川柳的逍遥 人の世の一家言
広辞苑どこにも俺はいなかった 十折一辺 「小牧・長久手の戦い」 秀吉は、お江を養女として一成に嫁がせた。 その仲人は、信雄であった。 一成は、秀吉を知らず、お江は、秀吉との縁も薄く、 しかも、秀吉を父母の仇と恨んでいた。 若い夫婦に秀吉への恩はなかった。 これに対し信雄は、一成の後ろ盾となった信長の息子であり、 お江にとっても、信雄は従兄弟である。 水たまりあなたと一緒なら跳べる 中井アキ しかも信雄は、尾張50万石・清洲城城主となったが、 木曽川河口の島々からなる、かっての一向宗門徒との激戦地、 長島城を主城としていた。 それは、伊勢湾の海上権を握るのに、好都合だったからで、 20キロもない至近距離にある「大野城の水軍」を、 そして信雄は、同盟した家康に尾張の清洲城を提供した。 家康は清洲城を拠点に、「小牧山城」を前線基地とした。 豊臣秀次を総大将とする秀吉軍は、 家康の居城・「岡崎城」を奇襲する作戦に出る。 しかし、これを事前に察知した家康軍は、 小牧山城から追撃、さらに長久手で待ち受けて襲い、 家康軍は大勝を得た。 焦げてしまったポンペイのパン屋さん 井上一筒 信雄の住む長島城と、家康がいる清洲城を、分断する作戦に出た。 両城の中間に佐久間信栄の「蟹江城」があった。 当時周辺は海と水郷で、 秀吉は、九鬼(くき)水軍数10隻を用い、 滝川一益に責めさせ、城を陥落させた。 もう待てぬ待たぬ大根ぶった切り 山本昌乃 この時、家康は清洲城から出撃し、 城を奪回し、九鬼水軍2隻を焼き沈めている。 この戦いに船は不可欠で、九鬼水軍を攻めるため、 家康方の将兵を乗せて立ち向かったのは、 秀吉はここでも敗北した。 この戦いに、大野水軍が、大いに貢献したことを知った秀吉は、 激怒した。 一日置いて考えた「バカにしないでよ」 山口ろっぱ 「小牧・長久手の終戦」 信雄優勢のまま、一応膠着した戦になった。 一方、したたかな秀吉は、 尾張の戦線に兵力を残したまま、 秀吉自身は、新しく築いた大阪城に引き返してしまう。 そして水面下で、信雄と「和平交渉」を始めると、 信雄はあっさりと応じて、矛を収めてしまったのである。 ふくろうはずるい一回転の道 久場征子 信雄は「勝てる戦」と思ったのに、自分の支配地は半減し、 開戦したことを、悔いるばかりであったのだ。 「面子さえ立つなら我慢するしかない」と、 信雄が悟ったところに、 人たらしの名人である秀吉の、泣き落としにかかっては、 「打群れてみる人からの山櫻 よろづ代までと色にみえつつ」 「小牧・長久手の戦いのあと」 織田信雄と結んだ家康と「小牧・長久手の戦い」で戦うことで、 秀吉の「天下統一」への方向は明確化していく。 事実、 この小牧・長久手の戦いの直後、秀吉は従三位、権大納言となり。 賎ヶ岳の戦いから2年後の、天正13年7月、 従一位に叙され、「関白」に任官した。 生きるミッション卒業は見当たらぬ 森 廣子 それまで、藤原氏以外の人間が、関白になった例はない。 近衛前久の猶子(ゆうし)となって、便宜的に藤原氏となり、 「藤原秀吉」として関白になったのだ。 その直後、秀吉は新たに「豊臣」の姓を与えられ、 「豊臣秀吉」として、関白政権をスタートさせることになる。 ※ ≪猶子―他人の子供を自分の子として、親子関係を結ぶこと。 ただし養子とは違い、契約関係によって成立した≫ 続柄がどうあれ横が妻らしい 谷垣郁郎 関白・豊臣秀吉政権の施策の特徴は、 一つの官位による大名編成である。 諸大名たちは、後陽成天皇の前で、関白秀吉への臣従を誓わせられた。 秀吉が従一位関白で、以下、信雄が正二位内大臣、 家康が従二位権大納言というように、 官位によって、ランクづけがなされ、 秀吉をトップとする大名編成の原則が、うち立てられたのである。 愚をくり返す胃ぐすりを飲みながら 森中惠美子 PR 伊勢湾を望む、小高い丘に築かれていた尾張大野城。 佐治氏は、大野湊を中心とする伊勢湾の海運を収めていた。 「江の結婚」 三姉妹は、秀吉を仮親として、 こともあろうに秀吉は、三姉妹の母・お市の方に、 だが、彼女を得たいとの夢は、その死によってかなわず、 その想いを15歳の茶々に向けた。 いわば妹二人は、邪魔な存在であった。 その一方、この姉妹を懐に抱えてみて、 当時の主城だった山崎城に連れ帰り、自ら面倒をみた。 秀吉は、賎ヶ岳の戦いの同盟者だった織田信雄に、 「お江の嫁ぐ先を見つけてほしい」 本来なら、年の順に嫁入り先を探すのが、普通だが、 茶々を我が物にしたい秀吉は、 一つ違いで、気心も通じ合った茶々が動揺し、 そこで、狡猾にも年下のお江を、先に嫁がせることにしたのだ。 信雄が見つけてきた相手は、 「大野水軍」を支配する知多半島の、大野城6万石の城主・佐治一成だった。 秀吉は、信長が重視した大野水軍を我が手にできると喜んだ。 お江にとっても悪い結婚ではなかった。 一成の母・お犬の方は、お市の姉だったからだ。 つまり従姉妹同士の結婚だった。 お江は母を失って半年余り、心の傷も癒えぬうちに、 11歳で4ッ年上の一成に嫁いだ。 あじさいの色うれしくて悲しくて 安土柾子 お江同様に、一成も孤児だった。 母・お犬の方が、他界していただけでない。 父・信方も信長軍の一翼を担って、 信長が男女2万人を焼殺する、阿鼻叫喚の戦いのなかで、 決死の一揆衆に、討たれて死んだのだ。 信長の庇護のもとで、少年城主となった一成だったが。 お江同様に「本能寺の変」で、信長という庇護者を失った。 お江と一成は、実に酷似した運命をたどってきた。 そして、秀吉は水軍が欲しいがため、信長に代わる後ろ盾となり、 水軍を自由に操ろうとした。 だがその秀吉の思惑は、 蜜月の秀吉と信雄の関係に、ヒビがはいったからである。 叶うまい割れない皿の願いごと 長瀬川久美子 信雄(のぶかつ)は、秀吉が自分の天下を望むあまり、 織田家を駆逐しようとしている、ことに気付いたのだ。 危機感をつのらせた信雄は、徳川家康に近づく。 家康も秀吉の野望に、不快感を示していた。 両者は握手し、秀吉への敵対行動を起こした。 髪型が変わる調律ふいになる 井上しのぶ お江は11歳、まだ女の体になっていない。 結婚当初、一成とは兄と妹のような夫婦であった。 しかし、よく似た境遇の二人である。 愛が芽生えるのに時間はかからなかった。 大野城でお江は、心のゆとりを取り戻す。 ≪だが、ここに天正12年(1584),小牧・長久手の戦いが起こった≫ 幸運は通り過ぎたと思ってた 森田律子 お江と一成の仲人は、信雄であった。 一成は秀吉を知らず、お江は秀吉との縁も薄く、 しかも、秀吉を父母の仇と恨んでいた。 若い夫婦に、秀吉への恩はない。 これに対し信雄は、一成の後ろ盾となった信長の息子であり、 お江にとっても信雄は従兄弟であり、 だから、秀吉と信雄が敵対した時、 自ずと、一成が信雄に味方して当然といえた。 しかも、信雄は、尾張50万石・清洲城の城主となったが、 先の戦を先見するかのように、木曽川河口の島々からなる、 かっての一向宗門徒との激戦地・長島城を、大改築して主城としていた。 『お江ー第13回・「花嫁の決意」-みどころ』 江が嫁に行く・・・! それは、江たち三姉妹にとって青天の霹靂だった。 相手は、尾張大野城の城主・佐治一成(平岳大)。 尾張・佐治家は、信長の妹で、市の姉にあたる、お犬の方の嫁ぎ先で、 一成はその子だ。 江(上野樹里)とは、従兄弟の関係にあった。 秀吉(岸谷吾朗)は、織田家一門の強化の為だと言う。 めでたしで終わる話が嘘っぽい 西山春日子 現在、信雄が、家康(北大路欣也)と組んで、 そうなれば、秀吉は信雄(山崎裕太)を討たなければならなくなる。 それは織田家一門の崩壊を意味するのだ。 それだけは、防がねばならなかった。 そんなことになれば、亡きお屋形様に合わせる顔がない。 そこで、今回の縁談となったのだ。 一成は信雄の家臣であり、江が嫁ぐということは、 信雄との争いの懐柔策となるという。 だが、何故、江なのか? 秀吉が江を佐治家に嫁に出すのには、二つの理由があった。 一つは、邪魔な江を茶々から引き離すこと。 一つは、佐治家の水軍の存在だった。 羽柴軍の弱点は水軍が弱いこと。 そこで、佐治家が持つ強力な水軍を、手に入れることが必要だった。 窓際を外せば見え方も変わる 森 廣子 秀吉が、「自分と姉を引き離そうとしている」ことはわかっている。 江は悩んだ。 もう一つ、秀吉が言った言葉が、頭から離れないのだ。 秀吉は、亡きお屋形様が夢枕に出て、 秀吉に「織田家を頼む」と言われたと言った。 つまり自分が嫁にいくのは、亡き叔父上の遺志なのか? 江は、考え抜いた結果、佐治家に嫁ぐ決意をする。 そして、それには、もう一つ別の意味もあった。 やがて、江は決意を胸に秘めて、尾張へと旅立っていった。 江がいなくなって火が消えたように、静かになった姉妹たちの居室。 と、そこに、おねが訪ねて来いぇ、 「どうしても茶々の耳に入れておきたいことがある」と言う。 それは江が、縁談を受け入れる条件として、秀吉に、茶々に対して、 「邪な気持ちを持たない」 という約束の念書を書かせたのだった。 おね 「茶々様には黙っているつもりでした。 されど、あなた様のご気性を思えば、お伝えせずにいる方が むごいことのように思えてならず・・・。」 茶々 「すぐに、すぐに江を連れ戻してください!」 おね 「お茶々様!お江様は腹をくくられたのです。 そのお覚悟、あなた様も覚悟をもってお受け取りくださいまし。」 茶々 「江の覚悟?」 おね 「お覚悟です・・・」 茶々 「情けないことですね・・・。妹のことを思っていたつもりが、 逆にこれほど思われ、気遣われていたとは・・・。」 それから数日後、江の乗った輿は尾張の大野城に到着した。 夫になる佐治一成とは、どんな男性なのか? 気になる江だったが・・・。 婚礼まで相手の顔を見るのは、はしたないと考えているところへ、 夫となる一成がやってきて、 「会えてうれしいぞ、江。われわれいとこ同士じゃ。 織田、佐治、両家の繁栄のために、共に歩んで参ろうぞ」 江は嬉しそうに頷く。 「これで戦は回避できる」 がしかし、事態は急変する。 秀吉が、おねに計画を話す。 おね 「戦ですと?」 秀吉 「そうよ。信雄め、わしに内通したというて、おのれの家老を三人も斬り殺しおった」 おね 「で、でも、戦はせぬと・・・。」 秀吉 「殺された者の身になってみよ。」 おね 「それでは、お江様はどうなるのです?」 秀吉 「どうしようもできぬな。・・・佐治一成がこちらに寝返ることあらば、話は別じゃが」 これは小牧・長久手の戦いの序章であった。 未来図は黒一色で事足りる 井丸昌紀 モデルは誰なのでしょう? キョンキョン(小泉今日子)にも似た「寧々の像」。 寧々は不美人だったと誰が言ったか・・・? とんでもない、信長が認めるように、寧々もかなりの美女であったようだ。 秀吉は、だいたい面食いであったのだから。 出るとこへ出ればと貝はおもってる 松田俊彦 『秀吉の陰となり、日向となり、おね』 おねは、尾張国に生まれた。 実母の反対を押し切り、信長の家臣・木下藤吉郎のもとに嫁ぐ。 当時としては、珍しい恋愛結婚だったといわれ、 二人は足軽長屋の土間の上で、 わが妻は時に謎めく深海魚 福岡末吉 秀吉が、天下人に上りつめることが出来たのも、 おねが「糟糠の妻」として陰となり、 日向となって、秀吉を支えたからとされ、 二人の夫婦関係は、 鎌倉時代の源頼朝と北条政子夫婦に、比肩されるほどのものであった。 秀吉の立身出世とともに、おねの位階も上がり、 おね自身は、「北政所」と称され、 その機略と胆力をもって、おもに朝廷との交渉にあたったという。 おねの性格は、大らかにして繊細、 周囲の人々に、細かな心配りができる女性であったらしい。 二人に子どもができなかったことから、 秀吉や自分の縁者、 さらには、秀吉に敵対する武将の子息や子女まで ありがとうなんど言うても言い足りぬ 吉岡 修 それが戦国の世では、当たり前のこととはいえ、 自分の夫に、側室や妾がいることは、 おねは、そんな女性たちも、温かく迎えいれたといわれている。 秀吉の側室として入った茶々は、捨(鶴松)、拾(秀頼)を産んだが、 おねは、この二人にも、深い愛情を注いだ。 妻・おねの献身的な支えなくして、 秀吉は天下人に上りつめることはなかっただろうし、 また、その懐の深さに、江たちも心を開いていくのである。 平凡の良さ知るまでの長い旅 織田多歌子 『おねのエピソード』 あの信長が、人妻に出した手紙が残っている。 相手は、藤吉郎(秀吉)の正妻・おねである。 内容は、数日前にみやげ物をたずさえて、 安土城の自分のもとを訪れた謝辞が中心だが、 それに加えて、次のような言葉があった。 雨は斜めに愛されてなどいなかった 宮本美致代 「おねよ。あなたは美しくなった。以前に会ったときよりも倍も素敵になった。 なのに、藤吉郎があなたに不足を申すのは、まったくけしからぬ。 あなたほどの女性は、どこを探してもいまい。 あの禿げ鼠の分際では、二度と求めることなど出来ないはず。 だからあなたも、もっと奥方らしく寛大にかまえ、 軽々しく焼きもちなど焼いてはいけない。 また女として夫をもてなす心を忘れないでほしい。 この手紙を藤吉郎にも見せなさい」 あの頃の影網膜を裏返す 井上一筒 信長との面会の折、どうやら、おねは、 「夫の藤吉郎がいかに女性にだらしないか」を、 謝礼の手紙にことよせて、 巧みに女性の自尊心をくすぐり、暗にいさめる手法など、 信長のイメージとは違う一面を垣間見る。 糟糠の妻といわれたおねも、同時に若いころは、 「普通の人」であったことを偲ばせる。 迷ったらあかん仕合せ逃げていく 増田佐代子 『「猿」、「禿げ鼠」と、信長に揶揄されながらものし上がってきた秀吉』 「成り上がり者」という言葉が、 これほどしっくりくる歴史上の人物も、少ないのではないだろうか。 尾張国中村郷に生まれた秀吉は、足軽という最下層の武士から身を起こし、 信長に仕えることで、頭角を現していった。 三姉妹の父・浅井長政が小浜城で自害して果てたとき、 信長方の先頭に立っていた男。 信長が明智光秀の謀叛によって倒れると、即座に、山崎でその仇を討ち、 賎ヶ岳の戦いでは、対抗馬の柴田勝家を倒し、 信長の後継者としての地位を固めた。 決まってる角度へ足も手も伸ばす 森中惠美子 下克上の風潮が、時代の底流にあったとはいえ、 その潮目を読み切ることは、誰にでも出来るものではない。 人一倍、その臭覚に優れていたのが、秀吉である。 加えて秀吉は、人心掌握に長けた人たらしであった。 そうした才覚は、足軽時代に、もしくはその以前に、 相当の辛酸を舐めたことによって、磨かれたのではないだろうか。 信長や家康と違って、父祖伝来の所領や、 身ひとつで、のしあがらなければならなかった。 そこには、人知れぬ苦労があったに違いない。 しかし、孤独と紙一重である。 当時としては、珍しい恋愛結婚だとされる妻・おねを除いて、 心を許した人物はいなかったのではないだろうか。 養子を次々迎えたのも、 茶々との間に生まれた秀頼に、異常なまでの愛情を注いだのも、 官位に執拗にこだわったのも、 孤独の裏返しだったのかもしれない。 『大河ドラマ・第12話・『お江ー茶々の反乱』 みどころ』 ある日、三姉妹の部屋に膨大な数の着物が届けられた。 送った相手は明らかだった。 江 「こんなことができるのは、あの者しかおりませぬ・・・!」 初 「あの者とは・・・?」 江 「猿にきまっておりまする!」 初 「猿、のう・・・。」 茶々(宮沢りえ)は、着るつもりは全くなく、 既に、「秀吉の家来が持っていった」という。 侍女の着物を着た茶々は、 だが、「既に捨てた」と言う。 茶々 「あの着物は、母上が私たちのためにあつらえくさだれたもの。 あなたは、母の思い出まで捨ててしまわれたのですよ!」 秀吉 「そこまでは思い至りませなんだ。・・・申し訳のないことをしてしまいましたなあ」 その秀吉のとぼけた様子に、激怒した茶々は、徹底的に秀吉と対決する決意をする。 秀吉からのものは、決して手をつけないことにしたのだ。 とはいえ、安土城に住んでいる限りにおいては、 すべては秀吉からのものばかりで、 煎じ詰めれば、三度の食事も秀吉からのものだった。 茶々は、食事にも手をつけなくなった。 茶々の気持ちがわかる江(上野樹里)も、箸を置いた。 そうなると、初(水川ありさ)も食べるわけにはいかなかった。 それからの三姉妹は、何を出されても手をつけようとはしなかった。 守るものしっかりあって青テント 井丸昌紀 秀吉 「飯を食わぬ?」 三成 「はい。朝餉も夕餉も、箸をつけようともなさいませぬ」 秀吉 「・・・着物にも袖を通しておらぬと言うたの」 三成 「は。すべて片付けさせたご様子にて」 秀吉 「・・・うふ、ふふふ・・・戦いと同じじゃのう」 三成 「戦・・・?」 秀吉 「相手がしたたかなほど、歯ごたえがあるというものじゃ。 さてさて、ならば次の策を練るとするかの・・・」 どちらの意地が勝つか。 まさに、秀吉と茶々の意地の戦いだった。 辛口の笑顔でボスは引き締める 三浦 憩 しかし、茶々は、別のところで苦しんでいた。 秀吉と戦う自分は、いくら空腹でも我慢できる。 だが、自分に付き合う妹たちが、空腹に堪える姿を見るのが忍びなかったのだ。 茶々は、秀吉の命じるままに実行する三成(萩原聖人)に、腹を立てると、 睨み付けて言う。 茶々 「三成と申したな。そなたは、命じられれば、何でもするのか?」 その言葉は、三成の心に重くのしかかった。 そんなとき、三姉妹は千宗易(石坂浩二)に茶室に呼ばれた。 宗易が出した饅頭に、初はかぶりついた。 だが、茶々と江は、決して手を出そうとはしなかった。 宗易 「では茶々様には、お茶だけ差し上げるといたしまひょ」 茶々 「ありがとう存じます。 おいしゅうございます・・・」 宗易 「茶菓子ばかりやない、そのお茶かて羽柴様のものですわ」 茶々 「(慌てて茶碗を置く)」 宗易 「いらん意地張るのはやめなはれ。 何より、食べ盛りのお妹君がかわいそうやと思われまへんか?」 初 「(口のまわりは餡だらけ)・・・」 江 「(ぐう、と鳴る腹)・・・」 茶々 「それは・・・わかっております。」 宗易 「そうですな、わかっておいでや。ただ、お気持ちにどうもケリがつかん・・・」 悩んだり迷ったりした若かった 柴本太郎 江 「・・・私たちをこちらへお呼びになったのは、秀吉に命じられてのことでしょうか?」 宗易 「その通りにございます。私は羽柴様の茶頭にござりますれば」 茶々 「もともとは伯父・信長に仕えていた方、あまりに節操がないのでは?」 宗易 「私に見えるのは、一服の茶だけです。 茶を点て、おいしゅう味おうていただくことができれば、それでええんです」 茶々 「私には皆目わかりませぬ」 宗易 「では、お茶々様はどうされたい?」 茶々 「私は・・・母の仇を討ちたい。秀吉を、殺してやりたいです」 江 「(ギョッと茶々を見て)」 初 「・・・!! 姉上・・・」 宗易 「お茶々様にはできまへんな」 茶々 「そんなことはありません!」 宗易 「あなた様は羽柴様を憎んでおられる」 茶々 「そうです。 だからこそ・・・」 宗易 「いちいち刃向かい、『いやや』と言う。 ・・・けどそれは、相手と同じ場所、おんなじ高さに、立っているということや」 茶々 「同じ高さ・・・?」 宗易 「もひとつ上に行くには、相手を受け入れ、いっそ呑み込んでしまわななりまへん。 敵より大きゅう太うなるんです。 そやないと、倒す、殺すなど到底できませんわ」 ソムリエは客の匂いも嗅ぎ分ける 八木 勲 茶々 「・・・」 宗易 「・・・今はこらえて、静かに爪を研ぐときと違いますかな?」 その言葉を聞いた茶々は、菓子を食べ、茶を飲む。 その目から涙が出てくる。 茶々 「・・・おいしゅうございます」 宗易 「それはようございました」 茶々 「・・・でも・・・」 宗易 「・・・」 茶々 「・・・悔しゅうございます・・・。」 宗易 「その悔しさを胸にたたみ込んで生きることや。 ・・・太うに、大きゅうに、堂々と生きなはれ」 江 「私も生きます。生きて・・・いつか母上の仇を討ちまする・・・」 初 「(泣き)そうじゃ・・・そうじゃ・・・」 三姉妹は、それぞれ泣きながら、菓子と茶を味わう。 その様子を、廊下から息を殺して見守っていた秀吉は、 思わずもらい泣きをする。 それからの茶々は、 秀吉からの着物も食べ物も、堂々と受けとることにした。 それは、新たな秀吉との戦いでもあった。 途中下車して立て直すこころざし 赤松ますみ 秀吉は、茶々が自分のものを受け入れてくれることに、大満足だった。 思い出す度に、ついつい思い出し笑いをしてしまうほどだった。 それは、おねの前でも同じだった。 おね 「聞きましたよ。おまえ様が用意させた食事を、 お茶々様が食べとうないと拒まれたこと」 秀吉 「そうなのじゃ・・・」 おね 「でもそればかりでなく・・・」 秀吉 「な、なんじゃ」 おね 「おまえ様も食事に箸をおつけにならなかったと、竜子様から聞きました」 秀吉 「は、腹をこわしておっただけじゃ・・・」 おね 「でも、お茶々様が食べ始めたとたん、ぱくぱくと、 それも大層な勢いでめしあがったと」 秀吉 「腹が治ったんじゃいっ!」 おねは、「秀吉にくれぐれも茶々様には手を出さないように!」と釘を刺した。 すると、秀吉は、市の遺言書を懐から出して、おねに読ませる。 おね 『娘たちにゆめゆめ邪心抱かざるよう、この儀お約束くだされたく候。 わが一命に懸けて願いあげ候』 秀吉 「感心であろうが。邪心が起きぬよう、いつも持ち歩いておるのじゃ」 おね 「今でもそれほどまでに、お市様のことを・・・」 秀吉 「そうではない。ご遺志に報いたいだけじゃ」 おね 「ならばいっそのこと、しかるべきところへ嫁に出して差し上げなされ。 それこそがお市様のお心に添い、ご遺志に報いることになりましょう」 妻の巻く背中のネジはまだ錆びず 吉村久仁雄 秀吉 「嫁に、のう・・・。うーむ、嫁に・・・・・ん?嫁・・・嫁! それじゃーっ、 嫁じゃ嫁! でかしたぞ、おね!」 秀吉は言うなり、三姉妹の部屋に、踊るように飛び込んでいく・・・。 嫁入りの話は茶々ではなく、三の姫・お江のことだった。 おやあこんなところにビーフステーキ 森田律子
摩周湖も君の瞳も美しい 杉本克子
日本史上、「最高の美女は誰か」というアンケートがある。 これは各界の著名な人による選択で、「それは違う」との意見も聞えてきそうだが、 とりあえず、確定しているランキング12位までを並べてみる。 栄えある第一位は、大河ドラマ・悲劇の助演・「お市の方」。 念のため、お市が選ばれたことで、母似の三姉妹は、対象外においている。 1位、「お市の方」 戦国武将・浅井長政の妻。大河ドラマ「お江」三姉妹の母親である。 長政が織田信長に敗れ、自害した後は織田家の庇護下に置かれ、 《選者の言葉》 2位、「細川ガラシャ」 明智光秀の三女で細川忠興の正室。 関が原の戦い直前に、家老に胸を突かせて絶命した。 『悲劇の美女』として知られる。 《選者の言葉》 「美にうるさい細川忠興が愛してやまなかったほどの女性」 3位、「小野小町」 平安時代前期の歌人。 「思いつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましき」 彼女の美女伝説を題材にした『七小町』という謡曲がある。 《選者の言葉》 「当時の絵や彫像が残されていないのが残念だが、 日本を代表する美人女性であることは、疑う余地がない」 4位、「陸奥亮子」 明治時代の外交官・陸奥宗光の妻。 駐米公使夫人として、渡米時には、 『ワシントン社交界の華』・『駐米日本公使館の華』 《選者の言葉》 「夫・宗光の活躍の因は、彼女にあったのではないか、 5位、「和泉式部」 平安時代中期の歌人、和泉守・橘道貞の妻となるが、後に破局。 冷泉天皇の第三皇子・第四皇子からの求愛を受けた後、藤原保昌と再婚した。 藤原道長曰く、『浮かれ女』 だとか。 《選者の言葉》 「艶聞の多かったことが、後世人の想像をいろいろとかきたてる」 6位、「原節子」 昭和代表-1 女優。 大ヒット映画・「青い山脈」や「晩春」「東京物語」など、 『永遠の処女』と呼ばれたが、早くして引退し、公の場から姿を消した。 《選者の言葉》 「純情・清廉、適切な言葉が思いつかない。 7位、「額田王(ぬかたのおおきみ) 万葉歌人。天武天皇の妻。 ”茜さす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る” の歌と、天武天皇の歌(選者の言葉に記)から、 《選者の言葉》 「『紫草のにほえる妹を憎くあらば 人妻ゆゑにわれ恋ひめやも』 (天武天皇)と歌われているいるだけに、想像をかきたてられる」 8位、山本富士子 現代代表ー2 「金色夜叉」など、大映映画の看板女優として活躍後、 三島由紀夫は、『外見だけでなく、内面も素晴らしい女性』 《選者の言葉》 「天はかの女に二物も三物も与えた。声まで美しいミス日本」 9位、「弟橘媛(おとたちばなひめ)」 日本武尊の后。 東征に同行した際、海神の怒りを沈めるために入水した。 その、『色白の美しい姿』が目にやきつく。 日本武尊が、「吾妻はや〔我が妻よ〕」と嘆いたのが、 東日本を『あずま』と呼ぶ語源になった。 《選者の言葉》 「夫のために自己犠牲を厭わない姿はどうしても、美人におもえてしまう」 10位、石井筆子 近代女性教育者。 『鹿鳴館の華』と呼ばれた才媛ながら、 津田梅子らとともに、女子教育の向上に尽力。 また日本初の知的障害児施設・「滝乃川学園」を夫とともに支えた。 《選者の言葉》 「『鹿鳴館の華』と呼ばれた美人。福祉事業に専念した、心も顔も美しい人」 美しきひとの名で呼ぶ庭にたつ 森中恵美子 11位、「吉永小百合」(女優)・12位、「山口百恵」(歌手) 現代代表-3 《選者の言葉》 「現在においても、視覚的に確認できる日本人らしい『日本的な美女』」 「歌手としての能力より『生き方』のよさ。『語りたくなるような存在』」 アメリカ代表、「エリザベス・テーラー」 リズの愛称で親しまれたエリザベス・テーラーは、『誰もが認める美女』。 恋多き女優と言われた反面、中東和平を願ってイスラエルを訪問したり、 85年、俳優・ロックハドソンが亡くなって以来、 エイズ撲滅キャンペーンなど、社会活動家という顔も持ち、 仲間に対する『情も厚い美女』だった。 生まれつきクレオパトラのままでいる 植田斗酒 「エイズ問題で、テーラーに、次のようなエピソードがある」 96年、当時のクリントン大統領に対し、 「大統領はエイズ患者に対して、なんの哀れみの心も持ち合わせていない」 と批判した。 そのとき、大統領がテーラー邸を訪れて、話し合いを求めたが、 最初は「昼寝」を理由にお断り、 「話しても無駄。実行で示してほしい」 と面会を断ったこともあった、という。 もう少し色をつけろで泣かされる ふじのひろし 「また、テーラーは、歌手・マイケルジャクソンの最大の理解者としても知られる」 03年、M/Jが12歳の少年への性的虐待容疑で逮捕された時、 「マスコミの反応は、完全に彼が有罪であるかのよう。 法律では、有罪が証明されるまで、無実ではないのか」 と報道を批判、権力の矢面にたった。 クレオパトラを演じた女優としてその美しさを誇った、 マイケル・ジャクソンと同じ墓地に眠ることになる79歳。 マリリンモンローはバス停に待たす 山口ろっぱ この名言を残したベーコンは、イギリスの哲学者。 お江(1573~1626年)とほとんど同時期(1564~1626年)に活動した。 「お江ー寛永3年死去」 二条城には、家康と秀頼が会見した部屋が残っているが、 その当時の二条城は、 大政奉還の舞台となった「二の丸御殿」は、 寛永3年(1626)、後水尾天皇が行幸されたときに、造営されたものである。 武家の頭領が、自邸に行幸を仰ぐというのは、このうえなく名誉なこと。 そういう意味で、秀忠、家光が後水尾天皇の二条城への行幸は、 ”徳川の天下”が安定したことを示す「象徴」として計画された。 その安泰を見取るかのように、 この行幸が滞りなく終わった直後の9月11日、お江が倒れる。 そして4日後の15日に、江戸城西の丸にて、54歳の生涯を閉じた。 回り舞台の裏へ転げてしまう毬 赤松ますみ |
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茶助
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