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川柳的逍遥 人の世の一家言
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足は長く顔は小さく写してね  武内美佐子

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「わしの大好きな町の景色を、しっかり見とうせ」

と、言わんばかりに腕組みをして、”身長3メートル”の龍馬像が、

”長崎港”の絶景を見下ろしながら、”風頭山”の展望台に立つ。

すぐ近くにあるもう一つの展望台には、

司馬遼太郎
「竜馬が行く」の文学碑があり、

「長崎は、わしのきぼうじゃー」 

と小説にある龍馬の言葉が、刻まれている。

流されて流れて僕の現住所  岸本宏章

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   風頭公園の龍馬像

≪亀山社中跡の丘陵と連なる風頭山は、長崎の絶景を見下ろす好展望台。

 龍馬像が、その展望台から、「わしの街をみておおせ」と、

 長崎の夜の町を見据えている≫

実際は、

「わしの大好きな”お元”がいる長崎の町を、しっかり見とおせ」

と言っているのかも知れないが、

その長崎で、幕末に多くの志士たちと関わってきた、

一人の写真家がいる。

その当時、"東の下岡蓮杖"、"西の上野彦馬" と並び称された、

名写真家の一人、上野彦馬である。

スケールの違いは耳朶の広さ  上野多恵子

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上野彦馬は、営業写真家の草分けで、

文久2年(1862)、故郷の長崎に戻り中島河畔で「上野撮影局」を開業。

「一等写真師」の看板をたてて、客を待ったのだが、

閑古鳥が鳴く有様で、開店休業状態が続いた。

写真があまりにも写実的で、自分の生き写しと考えられて、

「写真を撮ると命まで取られる」

との迷信が流布していたからだ。

身中の虫がどっぷり胡坐かく  森 茜

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龍馬と同じスタジオで写真に収まる後藤象二郎

長崎には、開明の青年が全国から集まっていた。

「迷信などに引きずられてなるものか」

と、度胸を据えた若者がついに、写真館の門をたたいたのである。

「わしの写真を撮ってはくれまいか」

と、言って彦馬の客になったのが、

坂本龍馬や高杉晋作、伊藤俊輔(博文)、桂小五郎らであった。

一汁一菜仏が少し分りかけ  たむらあきこ

しかし写真は、彼らにあって「遺影のつもり」であった、と伝えられている。

有名になった折には、

「後世に自分の姿を残しておきたい」 との功名心も働いた。

混乱の幕末は、志士を目指す者にとって、

いつ命を落とすか分らない、ご時世であり、

彼らには、それなりの覚悟があって、写真に収まったのである。

効いてるか試しにクスリやめてみる  中 博司

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風頭からのぞむ長崎港(古写真)         現在の同じ位置からの情景

≪港に停泊する数多くの外国船が、当時の長崎の賑わいを物語る≫

”日本初の写真機”が、出島経由で、長崎に輸入されたのは、

幕末の1843年のこと。

写真撮影に成功するのは、さらにその16年後である。

龍馬が、

『日本を洗濯するために』
長崎を訪れたのは、

1864年~67年にかけてで、ちょうど写真が普及し始める時期と重なる。

龍馬は、彦馬のスタジオで撮影した肖像写真を、

5枚~10枚ほど、焼き増しして持っていたという。

「当時、”カルテドヴィジド”といって、今でいう”写真入の名刺”を作った」 

という。

新しいもの好きで、アイデア豊富な龍馬らしいエピソードである。

もひとりの僕の視線を意識する  嶋澤喜八郎

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   ガラス原板

ガラス原板とともに、この「名刺写真」

”龍馬の実像”
を、後世に遺すことになったのである。

慶応2年(1866)頃に、撮影されたという、

龍馬の写真(立像写真)の、「オリジナル・ガラス板写真」が、

3日間限定にて、

京都博物館の『龍馬伝特別展』で見られるということで、

早速行ってまいりました。

まさに龍馬ブームである。

入り口では、約30分の行列、

目的のガラス板前では、ものの2秒ほど見るのに、

40分以上は並ばされた。

肯定も否定もしない群れにいる  勝山ちゑこ

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龍馬伝の人気 あやかりたい人もいる

暗いケースに入った、「そのもの」は、

2・3秒程の鑑賞で、ほとんど印象にも残らない。

館内もまた、人・人・人の頭が邪魔で、肝心な物はほとんど見えない。

龍馬は、地球一周分歩いたというが、

達成感のないその日の、我々のだらだら歩きは、

龍馬が実感した同じような疲労を、

たった一日で感じさせられた、おもいだけが残る。

許したが一つの棘が抜け残る  吉川哲矢

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    上野彦馬と家族 

≪彦馬の前に、母と妻、横に4人の妹、前列で行儀よい姪と、眠たげな甥≫

古写真とは、

幕末から明治にかけて、撮影された黎明期の写真で、

「初期写真」と呼ばれる。

「古写真の魅力は、そこに本物の歴史があるということ・・・

 絵画は不要なものを省きますが、

 写真は意図しないものまで全部写ってしまう。

 そこに、現実が写っているんです」

と語る古写真研究家の姫野順一さんの、言葉を思いめぐらせながら、

歩いた。

現在の進化したカメラ(デジカメ)の中に、

この数々の幕末の歴史を収めたかったが・・・、館内は撮影禁止 ((( T_T)

横顔で盗む角度で我慢する  辻 葉

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「龍馬の写真(立像写真)は、上野彦馬によって撮影されたという・・・が?」

上野彦馬の弟子に、井上俊三という土佐藩出身の人物がいた。

ふるさとの馴染みということで、土佐藩出身の人々は、

井上に、無料で写真をとってもらうことが、よくあったようだ。

龍馬の写真も、スタジオは、間違いなく上野彦馬のスタジオだが、

撮影者は、この井上だという説がある。

龍馬の立像写真の原板(湿板)は、

井上家に保存されていた事から考えて、

「撮影者は、井上俊三とするのが妥当なところではないか・・・」

と、古写真研究家。
 
もう時効なんです七味唐辛子  山口ろっぱ

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上野写真館にて、日本に友好的な外人たち(古写真)

開店休業状態だった「一等写真師」の写真技術も徐々に、

次第に高く、評価されるようになる。

ポーズをとるものも現れて、ちょっとした写真ブームが、長崎に起きた。

そのブームにあやかり、

上野写真館を訪れる人が増えてきたのだが、

心の奥底では、「もしや俺の命が・・・」と恐れる向きもあった。

そこで写真機に向かって、”にらみ”を利かせてから写れば、

自分の精神力が貫通するから、

「死なずにすむ」との、『にらみの心得』が、説かれるようになる。

≪その心得を、最初に言い出したのが、長州藩の重臣、周布政之助であったらしい≫

迷信の通りに腹が痛くなる   村上恵美子            

「さぁ写します。

 こちらを見て、私がイイと言うまでジッとして、動いてはいけない。

 よろしいか。  ヒィ、フゥ、ミィ、ヨォ、イツ ・・・」

上野写真館では、少なくとも約2分ほどは、動かずにジッとして、

ポーズを決めていなければならなかった。

そのための首押さえの道具も用意されていた。

しかし2分間と言えども、ジッとして耐えている時間は長い。

首は凝る、それに、「にらみ」も利かせなくてはならないので、

我慢も限界に達する。

≪彦馬の家族をよく見れば、その様子が写っている≫

カップ麺2分半しか待てなんだ  井上一筒        

遠路やってくる客を、そういう苦痛から逃れさすには、

写真機を改造しなくてはならなかった。

やがて彦馬の手で、5秒程度で写せる画期的な、新機種が出来上がった。

上野彦馬は、化学にも通じており、長崎でこれを学ぶ予定でいたが、

蘭学者の中で、たまたま見つけた”ポトガラヒー”という語の

意味を外国の教官に質問したのが、”写真との出会い”となった。

蘭学者に従って、機械から薬品の開発まで手がける彦馬の徹底ぶりが、

新機種の開発につながった。

もしもからついにまで抱く寒たまご  山本早苗

「わが国最初の公害問題が、彦馬写真館から発生した」

『エピソード2件』

研究心が嵩じて、

彦馬は牛骨から、アンモニアを抽出する方法を開発するのだが、

実験室からアンモニアが流れ出し、

臭気が近所に及んだために、奉行所に突き出される、

ハプニングもあった。

最後にはごみとなるものばかり買い  八木勲

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居留地の中央を流れる大浦川の河口から見たダウンタウン(古写真)

フィルムは、硝酸銀の液体に浸した原板を、乾かないうちに、

現像しなければならなかった。

ただ問題は、このフィルムを撮影に使ったときには、

光量不足になりやすく、

被写体になった志士たちを、寺の大屋根に登らせて、写したこともあった。

一見、室内写真のように見えても、

すべてよく晴れた日当たりの良い野外で、撮ったのである。

小道具を外に持ち出して、

それらしい室内写真に仕上げる、大仕事であったのだ。

≪龍馬も小五郎も、小道具に囲まれた野外スタジオで、

後世に残る一枚を撮影していたのだ≫

蛇口からやっと太平洋につく  板野美子

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   龍馬の紋服

「龍馬伝・特別展での収穫」

龍馬のサイズが、現実的に見れたことが唯一の収穫。

当時龍馬が羽織っていた紋服から、計測したサイズがこれ。

身長=173cm 体重=約80kg

以下、紋服の寸法。

着丈=149cm    肩巾=32cm    袖丈=50cm 
袖巾=33.5cm   裄丈=65cm    前巾=26cm   後巾=30.5cm

どぉうってこと月は東に日は西に  河村啓子

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