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川柳的逍遥 人の世の一家言
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葉を落とすたびに大きくなる欅  米山明日歌
 


仁と義の狭間で生き悲しき刺客

この有名な人斬りは誰?
ヒント=土佐藩郷士。天誅の名人と言われ、最も怖れられた。
慶応元年5月11日打ち首、獄門。享年28歳。
辞世の句があまりにも悲しい。
「君が為 尽くす心は 水の泡 消えにし後は 澄みわたる空」

 
  「青天を衝け」平岡円四郎の死
 

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円四郎の父・岡本花亭              堤 真一
円四郎には肖像画がない。この父から円四郎の顔を想像したい。

 
平岡円四郎は、文政5年(1822)岡本忠次郎の四男として生まれた。
父は勘定奉行まで勤めた後、鑓奉行に転じ、諸大夫(しょだいぶ-位階)
を仰せ付けられ、また近江守に任ぜられている。なお優れた漢詩を詠む
ことで、岡本花亭という名でも知られた文化人である。その後、17歳
の時、円四郎は、切手番頭を努める旗本・平岡文次郎の養子となり平岡
姓を名乗る。やがて家を継ぐ身となり、学問にも励み、昌平坂学問所の
寄宿中頭に就任する。


肩甲骨きっと大きな羽だった  高橋くるみ


聡明叡智で特異な才能を持つ円四郎を、世間は放ってはおくわけがなく、
水戸藩の藤田東湖や幕臣・川路聖謨らは、「諤諤の臣」を求める一橋家
慶喜に推挙した。そして慶喜は、東湖や聖謨の薦めに従い、円四郎を雇
小性として雇うことにした。
(「諤諤の臣」=正しいと思うことを直言する人のこと)


ぴったりの甲羅磨いているところ  津田照子


当時の一橋家の家老は、慶喜の教育係をも務める中根長十郎であった。
慶喜は、御側用人の中根に対して、不満を感じていた。確かに中根は能吏
ではあったものの、水戸家から入った慶喜に対して、相当、遠慮していた
のかもしれない。が、慶喜は、中根を始めとする側近のイエスマンぶりに、
物足りなさを強く感じていた。そのため、嘉永6年(1853)に至り、
水戸藩からの「直言の士」、すなわち、<物おじせずに慶喜に諫言してく
れる>、頼りがいのある家臣を派遣してくれるよう、懇請する書簡を実父
徳川斉昭に送っていた。そして、白羽の矢が立ったのが、平岡円四郎
あった。(能吏=事務処理に優れた才能を示す役人)


面白い手術になるという外科医  山田恭正
 
 
川路聖謨は、平岡円四郎が非凡で「直言の士」であることを見込んで、
日ごろから水戸藩の藤田東湖戸田忠太夫に対して、平岡の能力や人
となりを吹聴していたらしい。ちょうど慶喜、「直言の士」斉昭
に求めていた時でもあり、東湖は、斉昭に平岡を推薦した。斉昭は、
その提案を受け入れ、平岡を慶喜の小姓とすることに決めた。
平岡もそうそう遊んでいるわけにもいかず、取りあえずその申し出を
受けることにした。


関節を外して入る砂時計  月波与生


円四郎慶喜の近侍になった時、慶喜は16歳。円四郎は32歳だった。
円四郎は、名家の一橋に仕官するというのに、服装はだらしない、礼儀
作法はまるでなっていない。円四郎は、豪放磊落な性格で、堅苦しいこ
とは大の苦手だったから、常に、一橋の家人たちから顰蹙を買っていた。
近侍として「これでは拙い」と考えた慶喜は、箸の持ち方、飯の食い方、
言葉の使い方などまで、細かく教えることにした。慶喜の教育係である
べき円四郎が、慶喜に教育される逆転現象が生じた。それでも、慶喜が
円四郎を側に置き信頼したのは、気さくで、言いたいことをずばずばと
言い、聡明で機転が利き、先が読める人物、と認めたからである。


捩じれてもなお直線の夢を追う  大西將文
 




 
 
  平岡円四郎は、幕末史の基礎的史料『維新史料綱要』に何度か登場する。
初登場は安政5年(1858)3月のこと。慶喜が将軍家の養子となる
ことを固辞していることについて、福井藩士の中根雪江と水戸藩士の
島帯刀らが、円四郎の屋敷に集い、密議したということが載っている。
慶喜は、「お飾りの将軍になどなる気はさらさらない」、が、この密儀
で何らかの妥協をみせたのだろうか…。


臍の緒がそんなに高く売れるのか  井上敏一


ゆくゆくは慶喜に、将軍職を嗣がせる含みを持たせながら一橋家の養子
とした12代将軍の家慶は、後継問題を曖昧にしたまま病没した。13
代将軍の座についたのは、家慶の実子の家定だった。しかし、家定は、
病弱なため次の将軍となる実子をもうけることが期待できない。このた
め、譜代の彦根藩主の井伊直弼、会津藩主・松平容保ら、紀州徳川家の
慶福を将軍に据えようとする南紀派と、外様の薩摩藩主・島津斉彬、宇
和島藩主・伊達宗城、土佐藩主・山内豊信ら、一橋家の慶喜を将軍に据
えようとする一橋派とが、次期将軍の座を巡る争いを起こす。


2丁目より暗い3丁目の闇  雨森茂樹


やがて、井伊直弼を幕府の大老に擁立した南紀派は、家茂を将軍とする
継嗣をめぐる争いに勝利し、一橋派に対する弾圧を始めた。いわゆる、
「安政の大獄」である。安政6年(1859)9月には、一橋派に属し
た藩主たちが、隠居・謹慎させられ、平岡円四郎もまた、井伊直弼から
一橋派の危険人物として処分され、甲府勝手小普請にされた。
ところが翌安政7年3月、桜田門外で井伊直弼が殺害されるという変が
起こると、時代はまた違った方向へ動き出す。


大変があるかないかは明日の闇  佐藤近義


文久2年(1862)、勅使として公卿の大原重徳が江戸へ向かうとき、
島津久光が兵を率いて随行した。久光は薩摩藩主の実父で、薩摩藩の実
権を握っているが、本来なら幕閣に意見を言える立場ではない。しかし、
勅使の随行者として幕府も、無視するわけにも行かず、久光が要求する
改革路線に政治の舵をきることになる。そこから旧一橋派の巻き返しが
始る。いまさら、将軍の座についた家茂を、引きずり下ろすことは出来
ないが、安政の大獄で処分を受けた人々を、復権させた上、慶喜「将
軍後見職」に越前福井藩の前藩主・松平春嶽を「政事総裁職」に、それ
ぞれ就任させることにした。


くるぶしのあたりに灯す常夜灯  笠嶋恵美子


その年の12月、慶喜「将軍後見職」に就任すると、円四郎も甲府か
ら呼び戻され、江戸に戻る。そして、文久3年4月、「勘定奉行所留役
当分助」となり、翌月一橋家用人として復帰する。そして、この年、慶
喜の上洛にも随行する。京都で慶喜は、公武合体派諸侯の中心となる。
こうした背景に、ごそごそ裏で動いているのは、平岡と用人の黒川嘉兵
と見なされた。この頃、円四郎は、ますます慶喜からの信任は厚く、
元治元年(1864)2月、「側用人番頭」を兼務、5月に「一橋家家
老並」に任命され。6月2日には、慶喜の請願により「諸大夫となり、
近江守」に叙任される。四男坊の遊人が、42歳で父と同じ位置に昇っ
たのである。攘夷派の志士として、破壊活動を企てていた渋沢栄一を、
一橋家に仕官させたのもこの頃である。


木に登ると花を咲かせてみたくなる  神野節子


この2週間後の6月14日、円四郎は、水戸藩士江幡広光、林忠五郎
らにより京都町奉行所与力長屋外で襲撃され、斬殺される。円四郎の
側にいた川村惠十郎は、傷を負いながらも必死の反撃をし、江幡広光、
林忠五郎を斬り捨てている。慶喜も円四郎も、外国人を今すぐ日本か
ら閉め出すことはしないでも、攘夷は、日本の自主独立を守るという
形でのものでいいのではないかと考えていた。しかし、攘夷に奔る士
たちは、「尊皇攘夷」という考え方の元祖である水戸藩に生まれた
、「なかなか攘夷を実行しようとしないのは、平岡円四郎ら側近
が悪い考え方を吹き込んでいるのに相違ない…」と、考えた。
現に、慶喜の側近・中根長十郎は、円四郎より先に殺され、円四郎の
後で慶喜を支えた原市之進も暗殺されている。盲目的に慶喜の側近た
ちを狙ったのだ。
 
 
刺し口は中央分離帯の中  平尾正人
 
 





『維新史料綱要』
には、安政5年6月に、時勢を慨嘆する水戸藩士ら
が幕府の要人に対して「除奸」を計画しているとの情報を、円四郎が
中根雪江に伝えていることが記されている。
円四郎は前もって、危険な同胞の動きを察知していたにもかかわらず、
その刃に43年の、まだまだやることのある命を散らすのは、やはり、
持って生まれた円四郎の磊落な性格が災いのもとになってしまった。


理不尽をいさめる言葉見つからぬ  合田留美子


「除奸(奸を除く)の計画」とは、平たく言えば、「要人を暗殺する
こと」で、まさに暴挙。水戸藩といえば慶喜の実家なのだが、味方に
はしたくない危険な存在になり果てていた。安政二年の大地震で藤田
東湖という指導者を失ってから、水戸藩は、迷走を始めていたのであ
る…。栄一喜作は、そのとき、江戸におり恩人の死を知るのは、半
月後だが、その訃報に驚き悲しみ、号泣した。

 
雲を見ている隅っこのパイプ椅子  新家完司
  
 
 
 
 
「渋沢栄一ー円四郎を語る」

『是まで申述べたうちにもある如く、私を一橋家に推薦して慶喜公に
御仕へ申すやうにして呉れた人は、平岡円四郎であるが、この人は全
く以て一を聞いて十を知るといふ質」で、客が来ると其顔色を見た
丈けでも早や、何の用事で来たのか、チヤンと察するほどのものであ
つた。然し、かかる性質の人は、余りに前途が見え過ぎて、兎角、他
人のさき回りばかりを為すことになるから、自然、他人に嫌はれ、往
々にして、非業の最期を遂げたりなぞ致すものである。平岡が水戸浪
士の為に暗殺せられてしまうやうになつたのも、一を聞いて十を知る
能力のあるにまかせ、余りに他人のさき廻りばかりした結果では無か
らうかとも思ふ。

平岡円四郎の外に、私の知つてる人々のうちでは、藤田東湖の子の
田小四郎といふのが、「一を聞いて十を知る」とは、斯る人のことで
あらうかと、私をして思はしめたほどに、他人に問はれぬうちから、
前途へ前途へと話を運んでゆく人であつた。
藤田小四郎・辞世
兼て与梨 思ひ初にし 真心を けふ大君に 徒希てうれしき
 
 
しあわせの窓からふいに波しぶき  清水すみれ

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