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川柳的逍遥 人の世の一家言
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天秤が息を殺しているようだ  河村啓子
 
 

江戸めいしょ判じ絵
17個の絵の意味の解明は、当頁の末段に。


 「青天を衝け」ー「実験論語処世談ゟ」


「処世談ー①」
平岡円四郎と云ふ人は、今になつて考へて見ても、実に親切な人物であ
つたと思ふ。…中略…。私を一橋家に推薦して慶喜公に御仕へ申すやう
にして呉れた人は、平岡円四郎であるが、この人は全く以て一を聞いて
十を知るといふ質で、客が来ると其顔色を見た丈けでも早や、何の用事
で来たのか、チヤンと察するほどのものであつた。平岡が水戸浪士の為
に暗殺せられてしまうやうになつたのも、「一を聞いて十を知る」能力
のあるにまかせ、余りに他人のさき廻りばかりした結果では、無からう
かとも思ふ…。


さっぱりと爽やかな人早く逝く  新家完司


「処世談ー②」
私の関東滞在中、平岡円四郎は、六月十七日京都の一橋邸附近で水戸藩
士の為に暗殺されてしまつたのであるが、平岡の死後、用人として一橋
家の政務を掌つた黒川嘉兵衛といふ人が、幸に、私と喜作とを重用して
呉れたものだから、九月の末には、身分が「御徒士」に進み、食禄八石
二人扶持、滞京手当月六両になつたのである。翌けて慶応元年二月には、
私も「小十人」といふ身分に進み、十七石五人扶持、滞京手当当月十三
両二分となつたが、その頃一橋家の兵備といふものは、極手薄で、幕府
より何時なんどき引揚げらるゝやも測り難い、幕府より借し与へられた
二小隊の御客兵が主である。


知らぬ間に大きな顔になっている  小林すみえ



徳川将軍15代
中央に、初代家康、その下2代秀忠・3代家光・4代家綱、5代綱吉
右に、10代家治・11代家斉・9代家重・8代吉宗・7代家継(子供)
6代家宣(子供)左に、12代家慶・13代家定・14代家茂・15代代慶喜



慶応2年7月、14代将軍・家茂が薨去した。まだ世継ぎもおらず、

に将軍の座が回ってきた。貧乏籤なのはわかっていたが、慶喜は引き
受けるしかなかった。おのずから篤太夫成一郎も一橋家家臣から幕臣
となった。


冗談が当り哀しいのに笑う  佐藤正昭


「処世談ー③」
然るに茲に一つ困つたのは、徳川十四代の将軍・家茂公が慶応二年八月
二日薨去になつたので、慶喜公が一橋家より宗家に入られて、徳川十五
代の将軍にならせらるゝといふ事である。之れには、私は大反対であつ
たのである。…中略…。私は、この時とても、依然徳川幕府は倒してし
まはねばならぬもので、又、天下の大勢から察しても倒るべきものであ
ると考へてたのであるが、若し、これまで君公として仕へ奉つた慶喜公
に、一度将軍になられてしまひ申すと、情誼の上から私は幕府を倒す為
に力を尽すわけには参らぬ事情に陥つてしまふ…。


たらればを引きずり隅で飲んでいる  杉山ひさゆき


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最後の将軍・徳川慶喜


「処世談ー④」
…斯う考へて徳川一門を見渡すと、尾州公でも水戸公でも、豪族政治の
仲間入が出来さうな人傑では無い、たゞ一橋慶喜公だけは人傑であらせ
られるから、公を推し立てゝ行きさへすれば豪族政治の仲に割り込んで、
我が志も行へるといふものだが、慶喜公が、一旦、将軍に御成りになつ
てしまへば、幕府が倒れた時に、如何とも天下の政治に志の叙べようが
無くなつてしまふ。そこで私は、飽くまで慶喜公を一橋家に引き留めて
置いて、将軍職には御就かせ申すまいとしたのである。


ブラックホールの傍にインターホンがある 岩田多佳子


「処世談ー⑤」
それでは一橋家が一朝有事の日に、「禁裡御守衛総督」の大任を尽すわ
けにもゆかぬと私は考へたので、「農民募兵」の儀を慶喜公に謁見して
言上し、遂に建言が容れられて私は『歩兵取立御用掛』といふものにな
つたのである。かくて私は「兵隊組立御用」を仰付かつて、一橋家の領
地を巡回し居るうち、領内の産米と木綿とが、他領のものに比し値段が
安くなつてる事や、硝石の産出が比較的領内に多いにも拘らず、大規模
の製造所が無い為に頗る不利を蒙つてる事に気が付き、種々と建言する
処があつたので、私は遂に、食禄二十五石七人扶持、滞京手当月二十一
両の『一橋家御勘定組頭』を仰付かり、種々と財政上の案を立て、会計
専務を取扱ふ事になつたのである。


翻訳は出来ないウボポイのこころ  合田留美子


「処世談ー⑥」
勘定奉行というのは、今でいえば大蔵大臣の格で、次に「勘定組頭」が
あつたのだから、一橋家に於ける大蔵次官の格になつたのである。
篤太夫は「歩兵取立御用掛」として、まず阪谷朗盧(さかたにろうろ)
に会うために井原に向かった。篤太夫は朗廬を「自らの主義を貫いた、
先見の明のある人」と高く評価していた人である。一度は会っておくべ
しと考えた。


納豆はいつも私の共犯者  佐藤正昭



興譲館・校門 (扁額は栄一の揮毫)
渋沢栄一は、一橋家仕官時代に備中を訪れ、漢学者・阪谷朗廬(娘婿・
 阪谷芳郎の父)を訪ねて時勢談などを交した。その時の朗廬の印象を
「攘夷派ばかりの漢学者の中で、断固として開港主義を貫き、反対攻撃
を受けても自説を変えなかった、真に先見の明ある人」と賞讃した。


いるのいねえのってそんなものじゃない  雨森茂樹


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     阪谷朗盧


「阪谷朗盧に会う」

阪谷朗盧は、文政5年(1822)岡山の井原に生まれた。6歳の時、
大坂で大潮平八郎に、江戸に出て昌谷精渓・古賀侗庵に、学び17歳
で幕府の昌平黌の塾頭にまでなった秀才である。嘉永6年(1853)
一橋家の代官・友山勝次によって開設された郷校「興譲館」の初代館
長として招かれた人物である。近隣はもとより遠くからも朗廬の名声
を慕って入塾者があり、寄宿生は多いときで百人を超えたという。


目分量ですが青空を一枚  吉松澄子


こうした評判を聞き篤太夫は、慶応元年の春、農兵を集めるため、長棒
の籠に乗り兵士らを従え、備中国西江原村(井原)を訪れた。
到着すると代官や庄屋たちが平伏して、篤太夫を迎えた。丁重に迎えら
れた中で、篤太夫は、募兵の必要性を丁寧に説き、代官や庄屋たちに申
し付けた。返ってきた返事は、「自ら勧誘しなされ」というものだった。
あちこち出向いて募兵の趣旨を説明して回っても、誰ひとり応募してく
るものがいない。これを不自然と感じた篤太夫は、農民を一同に集めて、
次のようにぶった。


矢面に立っているのは影でした  柳田かおる


「不思議千番なこともあるものだ。拙者の宿に兵士に応募したいという
若者が来て、志願書をおいていった。なのに、そちらの紹介では誰一人
も応募がない。拙者は、一橋公の命でここに来ている以上、もし裏で、
志願者を止めるようなことをしているのであれば、不届き者として斬り
殺すことも辞さない」と。


だとしても納得いかぬ春帽子  靏田寿子


この脅しともとれる言葉に庄屋は驚いて、「実は代官から内々に言われ
ていたことがある」と白状した。
「一橋家の役人の申す事を、いちいち聞いていると、領民も難儀するだ
けだ。今回も志願者は誰もいないと言えばよい」と言ったと言うのだ。
これを聞いた篤太夫は、代官の陣屋に乗り込み、
「今度の使命は一橋公直々の命であり、非常に重大な役目である。この
まま、庄屋からの志願者の申し出がないようであれば、その原因を究明
する必要がある。拙者はもちろん、代官である貴殿にも、職務怠慢の責
めが問われるのは必定」と責めた。


シュレッダーに証拠食わして卑怯者  森本義一


しばらくの沈思をして篤太夫は、言葉をつづけた。「そこで改めて貴殿
から、庄屋たちに話をし、役目が果たせるよう尽力してはくれまいか」
代官は裏で動いていたことが、ばれていると感じ取り、恐縮して徴兵に
舵をきりかえた。結果、備中後月郡井原村で200人前後、その他の領
地からの募兵を合わせると、450人ほどを集めることに成功した。江
戸に戻った篤太夫は、井原での様子などを慶喜に報告すると同時に、郷
里の子弟教育に熱心な者、親孝行な者、農業に秀でた者たちに報償を与
えるようにしてほしいと提案した。


言い訳が多い男のかゆみ止め  月波与生


こうした一悶着のあと、篤太夫はもう一つの目的である、阪谷朗盧の家
を訪れた。そこで篤大夫は、朗廬と酒を酌み交わし、国家のことを論じ
合った。西欧文化に明るい阪谷は「開国」を主張し、篤太夫は、日本が
欧米列強に並ぶ力をつけてから「開国すべし」と自身の意見を述べた。
意見が違っても、平岡に会って身に付けた「人の意見を聞き、理解する」
というスタンスで、決して、自分の意見のみをごり押ししない。こうし
た篤太夫に朗盧も好意を持った。それからも2人は大いに飲み、意見を
交わし、笑い合い、楽しい時間を重ねた。


今日の日を特別にするいいお酒  ふじのひろし


2人が盛り上がり、対話する中で、地元の剣豪の話になった。
「阪谷の近くに関根という地元では名の知れた剣術家がいるが、一度手
合わせをしてみたらどうか」というので、話の行きがかり上、手合わせ
をすることになった。多くの見物人が見守る中で、竹刀をあわせると、
何とあっさり篤太夫が勝ってしまった。地元一番の剣豪も形無しだ。
これが噂となり、「今度のお役人は学問にも武芸にも優れた凄い人だ」
という噂が流れ始めた。


表情の豊かさ自他の心地よさ  椿 洋子


この阪谷朗盧についても、篤太夫は詳細に慶喜に報告した。
慶喜は、阪谷を京に呼び功績を称えて、「銀5枚を与えたい」と言うと、
朗盧は「そういうものが頂けるなら、興譲館の教師たちにやってほしい」
と個人的なものは一切断った。さらに「文武館の教授に」という申し出も
朗盧は「在野の人材を育てる事が自分の使命」という理由を語り、それも
断った。
その後、明朗盧は、治元年11月、興譲館を甥の坂田警軒に譲り、広島浅
野侯の賓師となり。明治4年秋頃には、東京に転居、廃藩後維新新政府の
官吏として出仕した。


類語辞典引く何をする訳もなく  山口ろっぱ


表絵の「えどめいしょはんじもの」(江戸名所判じもの)を解明すると、
左上から時計回りで
① 鵜と絵の具の看板上部で「う・えの」=上野
② 傘に「あ」と「か」の文字で「あ・かさ・か」=赤坂
③ 四本の矢で「よつ・や」=四谷
④ 目が黒い男で「め・ぐろ」=目黒
⑤ 「あ」の男、尻から「さ」と臭い屁をひって=浅草
⑥ 矢を煎る様子で「いり・や」=入谷
⑦ 火が憎い→ひにくらしい→ひくらし=日暮里
⑧ 梅の紋、輪、蚊で「うめ・わ・か」=梅若
⑨ 大きな琴柱〈ことじ〉で「おお・じ」=王子
⑩ 本を読む錠で「ほん・じょう」=本所
⑪ 火の番をする帳面で「ばん・ちょう」=本所
⑫ 上半分の鶴と雉で「つ・きじ」=築地
⑬ 鷹が縄をくわえているため「たか・なわ」=高輪
⑭ 本と鵜が碁をうつから「ほん・ご・う」=本郷
⑮ 蜘蛛の巣と阿弥陀様 「す・みだ」=墨田
⑯ 四枚の葉に濁点 「し・ば」=芝
⑰ ひらがなで書いた「すぎ」=金杉


意地悪はもう飽きました爪を切る  高橋レニ

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