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川柳的逍遥 人の世の一家言
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言うにいわれぬものまで飲み込んだ喉だ 竹内ゆみこ


  月 照

二つなき 道にこの身を 捨て小船 波立てばとて 風吹けばとて

或いはこれが、西郷の辞世になっていたかも知れない句である。

「西郷どん」 月照と重助

文化10年(1813年)月照は大坂の町医者・玉井宗江の長男として生まれ、

13歳のとき出家し京都清水寺・成就院の蔵海に学び、

23歳で師席を
ついで清水寺の住職となった。

憂国の志篤く、諸藩の志士と交わり、ペリー来航後
世情が騒がしくなると、

安政元年(1854)寺を弟の信海に譲り、梅田雲浜、
頼三樹三郎らと

尊王攘夷の運動に奔走しはじめる。
                          ただひろ
西郷隆盛とは、篤姫の養女手続きの付き添いとして
近衛忠煕邸に出入り

している時に知り
合い、親しく付き合う仲になる。

あなたへの思い三角相似形  和田洋子

暫くして安政5年7月、薩摩藩主・島津斉彬は急な発病から急死する。

その死は、当時流行っていたコレラによるものとされているが、

斉彬の嫡子
もすでに既に死去したことなどを合わせて、毒殺の説もある。

死因についてはともかくとして、斉彬の死は西郷にとっては、

非常に大きな
出来事であった。

自分を高く評価し、強い信頼関係で結ばれていた主君
の死に西郷は号泣し、

一度は殉死しようとしたほどである。


この殉死を止まらせ、斉彬の遺志を継ぐことを決意させたのが月照である。

切腹は紙の刀でさせてやれ  井上一筒

その後、月照は西郷らと京都で、井伊直弼への反抗運動を行っていたが、

世に言う安政の大獄で、懇意の仲間の梅田雲浜、頼三樹三郎
らが捕らわれ、

幕府の追求がいよいよ激しくなったこともあり、京都を
脱出を決める。

西郷と大阪から海路九州に逃れ、平野国臣らと辛うじて鹿児島に入
った。

が、しかし幕府の追及が止むことはなかった。

そして厄介者の月照を連れて
薩摩に戻った西郷に対し、

藩は受け入れを拒否した。


ここだけは譲れませんの糸きり歯  前中知栄


月照・西郷入水の図

拒否した上に西郷に藩が下した指令は、「日向国送りにせよ」だった。

それは日向に着く直前で「斬り捨てよ」という死刑宣告なのである。

まもなく船で日向に向う途中、近衛忠煕と月照を守る約束をした西郷は、

前途を悲観し月照と同意のうえ、竜ヶ沖で相抱きあい投身をした。

この直前に西郷が詠んだ歌が巻頭の句である。

”二つなき 道にこの身を 捨て小船 波立てばとて 風吹けばとて”

二人はすぐに救助されたものの月照は死亡し、西郷は蘇生した。

安政5年11月16日の海は、きんきんに冷えていた。月照享年46歳。

検死などせずとも僕は涸れている  中野六助


   忠僕茶屋

歴史を知り、忠僕茶屋を訪ねるのも一興。わらび餅が旨いと評判です。

いつ訪れても観光客で 賑わう京都・清水寺に・・・。

清水坂を上って境内に進み音羽の滝 へ通じる参道をいくと、

「忠僕茶屋」と
いう茶店がある。 この店を始めたのは、大槻重助である。

重助は清水寺の勤王僧・月照に仕え,月照が安政の大獄で薩摩へ避難した

時も同行した。安政5年に月照が西郷とともに薩摩潟に投身し亡くなった


あとは、捕らえられて半年ほど獄中生活を送り、 解放されてから一時期、

古里の高津に帰ったが、 月照を慕う気持ちは拭い去れず、
京都に戻り

妻を娶ると、 同寺境内にあった茶屋 「笹屋」 を買い取る。


 それを西郷らの援助を受けて改装し、同寺から茶屋の営業を許されると、

屋号を 「忠僕茶屋」 と改めた。


現在は重助から数えて4代目が暖簾と先代の遺志を継いで営業している。

たかがルーツされどルーツと木瓜の花  杉浦多津子


寺門前に建つ重助の墓碑

「付録」

重助は精進料理を作るのが得意だったことが伝えられている。

重助オリジナルで豆腐に熟した柿の実を添え、 塩を加えたものである。

(この料理のことは西京新聞の記者の本「忠僕重助傳」の中に出てくる)

安政5年の逃走劇の時、 京都から九州に入った月照に対して重助が材料

を調達してこの豆腐料理をふるまったところ、 心身共に疲れ切っていた

月照
を大そう喜ばせという。


 清水寺には重助の墓も建立されている。 場所は 「清水の舞台」 の南に

位置する 「子安の塔」 横の道を下った所にある墓地。

この碑は、重助を顕彰するために薩摩藩の有志により建てられた。

泡ひとつ消してめし屋の灯をくぐる  桑原伸吉

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ルールとは別に女の変化球  美馬りゅうこ


 天璋院篤姫

「西郷どんー③」 篤姫

篤姫の将軍・家定への輿入れは、まさに政略以外の何ものでもなかった。

薩摩の島津斉彬水戸斉昭阿部正弘らと結んで、ペリーの黒船来航で

混迷を深める事態の克服には英明な将軍こそ重要、として斉昭の息子で
    よしのぶ
ある一橋慶喜を家定の後継者の座に据えようと運動していた。

それには、大奥の懐柔が急務だった。

遠い目だ心はここにないようだ  柴田桂子

一方、家定の公家出身の2人の御台所はいずれも早死にしたため、家定の

実母・本寿院は、家定の祖父・家斉が島津氏から迎えた御台所・茂姫が
           あやか
寿だったことに肖りたいとして、島津氏の姫を望んだことがあった。

ところが斉彬の姫は早世していたため、断わった経緯があった。
                                            ただたけ
だが、将軍後継者問題がクローズアップされると、斉彬は支族の島津忠剛

の娘・篤姫を養女にし、大奥に入れる機会をねらった。

言うにいわれぬものまで飲み込んだ喉だ 竹内ゆみこ

ところが、島津の姫を望んだ本寿院は、今度は大反対した。

なぜなら、斉彬が篤姫を大奥に送り込もうとするのは、大奥を懐柔し慶喜

将軍にする企みを知ったからだ。

大奥は経費削減を口うるさく唱える水戸斉昭
に嫌悪感を抱いており、

斉昭の息子が将軍になるなど真っ平だった。


しかも本寿院は、息子・家定の後継者は同じ血が流れる紀州家の者がいい

と思うようになっていた。

かさぶたを剥がせばルーツ匂いだす  田口和代


 13代将軍 徳川家定

ここで家定について少し見てみよう。

篤姫を正室に迎えたときの家定の年齢は33歳である。

家定はそれまでに、
正室を2人迎えていたが、相次いで先立たれている。

1人は関白鷹司政通の養女・任子と1人は関白一条忠香の14女・秀子

である。家定とこの2人の正室に子はいない。

しかも側室らとの間にも子が
いなかった。不能だったのだろうか。

そもそも家定は病身であったされる。


一説によれば、先天性あるいは幼少時に患った天然痘が原因で脳性マヒ

を負っていたという。実際、顔には天然痘の痕が残り、

顔筋の痙攣や首の
不随意運動などが見られた。

成人になってからの家定は自らの容姿を恥ず
かしく思ってのことか、

人と接することを避けていた。
そしてうつ病にもなっていく。

枯れススキですから月はお友達  くんじろう

こうした中で、篤姫は老中・阿部正弘の尽力で輿入れしたが、

大奥は篤姫
にそっぽを向き、慶喜擁立の工作は進まず、しかも幕閣の要の

阿部正弘が病没
すると、大老の井伊直弼の力が強くなり、
                 よしとみ
大奥と結んだ直弼は紀州の慶福
を跡継ぎに指名した。

そんな最中に夫の将軍・家定に続き、頼みの斉彬までが逝去する。

篤姫はさらに孤立した。

しかし、慶福は家定の養子となり14代将軍・家茂
なると、

落飾し天璋院となった篤姫は、はからずも家茂の母として敬われ、


家茂も天璋院篤姫を慕い、おのずと大奥での実験を握ることになった。

しかし、江戸城無血開城へと繋がる篤姫のその後には、

まだまだ困難が
待ち受けていた。(話は後半へ和宮と出てきます。)

入口がなくて出口が一つある  河村啓子

「付録」

1、大河ドラマ「西郷どん」12話で大地震(安政)が起き、西郷は篤姫の

屋にかけつけ姫を助けた。斉彬の命により西郷が準備した輿入れの道具

ぐちゃぐちゃに壊され、すべてが瀕死の状態。

そんな中、2人の間に流れた
空気は恋を匂わせるものだった。

当時、斉彬の命を受け大奥工作に奔走していた西郷は、篤姫付きの老女・

幾島へ斉彬からの命を伝える一方、幾島から大奥の情報を入手して斉彬に

報告をした。幾島は江戸と京都の事情に詳しく、薩摩育ちの篤姫の教育係

に抜擢されたが、斉彬の密命で大奥にて本寿院や上臈歌橋局に働きかけ、
                                         おのしま
家定を斉彬の意に動かそうとしたのである。また幾島の下には小の島


という老女が仕えており、この小の島も、情報伝達の任にあたっていた。

すなわち西郷と篤姫の間には、幾島がおり小の島がおり、西郷が篤姫と

密接な関係になれる環境にはないのである。

相関図握り拳でかきまぜる  久恒邦子

2、1854年にペリーが2度目の来航をした時に、将軍家にミシンを送った。

そのミシンを日本で最初に扱ったのが、天璋院だといわれている。

3、篤姫は犬好きで狆を数匹飼っていたが、家定が大の犬嫌いだった為、

ペットは猫に変えた。その際、猫の世話をする係3名の人件費を含む猫に

かかった
費用は、年間25両(約250万)になったという。

あんたの事はシワの数まで知っとるよ  森田律子

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困ること何もないのも困ります  雨森茂樹

「どこかが変」
これは日本民営鉄道協会が目に余る「迷惑行為」を描いたポスターです。
飛鳥時代の人、平安時代の美女、戦国の肖像画、浮世絵、千手観音など、
どこか変、ポスターの文字を読む前にオカシナところを探してください。
それとなく工夫がこらしてあります。
各画像は拡大してご覧ください。

 


「ゴミを放置しないで 車内の平安物語」

空き缶やごみは車内に放置せず、ゴミ箱等にお捨ていただきますよう、
お願いいたします。
平安時代の美人画はみな同じ顔。でも、ゴミは分別いたします。



「声を控えて シャラップ画」 東洲斎写楽)「2代目・大谷鬼次の江戸兵衛」

車内での会話は、周りのお客様の迷惑にならないように、
ご配慮をお願いいたします。
また携帯電話はマナーモードにしていただき、通話はご遠慮ください。

知らなかったですむとは知らなかった  前川和朗



「楽人楽座 座席をゆずり合って」狩野永徳の弟・狩野宗秀

カバンなどは座席の上に置かず、譲り合ってお座りください。
また優先座席を設けています。
お年寄りや目の不自由な方、妊婦の方にお譲りくださいますよう、
ご協力をお願いいたします。

あの織田信長でさえカバンは膝の上において行儀よく。



「千手観音 手にあまる。目にあまる」



千手観音も手に余るゴミの数に困っておられます。
車内やホームでの読み捨て、ポイ捨ては困りもの。
備え付けのゴミ箱までお願いいたします。

もう少し生きて騒いで嫌われる  新家完司



「お静か三美人 音漏れに気をつけて」喜多川歌麿

車内でヘッドホンステレオを聞かれる時、
ゲームを楽しまれる時は音量にご注意ください。
携帯電話はマナーモードに設定していただき、通話はご遠慮ください。
ヘッドホン・イヤホンをしている美人に気がつきましたか?

「見返る美人 ぶつからないように」菱川師宣「見返り美人図」



キャリーバッグや歩きスマホによる
衝突トラブルが多くなっています。
キャリーバッグを引かれる際は周りのお客様の安全に十分ご注意ください。
歩きスマホは大変危険ですからおやめください。
こちらはキャリーバッグを持って後ろを確認しています。


「お気遣い群像 車内で荷物が邪魔にならないよう」



リュックサック等は手にお持ちいただき、周りのお客様の通行等の
ご迷惑にならないようにご協力をお願いいたします。
リュックサック等は胸に持ち、周りを気遣う飛鳥美人。

六本も指があったら邪魔だろう  吉田わたる

「仁王である ちょっと待ったァ 忘れ物じゃ!」



ひとりひとりの心がけが、行楽地や駅などの公共施設を美しく保ちます。
自分で出したゴミや空き缶は、持ち帰りましょう。


「降人先人図   どうぞどうぞと譲り合う風神雷神」俵屋宗達風塵雷神図




扉付近は大変混雑いたします。
お降りのお客様を先にお通しいただきますよう。お願いいたします。
また、ご乗車のお客様はご順に中の方へお進みください。

春の風ですか序列を乱すのは  長島敏子


「地獄のモク時刻」



吸って天国、まわりは地獄。喫煙は時とところを考えてどうぞ。

「みんなが困るアカンを探せ!」



俯瞰して考えよう」

車内で大音量の音楽を聴く人、駆け込み乗車をする人ら、
様々な場面が描かれています。

禁煙とあるタクシーの排気ガス  ふじのひろし

「電車内迷惑図絵」 


駆け込み乗車するべからず。


車内での会話・音量は控えるべし。


歩きスマホするべからず。


座席はきちんと詰めて座るべし。


時に荷物は、まわりのお荷物になると心得よ。 

「迷惑行為」アンケート
1位は、「騒々しい会話・はしゃぎまわり」
2位は、「歩きながらの携帯電話・スマートフォンの操作」
3位は、「座席の座り方」 
4位は、 「扉の前に立ちはだかる人」

ごろ寝すると障子の穴に叱られた  山本昌乃

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わたし達途方にくれる接続詞  桑原すヾ代


      画像をクリックすれば拡大してごらんになれます。
「西郷隆盛の顔」


西郷隆盛は、なぜ写真を一枚も残さなかったのか?

安政4年(1857)薩摩藩は、日本初の写真撮影に成功した。

モデルになったのは、西郷が神のように尊敬する島津斉彬である。

写真撮影の翌年、斉彬が急死したことから、純粋で生一本の西郷は、

「魂を抜かれた」と思い込み、主君の命を攫った写真を嫌うようになった。

というような説もあって、明治11年(1878)西南の役で西郷が斃れた翌年、

写真が残されなかった
西郷の肖像画が描かれた。

それを描いたエドアルド・キョッソーネは、大蔵省の「お雇い外国人」として

来日したイタリア人画家であり彫刻家である。

ここでは余談になるが彼は紙幣印刷の技術を日本に教えるために来たのである。
そのお陰があって、日本の紙幣、切手、証券証書など本格的な印刷技術が
日本に根付いたことは言うまでもない)


輪廻用唇は優しく保存  山口ろっぱ


キョッソーネの描いた西郷 各写真は拡大してご覧ください)

キョッソーネは、西郷と面識がなく肖像写真も存在しないため、
つぐみち
西郷の弟の西郷
従道や、従兄弟の大山巌の風貌を参考にして、

モンタージュ写真のように
作成したという。

以後、キョッソーネの肖像画をモチーフにして、上野の西郷の銅像が作成

されたのをはじめ、数多くの西郷の肖像画や錦絵などが創作された。

私たちは創作されたその顔が西郷だと信じているが、モデルになった従道

大山だけでなく、西郷の指揮下にあった兵士など、その風貌を知ってい

る人間
が存在する時代において、「実物と違う」との声もなく流布してい

ることを考えてみるとき
、太い眉毛、大きな目、ふくよかな頬という西郷

の風貌は、動かし
がたい真実だと思う。

面の皮は超極暖ヒートテックです  酒井かがり

「写真嫌いを貫いた西郷のエピソード」

1、「魂を抜かれる」

尊敬する島津斉彬が日本初の写真を写した翌年に急死したことから、

主君は
「魂を抜かれた」と思い込み、以後、写真を嫌うようになったとは、

先に述べたが、昭和の中期ころまで、「三人の真ん中で写ると死ぬ」とか

「魂わ抜か
れる」と真顔で写真撮影を拒否する人がいたくらいだから、

幕末に
そのような迷信の生まれるきっかけになったとしても不思議はない。

三寒四温その冗談は重過ぎる  美馬りゅうこ

2、「暗殺を恐れた」

薩摩藩が米国に6人の留学生を長崎から密航させて、マサチュウセッツ州

モンソンアカデミーに留学させた。その留学生の中にいた仁礼景範が、

現地で親しくなった友人から、「リンカーン暗殺」の話を聞いた。


彼は帰国後、西郷の側近にリンカーン暗殺の決め手となったのが、

新聞に
掲載されたリンカーン写真でだった。その話を耳にした西郷は、

「不穏
な時代だけに自分を憎み恨むものも多いだろう」と顔写真が出回る

ことを避
けた。因みに「西郷暗殺計画」が事実として存在する。

ブラックユーモアの好きな桜です  森田律子       

3、「大久保利通に送った手紙」

明治5年のこと、岩倉遣欧使節団の副使として欧米視察中の大久保利通

西郷に洋服姿で撮影した写真を送った。その写真に対して同年2月25日

東京から送った大久保への手紙で、西郷は次のように書いている。

「尚々貴兄の写真参り候ところ、如何にも醜態を極めた候間、

もう写真取りは
御取り止め下さるべく候。誠に気の毒千万千万に御座候」


「みっともないことはお止めなさい」と西郷は大久保を咎めている。

この6年後、大久保は不平士族に暗殺されている。

自己主張ばかりしている鰤大根  合田瑠美子

4、「孫・西郷吉之助の代弁」

西郷は明治天皇から、強く写真を所望されたが、丁重に断わっている。

それからも明治天皇は、ご大礼服。皇后様は十二単という天皇皇后の

額入り
のご真影を西郷に送り、再度、西郷の写真を欲しがられた。

それも西郷は断わった。

西郷の孫・吉之助は、この時の祖父の気持ちについて

「自分のように醜い姿を写真に撮って天皇に献上する如きは、

もってのほかである」と謹直で堅い考えがあったのではと伝えている。


掴まれた尻尾自分で切りおとす  三村一子

「どの西郷が好きですか」


肥後直熊の描いた西郷

西郷の末弟である小兵衛の未亡人・松子さんの証言。
「肖像画の西郷は右横向きだが、髭の剃り跡、腕の毛脛までもが精緻に描
れている。これまで多くの肖像画があるが、この絵は生前の温容を最も
よく
写したもので、あたかも西郷さんを眼前で見るようだ」と言っている。



床次正精の描いた西郷
                    
西郷と同じ薩摩藩士出身の画家、床次正精とこながまさよし)は西郷と面識が
あり、
彼の描いた西郷は実物によく似ている、と言われている。

ちゃうちゃうちゃうそんなんちゃうと嬉しそう 
                    雨森茂喜



石川静正の描いた西郷

荘内藩士・石川静正は明治3年11月と明治8年4月に鹿児島の西郷を訪
ねている。このときの印象をもとに年月をかけ隆盛の肖像を描いた。

隆盛夫人、遺子などの鑑定により、真に迫る一品といわれている。


平野五岳作の描いた西郷

平成15年、大分の日田市で発見された肖像画で幕末・明治期に日田で
活躍した文人画家・平野五岳が、掛け軸に描いた水墨淡彩画で、西郷に
面会を申し込む内容の漢詩も記されている。


服部英龍の描いた西郷

都城島島津家のお抱え絵師・中原南渓 が描いた絵が元になったとされる。
こn絵が、着流しで犬を連れている上野の西郷像のモデルになった。

夏は今山門あたりとメールくる  山本昌乃


今はまだ作者不明の西郷

この西郷の肖像画は、2018年1月に鹿児島県崎市で見つかった
西郷の妻・イトの弟のひ孫にあたる若松宏さんは、昨年末に肖像画の存在
を知
た。西郷に会ったことがあるという曾祖母が生前、「西郷さんは考え
事をする際、キセルの柄を目の上に押し付ける癖があり、「まぶたの上が
盛り上がっていた」
側頭部の髪が薄く、耳が長かったとも話しており、
「伝え聞いた特徴と一致して
いると言っている。


ユスリカの小さな銀河を掻き回す  くんじろう


佐藤均の描いた西郷

黒田清輝の門弟・佐藤均が石川静正の西郷の印象をもとに描いた。
隆盛夫人、遺子などの鑑定により、真に迫る一品といわれている。
これまで見てきた絵から一致する西郷の特徴は、
首が長いこと。
短髪でちぢれっ毛であること。
側頭部が薄い(少し禿げている)こと。
耳は大きく、福耳で垂れていること。

がっしりした体型であること。
二重瞼でどんぐり眼であること。
眉毛は太く、目力が強いこと。
おちょぼ口であること。
もしかして写真はあったが、処分したのではないでしょうか?
ひとまず、ここでは、佐藤均の描いた西郷に軍配をあげましょう。

幕引きをせよとささやく影法師  上田 仁

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君や得し黎明愛の花ひらく  川上三太郎



これは司馬遼太郎氏が小学生の教科書用に書き下ろした『21世紀に生きる
たちへ』の一文です。人も芽も新生の4月たちに改めてこれを送ります。

『もし「未来」という街角で、私が君たちを呼び止めることができたら、
どんなにいいだろう。/「田中くん、ちょっとうかがいますが、
あなたが今歩いている、二十一世紀とは、どんな世の中でしょう」

『21世紀に生きる君たちへ』 司馬遼太郎

私は歴史小説を書いてきた。

もともと歴史が好きなのである。

両親を愛するようにして、歴史を愛している。

歴史とは何でしょう、と聞かれるとき、「それは、大きな世界です。

かつて存在した何億という人生がそこにつめこまれている世界なのです」

と、答えることにしている。

私には、幸い、この世にたくさんのすばらしい友人がいる。

歴史の中にもいる。

そこには、この世では求めがたいほどにすばらしい人たちがいて、

私の日常を、励ましたり、慰さめたりしてくれているのである。

だから、私は少なくとも2千年以上の時間の中を、

生きているようなものだと
思っている。

この楽しさは・・・

もし君たちさえそう望むなら…おすそ分けしてあげたいほどである。

人間の真ん中辺に帯を締め  岸本水府

ただ、さびしく思うことがある。

私が持っていなくて、君たちだけが持っている大きなものがある。

「未来」というものである。
 
私の人生は、すでに持ち時間が少ない。

例えば、21世紀というものを見ることができないに違いない。

君たちは、ちがう。

21世紀をたっぷり見ることができるばかりか、

その輝かしい担い手でもある。


もし「未来」という町角で、私が君たちを呼び止めることができたら、

どんなにいいだろう。

「田中君、ちょっとうかがいますが、あなたが今歩いている

   21世紀とは、
どんな世の中でしょう」


そのように質問して、君たちに教えてもらいたいのだが、

ただ残念にも、
その「未来」という町角には、私はもういない。


灯が点いて日の短さを知り始め  椙元紋太

だから、君たちと話ができるのは、今のうちだということである。
 
もっとも、私には21世紀のことなど、とても予測できない。

ただ、私に言えることがある。

それは、歴史から学んだ人間の生き方の基本的なことどもである。

昔も今も、また未来においても変わらないことがある。

そこに空気と水、それに土などという自然があって、人間や他の動物、

さらには微生物にいたるまでが、それに依存しつつ

生きているということ
である。

自然こそ不変の価値なのである。

なぜならば、人間は空気を吸うことなく生きることができないし、

水分をとることがなければ、かわいて死んでしまう。

手と足が生えて鯰になりそこね  前田雀郎



さて、自然という不変のものを基準に置いて、人間のことを考えてみた
い。
 
人間は…繰り返すようだが…自然によって生かされてきた。

古代でも中世でも、自然こそ神々であるとした。

このことは、少しも誤っていないのである。

歴史の中の人々は、自然をおそれ、その力をあがめ、

自分たちの上にあ
るものとして身をつつしんできた。
 
この態度は、近代や現代に入って少しゆらいだ。
 
・・・人間こそ、いちばんえらい存在だ。

という、思い上がった考えが頭をもたげた。

20世紀という現代は、ある意味では、自然への恐れが薄くなった時代、

いってもいい。

お父さんは覚束なくも生きている  麻生路郎

同時に、人間は決して愚かではない。

思いあがるということとはおよそ逆のことも、合わせ考えた。

つまり、私ども人間とは自然の一部にすぎない、という素直な考えである。

このことは、古代の賢者も考えたし、

また19世紀の医学も、そのように考えた。


ある意味では、平凡な事実にすぎないこのことを、20世紀の科学は、

科学の事実として、人々の前にくりひろげてみせた。

20世紀末の人間たちは、このことを知ることによって、

古代や中世に神を恐れ
たように、再び自然をおそれるようになった。
 
おそらく、自然に対しいばりかえっていた時代は、

21世紀に近づくにつれて、
終わっていくにちがいない。

<人間は自分で生きているのではなく、

   大きな存在によって生かされている>

 
と、中世の人々は、ヨーロッパにおいても東洋においても、

そのようにへりくだっ
て考えていた。

海のしわ浜へ浜へと砂を寄せ  前田伍健

 
この考えは、近代に入って揺らいだとはいえ、右に述べたように近ごろ、

再び、
人間たちはこのよき思想を取りもどしつつあるように思われる。

この自然への素直な態度こそ、21世紀への希望であり、

君たちへの期待でもある。

そういう素直さを君たちが持ち、その気分を広めてほしいのである。
 
そうなれば、

21世紀の人間はよりいっそう自然を尊敬することになるだろう。


そして、自然の一部である人間どうしについても、

前世紀にもまして尊敬しあう
ようになるのにちがいない。

そのようになることが、君たちへの私の期待でもある。

さて、君たち自身のことである。

君たちはいつの時代でもそうであったように、自己を確立せねばならない。

日月は落ちず再起のちからこぶ  村田周魚

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