三浦は、肚のさぐりあいを続けながら、ときには心にもなく手を
組んで第三勢力を潰したり、時には隙を狙って相手の足を蹴とばしたり、
秘術の限りを尽す。


ニンニクと一緒に刻む今日の鬱  笠嶋恵美子
 


          和 田 合 戦

「和田合戦へ」
 ここに一々その経緯を書くわけにはいかないが、
その戦いぶりは、相撲のような一番勝負ではなく、野球の試合にどこか
似ている。一回の表裏、二回の表裏―まさに勝ったり負けたりのく繰り
返しだ。彼らは直接血を流すのは好まない。
絶妙な駆引きで相手を押えこんだり、あるいは負けたふりをして貸しを
作ったり、勝負は蜘蜒と続く。
その中、七回の表ともいうべき衝突が、将軍実朝時代に起った「和田の
乱」である。
奸智にたけた三浦一族の中では、単純で怒りっぽい和田義盛がうまうま、
義時の挑発に乗せられてしまったのだ。


耐えられる限界だったしかめ面  本田完児
 


     和田義盛

「ええい、もうがまんがならぬ」
義盛は一族や親類を集めて義時に勝負を挑む。当の義時は執権であり、
みごとに幕府に逃げこんでしまったから、義盛はまさに幕府に向って
戦いを仕掛ける形となった。
すなわち、執権(行政長官)と陸軍大臣の戦いである。
義盛は猛烈な勢いで、幕府を攻めたて火を放ったので、営内は大混乱
に陥った。義時はもともと、こうした合戦は苦手なのだ。
しかも相手は名うての戦さ上手、いったんは追いつめられるが、
やっと援軍を得て勢を盛りかえす。


疲れたか顎が5センチほどあがる  藤村タダシ


激戦に疲れた義盛は、結局、敗死するのだが、彼の敗因は何といっても
義村の裏切りにあった。
いとこ同士の義村と義盛は、最初は一致して、義時を討つべく誓紙まで
交わしあった仲だったのだが、義盛の形勢非と見ると、義村はあっさり
義盛を裏切ってしまう。
義村は裏切りの名人でもあったのである。
彼一流の冷静な判断から<ー今、義時を倒すのは無理>と、見てとって、
義時に恩を売ったのだろう。
もちろん義時は、この高価な借りの意味を知りぬいている。
合戦が終って論功行賞に移ったとき、一人の侍が三浦義村と先陣の功を
争った。


いつだって雲は私を見捨てない  市井美春
 

 
              北条義時

義時はそっとその侍にいったものだ。
「今度の合戦の勝利は義村のおかげだからな。少しは目をつぶって義村
に譲ってやれ」
もっとも義村にしてみれば、そのくらいの事で貸しのもとをとったとは
思っていなかったかもしれない。
そこでいよいよ七回の裏、息づまる対決が行われるのである。
その対決とは、6年後の、建保7年(1219)1月27日、
(後に承久と改元)鶴岡八幡宮の社頭が舞台である。


どうせこの世はとんちんかんでございます  東川和子


永井路子氏は、三浦義村「不可解な人物」としつつ、「権謀といって
悪ければ、緻密な計画性に富み、冷静かつ大胆、およそ乱世の雄たる資
格をあますところなく備えたこの男は、武力に訴えることなく、
終始北条一族を、振廻しつづけた。
政治家的資質とスケールにおいて、僅かに上回ると思われる北条義時す
ら足を掬われかけたこともしばしばだった」
と綴っている。


ミンチにしてくれ夜が長すぎる  酒井かがり

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暴君はヘリュムガスで浮かせよう  くんじろう


  
       武者鑑一名人相合南伝二牧の方と北条時政)


讒言の覚えもなく戦う意志もなかった畠山重忠を殺害した北条義時は、
集まる身内の御家人の前で
「こたびの件は稲毛重成の讒言によって起きたことであり、
 畠山父子を討ったことは、誤りであった」
と、認め、深く頭を下げた。
この一件によって、生じた御家人たちの不安や不満は北条氏へではなく、
時政牧の方に向いた。
政子の方でも、思うところがあったらしい。
政子は鎌倉へ連れてこられた重忠の妻を丁重に扱い、
亡夫の所領が、そのまま彼女に認められるよう取り計らった上で、
再稼先まで世話するつもりでいた。


実線も破線も べた凪のうちに  山本早苗





「鎌倉殿の13人」 牧の方の乱‐②
  
  
 「義時の計算」
 
 
 ー機を逃してはならないー
義時は父と牧の方の動きに目を光らせ続けた。
それから一月余り後、義時が行動を開始した。
「重忠の謀叛というのは、牧の方のでっちあげだった!
 牧の方の奸計は、それだけではない。婿の平賀朝雅を都から呼びよせ、
 将軍にするつもりだった! ーこれは明らかな謀叛である!」
現将軍・実朝に対して、牧の方は、陰謀をめぐらしていた。
義時の、懐から取りだされたピストルは、牧の方に向って構えられた。
さらに義時は、そのピストルを無言で父に突きつけた。
「あなたもですぞ、父上。若い後妻に籠絡されるとは…いやはや…、
 耄碌なされたものよ」


引き金が付いていそうな検温器  木口雅裕
 

ーーーーーーー
              北条時房      瀬戸康史
 
 ー経緯はこうで
あるー

元久2年6月、時政・牧の方の謀略により、謀反の疑いをかけられ、
畠山重忠が二俣川で最期を遂げてから一ヵ月余り、閏7月のことである。
「兄上、内密の話があります」
義時へそう言ってきたのは、弟の時房だった。
「どうやら父上は、平賀殿に北条家の次を託そうと考えているようです」
<平賀殿ならこれまでの功績から言っても、朝廷との関係から言っても、
 後継者として、非の打ち所がない。そもそも血筋で考えれば、将軍家
 にも引けを取らないし、亡き殿の猶氏でもあったのだから> と、
臆面もなく言い切る、時政の肚を、時房の侍女が伝えてきた。


肯定も否定もせずに聞いている  佐藤 瞳


<朝雅を後継者にしようというのか…>
「父上と継母上を、謀反の罪に問おう」
義時の言葉に、時房が目を見開いた。
「さようなことができましょうか」
「できる。すぐに姉上のもとに伺って、将軍実朝様を私の屋敷へお移し
 してくれ」
間もなく政子の命令で、三浦義村ら御家人たちが動き、そのとき時政の
屋敷にいた実朝の身柄が、義時の保護下に移された。
自分の屋敷に多くの御家人が集まり、実朝の警護を務めていることを、
確かめた義時は、満を持して父のもとへ向かった。


思い出はやさしく口惜しさは強く  魚住幸子
 


     北条時政
 

「どういうことだ。事の次第を申せ!」
いきなり実朝を力ずくで奪われた時政は、義時を怒鳴りつけた。
隣で牧の方が唇を震わせている。
「お静まりください。お2人には謀反の疑いがあります」
「何だと!」
刀を取ろうとする時政の身体を、義時の近習が押さえつけた。
「将軍様を廃し奉り、代わりに、平賀どのを据えよう画策していたとの
 こと、証言する者もおります」
「馬鹿な。…さ、さようなこと!」
<後継者として非の打ち所がない。血筋で考えれば将軍家にも引けを
 取らない> と、仰っていたそうではありませぬか」


うしろ手にくくられている立ちくらみ  魚住幸子


さて、義時のピストルは放たれたか…、 いや。
遂にその銃ロは火を噴かなかった。
おもむろに銃を構えただけで、時政牧の方も、
へなへなと腰をぬかしてしまったのだ。
時政は、即日出家し、権力のすべてを義時に譲り渡して伊豆へ隠居した。
牧の方が、渋々それに従わざるを得なかったのはいうまでもない。
(こういうのを無血革命という。閏7月20日、遠州禅室、伊豆北条郡
 に下向したまう。時政68歳だった)
この手並みのあざやかさ。
これだけの業師は、長い日本史の中で何人もいない。
革命はむしろ、流血の惨事のない方が高級である。
その点、血と炎の中で、比企一族を全滅させた時政より、
義時の方が上手だったといっていい。


引き算で最終章をさわやかに  指方宏子
 
 
 父親を鎌倉から追払った義時は、余勢を駆って都に兵をさしむけ、
平賀朝雅誅殺へ向かった。
(その6日後の7月26日、朝雅追討を伝える使者が京へ送られ、
 その日のうちに朝雅は誅殺された)
謀叛が事実だったかどうかなどは問題外だ。
牧の方畠山父子を陥れた手を、そっくり彼は使ったのだ。 
さて、こうなれば、いよいよ「ナンバー1」ということになる。
が….、ふしぎなことに、義時は、わざと「その座」に顔をそむける。
父に代って、執権になったのだからナンバー1であるはずなのに、
ここで彼は巧妙な手を打つ。


春風の誘いに乗ったのは黄砂  靏田寿子
 

父・時政に代って、姉の政子をかつぎだし、その座に据える。
何のことはない、義時は、わが手でナンバー1の首のすげかえをやって
しまったのだ。
父親は後妻に甘い顔を見せたりするから油断がならないが、
政子は母を同じくする姉だし、三十数年、それこそ緊密な連帯感をもっ
て行動してきた。
以来、政子は少年将軍の母親として、幕政に隠然たる発言力を持つよう
になる。
世間には、政子像が誤り伝えられており、最初から権力をふるったよう
に思われがちだが、政子の公的活動は、寧ろこれからなのである。
いわば政子は、キングメーカーである義時によって作られたクイーンな
のである。
(ロボットとまでいってしまえばいいすぎだが、義時と一心同体の幕府
 のシンボルと考えればいい)
 
 
炭坑節ブランコゆれて月ゆれて  通利一遍



     北条義時


「ではなぜ義時は、ナンバー1になることを避けたのか」

義時「ナンバー2」の醍醐味を知りすぎていたからである。
「ほんとうに権力を弄ぶのには、ナンバー1になるより、
 ナンバー2でいるのに限る」
43年の人生を経てきた男の、これが結論だった。
そう思ってみると、北条時政追落しのもう一つの側面が、
はっきり浮かび上ってくる。
義時が真に狙いをつけていたのは、平賀朝雅だったのではないか。


義理の義がつくから一歩引いておく  青木敏子


<親父は、本気で俺の代りに朝雅を推すつもりかもしれぬ>
強力なライバル朝雅を降すために、義時はまず、その庇護者たる時政
牧の方を撃ち落してしまったのだ。
その真相がわかってくると、朝雅が将軍の座を狙ったというのが
でっちあげにすぎないことが、より明白になる。
平賀氏はたしかに源氏の血はひいているが、頼朝一族とは格が違う。
父親の義信は、とっくに頼朝に臣下の礼をとっているし、
まかり間違ってっても、将軍になれる毛並みではない。
ただ、<将軍の座を狙った> といえば、誅殺しやすいから、
これを口実にしたにすぎないのだ。


言い訳の代りにビブラートを効かす  山本昌乃


だが、執権の座なれば話は別だ。
時政が先妻の息子義時をさしおいて、後妻の娘婿・朝雅を後継者にする
可能性は大いにある。
それを見ぬいた義時は、本命は、朝雅打倒にありながら、
その前段階として、父親を脅しつけて引退させ、朝雅の基盤にゆさぶり
をかけたのである。
義時はこの政子をナンバー1の座に据え、自分はあくまでもナンバー2
のままでいるという姿勢を貫いた。


最高のつっかえ棒にペイズリー  岩城富美代


この時政追落しには、ナンバー2がナンバー1を追い払うときの秘伝
のすべてがある。
肝心なのは、反逆のチャンスは「一度しかないない」ということ。
それまでは、ナンバー1には、絶対服従。
だらだらと、反抗の姿勢を示したりしてはいけない。
そして愈々 のチャンスに瞬発力のすべてを賭ける。
このとき大切なのは、ナンバー1に批判的な勢力を結集できるかどうか
ということだ。
義時のように、瞬発力と蓄積力、両者をかね備えて、決戦に臨まなけれ
ばクーデターは成功しない。
「何で朝雅なんかに肩入れするんだ。
 跡継ぎに俺がいることを忘れちゃ
困る。
 なんでもオヤジの言う通りにコトが運ぶと思っちゃ大違いだぜ。

 そろそろ引っ込んでもらおうか」
これが義時のホンネなのだ。


瓜の蔓がんばるという極意みせ  梶原邦夫

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男の器量問われる腹の括りかた  前中一晃



          マ ク ベ ス
マクベス夫人・マリオン・コティヤール  / マイケルファスベンダー
夫が王になった時、2人の運命が狂いだす。

 
「わが世の春が来た!」
と、喜んだ人物が北条時政のほかにもう一人いたー
と、前頁の末尾に書いたーーそれは、時政の妻、牧の方である。

彼女は時政の後妻、義時の実母ではない。
牧の方、シェークスピアの4大悲劇の一つ「マクベス」に登場する、
王位を欲する夫に、王の暗殺を唆す夫人のような
「魔性の女」的なところがあった。


たま~に顔を出す殺人犯の性  蟹口和枝


「鎌倉のマクベス夫人」

北条時政牧の方の出会いは、まだ時政が北伊豆の豪族だった頃、
地方武士に課せられている大番役のために、京に上洛していた時にまで
遡る。
牧の方の父は、平頼盛の平家の要人に繋がる家であった。
当時、時政は、妻に先立たれた40過ぎのやもめ男。
東男にとって京女は、雲の上の存在であり、しかも、牧の方は時政より
20歳も年下、つまり娘の政子と同じ年頃の妻を娶ったわけで、3年の
大番役を終えて領地に帰途する頃には、すっかり彼女の虜になっていた。


信号の赤の出会いはほんまもん  市井美春


だがこの女性、ただの若くてたおやかな京女ではなかった。
政子頼家を産んだ時、頼朝が元愛人と寄りを戻していることを、
出産まもない政子に告げ口するなど、かなり、性格に問題がある。
やがて時政が、幕府の重鎮となると、牧の方は、自分の娘婿である平賀
朝雅に肩入れして、時政にさまざまな讒言を持ちかける。
ついには「実朝殺害」まで計画したというから…、
まさに「マクベス夫人」を地で行くような女性なのだ。
かなりの策謀家だった時政だが、老いの迷いか、この娘のような後妻に
は、手もなく翻弄されたのである。


ブルータスあんたも海鼠型の耳  井上一筒
  
  
  ーー   
マクベス夫人・マリオン・コティヤール  牧の方・宮沢りえ
 

「鎌倉殿の13人」 魔性・牧の方の乱ー①


牧の方は、駿河大岡の牧の豪族の娘で、若い頃は、どうやら都で生活を
したこともあるらしい。
この大岡の牧は、平頼盛の所領だったから、そのあたりにでも出入りし
ていたのではないか。
牧の方は、この都育ちをかなり鼻にかけていた。
しぜん、先妻の子である政子や義時とは、反りがあわなかった。
実朝が将軍になると、牧の方はさらに、都風を吹かせはじめた。
実朝が、「妻にするなら都人、それも上流貴族の姫君がいい」
といいだしたというのも、
どうも牧の方の罠にまんまと、かかったからではあるまいか。
 
 
やさしさに触れると折れる鼻ですの  佐藤正昭


そして多分、実朝、「都人を妻に.…」と言いだすより前から、
密かに候補者の目星は、つけていたのかもしれない。
なぜなら、それからの嫁取り工作があまりにも鮮やかすぎるからである。
候補に上ったのは、坊門信清という公家の娘であった。
姉が後鳥羽院の後宮に侍り、坊門局と呼ばれている。
「ですから将軍家は、上皇さまと義兄弟におなりになれるわけで……」
武骨な鎌倉の男や女は、そう聞いただけで腰をぬかした。
政子はひそかに、自分の縁続きの姪を息子の嫁にと思っていたので、
まんまとあてがはずれ、
「牧の方がいらぬ差出口をして」
と地団駄を踏んだ。
牧の方は、憎い義理の娘の鼻をへし折って、ますます意気さかんである。


ぬかるみにモンローウォークして春夜  上坊幹子



  王妃になったマクベス夫人


以後嫁取りの総指揮官として、牧の方は腕をふるいはじめる。
京都に駐在して、鎌倉側の窓口をつとめたのは平賀朝雅という武士だが、
朝雅の妻は、牧の方が時政との間にもうけた娘である。
牧の方は、この娘婿と密接に連携をとりつつ、たちまち嫁迎えの準備を
ととのえてしまった。
「都の姫君をお迎えするのですからね、こちらからも目鼻立ちの整った
 若武者をさしむけねば…ごつい田舎者ばかり行ったのでは、笑いもの
 にされます」
という意向で選ばれた若者の中には、もちろん、牧の方が時政との間に
もうけた自慢の息子16歳の政範も入っていた。
政範と朝雅を都で会わせ、<姫君の側近第一号>にしようという魂胆が
見えすいている。


それからを知れば敵にも味方にも  生田頼夫


ところが、牧の方は、思わぬ苦杯をなめることになる。
はりきって都へ向った政範が、なんと、かの地で病いにおかされ、
あっけなく死んでしまったのだ。
涙をこらえて、嫁迎えだけは、順調にすませたものの、牧の方の胸は霽
(は)れない。
怒りが渦巻くうちに、逆に彼女は、格好のはけ口をみつけだす。
狙われたのは、政範と共に嫁迎えに行った畠山重忠の息子の重保である。
この畠山一族と都にいる平賀朝雅とは、以前から仲が悪かったらしい。
都についた重保は、ささいなことから朝雅と喧嘩し、あわや大乱闘と、
いうところまでいってしまった。
その時は周囲の人々に止められて、無事におさまったものの、この噂は
たちまち鎌倉に伝えられた。


トンチンカン危険水位を突破する  井本健治
 


      畠山重忠像


「あの重保めが、婿の朝雅と…?」
<憎い重保め、政範が死んだのもきっとあいつのせいに違いない>、
牧の方の怒りはいよいよエスカレートし、遂に夫の時政を唆し、
重保に「謀叛の汚名」を着せて、虐殺してしまうことを計画する。
――そして、この際、
<親父の重忠もやっつけてしまったら>
牧の方はさらに、時政を煽りたてた。
時政としても、強大な畠山がいなくなることは、望むところである。


ちっぽけな意地でも今日は押し通す  津田照子


「じゃ、重忠親子が、<謀叛を企んだ>ということにするか」
そこで時政は、子の義時と弟の時房を招いて、この計画をうちあけた。
黙って聞いていた義時が、父の提案に、はじめて難色をしめしたのは
このときである。
「さあ、それはどうでしょうか。重忠は故将軍家以来忠節を尽してきた
 御仁ですし、それに当家とも縁が深い」
重忠の妻は、義時たちの妹なのだ。
畠山と平賀の対立の根も、このへんにあったのかもしれない。

(畠山は政子・義時たち先妻グループ、平賀朝雅は、後妻グループ。
即ち先妻グループは=政子・義時、時房、重忠・妻ちえと稲毛重成あき
は、時政の前妻(伊東入道の娘」子)である。後妻グループは=牧の方、
時政、子の北条政範、平賀朝雅・妻、三条実宣・妻、宇都宮頼綱(妻)、
坊門時親・妻、大岡時親・妻である)


太陽の塔も脊柱管狭窄症  八上桐子


が、このときの義時の発言はここまでだった。
今まで黙っていた息子に、思いがけず文句をつけられ、時政は鼻白んで
沈黙したが、義時もそれ以上強く、父を押し留める気配は示さなかった。
その様子を聞いた牧の方は、帰宅した義時に、早速、使いを飛ばす。
「重忠父子の謀叛はあきらかです。なのにあなたは、重忠を弁護したそ
 う
ですね。それは継母の私のさしがねだ、と思っているからじゃない
 の
ですか。この私がでっち上げをしたとでもおっしゃるつもり」
義時は、ゆっくり首を横に振る。
「いやいや、そんなことは。そこまで仰るならもう何も、申しあげるこ
 とはございません


考えること止めるのも生きる技  竹内いそこ


たまたま鎌倉に来ていた重保が惨殺されたのは、その直後であった。
時政、即ち幕府の命令によって、「重忠追討軍」が進発したのだった。
そうとは知らず、少ない手勢を連れて所領の秩父を発ち、鎌倉に向って
いた重忠は、まさに騙し討ちに会うような形で、武蔵国の二俣川の辺り
で戦死してしまう。
じつはこの追討軍の総大将は義時だった。
奇妙なことである。


淡彩で描くいのちのほろほろと  前中知栄



     畠山重忠


義時は鎌倉に戻って、父・時政の前に仁王立ちしている。
「強力な兵力をようする重忠が、百騎ほどの供しか連れず、それも通常の
 装備で、鎌倉へ出仕すべく、道を辿っていました。倅の重保殿が死んだ
 ことも知らないようだった。そんな重忠殿が、謀叛を企てるなど考えら
 れません!」
と、疑念と憤懣やるかたなく義時は、父・時政に言い切った。そして
「こ度は、思い廻らず彼を討取ってしまいました、が、年来の好よしみを
 思う
につけ、その首を正視することができませんでした!」
義時は後悔の目で時政を睨み、<ほんとうは何うなんだ>の言葉は呑んだ。

                    魔性・牧の方の乱②へつづく


はみ出してちょっくらくくっておいた  山本昌乃

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