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川柳的逍遥 人の世の一家言
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D O N Q のパンがあるハルカスの奈落 井上一筒



白波五人男
左~日本駄右衛門、赤星十三郎、南郷力丸、忠信利平、弁天小僧菊之助


「白波」とは、盗賊のこと。後漢の末期(184年)、黄巾賊の余党が
西河の白波谷に隠れて、財宝略奪を働いた集団を、「白波賊」と呼んだ
ことから歌舞伎作者・河竹黙阿弥が『青砥稿花紅彩画』の劇中で引用し
「白波」呼称した。
『白浪五人男』と呼ぶ方が「泥棒五人男」と呼ぶより様になっている。
「世の中を何にたとへむ朝ぼらけ漕ぎゆく舟のあとのしら浪」
沙弥満誓(さみのまんぜい)拾遺和歌集


天守閣見つめ続けている歴史  前岡由美子


火付盗賊改・徳山五兵衛 VS 大盗賊・日本左衛門
 
 
「悪党・日本左衛門」ー人間像
日本左衛門と申す者は、悪党大勢の棟梁と申しながら知恵深く、威勢
強く、力業、剣術早業の達者にて常に大小を指し…大勢の者をよく手な
け…武家の方も恐れず、昼夜はいかい仕候」…また、『窓のすさみ』
には、「率いる強盗の人数は、従う者五、六百」と統率力の凄さを記し
ている。         (『浜島竹枝記』)


トンネルの中で大きくなっていた  中前 棋人


「この人、盗みせし初念は、不義にして富める者の財物は、盗み取ると
も咎めなき理なれば、苦しからずと心に掟して、その人、その家をはか
りて、盗み入りしとぞ」とあり日本左衛門は、箱を砕いて包みから、
<難儀な者に施し>とか<<盗みはすれど非道はせず>など盗みの哲学
手下に説いた」とされている。           
            (『甲子夜話ゟ』(肥前平戸藩主・松浦静山)


努力目標背を丸めずに歩くこと  吉田 陽子


寛保3年(1743)、駿府の夜の町で役人と斬り合いになり、手下に
命じて役人を縛り上げると、「役目がらとはいえ、命を捨てて闘うとは
健気である」
と、頭領らしく、悠然と姿を消したという逸話もある。
大掛かりで派手な義賊の姿は、伝えられるごとに脚色され「恰好良い大
泥棒」
になっていったようだ。が三右衛門の訴状では、娘の婚家に日本
左衛門一味40名が押し入り、金千両、衣類60点を盗まれた上、嫁や
下女たちまでが狼藉されたとあることから、実像は、かなり荒っぽい盗
賊だったようである。


痛むのは自分自身についた嘘  立蔵信子
 


忠信利平


「その手口」
日本左衛門一味の強奪の手口は、記録によるとかなり大掛かりなもので
「盗みに入るときには、周辺の家に見張りをたて、道筋には番人を配置
して押し入り、支配者の異なる旗本知行地を転々と逃走する」と記録に
ある。「いつも若党や草履取を連れ歩き、押込む時には5~60人余り
を使い、提灯30張を灯し、近所の家の門口には抜刀を持った子分が5、
6人ずつ見張りに立つ。押し入ると家族を縛り上げ、金の置き場所を案
内させて強奪する」
と記している。
                     (「『浜島竹枝記』)


辻斬りでなければかまいたちだろう  清水久美子


静山『甲子夜話ゟ』には、「この人、盗みせし初念は、不義にして富
める者の財物は、盗み取るとも咎めなき理なれば、苦しからずと心に掟
して、その人、その家をはかりて、盗み入りしとぞ」
とあり、
「日本左衛門は、箱を砕いて包みから、<難儀な者に施し>とか<盗
みはすれど非道はせず>など盗みの哲学を手下に説いた」
とされ『浜島竹枝記』と少し違った見解を記している。


胸の火でリンゴの歌を焼きましょう  岡田幸男



赤星十三


「被害者訴える」
駿河豊田郡大池村の庄屋宗右衛門は、2度にわたって日本左衛門一味に
襲われ、千両箱をいくつも盗まれた。宗右衛門は、日本左衛門の悪事を
詳細に渡って調べあげ、延享3年(1746)8月、江戸の北町奉行所
に日本左衛門逮捕を直訴した。その後も、さらに、同年、掛川藩領の大
池村や駿河府中の民家に押し入り、二千両を奪っている。


キンメダイの目の回りまで食べてやる  宮井いずみ


一味の狼藉は天領、旗本領、藩領が入り組んだ治安の弱い地域を狙った。
地元の代官所では手に負えず、向笠村の豪農三右衛門が直訴して、幕府
が乗り出すことになった。それに伴い,
白波の五人男に弄ばれるばかりであった地元の掛川城主・小笠原長恭
責任を問われ、福島県の棚倉へ転封、相良藩の本多忠如も福島県の泉に
移された。


意気地なし甲斐性梨無しのろくでなし  両澤行兵衛


「さてこの悪党、五右衛門と対決するのが徳山五兵衛である」
五兵衛は、江戸時代中期から後期の旗本寄合席。諱は秀栄、通称は五兵

衛、または又兵衛という。元禄3年(1690)生まれ。「寛政重修諸
家譜」
では、母は某氏とされる一方、父・重俊の正室は、神尾守勝の養

女であり、庶出であったとされる。又兵衛と称していた時期に、徳川綱
の従兄弟にあたる藤枝方教の娘を正室に迎えるが、のちに離婚する。
元禄8年、兄の重朝の死去とともに、元禄13年、将軍徳川綱吉に初御
目見えを済ませ、正徳3年、24歳で父の家督を継ぎ小普請となる。
享保9年(1724)35歳の時に新設された「本所深川火事場見廻役」
の御役目に就いている。


段取りがよすぎて妙に落ち着かぬ  吉岡 民


「火事場見廻役」とは,寄合席から選ばれる若年寄配下の幕府の役職で、
江戸に火災の発生した際、風下にあたる武家屋敷、また寺社、町方へも
出役し、消火の指揮をとるとともに、焼け跡を見回り、出火原因、被害
状況を調査報告し、定火消しの火事場での勤務状況を監察するのが、主
な仕事で、五兵衛はその「火」にかかわる役職を務めたが、この時点で
はまだ、「盗」の役目は入っていない。
五兵衛は、54歳になったばかりの寛保4年(1744)1月、「御先
鉄砲頭」となり、2年後の延享3年(1746)7月には、盗賊追捕の
命を受けて、御先鉄砲頭の加役である「火付盗賊改」となった。


指名手配を飛び六法で追っかける  山本早苗


「火付盗賊改方」としての役目は、日本左衛門率いる盗賊団を追捕する
こと。三河・遠江一帯を傍若無人に荒しまわる盗賊で尾張家のはみ出し
者らしい…。五兵衛57歳にして、重たい役を任されることとなり、ま
だまだ安堵の時間は与えられなかった。早速、五兵衛は、同心22名を
卒いて、延享3年9月に江戸を発ち、地元の捕り方の応援を得て、金谷、
掛川、浜松に大捜査網が敷かれた。しかし、手下は捕まっても、頭目の
日本左衛門は一向に捕まらない。ために、全国に「人相書き」を高札に
張り付けることにした。


注射打つどうなるやろと言いながら  宮井元伸





「日本左衛門の姿について」
手配書の人相書きから伺うことができるが、目撃者の語るところでは、
洒落だったようだ。黒皮の兜頭巾に、薄金の面頬、黒羅紗、
金筋入りの半纏に、黒縮緬の小袖を着、黒繻子の小手、脛当てをつけ、
銀造りの太刀を佩き、手には神棒という六尺余りの棒を持ち、
腰に早縄をさげた立ち…だったという。


鼻筋の黒子は無添加の印  酒井かがり
 
 
 
日本左衛門手配書控(袋井市可睡齋蔵)


一方の日本左衛門は、支配者の異なる旗本知行地を転々とし、見附から
美濃、大阪へと逃走、舟で安芸の国へとしぶとく且つ巧妙に逃げ回った。
しかし行くところ行くところに、自分の似顔絵と手配書が貼られている。
これでは逃げ場もない、匿ってくれるところもない、日本左衛門は、
兵衛の天網の追及に、これでは捕まるのも時間の問題と悟り、延享4年、
明けて7日、みっともなく逃げ回るよりも、潔く京町奉行所へ自首する
決意をした。日本左衛門が自首した日、奉行・牧野信貞「今日は休日
だから、明日に出直してこい」といわれて、その通り翌日に自首をした
という嘘でしょうといいたい逸話がある。尤も、牧野信貞は、大坂町奉
行だから、日本左衛門が自首出頭したのは、京都だったのか、大坂だっ
たのか、このあたりにも嘘っぽく疑問が残る。


 吊り橋でたじろぎ野鼠にびびる   新家完司
 
 
そして同年3月11日、日本左衛門は江戸に送られ、市中引き回しの上、
獄門の刑に処せらて、首は遠江国見附に晒された。なお、処刑の場所は、
遠州鈴ヶ森刑場とも、江戸伝馬町刑場とも言われる。尚、日本左衛門を
徳山五兵衛が捕えた際、思い残したことはないかと尋ねると、「日光を
見たことがない」というので処刑前に、日光参拝を許したという。
これは徳山五兵衛の人となりを後世に見せるための、これまた作り話だ
ろう。日本左衛門、享年29。
その後五兵衛は、火付盗賊改方を延享4年12月までの1年4か月、務め
た後「西の丸持筒頭」の役職をこなして宝暦7年7月18日に死去する。
享年68歳だった。
鬼の長谷川平蔵は、延享2年(1745)の生まれだから、この事件は、
13年前のこ
とで、平蔵は13歳であった。ついでながら、火盗改として、
五兵衛は89代、平蔵の父・長谷川宣雄 は139代、平蔵は165代
で、
二人の間に74人の頭領が移り変わっている。

 
 
盗まれる予感を秘めた鍵一つ  高野末次



 
二幕目第一場 浜松屋

 
「『弁天娘女男白浪』を盗む」
二幕目第一場・「白浪五人男」と呼ばれる盗賊の弁天小僧菊之助と南郷
力丸は、呉服屋「浜松屋」に武家の娘と若党を装い、騙り目的でやって
来る場面。
 鎌倉雪の下の浜松屋に、若党四十八(よそはち)を供に連れた美しい
武家娘が現れる。早瀬主水の息女お浪と名乗り、婚礼支度の買い物をす
る彼女は、品物を選ぶうちに、そっと鹿子の裂(きれ)を懐中した。
帰ろうとする娘の懐から、鹿子の裂を引き出した浜松屋の番頭は、万引
きと思い込み、怒って娘の額を算盤で打つ。しかし若党の話から、鹿子
は、他の店、山形屋の品であったことが分かる。


巻尺で測るソーシャルディスタンス  竹内ゆみこ


取り返しのつかない過失に、青褪める店の者たち。若旦那の宗之助
十八に詫びるが、四十八は店主・浜松屋幸兵衛を相手取る。お浪につけ
られた額の傷を言い立て、法外な金を要求する四十八に対し、浜松屋に
呼ばれた鳶頭も憤慨して啖呵を切る。しかし幸兵衛は、事を穏便に済ま
せるため、四十八の言うとおり、百両を出して詫びるのであった。


少しずつ黄ばむ障子もわたくしも  門脇かずお


金を受け取り帰りかかるお浪と四十八を、店の奥に居合わせた玉島逸当
(たましまいっとう)という侍が呼び止めた。逸当は二人を、騙りと見
抜き、さらに、ちらりと見えた腕の刺青を証拠に、お浪を男と見破る。
図星をさされた二人は、急に伝法なその正体を現すのだった。
(伝法=粗暴で無法な振る舞い)


木漏れ日にうっかり暴かれた忍者  一階八斗醵




弁天小僧菊之助


「知らざあ言って聞かせやしょうー」
知らざあ言って聞かせやしょう
浜の真砂と五右衛門が歌に残せし盗人の
種は尽きねえ七里ヶ浜、その白浪の夜働き
以前を言やあ江ノ島で、年季勤めの稚児が淵
百味講で散らす蒔き銭をあてに小皿の一文字
百が二百と賽銭のくすね銭せえ段々に
悪事はのぼる上の宮
岩本院で講中の、枕捜しも度重なり
お手長講と札付きに、とうとう島を追い出され
それから若衆の美人局
ここやかしこの寺島で、小耳に聞いた爺さんの
似ぬ声色でこゆすりたかり
名せえゆかりの弁天小僧菊之助たぁ俺がことだぁ!


だまってい‼ アロンアロファつけたろか‼  くんじろう
 


南郷力丸


「さてどん尻の控えしは」
   さてどん尻の控えしは、汐風荒き小動の、
磯馴の松の曲りなり 、人となった浜育ち、任儀の道も白河の、
夜船へ乗り込む船盗人 、浪にきらめく稲妻の、白刃で脅す人殺し、
背負って立たれぬ罪科は、其の身に重き虎が石、
悪事千里と云うからは、何うで仕舞 は木の空と、
覚悟はかねて鴫立尺、しかし哀れは身にしらぬ、
念仏嫌えな南郷力丸!


梅雨前線通過中です揉めてます  美馬りゅうこ


女装の盗賊は、江ノ島の稚児上がりの弁天小僧菊之助四十八と偽って
いたのは、その兄貴分である南郷力丸であった。「名を明かした二人」
が、ここから突き出せと居直って悪態をつくのに対し、幸兵衛は、弁天
が受けた傷の膏薬代として二十両を差し出す。しぶる弁天を南郷が説き
伏せ、二人はようやく腰を上げる。


すっぴんがハニートラップだったとは  森田律子
 


日本駄衛門


浜松屋を出た二人は、今日の稼ぎを山分けして悦に入る。道々、騙りの

道具として使った重い武家の衣裳を持つのを厭い、二人は坊主が来たら
交互に持ちっこする「坊主持ち」に興じながら帰ってゆく。
いっぽう、浜松屋では逸当を奥座敷へ案内し、もてなしの支度にかかる
のだった。しかしこの玉島逸当こそ、実は弁天南郷の頭である大盗賊
日本駄右衛門だった。彼らを捕えようとしている捕手たちは、迷子を
捜すさまに見せかけ、稲瀬川で秘かに待ち伏せをしていた。


独房にごろん夜中を刻む音  岡田陽一



日本左衛門首洗い井戸跡石碑


「日本左衛門首洗い井戸跡之碑」がある。日本左衛門は本名を浜島庄兵
といい、元文永享年間(1736-47)に横行した大盗賊で、延享
4年(1747)に処刑されている。その捜査に当たったのが、当時、
「火付盗賊改の役」にあった徳山五兵衛秀栄である。
稲荷社は、一説にこの秀栄が祭ったものともいわれている。また、境内
には、日本左衛門の供養碑や首洗い井戸があったと伝えられているが、
後に河竹黙阿弥や歌舞伎狂言『青砥稿花紅彩画(白浪五人男)』の中に、
日本左衛門を模した日本駄右衛門を登場させたこともあずかって、後世
に造立された。          (「墨田区史」)


樹齢かな馬齢かな指のささくれ  中野六助

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