大仏の背中をガリバーが蹴った 井上一筒
旅順駅
≪ロシア時代に建てられた駅舎が今も保存されている≫
多くの面で劣勢であった日本が、いかにして、ロシアに勝利したのか?
「40分で詠む戦争のエッセンスー」
「プロローグ」 40分/4分
「日清戦争」の後の日本は、
帝政ロシアの南下政策に対応して、朝野を挙げて、
その対策に全力を尽くした。
軍事面で言えば、陸軍はすでに中国東北部(満州)を席捲し、
朝鮮半島北部にまで侵攻しているロシア陸軍を、
「いつ、どこで、どのような」 型で撃攘(げきじょう)するのか。
そのためには貧弱な日本陸軍の兵力を、
どのように準備するか。
三番目くらいの高さ保つ杭 河津寅次郎
整列した歩兵第8歩兵たち
海軍は、旅順とウラジオストックに「軍港」を持ち、
総兵力では、ほぼ日本海軍と同等のものを保有するロシア海軍、
在欧の「バルチック艦隊」を合すれば、
実に倍の戦力になる、強大な海軍力を持つロシアに対し、
「どんな戦略と戦術で対応するのか」 という難問と直面していた。
外交的には、
「朝鮮が日本の国家的利害の焦点」 として、
歴史的にも、地勢学的にも、正に不可分の関係にあった。
影を見るために後ろを振り返る 松原未湖
「司馬氏記」
≪満州に居座ったロシアは、北部朝鮮にまで手をのばしている。
当然ながらに本の国家的利害と衝突する。
日本は、朝鮮半島を防衛上のクッションとして考えているだけではなく、
李王朝の朝鮮国を、できれば市場にしたいと思っていた。
他の列強が、中国をそれにしたように、
日本は朝鮮をそのようにしようとした。
人の世は喜怒哀楽に欲を塗る 大海幸生
関東軍司令部
笑止なことに、維新後30余年では、まだまだ工業力は幼稚の段階であり、
売りつけるべき商品もないに等しいというのに、
やりかただけはヨーロッパの真似を、つまり、
手習いを、朝鮮に於いてしようとした。
その真似をしてゆけばやがては、強国になるだろうと考えていた。
自然、19世紀末、20世紀初頭の文明段階のなかでは、
朝鮮は、日本の生命線ということになるのである ≫
長いもの巻かれたふりをして生きる 嶋澤喜八郎
関東軍司令部内部
「日露戦争」が勃発する下地は、すでに出来上がっている。
ロシアのほうは自信満々であった。
「日本になど負けるはずがない」
その根拠もちゃんとあった。
明治36年(1903)に日本にやってきたクロパトキン陸相は、
日本陸軍をじっくりと見学した後で、
「日本兵3人にロシア兵は1人で間に合う」
と言い放った。
一方、海軍は、西郷従道と山本権兵衛のコンビで、
世界五大海軍国の末端に連なるまでに至ったのだが、
やはり明治36年に、
「大観艦式」に訪れた巡洋艦・アスコリド艦長・グラムマチコフ大佐の報告は、
「物質的装備は整っていても、
海軍軍人精神はまだまだ、軍艦の操法、運用は幼稚」
というものであった。
足し算をしては誤算をしてしまう 籠島恵子
ロシアは、「開戦いつでもよし」の状態にある。
それに対して日本の方は、
「できることなら日露戦争は避けたい」
要するに、勝つ自信がなかったのだ。
そうした「日露戦争回避論者」の筆頭が、伊藤博文であった。
伊藤は、戦争を避けるために対露交渉をすべく、
明治34年(1901)11月、ペテルブルグを訪れた。
そこで伊藤は、ロシア帝政政府における唯一の日露戦争回避論者である、
大蔵大臣・ウィッテに歓待された。
また、外相・ラムスドルフも、
「軍事ではなく外交で問題を処理したい」 と述べた。
甲冑の中に届いている夕日 たむらあきこ
伊藤博文
これは、実は、外交的駆け引きに過ぎなかったのだが、
伊藤は、日露戦争を回避できると思い込んだ。
そして、同時進行していた「日英同盟」は、
「見合わせるように」 と政府へ助言をした。
当時の桂太郎首相、小村寿太郎外相にとって、
こうした私的外交は、迷惑至極であった。
茶柱が立とうとたつまいと挑む 竹内ゆみこ
日英同盟の諷刺画
≪左側のロシアに後から背中を押す英国≫
しかし、幸か不幸か、伊藤は裏切られる。
ドイツ・ベルリンのホテルで待つ伊藤の許に届いたロシアからの文章は、
「ロシアの満州での行動は自由である、日本の朝鮮での行動は、
制限された自由しか認めない」
というものであった。
こうなっては、強国イギリスに後ろ盾になってもらうしかない。
即ち、「日英同盟」である。
イギリスも、極東でのロシアの傍若無人な行動に、
脅威を感じていたのだろう。
極東の小国、日本との同盟に応じる。
積ん読の中であくびをする栞 泉水冴子
明治35年(1902)1月30日、日英同盟は調印された。
大きな後ろ盾が出来上がったのである。
明治36年(1903)、日本はロシアに対して、最後の外交交渉を行うが決裂。
この段階で日本に大問題が起きた。
それは日本陸軍の対露作戦計画の中心人物である、参謀次長・田村怡与造が、
36年10月1日に、突然病死したのである。
また一つ悲しいものをファイリング 中野六助
児玉源太郎
田村は、参謀総長・川上操六の後継者として、
部内の嘱望を集めていて、「今信玄」といわれていた。
その田村が、作戦計画のまとめの時期に、急逝したのである。
田村の後任として、その職に就いたのが児玉源太郎である。
児玉は、日清戦争当時、陸軍次官兼軍務局長として、
事実上の大臣職を見事に成し遂げた実績があり、
その後、台湾総督、陸軍大臣、内務大臣、文部大臣等を歴任した大逸材である。
その児玉が、国家の危機にあたって、
兼職をやめ、進んで下級職である参謀本部次長の職に就いた。
中央統帥部としては、正に磐石の人事態勢であった。
理想論乗せて軋んでゆくレール 桂昌月
2日後の12月6日に続きます。
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