甘党の男に期待などしない 原井典子
期待できる男・龍馬はかなりの酒豪であったようだ。
質屋・才谷屋の血をひく、ボンボンだからお金もあって、
酒ばかりでなく、
結構なグルメでもあったそうだ。
そういう意味で、長崎は龍馬にとって、ダブルに希望の町であった。
さて、7月13日の卓袱料理(P-1)につづき、
ここでは長崎・卓袱料理(P-2)をご紹介・・・の前に、ちょっと寄り道。
恋なんてご飯のたしになりますか 杉本克子
長崎へ一歩踏み込んだ龍馬の足
「龍馬伝ー第3部の舞台は長崎へ~」
龍馬は、薩摩藩家老・小松帯刀の助けを得て、長崎で海運会社・亀山社中を始める。
当時、長崎は外国との交易で栄えていた。
一獲千金を狙うトーマス・グラバー、
茶貿易で巨万の富を手にした大浦慶、
江戸幕府の手先・長崎奉行、花街・丸山の芸妓・お元、
そして、奇兵隊を創った長州の高杉晋作など、龍馬は様々な人々と出会う。
未知数にあつい視線が注がれる 吉岡 民
長 崎 崇 福 寺
「国宝・崇福寺で撮影が進む中、龍馬、晋作、お元、大浦慶が、長崎の印象を語る」
福山雅治(坂本龍馬)-長崎はおいしいものも沢山ありますし、歴史を感じられる場所です。
このお寺にもちょくちょく、お参りに来ていたのですが、
カメラ越しに見てみると、
こんなに画になる場所だったんだなって、改めて思いました。
伊勢谷友介(高杉晋作)-”崇福寺”は、国宝のあるお寺ということで、
そういう場所で撮らせていただけて、演技にも身が入ります。
蒼井(芸者お元)-私は父が長崎の五島列島の出身なので、
何度か来たことがあるのですが、今回久しぶりに長崎に来ました。
やっぱり落ち着くなと思います。
余貴美子(大浦慶)ーまだ来たばかりなのですが、
長崎街道も歩いてみたいですし、
これからいろいろと見学させていただきたいと思っています。
昨夜は、卓袱料理を堪能いたしました。
和・洋・中のミックスで、”長崎は、こんなところなんだなあ”と感じました。
すごく楽しくて、おいしかったですね。
福山龍馬ーなんで、僕、一緒に行ってないんですか・・・? (≧∇≦)/ ハハハ・・( iдi )
消防車が着くとサンマは焼けていた 壷内半酔
いよいよ余貴美子さんが、堪能したという卓袱料理へご案内。
長崎の大金持ち・大浦慶も、日常のように食したことでしょう。
卓袱料理はお鰭椀に始まり、梅鉢で終わる。
お鰭椀・[鯛切り身]。紅かまぼこと白餅。椎茸。柚のつぼみ。小菜・[鯨百尋]。
中鉢ソボロ。果物。小菜・[ハトシ]。梅椀・「しるこ]。煮物・[チンゲンサイと木耳のスープ]。
小菜・[黒豆]。汁物・[ヒカド]。中央の大鉢・[煮物、飛龍頭、里芋、筍、菜の花、木の芽]。
中鉢・[豚角煮]。 【写真正面から時計回りに並ぶ】
円卓には、あらかじめ小菜が並べられ、宴席のスタートを見計らって、
熱々のお鰭椀がつけられる。
お 箸 袋
ひとつ箸袋に、数人分の箸が入っている。
赤白の水引は祝儀、黒白は不祝儀。
中鉢/豚角煮
とろとろ煮込んだおなじみ料理。
中鉢/ハトシ
すり身にした海老を、パンで包んで揚げたもの。
小菜/鯨百尋(ひゃくひろ)
長崎の婚礼や正月の祝宴に必ず使われる一皿。
お赤飯何のお祝いかと思う 井上恵津子
余さんが演ずる、「大浦慶とは?」
長崎で亀山社中を立ち上げた龍馬は、
その後、資金を何人かのパトロンに頼った。
その代表が、長崎の小曽根家と下関の伊藤家だったが、
大浦慶という女性にも、300両(約1800万円)の金を借りたことがある。
龍馬は、油屋町にあった慶の屋敷に転がり込んで、
居候することもあったが、
この女性は、いまでも長崎に伝説の女商人として、
語り継がれているほどの”女傑”だった。
生き生きあける炊飯器のまぶた 岩田多佳子
大浦慶は、長崎の老舗に生まれ、
17歳で、親の決めた男性を婿に迎えた。
しかし、婚礼の翌日、無気力なところが気に入らないと、
100両を渡して、叩き出したという経歴を持つ。
その後、両親があいついで亡くなり、家業が傾くと、
慶は、再建を果たすため、
21歳だった嘉永元年(1848)の、ある日、
長崎からオランダ船に忍び込み、中国へ向けてひそかに旅立った。
まだペリー来航前の話で、密航は極刑の時代だったが、
あえて挑んだのは、
日本で最初の茶貿易をはじめるという、壮大な商魂を宿していたからだ。
≪というのが、現在まで長崎に伝わる大浦慶伝説≫
釜飯の底のおこげがたまらない 前田咲二
密航伝説から5年後の、嘉永六年(1853)。
出島のオランダ商人で、
その後、東インド会社の重役に出世したテキストルが、帰国する際、
慶が、肥前嬉野の茶を見本として預けたことは、確かである。
ココロザシ確っかと抱いている翼 山口ろっぱ
すると、日英和親条約が発効された安政3年(1856)。
テキストルの紹介で、イギリス商人・オルトが訪ねてきた。
そして、いきなり72万トンの日本茶を注文。
こうしてはじまった”茶貿易”で、慶は大成功を収める。
やがて、日本茶は、長崎貿易のなかで、第一位を占めるようになり、
長崎とその近郊で、茶栽培が広がると、
慶は長崎の女傑として、その名を知られるようになった。
≪龍馬を慶に紹介したのは、グラバーだといわれている≫
森を開いて割り箸の山作る 井上一筒
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