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川柳的逍遥 人の世の一家言
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きっぱりと明日を捨てるレモン水  清水すみれ


家康をあと一歩のところまで追いつめる幸村を描いた浮世絵
家康本陣の馬印が倒されたのは「三方ヶ原の戦い」以来42年ぶり(2度目)


赤備の具足を身に纏った真田勢

「狙うは、家康の首級のみ」

運命の慶長20年5月7日、大坂の空は早朝から蒼く澄み渡っていた。
    ひおどし    かづの             はぐま
幸村は緋縅の鎧に鹿角の脇立てをつけた白熊の兜を被り、
            きんぷくりん
六連銭の紋を打った金覆輪の鞍を置いた愛駒に跨っている。
        むながい しりがき                                       あつふさ
馬の胸懸と鞦も眼に鮮やかな緋色の厚総だった。

1万の兵を采配し、茶臼山に布陣していた。

赤備の具足を身に纏った真田勢は、小高い山一面に咲く蓮華躑躅の様だ。

この茶臼山は、昨年、冬の戦いで家康が本陣とした場所である。

幸村はあえてその場所を陣に選び、

「いつでも攻めて来い」と言わんばかりに、赤備の姿を見せつけていた。

武者ぶるい男を決める枝である  前中知栄


   幸村所用馬具

眼下には徳川の先鋒、松平忠直の率いる1万5千がいる。

さらに本多忠朝の1万6千余が見え、その後方に家康の本陣と1万5千ほど

の旗本衆が置かれていた。

「狙うは、家康の首級のみ」

幸村は三白眼で徳川本陣を見据える。

本気で家康の喉笛に食らいつくつもりでいた。

いや家康の首級を挙げるしか、この一戦に勝つ可能性は残っていなかった。

惣構えと堀を失った大坂城は裸同然であり、籠城することも叶わなかった。

豊臣勢は城下の野戦に賭けるしかなく、

幸村は毛利勝永に家康を討ち取ることを約し、その先陣に立っていた。

散っていく最後の力ふり絞り  河村啓子


幸村隊と交戦する、松平忠直の将兵
松平隊は幸村や毛利勝永のすさまじい勢いに押され、
混乱の極みに陥って
家康本陣の防備を手薄にしてしまう。
しかし徐々に体勢を立て直すと、数の利を生かして反撃に転じた。

陽が中天に上った正午、いきり立った毛利勝永の寄騎が、

物見に出ていた本多忠朝の一隊に鉄砲を撃ちかける。

この小競り合いを契機に戦いは瞬く間に広がっていき、

双方の全軍が入り乱れて戦う状況となった。

寡兵の豊臣勢は、わざと乱戦を創り出したのである。

乾坤一擲の勝負を仕掛け、混乱に乗じ家康と秀忠の首だけを狙うためだ。

勝永と幸村の軍勢が本多忠朝の軍勢を打ち破り、徳川方の先陣を突破する。

エスカレーターのない天国は断固拒否  佐藤美はる


「大坂夏の陣図屏風」から
本多忠朝(馬上)の奮戦。毛利勝永との激闘の中で命を落とした。
酒で不覚をとったため「戒むべきは酒なり」と反省の言葉を残したという。

一進一退の攻防を続ける中、幸村が狙って謀計を仕掛ける。

「紀州が寝返ったぞ!」
              ながあきら
方々から徳川方の浅野長晟が裏切ったという怒声が響く。

単純な流言飛語の計だったが、乱戦の中では意外に効力を発揮する。

真田の忍びたちが発したこの虚報に、松平勢が動揺した怯む。

「今だ! 行け! 一気に突っ切るぞ!」 幸村の雄叫びに呼応し、

真田の赤備衆は火焔となって松平忠直の軍勢を打ち破った。

毛利勝永も混乱する第二陣の榊原康勝、仙石忠政、諏訪忠澄らを撃破し、

逃げようとする敗兵が雪崩れ込んだ第三陣は大混乱をきたし、

ついに家康の本陣に繋がる道筋が見えた。

力ではかなわないから心理戦  中村幸彦


長刀を両手に持ち、白馬を駆る幸村
「真田、その日の装束は緋縅の鎧に抱角打つたる冑に白熊つけて猪首に、
   着なし」という『難波戦記』の記述通りに描かれている。

いける!これこそ待ち望んでいた勝機!

幸村は愛駒の腹を蹴り、恐るべき疾さで駆け出す。

「われに続け!家康の首は、すぐそこぞ!」

十文字槍で敵兵を薙ぎ倒しながら猛然と幔幕内へ乗り込む。

「真田が来た!」 家康の本陣に悲鳴にも似た叫びが響き、

恐怖にかられた足軽が総崩れになった。

旗奉行が「三方が原の戦い」以降は倒れたことのない家康の馬印を倒し、

旗本衆が取り乱して逃げ始め、主君の姿まで見失う始末だった。

当の家康は誰のものとも分からぬ馬に乗り、ほうほうの躰で逃げ出す。

付き添う家臣も小栗久次とわずか数名の者しかいない。

つんつんがほどよく効いてきたらしい  雨森茂喜


   幸村の勇姿

圧倒的な劣勢の中で、幸村の執念がそれに匹敵する戦況を作り出す。

家康の首を求め、三度に渡り徳川本陣へ突撃し、

その間に無数の傷を
負っていたが、それをものともせず十文字槍を振るった。

しかし、獅子奮迅の戦いも、ここまでだった。徐々に態勢を立て直した

徳川勢が相手を押し返し始める。

幸村は雲霞の如く群がる敵に囲まれそうになるが、間一髪その危機を脱し、

満身創痍の身体を引きずり、茶臼山の北にある安居神社まで後退する。

付き添う兵も、高梨内記、青柳清庵、真田勘解由の3人だけだった。

納豆の糸もスタミナ切れて 冬  山本昌乃


これが采配を振るうの「采配」です

誰もが半死半生である。

愛駒を下りた幸村は、槍を杖代わりにして蹲の処までいき、

動けなくなった家臣たちのために水を汲み、それを柄杓で飲ませてやる。

「皆、疲れたであろう。もう休んでもよいぞ」

末期の水をもらった家臣たちは、微かな笑みを浮かべ、次々と目を閉じる。

幸村は愛駒にも水をやり、最後に己の乾ききった喉を潤した。

すでに立っている余力はなく、灯篭にもたれかかりながら地面に崩れる。

気を失いそうになる幸村を、駆けつけた松平忠直の鉄砲隊が囲む。

幸村は最後の力を振り絞って鎧通しを抜き、躊躇いなく己の首を貫いた。

これでいいこれでよかったこれでいい  嶋澤喜八郎

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どちらにしても葬儀屋さんが太る  中村登美子  

伊達の騎馬鉄砲隊(イメージ)

騎馬隊を自由自在に操るだけでなく、その馬上から鉄砲を放ち、
敵をひるませてから突撃する精鋭部隊。
かって織田信長を苦しめた雑賀衆が得意とした戦法という。

「浪人たちの戦い」ー②

八尾・若江の戦いの布陣図

八尾・若江では東の河内方面や京都方面から大阪城へ迫る徳川軍を

長宗我部盛親隊木村重成隊が迎撃していた。

八尾・若江は道明寺より数キロ北にあり、大阪城により近い要所だ。

河内方面は徳川軍の藤堂高虎、井伊直孝を先鋒に、本多忠朝、前田利常、

松平忠直などが続いて総勢5万5千人、

さらにその後に徳川家康、秀忠
本隊が続いていた。

戦いは午前4時頃に始まり、長宗我部盛親の部隊が地の利を生かした

見事な戦いをみせ、午前中まで藤堂高虎隊の先鋒を圧倒する。

笑っても笑ってもまだ穴がある  山口美千代

一方、若江でも23歳の木村重成が奮戦を見せていた。

午前5時頃、待ち構える木村隊の右手に藤堂隊の右翼先鋒が攻撃をかけた。

しかし木村隊の激しい銃撃により兵の半数を失って敗走する。

若い重成は側近の制止を振り切って追撃をかけたが、

井伊隊にいた18歳の若武者・安藤重勝に討たれてしまった。

木村隊を破った井伊隊は八尾へ向かい、苦戦する藤堂隊を救援した。

これに勢いづいた藤堂隊も体勢を立て直す。

くいしばってごらん海が見えるから  笠嶋恵美子

  道明寺の戦い

一説に、又兵衛は一手に敵を引き受け戦死する覚悟で戦いに臨んだという。

多勢に無勢に新手が加わって不利とみて、長宗我部盛親も退却を命じた。

道明寺方面では、野村にて真田幸村隊と伊達隊の先鋒が鉢合わせし、

伊達の「騎馬鉄砲隊」が真田勢めがけて一斉に銃撃を浴びせた。

伊達の本拠地・仙台は名馬の産地として知られるが、

この騎馬鉄砲隊は伊達
政宗が家臣の次男・三男の中から力自慢の者を選抜

して編成した。


「馬上より鉄砲一放ちすれば、当たらぬこと稀なり」

という精鋭部隊であった。


撃ち立てられて敵の乱れた所に、煙が消える前に即座に突入する荒々しい

戦法に幸村隊の兵も多くの犠牲を出した。        

何もかも不可能だらけどうしよう  庄田潤子

手強いとみた幸村は銃弾の飛び交う中で督戦に務め、

「ここを堪えよ!片足でも引けば全滅ぞ」と兵を励ました。

真田隊は松の木を楯にして猛攻に耐える。

この時、幸村は暑さを凌がせるため、兵に兜をつけさせずにいたが、

伊達隊との距離が縮まるに及んで、

「兜をつけよ、槍を取れ!」と順々に号令した。


これで幸村隊は勇気百倍し、伊達隊の接近に備えた。    

鉄砲を撃ち終え、煙が薄らいだ頃合いを見計らい「いざかかれ!」と、

幸村が下知すると真田隊は皆立ち、突きかかった。    

近距離に立つ槍ぶすまの前に伊達軍の騎馬も浮き足だった。

尾骶骨あたりで見せてやる気骨  藤井孝作

政宗の先鋒・片倉重綱石母田大膳らは、

「敵は小勢だ、根こそぎ打ち倒してみせよう」と豪語もしていたが、

この真田隊の手強さに泡を喰い、崩されて退いた。

一説に、重綱は幸村の姿を認め、突きかかって行くが、

幸村はそれを見て傍らの丘陵へと登った。

誘い水を仕掛けたのである。

重綱は罠と見てそれ以上進まず、馬を返した。

しばらく攻防が続き、両軍とも相応の犠牲を出す。
          こんだ
政宗は攻撃を中断させ、誉田を挟んで睨み合いとなる。

午後2時、幸村は頃合いと見て撤退にかかる。    

追撃しようとする兵を政宗らは必死に制した。
               しんがり
追おうとすれば逆にやられる、幸村の殿の指揮は見事なものであった。

風よりも軽いんですの命綱  河村啓子

日の丸の軍扇を手にした隻眼の武将が伊達政宗、
後藤又兵衛の部隊と
戦闘中の様子を描かれている。
その左上には松平忠明
(家康の外孫)。


この戦いで重綱の戦いぶりを見た幸村が、彼を自分の遺児たちを

託すに値する人物とみて手配に動いたという説がある。    


戦後、重綱は幸村の5女・阿梅を妻に迎え、次男・大八も保護をしている。

道明寺の戦いで後藤隊だけが突出してしまった理由として、

「北川覚書」には
深夜から濃霧が発生し、真田や毛利の軍勢は進軍できず、

戦場到着が遅れたと説明がなされている。

戦場において予期せぬ事態は付き物だが、この「5月6日の激戦」は、

双方とも相応の損害を出しており、豊臣軍はよく善戦した。

しかし、滅亡の時は刻一刻と迫っていた。

冬はもう大腿骨の中にいる  新家完司

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めそめそ生きてもサバサバ生きても一生 通 一辺  (拡大してご覧下さい)
茶臼山本陣が描かれている絵図のなかで最も有名な『大坂冬の陣図屏風』

右端の望楼のある建物が本陣中央の曲輪内の高まりに家康の居所。
その左、一段下がったところに描かれているのが中央の曲輪の平坦部。
その左側、画面の端に少しだけ見えている水色の部分が、西側の曲輪との
間の堀の一部だと考えられる。中央の曲輪の平坦部から家康の居所に
向かって坂を登っていく武士が描かれている。
坂の上には簡素な門が造られ、門の左右は塀か土塁ではないかと思われる。
門の中には、刎ねられた首が置かれており、
この屏風は下絵なので、その姿は描かれていないが完成した屏風には、
家康が首実検をしている様子が描かれているといわれている。

「江戸川柳ー真田幸村」

城を埋められては城では戦えず、豊臣方は大坂城から遠く離れ、

個々の軍団ごとに野戦の陣を布きました。

各軍団へ連絡役を務めた武将が薄田隼人

「遊軍」と言うは薄田隼人也

― 遊軍は戦列外にあって時機を見て敵を攻撃する遊撃軍。

夏の陣は戦う前から勝負が決まっていたので、任務が遊びに見えた皮肉。

それでも茶臼山に陣を構えた、

幸村は生きる気でない紋所

― 真田氏の紋所は六文銭。

三途の川の渡し賃が六文とされていることから、
生きる気でない。

その覚悟で戦い戦果を挙げ、

敵が粉になる茶臼山御陣

― 粉と茶臼が縁語。

なお茶臼山は冬の陣では、徳川家康が本陣を構えた所。

豊臣方の陣は次々に落とされていき、幸村は秀頼が城から出て戦うよう使者

を何度も送りましたが、淀君「敵に首を取られるのは嫌じゃ」と拒みました。

やがて城に火の手が上がるのを見た幸村は、

「もはやこれまで」と敵陣に突っ込み華々しく討ち死に。

銭の遣いよう大坂知らぬ也

銭がなくなって大坂しまい也

惜しい銭無駄に遣って落城し

―銭は幸村。一句目は商売上手な大坂人を皮肉って、

淀君と秀頼は燃えさかる蔵のなかで自害。

威容を誇った天守閣は、豊臣の重臣が爆薬を仕掛けてすっ飛ばし、

豊臣氏はここに滅びました。

擦り切れた尻尾を見せてくれないか  森田律子


「鹿角・六連銭紋旗指物」(個人蔵)
縦180㌢  横36・5㌢
六連銭は三途の川の渡し賃を表し、信濃の豪族、海野氏の家紋でもあり
真田家は海野氏の出と称していて、同じく六連銭を家紋としていまる。

並べると石は兵士の貌をする  奥山晴生

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めそめそ生きてもサバサバ生きても一生  通 一辺


  又兵衛の奮戦

10倍近い敵軍に囲まれて奮戦した又兵衛は、伊達政宗が率いる騎馬
鉄砲隊の銃撃に討たれた。従者が落馬した又兵衛を助け起こすが、
「首を決して敵に渡すな、斬れ!」と命じられたため、介錯してその首
を泥の中に埋めたといわれている。

「浪人たちの戦い」ー①

慶長20年3月(1615)「大坂で騒ぎが起きた」という報告がもたらされる。

いまだ大坂城内にいた浪人たちの一部が堀や塀の復旧にかかり、

乱暴や狼藉を働いているとのことであった。

これは大坂を慌てさせるために蒔いた家康のでっち上げで、同時に

「いよいよ、大坂へ行くか」という戦争をちらつかせる、噂も蒔いている。


ここに来て、家康は豊臣家に対し、浪人の解雇または豊臣家の移封を要求。

「再戦か」と慌てた大坂の城内では、再び戦争をするか否か議論が起こる。

戦争ともなれば浪人衆を手放すわけにはいかないからである。

私を突如横切る冬の雷  笠嶋恵美子

家康はこれを口実とし、本格的に挙兵を決める。

4月4日、家康は息子・徳川義直の婚礼への参加を理由に名古屋へ向かう。

道中に大野治長の使者が訪れ、浪人衆の解雇も豊臣家の移封も断ってきた。

それを聞いた家康は「其の儀であれば、仕方ない」と返答した。

事実上の「宣戦布告」であり、諸大名に京都周辺に集結するよう命じた。

4月21日、秀忠は無事二条城に到着し、翌22日に軍議が開かれた。

家康、秀忠、本多正信・正純、土井利勝、藤堂高虎といった面々である。

徳川方の兵力はおよそ16万、豊臣方は8万と予想された。

家康は諸将に命じ、軍を二手に分けて大坂へ進軍させた。

ちぎれ雲パレスチナから薬師寺へ  井上一筒

裸城となった大坂城では、少しでも劣勢を埋めるべく豊臣家とは縁の深い、

大和郡山城の筒井定慶と紀州和歌山城の浅野長晟に使者を送って、

豊臣方へ味方するよう誘いをかけた。

秀吉には存分に可愛がられた両者だからである。

しかし両者ともこれを断り、徳川軍につくとの返答があった。

「ならば」と、まずはこの2城攻略のために挙兵。

4月26日、大野治房が2千人を率いて出陣し速攻で大和郡山城を落とした。

続いて紀州方面である。

こちらは浅野長晟が5千の軍勢を率いて岸和田の南へ迎撃に来ていた。

治房は、塙団右衛門、岡部則綱、淡輪重政らに戦法を命じたうえで、

浅野軍の墓後を脅かそうと紀州の地侍たちに一揆を煽動させ、

彼らと協力して挟撃を狙った。

ライオンの尻尾こすって火をおこす  岡田幸男 

しかし塙団右衛門は淡輪重政と一番槍の功名を争う形で突出してしまった。

浅野長晟の指揮下にいた亀田高綱が、西軍をおびき寄せる戦法を駆使した

ため、それに釣られたのである。

包囲され奮戦するも後続部隊が到着する前に団右衛門は

矢を額に受け落馬したところを敵兵に集中攻撃され、敢無く討死。

重政もそれを見て敵中に斬り込み、討死した。

大野治房は敗報を聞いて樫井へ急行するが、

すでに勝負はつき、浅野軍は撤退した後だったため大阪城へ引き返した。

現実と理想とのずれにバルサミコ  新川弘子


 後藤又兵衛

4月30日、豊臣軍は軍義を開いた。

「敵は冬の陣と同様、南の大和路から来る。
                          あいろ
 交通の要所にあたる道が狭い国分周辺で隘路を抜けてきた徳川軍を叩く。

 先鋒を破りさえすれば後続は郡山へ退くはず」

と提案したのは大坂浪人五人衆のひとり、後藤又兵衛であった。

大和口の徳川軍は3万を超えることが予想され、

豊臣軍も投入できるだけの部隊を動員して向かわせた。
                        かねすけ
5月1日、第一陣の後藤又兵衛・薄田兼相・明石全登らが率いる

6千4百人が出陣して平野へ。

続いて第二陣の真田幸村・毛利勝永・福島正守・渡辺糺・大谷吉治

約1万2千が天王寺に集結した。

A弦が鳴り続けても逃げないぞ  兵頭全郎

5月5日、平野で野営する又兵衛のもとに幸村の使者が訪れている。

明日の戦に備えて連絡を取り合うためである。

5月6日、午前0時、又兵衛は自軍の2千8百を率いて平野を出発。

藤井寺へ先行。

徳川軍先鋒と午前4時頃から戦闘の火蓋を切った。

又兵衛は山上から奥田忠次を攻撃し、これを討ち取った。

続いて北から進軍してきた松倉重政軍と衝突し、

これも圧倒して全域に近い打撃を与えるなどの奮戦を見せた。

しかし後続の水野勝成らが来援し、さらに伊達政宗・片倉重綱隊が加わった。

水野・伊達隊は合わせて3万に近い。

およそ10倍もの徳川軍を相手によく善戦したが、

午前10時ごろ、片倉隊の鉄砲隊の銃撃を受け又兵衛は斃れた。

ごはさんで願いましてと命消え  森 廣子

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赤なまこ黄なまこ我は青なまこ  井上一筒


 幸村の家族への手紙
大阪夏の陣が開戦する2ヶ月程前の3月に大阪城内から上田に住む
姉夫婦に出されたもの。
「訳文」
遠いところ御使者をお送り下さりありがとうございます。
そちらはお変わりがないとのこと、詳しく承り、満足いたしました。
こちらにも無事でございますので、ご安心下さい。
私たちの身の上ですが、お殿様(秀頼)は大変親切にしてくださるので大方の
ことは問題ないのですが、万事気遣いしながら一日一日を暮らしています。
お会いしなくては細かいことを申しあげられず、手紙ではなかなか詳しく
書け
ませんが御使者のかたが詳しく伝えてくださるでしょう。
 今年も何事もなければ、どうにか、お目にかかりたいと思います。
知りたいことが山ほどあります。
ですが、この不安定な浮き世のことですから、一日先のこともわかりません。
私たちのことなど、もうこの世にあるものとは考えないで下さい。
恐れながら謹んで申し上げます。

三月拾日  真田左衛門佐              小壱岐様

結論は出ている 梅は熟れている  藤本秋声

「幸村の最後の書状」

幸村が認めた「人生最後の書状」真田信之が江戸時代に治めた松代町の

小山田家に伝来する。

慶長20年(1615)3月19日付けで「真田丸の戦い」で活躍した

大阪冬の陣と
夏の陣の間に書かれたもの。
                    しげまさ       ゆきとも
宛先は信之の家臣である小山田茂誠とその息子の之知

茂誠は姉・村松殿の夫で、幸村にとっては義兄に当たる。

遺言と書いて江戸小噺を一つ  筒井祥文             

「遠路、御使者から手紙を預かりました。

   そちらは変わったことがないこと
詳しく承りました。満足しています」


幸村は手紙の中で、このように上田の家族のことを気にかけつつ、

自身の近況も報告している。

「こちらも無事でおりますのでご安心ください。

   私たちの身の上は殿様の信頼
も並大抵ではありませんが、

   色々気遣いが多く、一日一日を暮らしております。


   お目にかかっていないので、詳しくお話しすることができませんが、

   なかなか書面でも詳しくは書けません。

   様子を使者からお伝えいたします」


書状が記された時期は、冬の陣終結から3ヵ月余りが経ち、

豊臣方の主戦派が再び戦闘準備を整えた頃だ。

そうした緊迫する情勢とともに、

秀頼からひとかたならぬ寵愛を受けていたことが窺える。

背景にはやはり先の冬の陣での真田丸における戦いぶりもあったのだろう。

信号がずっと黄色のままである  杉山ひさゆき

この後、幸村は書状で、「当年中も静かであるならば、

   何とかしてお会いしてお話ししたいと存じます」


と家族への思いを吐露するとともに、胸に秘めた悲壮な覚悟を伝えている。

「心ひかれることがたくさんありますが、

   定めなき浮世ですので、
一日先のことはわかりません。


   我々のことなどはこの世にあるものとは思いなされますな」

再戦がそう遠くないことを悟り、覚悟を決めた様子が伺える。

そして、自分のことは必要以上に
気にかけないで欲しい―と綴る内容は、

幸村の複雑な心境と家族への心配りをみせる…幸村の事実上の遺書である。

閂を抜くと本音が迸る  須磨活恵

同じく冬の陣後に幸村が村松殿に宛てたものでは、

恐らくは叶わないであろう再会を願いつつも、

「お会いしてお話ししたいものです」と記している。

関が原合戦の際に兄・信之や姉村松殿など信州・上田の地の家族とは、

別の道を歩むこととなったが、

それでも真田一族は、
心通わせ続けていた。

介錯を頼む 喜劇として頼む  くんじろう


    馬 上 筒
馬上筒は全長約60センチの半自動の速射連発銃で、着火装置に改良を重ね
弾倉を付けることで8発の弾丸を10秒おきに発射でき、手綱を握る手を軽く
支えにすれば、馬上でも連射が可能になった。

夏の陣で豊臣方が総崩れする中、幸村が僅かな手勢と家康本陣へ攻めた際、
真田流砲術の名手である幸村は、この馬上筒をフルに活用し家康に自害まで
覚悟させ
たという逸話はよく知られる処である。
しかし家康にあと一歩のところ迄迫りながらも、取り乱す敵兵の反撃にあった
騎馬が動揺し、幸村は家康を撃ち損じたというおまけがついてくる。

奇跡には赤いフリルがついている  新保芳明

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