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川柳的逍遥 人の世の一家言
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だるまの目だからだからを繰り返す  森中惠美子

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義朝軍の攻撃を受けて炎上する三条殿

(画面をクリックするすると大きくなります)

「保元の乱」の両軍の名目上のトップは、

それぞれ、後白河天皇崇徳院ということになるが、

天皇や院が、自ら戦いの指揮を取るようなことは、

もちろんなく、

実際の作戦責任者は、

信西(後鳥羽側)頼長(崇徳側)であった。

A型の幽霊とB型のお化け  黒田忠昭

この二人には、実は乱以前からの深い縁がある。

学才を政治に活かそうと志す二人は、

身分の違いを超えて、

学問上の交わりを持った仲であった。

直球を投げ合う友がいてくれる  山田葉子

康治2年(1143)、不遇をかこっていた信西が、

出家しようとしているとの噂を聞いた頼長は、

信西に同情と嘆きの手紙を送った。

これに対し頼長の家を訪れた信西は、

「どうかあなただけは、学問を捨ててくださるな」

と頼長に告げ、これに頼長は、

「あなたのおっしゃったことは、決して忘れません」

と泣いて誓ったのである。(頼長台記)

全能の神東西にひとりづつ  筒井祥文

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それから、13年の歳月を経て、

二人は敵味方に分かれて、対決することとなった。

7月10日の夜に、両軍が集結し、

いよいよ合戦という段になって、

二人は武士から、同じ作戦を提案された。

「夜が明けるのを待たず、

 今夜のうちに敵に夜討ちを仕掛けよう」


というのだ。

落とし穴の中から聞こえてくる鼾  笠嶋恵美子

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【豆辞典】 

その作戦を、信西に提案したのは源義朝、

頼長に提案したのは、源為義である。(愚管抄)

いっぽう、保元物語」では、提案者は為義ではなく、

為義の八男・「鎮西八郎」こと、為朝とされている。

為朝は頼長に、直接発言できるような身分ではなく、

意見の出所が、為朝であったとも考えられるが、

"愚管抄と保元物語" の信用性を比較した場合、

為義提案に軍配があがる。

シシャモからうるめいわしへメールあり  井上一筒

両軍で「夜討ちの策」が、

河内源氏の武士から出されたのは、

決して偶然ではない。

平将門の乱以来、東国は、

日々起こる小規模な衝突も含めれば、

数え切れぬほど多くの戦いが、

繰り広げられてきた激戦の地であり、

そこを活動の中心として、

戦ってきたのが河内源氏であった。

今日もまた命を少し使います  吉川 幸

生きるか死ぬかの、厳しい戦いの中では、

夜討ちのように、

相手の隙をつくような戦法をとるのも当然だし、

むしろそうでなければ、生き残れない。

義朝は為朝を知り、為朝は義朝を熟知していた

戦上手の双方、敵を破るには、

「先手必勝しかない」 と献策した。

無理強いをすれば午後から土砂降りに  桑原伸吉

ところが、同じ作戦の提案を受けた二人の反応は、

正反対のものになった。

信西は献策を採用して、軍勢に夜討ちを命じ、

頼長はこれを退けたのである。

乗り換えのホームで助詞がまた迷う  原 洋志

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頼長の言い分は、

「私的な合戦ならともかく、

  国をかけた戦いに、夜討ちなどふさわしくない。

  明日には、興福寺の悪僧が到着するので、

  それを待って勝敗を決しよう」


というものだ。

いつも弱気を滲ませているかすみ草  たむらあきこ

戦いは11日、寅刻に始まり、

内裏方は義朝の策によって、

一気に新院方へと攻め込んできたのである。

義朝の二百騎、清盛の三百騎、源義康の百騎余り、

第一陣として賀茂川を越え、

新院方が拠点としていた白河殿へと襲いかかった。

精米機に挽かれるヒアルロン酸  山田ゆみ葉

払暁の奇襲を受けた新院方は、

大いに慌てふためいたが、

その中で、西河原表門を守っていた為朝と、

その手勢だけは、油断なく構えており、

一歩も退かぬ戦いぶりをみせた。

あとのない矢の一本と対峙する  百々寿子

ここへ攻め寄せたのが、清盛の率いる平家勢だった。

押し寄せる武者たちに向かって、

為朝の矢が次々と放たれた。

その強弓は有名で、

胸板を射抜かれて倒れる者が相次ぐと、

平家勢もたじたじとなって、進撃の足も鈍った。

このとき、「敵は無勢ぞ、進め!」

と声を嗄らす嫡男・重盛

武将たちを制した清盛は、

「この門一つ攻め落とさずも戦は勝てる。

 敵は謀叛の輩ぞ、大義はわれらにある」


と叫んで手勢をまとめた。

いちばん大きな声を出したなは痛み止め  小林満寿夫

為義も、門から討って出ることはかなわず、

ほどなく、白河殿から煙が上がったことで、

戦勢は一気に決した。

義朝の手勢が火をかけたのだ。

火が白河北殿に燃え移ると、

崇徳上皇と藤原頼長は逐電し、

上皇側の兵も逃走。

新院方は、あっという間に総崩れとなり、

戦いは4時間で決着した。

根こそぎの痕に埋めとく軽い罪  山本昌乃

敗れた者たちの末路は悲惨なものだった。

崇徳は捕らわれ、讃岐へ流罪となった。

頼長は深手を負い、逃げ切れずに野垂れ死にした。

忠実は、79歳という高齢のため、

知足院に押し込めとなったが、

さらに哀れをとどめたのは、武者たちだ。

源為義平忠正など、主だった者たちに対して、

信西は、謀叛の罪で斬首の刑を命じたのである。

道幅を少し広げて踏みはずす  佐藤正昭

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きまぐれに開けるときしむお仏壇  新家完司

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    保元合戦図屏風

11日未明、清盛、義朝、義康の兵六百騎は、

内裏・高松殿を出陣し、白河北殿へ押し寄せた。

天皇方は
義朝の弟で強弓を誇る

鎮西八郎為朝の攻撃に苦しめられたが、

義朝が白河殿に火をかけると、崇徳方は浮足立ち、

合戦はわずか、4時間で天皇方の勝利に終わった。


                    (画像は拡大して見れます)

わたくしの代わりに轢かれたのは杖  山田ゆみ葉

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「清盛参着の衝撃」

「さて、どうしたものか」

と思案に暮れたのは清盛である。

父・忠盛が亡くなり、平家一門の頭領となって3年半、

39歳の男盛り。

この騒乱をどう乗り切るかは、

己のこれからの人生だけでなく、

一門の人々の命運がかかっていた。

一天地六に神様は手を貸さず  ふじのひろし

戦になるからには、

勝つ方につかなければならない。

が、何しろ初めてのことだ。

しかも、

『この戦はどうやら武力と武力の衝突、

というものだけではなさそうだ』


摂関家の分裂を見ても、政治闘争という色合いが濃い。

新院方、内裏方の双方から招集のかかる中で、

清盛は、しきりと思案を凝らした。

白を一枚クレパスは十二色  さて  北原照子

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人々も清盛の動向を注目していた。

亡き父・忠盛が、重仁の後見役だったこともあり、

「新院方につくのではないか」

という見方が多い。

だが、上皇や摂関家に恩義があるから新院方へとか、

愛人がいるから内裏方へとか、

そうしたことで、決めるべき問題ではないだろう。

曇りなら曇りにあった眠り方  吉澤久良

どちらが優勢なのかはわからないが、

この動乱は、

『兵馬の多寡だけで、勝敗が決まるものでもなさそうだ』

考えるべきは「大義」ではないか。

強いほうが勝つのではなく、

「大義を掲げたほうが勝つ」

そういう戦になるだろう、と清盛は思った。

前向きに生きれば風も味方する  嶋澤喜八郎

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では、新院方に体技はあるか。

市中では、「新院ご謀叛!」と叫んでいる。

天皇に反逆しようとしている、というのだが、

この当時の天皇は、

後世のような絶対的な存在ではなかった。

しかも、その天皇の座にいるのは、

「あの放蕩三昧の・・・・・」

と陰口を叩かれてきた後白河である。

「謀叛」、という言葉にも重みはなく、

「崇徳が反旗を翻すのも当然だ」

と受け止める向きも多かったのだ。

二極モーター歌舞伎役者と同じ声  くんじろう

しかし、世の中の仕組みの頂点にいるべきものが、

天皇という存在ではないのか。

「泰平」を維持するために、

そういう仕組みを守り立てていくことこそが、

『大義』だろう。

後白河がどんな陰口を叩かれようとも、

彼が天皇なのだ。

「内裏方につく!」  

清盛が一門にそう告げ、三百騎を率いて内裏方に

駆けつけたのは、7月10日のことだった。

舌打ちを三回粉吹き芋になる  岩根彰子

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武家の中では、最も遅い参着だった、が、

それだけにインパクトは大きかった。

「清盛が味方についた」

というので内裏方は、大いに気勢が上がったし、

新院方の衝撃は大きかった。

柱一本立てると勢いが付いた  神野節子

こうして、鳥羽の死後わずか8日にして、

「保元の乱」の幕は上がった。

内裏方にはおよそ一千騎、

対する、新院方にも五百騎余りの武者が集結し、

賀茂川を挟んだ形で睨み合った。

双方の陣営の間を、物見の武者が盛んに駆け回り、

市中は、家財道具を積んだ荷車を引いて、

右往左往する者たちで、混乱をきわめた。

富士山が噴火するので逃げなさい   井上一筒

拍手[3回]

芒野とねずみの肝とアンチモン  井上一筒

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  悪源太義平

源氏の棟梁・源義朝の長男。

15歳のとき義平は、大蔵合戦で武名をあげ、


「鎌倉悪源太」と呼ばれるようになる

(クリックすると画面は大きくなります)

「大蔵合戦」

久寿2年(1155年)、義平は父・義朝が叔父・義賢と対立した際に、

義賢の居館・武蔵国の「大蔵館」を急襲し、

義賢や義賢の舅・
秩父重隆を討ちとった事件。

このとき、2歳だった源義賢の子・
駒王丸は、斎藤実盛の計らいで、

信濃国の中原兼遠のもとに逃がれた。

この駒王丸が、後の
木曾義仲である。

義仲は命の恩人である実盛と、「大蔵合戦」から28年後の、

「篠原の戦い」において首実検の場で、

悲劇的な対面(再会)をしている。

首筋に歯型くっきり虫しぐれ  増田えんじぇる

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「主流派対反主流派」

保元元年(1156)7月2日、鳥羽院が崩御した。

鳥羽院の遺志を継いだ美福門院は、

後白河天皇守仁親王・関白・藤原忠通を中心に、

鳥羽院旧臣や後白河天皇近臣を束ねて、

派閥の解体を防ぐ一方で、

鳥羽院・美福門院の意向を受けた武家・

平清盛・源義朝・足利義康・源頼政・源重成・

平実俊・関信兼、
などに参集を命じた。

ひとりづつ味方につけていく粘り  立蔵信子

一方、反主流派は、

崇徳天皇・左大臣・藤原頼長を中心に、

彼らの側近や摂関家に仕える、

源為義平忠正、大和源氏の宇野親治といった、

京の武者や、為義が呼び寄せた家人に限られていた。

河内源氏には、為義が頼賢を嫡子に選んだことで、

長子義朝とのあいだに軋轢があり、

鳥羽院は、そこにつけ込んで、

義朝を、院政派(主流派)に引き入れた。

擬態して別の世界で生きてみる  三村一子

両者の衝突は、久寿2年に大蔵館にいた源義賢を、

悪源太義平が急襲して討ち取った、

「大蔵合戦」となってあらわれた。

南関東を勢力圏に収めつつあった義朝の離反は、

大きな痛手であった。

最初から知っていたんだこの痛さ  安土理恵

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平忠盛の後家・池禅尼は、

崇徳院の乳母であったが、

美福門院の勝利を確信し、息子・頼盛に対して、

「清盛とともに天皇方に参ずるよう」 命じた。

家族同様の乳母子にまで離反された崇徳上皇は、

予想外の事態に驚き、

白河北殿に移って、武士を参集させようとしたが、

美福門院はいち早く、

検非違使を京の入口に派遣して、道を封鎖した。

思ったとおり怒ってる泣いている  奥山晴生

7月6日、宇野親冶の子は、

白河北殿に向かおうとしたが、

法住寺付近で平基盛と合戦となり、討ち取られた。

美福門院の手際のよさは、

鳥羽院が最期を意識し始めたころから、

崇徳上皇一派を、武力で制圧する、

意図を持っていたと思われる。

正面の顔がやっぱり阿修羅像  小林満寿夫

7月10日、両派の軍勢は鴨川を挟んで対峙した。

一触即発の情勢に、京の町に緊張が走る。

上皇側は白河北殿、天皇側は高松殿を拠点とした。

そして、7月11日未明に合戦は始まった。

青空へバケツ一杯汲みに行く  和田洋子

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美福門院は、藤原信西源義朝が、

先制攻撃を主張したので、

御所の警固は、官人に委せ、

武家は、新院御所攻撃に向かわせた。

合戦にいたる政治的な駆け引きは、

鳥羽院の遺志を継いだ美福門院が主導してきたが、

いざ合戦になると、

後白河天皇の乳母夫・藤原信西の手に移っていった。

丁寧に畳まれている蚊帳の外  笠嶋恵美子

崇徳院側では源為義が、

「白河北殿を守り切れないことはないが、

  万一の時には南都に移り、

  源家の家人を集めて、京に攻め込むのがよい」


と主張した。

この会議が続いてるところで、

物見に出していた武者所の官人から、

敵が動いたと報告が入った。

空き缶がころげ出てくる左耳  岩田多佳子

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平家の微妙な立場を反映して、

鳥羽院の容態が悪化したとき、

御所を守るために召集された武士の中に、

清盛の姿はなかった。

鳥羽の恩顧に報いるか、

崇徳との縁故を優先するのか、

自身の決断が、一門の運命を左右するということを、

清盛自身は痛切に感じていた。

断捨離とニアミスをした薬指  和田洋子

もともと後白河天皇は、皇子の二条が即位するまでの、

「中継ぎ」として擁立された。

ただし、中継ぎとはいえ、天皇である以上、

朝廷の頂点に君臨する絶対的な権威、

であることにかわりはない。

後白河の兄である崇徳に院政を行なう資格はなく、

崇徳方につくことは『賊軍』への転落を意味する。

風の要素たるべく不定愁訴  山口ろっぱ

清盛は悩み抜いた。

そして、清盛が結論を出したのは、

鳥羽の死から三日後の、7月5日だった。

京随一の勢力を誇る清盛が、

どちら側につくか、その戦力の差をもって、

戦いの帰趨は、始まる前から、決していた。

足首を19センチ開放す  小嶋くまひこ

拍手[5回]

シュレッダーの刃に横顔がひっかかる  くんじろう

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「観音霊験記 西国巡礼十五番・山城京今熊野  後白河」

(画面をクリックすると画面が大きくなります)

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「建春門院(平滋子)」


滋子(しげこ)は、堂上平氏・平時信の娘。

清盛の妻・時子時忠とは、異母兄弟である。

もとは後白河院の姉・上西門院統子に仕える女房で、

小弁と呼ばれていた。

その関係から後白河院の寵愛をうけ、

応保元年(1161)憲仁親王
高倉天皇)を産んでいる。

(余談だが、のちに時子の娘・徳子が高倉天皇に入内している。

  いわゆる、いとこ同士の婚姻が行なわれたことになる)


真珠から神が検出されました  湊 圭史

仁安3年(1168)高倉天皇の即位により、

皇太后に冊立、

嘉応元年(1169)に院号宣下を受け、

女院になっていた。

清盛と同じ平氏とはいっても、

時子滋子が属した平氏(堂上)は、

武士ではなく、代々摂関家の家司を務める公卿で、

故実に通じた貴族であった。

言の葉にうっすら紅を載せてみる  合田瑠美子

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後白河院は、生涯で34回も熊野参詣に行っているが、

建春門院も、それに何度か同道している。

また福原における千僧供養にも、

後白河院は、建春門院を伴っており、

非常に寵愛していたことがわかる。

いつも唯笑って君の傍にいる  森吉留里恵      

建春門院については、

藤原定家の姉・健寿御前が記した『たまきはる』に、

何事にも几帳面で、

周囲への細やかな気配りを欠かさないなど、

その聡明な人柄が記されている。

また、建春門院のもとに初めて出仕し、

対面を果たした健寿御前は、

「この世の中には、こんなに美しい人がいるのかと思った」

と記している。

≪また、建春門院は、後白河院が熊野詣でなどで不在のときに、

    政務運営に参加していた・・・と推測される≫


声をかけられずに横顔を見つめ  杉本克子

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「たまきはる」にも、建春門院が、

「政治において思いのままにならないことは何もなかった」

と記されている。

建春門院が、このような人物であったからこそ、

政治的に対立を深めつつあった清盛と、

後白河との間に立って、両者を仲介する、

役割を果すことができたのであろう。

清盛にとって建春門院は、

後白河院との関係維持のため、

欠かすことのできない、貴重な存在であった。

コーナーキックからお茶室に移る  井上一筒

建春門院が両者の間に立って、

政治的に仲介する役割を果たしていたため、

なんとか、協調関係は維持されていた。

そんな中、安元2年(1176)6月初旬頃から、

建春門院の体調不安が伝えられ、

7月8日、種々の祈祷もむなしく法住寺において没し、

2日後、蓮華王院の東の法華三昧堂に葬られる。

(そのわずか1年後に鹿ヶ谷事件が起こる)

※  蓮華王院=京都し東山区にあった法住寺殿の一院として、

   後鳥羽法皇が造営。俗称ー
三十三間堂。

真下から真近で説教白い骨  岩根彰子

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     本 宮
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     新 宮
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     那 智


「熊野詣」

紀伊国の熊野本宮・新宮・那智の三社(熊野三山)への参詣。

極楽往生を願う人々の信仰を集め、

全盛期の院政期~鎌倉初期には、

後白河34回、後鳥羽30回など、

頻繁な御幸があった。

従者も千人に及び、沿道の農民の負担は大きかった。


京都からの道筋の随所に熊野王子が祀られ、

100を超えて超えていたという。


わが首とゆかりの寺の花の首  森中惠美子


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「藤原頼長の命運」

院政の続く天皇家の内部抗争と、

時を同じくして、

藤原摂関家でも、家督争いが起きていた。

藤原忠実は、長男の忠通より、

次男の頼長の方を寵愛し、

一度は忠通に家督を継がせて、

近衛天皇在任中に忠通が関白を務めるが、

事ある毎に引退をすすめる。

しかし、忠通は拒否し続け、

とうとう忠実は忠通を勘当して、頼長を内覧にしてしまう。

≪関白の忠通とは別に、内覧もいるという奇妙な事態が発生する≫
        
氷点下28度のおうどいろ  蟹口和枝

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一方頼長は、せっかくの地位まで昇りながら、

鳥羽上皇の寵臣と喧嘩し、

乱闘騒ぎを起こして、

鳥羽天皇の信頼を失ってしまう。

更に、仁平5年(1155)近衛の後継者をめぐっては、

兄の忠通が推薦した後白河天皇が即位してしまう。

ときに後白河 二十九歳。

順番にボタンを押して涙橋  森 茂俊

そして、その年の暮、頼長が拠り所としていた、

妹で鳥羽上皇妃の高陽院・泰子が死去してまう。

更に、近衛天皇が死んだのは、

「忠実・頼長親子が呪詛を掛けたからだ」

という噂が流布する。

頼長の命運はまさに、尽きようとしていた・・・。

あとはもう最終改札口ひとり  片岡加代

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かさぶたの下仄かに煮えることがある  たむらあきこ

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    保元合戦図屏風

画面左に「白河北殿」、右側に攻め寄せる「源義朝軍」を描く。

右面・後方でひときわ立派な黒馬に乗り、戦況を見守るのが
義朝

門脇では、弟の
為朝が強弓を引いて応戦する。

門内で騎馬の一団を率いるのは、二人の父親・
為義である。

殿内には、不安そうに戦況を見守る公卿が描かれている。

左上・高欄から身を乗り出しているのは、
藤原頼長だろうか。

(画面上でクリックすると画像が大きくなります)

おいでおいでと四面体のキツネ  山口ろっぱ

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「開戦秒読み」

藤原家親子の葛藤が、火に油を注いだ形で、

人々は、「新院方」「鳥羽方」に競って参集しはじめ、

そうした異様な雰囲気が、盛り上がるなかで、

鳥羽の死が、伝えられたのだった。

何色に咲くのか知らぬ種をまく  杉本克子

その夜から、早くも、「新院謀叛!」

という噂が市中を駆けめぐった。

新院方(崇徳方)では、

不穏な情勢下での警護の強化という名目で、

武家に召集をかけ、

柳ノ水の御所には、源氏、平家の武将たちが、

続々と集まり始めていた。

市中を駆ける兵馬は、

いっそう、人々の不安と興奮を煽った。


右向け右の列の怖さを忘れない  森 廣子

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一方、鳥羽の亡骸を守る側は、後白河がいることから、

「内裏方」(鳥羽・美福門院方)と呼ばれ、

得子と入道・信西、忠通らが、新院方の動きに呼応して、

こちらも武家に召集をかけ始めた。

信西は鳥羽の第一の寵臣と、誰もが認めてきた人物で、


下級の公家では、

「うだつが上がらない」 と出家して、

院政体制に食い込んできた辣腕の政治家だった。


眼の奥に消えないものが咲いている  ふじのひろし

当時の武家は、公家階級に比べると、

格段にその地位が低かった。

内裏や御所の警備にあたり、

地方の反乱鎮圧に向かう、

武力行使の専門集団という程度の、存在でしかなく、


摂関政治のころは、

指令を発する藤原氏を主筋と仰いできた。


粘るとはこうして今日も生きること  河村啓子

だが、院政時代になって、

少しづつ意識も変わりはじめ、

しだいに"自我"が芽生えてきた時期にあたる。

こうした情勢下で、摂関家が親子二つに割れ、

鳥羽の死とともに、

それぞれが、武家に召集をかけ始めたのである。

そこのけそこのけと直線を通す  高島啓子


新院方には、源氏の頭領・為義頼賢(よりかた)

頼仲、為朝など、息子たちを引き連れて参集した。

平家からも、清盛の叔父の忠正

一族の長盛、康弘などの武将が、

手勢を率いて駆けつけた。


てのひらの感情線を握りしめ  谷口 義

一方の内裏方には、為義の嫡男・義朝が駆けつけた。

愛人の常盤が、亡き近衛帝の中宮に仕えていたためで、

源氏一党の落胆は大きかった。

が、為義は源氏嫡流に代々伝わる鎧を届けて、

別れを告げた。


さよならさよなら流れて行くのだね  安土理恵

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60余年前に白河が院政を始めるまでは、

長いこと、摂関政治が行なわれてきた。

つまり、摂政・関白を出す藤原家が、

天皇を補佐するという名目で、政権を握ってきたわけで、

それを天皇家に取り戻そうというのが、

白河が院政を始めた理由だった。


忠実頼長には、新院方について、

重仁とともに、再び

「摂関政治を復活させたい」 という思惑もあった。


どぶ板の含み笑いを聞き流す  井上一筒

拍手[3回]



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