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川柳的逍遥 人の世の一家言
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そうはいっても見事な黒でございます  田口和代


「鼠小僧」 鼠と滝沢馬琴



鼠小紋東君新形(三代目・豊国〔似顔絵の元国貞〕)
 
左から、与惣兵衛忰与吉(稲葉幸蔵<小僧>)/市川小団次
 松葉屋傾城松山(幸蔵女房)/尾上菊五郎
 松葉屋息子文三/河原崎権十郎
 
河竹黙阿弥作の歌舞伎演目『鼠小紋東君新形』ねずみこもんはるのしんがた)は、
賊・鼠小僧が活躍する内容で、江戸庶民の大人気を博し、安政の初演
から最も多く上演された。(稲葉幸蔵<幸蔵><小僧>のもじり)
 
 
  鼠小僧ウイキペディアにも潜り  通利一辺
 
 
 鼠小僧次郎吉は、文化文政時代に活動した実在の盗賊。
歌舞伎芝居小屋の出方兼大道具係の父・貞次郎(定治郎)の子として、
寛政9年(1797)に元吉原に生まれる。本名は次郎吉。10歳の頃、
父の見様見真似で覚えた知識を活かして、木具職人の家へ奉公に入る。
16歳で職人が肌に合わず、親の元へ戻る。その後は鳶人足となったが、
五尺足らずの小柄であまり役にもたたず、25歳で鳶職を飛び出した為、
父から父子の縁を切られる。そこからはお決まりの身を持ち崩し、博打
に嵌り、その資金稼ぎのために、盗人稼業に手を染めるようになった、
と伝わる。


ジョーカーとわかってからの処世術  木口雅裕
 


『鼠小僧実記』 (鶴声社 国立国会図書)


五尺の小柄が今度は役にたつことになった。小さな体でちょろちょろと
身軽に動き回る身のこなしは、盗人には、向いていたのかもしれない。
文政 4年(1821)父に勘当されて、間もなく、某大名・武家屋敷に
忍びこみ、誰も傷付けることなく、金だけを盗んだのが、泥棒稼業の初
仕事であった。以後、文政8年に捕縛されるまで、武家屋敷ばかりを狙
って、盗むこと28箇所32回に及んだ、という。武家屋敷は盗難があ
っても、泥棒に入られることを恥とし、奉行所には届けないから、現場
で捕まらない以上、気楽な稼業だったようだ。


軽かったんだねあの日のサヨウナラ  赤松蛍子


盗っ人というのは、すたすたと屋根から屋根を走り、塀を乗り越え、抜
き足・差し足・忍び足で忍び込み…というのが映画などでお馴染みだが、
次郎吉の場合、「だれそれに面会の用事がある」と御用を繕って、脇門
から屋敷内に入り、堂々と盗みをして帰る、などの手際をも駆使した。
被害にあった大名には、美濃大垣藩・戸田采女正の屋敷のように、一度
に424両の大金を盗られた大名もある。会津若松の松平肥後守の屋敷
のように、1年おきに、数回も度重なり盗まれた大名もいた。これらは
次郎吉が供述した、屋敷の内情を細かく調べたうえでの犯行だった。


番犬は寝てるし窓は開いてるし  雨森茂樹
 


歌川豊国、鼠小僧の捕縛の図


それでも次郎吉は、一度捕縛されたことがある、文政8年(1825)、
土浦藩上屋敷に忍び込んだときのことである。その時は、与力の詮議に
おいて初犯と嘯き、入墨・追放の刑止まりで、定法の死罪は、まんまと
免れることができた。
(江戸時代の罰則では、十両の金を盗むと「死罪」と決まっていた。
そこで九両二分三朱まで盗んで、あとの一朱をとらないという、法律
通の泥棒もいたという、ずる賢い次郎吉もその手を使った、のかも)


ペラペラの嘘を束ねた置き土産  高野末次


次郎吉は、大名屋敷のみを狙って盗みに入り、貧しい人達にそれを施し
たとされる事から、後世に「義賊」として伝説化されている。
その「義賊伝説」は、処刑直後から語られ、広まったようだ。曲亭馬琴
が見聞録『兎園小説余禄』に書き留めている。
『此のもの、元来、木挽町の船宿某甲が子なりとぞ、いとはやくより、
放蕩無頼なりけるにや。家を逐れて (勘当されて)…中略…処々の武家
の渡り奉公したり。依之(これより)武家の案内(内情)に熟したるか
といふ一説あり。…中略…盗みとりあい、金子都合、三千百八十三両余、
是、白状の趣なりとぞ聞えける』
この金額は、ざっと今の五億円前後と算盤が弾き出す。


憚りながら裏街道の海月です  太田のりこ
 
 
 
 歌川豊国、捕り手と奮戦の図


 泥棒は一度やると止められない。一度捕まって性懲りもなく、また盗み
をはじめ、天保3年(1832)5月、日本橋浜町の松平宮内少輔邸に
忍び込んだところを、北町奉行所の同心・大八木七兵衛に捕縛された。
「捕まるときの有様について、馬琴は」
『浜町なる松平宮内小輔屋敷へ忍び入り、納戸金(手許金)を盗みとら
んとて、主侯の臥戸(寝室}の襖戸をあけし折、宮内殿目を覚まして、
頻(しきり)に宿直の近習を呼覚して…中略…是より家中迄さわぎ立て、
残す隈なくあさりしかば、鼠小僧庭に走り出で、塀を乗て屋敷外へ堂と
飛びをりし折、町方定廻り役・榊原組同心・大谷木七兵衛、夜回りの為、
はからずもその処へ通りかかりけり、深夜に武家の塀を乗て、飛びおり
たるものなれば、子細を問うに及ばず、立ち処に搦め捕えたり』


爆睡はネズミが走ってからにする  岩根彰子


次郎吉は捕まって、同心の大谷にこんなことを言った。
「ここで命を奪わず、町奉行所に差し出してくれ。奉行所で吟味を受け
てから処刑されたい」理由に「俺が盗みに入った屋敷では、その責任を
とって切腹した人もいる。金銀が紛失したので、疑われている人も多い。
奉行所で残らず白状して、その人たちの罪をそそぎたい」
時の奉行は、北町の榊原忠之。芝居小屋育ちの次郎吉得意の芝居っけの
ある供述は名奉行には通じず、奉行は、次郎吉に死罪を求めた。
そして獄門、市中引き回し時には、奉行の配慮で薄化粧の口紅を許され、
悪びれた様子も見せず、馬上で目を閉じて「何無妙法蓮華経」と唱えた
という。やがて次郎吉が日本橋3丁目あたりへ差し掛かった時、二人の
女が目礼をした。次郎吉に深い恩を受けた情婦だったのだろう。


二メートル先には地続きのあの世  和田洋子


牢獄での取り調べの後の8月19日、市中引き回しの上、千住小塚原
(一説-品川鈴ヶ森)で磔、獄門に処された。
「この日の様子について、馬琴は」
『この者、悪党ながら、人の難儀を救ひし事、しばしば也ければ、恩を
受けたる悪党(仲間)おのおの牢見舞いを遺したる。いく度といふこと
を知らず、刑せらるる日は、紺の越後縮の帷子を着て、下には、白練の
ひとへを重ね、襟に長房の数珠をかけたり。歳は36、丸顔にて小太り
也。馬に乗せらるるときも、役人中へ丁寧に時宜(お辞儀)をして、悪
びれざりしと、見つるものの話也。この日、見物の群衆、堵(垣)の如
し、伝馬町より日本橋辺は、爪もたたざりし程也しとぞ』


真っ先に鼻の形を思い出す  高橋レニ



  歌川国貞の描く鼠小僧


馬琴は、教養人としての自負があってか、記事を「虚実はしらねど風聞
のまま記すのみ」と結んでいる。
『世に様々な風聞風説が流れ、それが読書に記されている。たとえば、
捕らわれてしまう失策は、『自々録』によると、大きな鼾のせいだ』
という。
「松平宮内小輔の深殿の天井に、『日ごろの大胆をもて、深更をまつ
うち、眠りにつき、大なる鼾よりしてあやしめられ、堅士捕者の達者
や有りけん、搦め捕られたり』と、まことに無様である」


目を開けたら既に三日がたっていた  寺島洋子


「盗み取った金額について」
「『天言筆記』には、盗賊に押し入りしは、大抵諸侯にして、七拾軒、
盗みし金額は、凡そ二万二千両なり」とある。
今のざっと35億円前後である。
この金高について『巷街贅説』(こうがいぜいせつ)には、
『大名方九十五ヶ所、右の内には、三十四度も忍入り候所も有之(これ
あり)、度数の儀は、八百三十九ヶ所程と相覚へ、諸所にての盗金相覚
候分、凡三千三百六十両余迄は、覚候由申し立て候』


見えぬことだけで溢れる空の箱  山口美代子


…中略…『しかとは申し立て難き候得共、盗み相働き初めより当時まで、
凡そ一万二千両余と覚え申し候由、右盗金悉く悪所盛り場等にて、遣ひ
捨て候事之由』とある。
さらに、九十五ヶ所の氏名と、被害の金高を逐一列記している。
『その屋敷には、尾張、紀伊、水戸の御三家や、田安・一橋・清水の御
三卿まであり、盗人ながら見上げたものである。金額が最も大きいのは、
戸田采女正の四百二十両(6500万円前後)である』


三度目は許さぬよりも慣れてくる  深尾圭司



   歌川国周の描く鼠小僧


「義賊ということについて」
学芸大名として名高い松浦静山が、鼠小僧について
「『金に困った貧しい者に、汚職大名や悪徳商家から盗んだ金銭を分け
与えた』という伝説がある。この噂は、彼が捕縛される9年も前から流
れていた。事実、彼が捕縛された後に、役人による家宅捜索が行われた
が、盗まれた金銭はほとんど発見されなかった。傍目から見ると、彼の
生活が分をわきまえた慎ましやかなものであったことから、盗んだ金の
行方について噂になり、このような伝説が生まれたものと考えられる」


とりあえず空っぽになってみようかな  山口美代子


「だが、現実の鼠小僧の記録を見ると、このような事実はどこにも記さ
れておらず、現在の研究家の間では『盗んだ金のほとんどは博打と女と
飲酒に浪費した』という説が定着している。
鼠小僧は、武士階級が絶対であった江戸時代に於いて、大名屋敷を専門
に徒党を組むことなく、一人で盗みに入ったことから、江戸時代におけ
る反権力の具現者のように扱われたり、そういったものの題材して使わ
れることが多い。 しかし、これについて、資料が残されていない中で、
鼠小僧自身にその様な意図が無かったという推測もある。


伏せ字には発情しないお約束  木口雅裕


「鼠小僧が大名屋敷を専門に狙った理由について」
敷地面積が非常に広く、一旦、中に入れば警備が手薄であったことや、
男性が住んでいる表と、女性が住んでいる奥が、はっきりと区別されて
おり、金がある奥で発見されても、女性ばかりで、逃亡しやすいという
理由が挙げられている。
また、町人長屋に大金は無く、商家は逆に、金にあかせて警備を厳重に
していた。大名屋敷は、謀反の疑いを、幕府に抱かせるおそれがあると
いう理由で、警備を厳重に出来なかったものと考えられ、また面子と体
面を守るために被害が発覚しても公にしにくいという事情もあった。


ふくらはぎだけが眠っている童話  くんじろう


「松浦静山『甲子夜話』」
幕政での栄達という青雲の夢破れ、47歳で平戸藩主を隠退した静山は、
以後、82歳で没するまで、学芸に親しみ、怪談奇談に耳をそばだて、
隠居仲間やお抱え相撲取り・弓職人など多彩な人々との交流を楽しんだ。
本所下屋敷で隠居暮らしを堪能しつつ、鼠小僧の評判に興味をもち、そ
の名の由来について、『甲子夜話』に書き記している。
「或人言ふ。このごろ都下に盗ありて、貴族の第(屋敷)より始め、国
主の邸にも処々入りたりと云ふ。然れども人の疵つくること無く、一切
器物の類を取らず、唯、金銀のみ取去ると。されども、何れより入ると
云ふこと、曽(かつ)て知る者なし。因て人、「鼠小僧」と呼ぶ」と。


くずかごにまじめをぽいっと捨てぬよう  岡田幸男

 
 
鼠小僧こと稲葉幸蔵・松山・二人の娘・みどり
 
 
「鼠小僧の母」
江戸の末期、天保(1831~)のころ、西の郡と呼ばれていた蒲郡に、
江戸から一人の老婦人が、ひっそりと帰ってきて暮らしはじめた。35、
6年ぶりのことだ。家の裏手には、鬱蒼とした藪が広がっていた。その
藪の中に、名前も戒名も書かれていない粗末な墓らしきものがある。と、
近くの住民が気づいたのは、それからしばらくたってからのことだった。
老婦人の名を「かん」といった。ある日のこと、道でかんとすれ違った
住民が尋ねた。「藪の中にある墓は、どなたをご供養なさっているんで
すか」 かんは一瞬、驚いた様子を見せ、顔をくもらせた。


知り合いではないが知らないでもない  佐藤正昭


暫くたって小さな声で「倅の」とだけ、言って立ち去った。
『がまごおり風土記』(伊藤天章著)には、文政期に江戸市中の大名屋
敷に忍び込み、天保3年に38歳で処刑された鼠小僧次郎吉は、蒲郡の
生まれだと書かれている。母親のかんは、処刑のあと一握りの遺髪を手
に蒲形村に帰り、墓をつくり冥福を祈った。
この墓が後に委空寺(神明町)に移されたという。 次郎吉の生家は現在
の神明町。生後間もなく、父の定七は江戸に旅立ってしまう。1、2年
後、母のかんは、定七を追って、幼い次郎吉を背負い上京した。お墓の
いわれとともに、このような話も代々語り伝えられている。
真実はともかく鼠小僧は歌舞伎や小説、映画に義賊として描かれている。
地元の人たちには、ちょっぴり自慢だったに違いない。                        
 
 
正座して一身上の話きく  都司 豊


「次郎吉は用心深い」
必要以上の大金を盗まなかったのは、捕まったときの用心で、金がなく
なるまで盗みを働かなかった。不自然な大金が見つかると、証拠になる
からである。当然、深い付き合いもできるだけ避けて、プライバシーを
守った。親しい仲間ができ、棲家が知られ、家に遊びにくるようになる
と棲家を変えた。女房だって四人いて、その家を転々としていたのだ。
それも金で買った飲屋の女である。名前も治三郎、次兵衛などと使い分
けていた。


路地裏をうまく泳いでいるルパン  岡内知香
 


浅草胡蝶の屋根に現れた鼠小僧(18代目・勘三郎)


次郎吉の墓は、本所回向院にあり、戒名は「教覚速善居士」俗名・中村
次良吉とある。戒名の教覚速善とは、頭脳よく、記憶力もよく、素早い、
が次郎吉の持っていた印象で、とは何を表したものか、義賊であった
ことを示したものなのだろうか。
「鼠小僧の辞世」
「天が下古き例(ためし)はしら波の 身にぞ鼠とあらわれにけり」
「ウン? なんとなく聞いたことがある、ってか」
「やっぱり、黙阿弥の作品だから白波五人男に似てしまうんですな」


前略と書いたが闇の中にいる  山本昌乃


「鼠小僧に死刑を宣告した奉行・榊原忠之」
北町奉行としての忠之は、迅速かつそつのない裁決を行い、江戸市民か
ら人気があった。北町奉行在任は17年に及び、これは歴代江戸町奉行
中でも長期にわたる。『想古録』では、「前任者が7,8年、時に10
年以上掛かっていた採決を、2,3日で行ってしまう」ほどのスピード
裁判であったと伝えており、長期にわたる訴訟で、訴訟費用に苦しんで
いた江戸庶民から歓迎された。また在任中に、鼠小僧次郎吉、相馬大作、
木鼠吉五郎など、世間を騒がせた規模の大きい裁判も多数担当した。


闘って大きいコブの二つ三つ  佐々木雀区

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