川柳的逍遥 人の世の一家言
諸行無常の水吸って夏椿 山本早苗 「神戸海軍操練所がスタート直後に頓挫して」 事実上、閉鎖されると、龍馬らは海舟の計らいで、薩摩藩邸にかくまってもらった。 しかし、人生とは皮肉なもので、 この一連の出来事が、龍馬にとっては幸いすることになった。 ≪予定より早く、夢であった海運業をおこすチャンスが、めぐってきたからである≫ 龍馬は、約20人の仲間と、大坂の薩摩藩邸に潜んでいたが、 慶応元年(1865)4月25日に、藩邸を出発。 薩摩藩の西郷隆盛、小松帯刀、大山彦八らと、薩摩藩船の胡蝶丸に乗り込み、 瀬戸内海を経て、5月1日に、鹿児島に着いた。 鹿児島に10日間ほど滞在したあと、龍馬らは、帯刀と長崎に向かっている。 無印の無色気軽にとんでいる 小山紀乃 幕末の長崎は、日本の国内外の人・モノ・情報が集まる町だった。 特に、政治情勢が日々変わる幕末において、 正確な情報をいかに早く入手するかは、 薩摩藩や長州藩など、西日本の各藩が蔵屋敷をおいており、 かつ多くの人々が情報を求めて、全国から集まっていた。 ≪龍馬もここで、最新の情報を収集し、政治活動などに役立てたのである≫ 龍馬の長崎への旅は、帯刀がイギリス商人・トーマス・グラバーから、 新しい蒸気船を購入する交渉に、同行したのだが、 その最中、龍馬の夢である”海運業”をおこすという話が、 とんとん拍子に進んでいった。 そして、薩摩藩と海舟の知人でもある長崎の豪商・小曾根家の資金提供によって、 龍馬は、「亀山社中」の設立を実現する。 亀山社中の目的は、 グラバー商会などの西洋商人から、購入した武器や物資を、 薩摩藩などへ輸送する事業を営むことである。 夏椿(さらの木) 薩摩名義で購入した武器類を、長州藩に提供することにより、 「薩長両藩の橋渡しを行なう」ことにあった。 当時、朝廷と幕府の共通の敵であった長州は、 幕府の攻撃を目の前にして、武器や弾薬の調達を、急務としていた。 ところが長州は、経済活動を制限されていたので、 龍馬は、武器の購入や輸送を受け持つ亀山社中を通して、 薩摩に窮地の長州を助けさせ、 薩摩藩が資金提供したのは、 帯刀が西郷らと相談し、航海術を学んでいた龍馬らを、 「うまく利用しよう」と、考えたためだった。 そんな薩摩藩の思惑に、龍馬がうまくのったという見方もできる。 ≪社中を運営するなか、龍馬は海運業に勤しむだけでなく、 航海術やオランダ語の勉強、武芸などもおろそかにせず、何に対しても貪欲だった≫ 座布団ほどの我慢をボクはしてきたか 武内美佐子 PR |
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