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川柳的逍遥 人の世の一家言
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玉葱の皮が包んでいる虚実  たむらあきこ

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                  平忠盛と祇園女御

「古川柳とともにー平忠盛編」

頭痛くらいにたいそうな御建立

平忠盛清盛の父。

忠盛は「伊勢平氏」の出身で、

平家の中でも " 田舎伊勢武者 " と蔑まれ、

出世など望むべくもなかったが、

鳥羽天皇が頭痛で苦しみ、その平癒祈願の寺を建てるとき、

たまたま現場監督をして、手腕を見せたことが、

出世の糸口になった  

≪その御頭痛の平癒が寺の号となり

   寺は国宝になっている京都の三十三間堂。

     俗称・頭痛山平癒寺という≫

  

殿上の闇に明るい太刀を抜き

忠盛は立派な寺を工期通り建てたので、

鳥羽天皇の覚えよろしくトントン拍子に出世。

妬ましく思う公家たちは、

忠盛が豊明節会の夜に参内したところを、

暗殺しようと企てた。

それを察知した忠盛は、

節会の座からスーと抜け出し、

≪暗がりで、
太刀をわざと月光に反射させ、

  いかにも切れ味を試すかのように、頬にあてた≫ 

銀箔で明かりをたてる闇の太刀

 

物陰に潜んでそれを見ていた公家たちは、

その示威行為に怖れをなし、襲うことができなかった。

そこで今度は、公家たちは天皇に、

殿中で刀を抜いたことの処分を求めた。 

≪宮中の武器庫に預けて、退出した忠盛の刀を、

    係官が調べたところ、それは” 銀箔を貼った竹光 "だった≫

 

忠盛は竹光をさす元祖也

これでは処分はできない。

天皇は忠盛のこの機転と知恵に感心したという。 

宮中に忠盛月を捨てて行き  

 

忠盛、鳥羽上皇に仕えている女官と親しくなり、

ある夜、その女官の部屋に泊まり、

翌朝、部屋に月の絵を描いた扇を忘れて帰った。

それを見つけた同僚の女官たちが、 

「お楽しみが深くお疲れ遊ばされ、おつむも朦朧としていたのね」

 

と忠盛の彼女をさんざんからうと、 忠盛のただ

" 雲井よりただもり来る月なれば おぼろげにて云うわじと思う "

 

「雲の合間から盛月が降りて来たようだけれど、

 不確かだから云わないでおきましょう。皆さんもそうしておいてくださいな」


と何とも味な歌で返した忠盛の彼女。

 

忠盛は土産をつけて拝領し

ある褒美に忠盛は鳥羽上皇から、

上皇の愛妾の祇園女御をもらい受けた。

≪女御の腹にはすでに、上皇の子が宿っていた≫

食いかけの芋を忠盛へ下さるる

芋は「妹」にかかり愛人や妻のこと。

上皇の条件がひとつあり、

「女ならワシの子、男なら君の子 

≪生まれたのが、男の子・清盛であった≫

 

忠盛は手っこに追えぬ子をもらい

衆知の通り、清盛は手に追えない乱暴ものだが、

ルーツを思えば、

大物になる条件をも合わせ持っていた。

包めども鳥羽院の落し胤

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『平忠盛』

父・正盛の地盤を継承し、

白河・鳥羽両院政を経済力と武力の両面から支えた。

受領を歴任して、富を蓄積するとともに、

「受領や海賊追討使」の地位を利用して、

西国の武士や海賊を家人に組織した。

また「日宋貿易」にも関与し、長承元年(1132)

武士で初めて、内昇殿許される。

趣味は和歌で、多くの歌会・歌合に参加している。  

内裏への昇殿を望み・・・次の歌を詠んだ。

  

” うれしとも なかなかなれば いはし水 神ぞしるらん 思ふ心は "

【嬉しいなどと申すのも中途半端なようなので、申し上げまい。

  石清水の神は、言葉に言わずとも 心の内を分かってくださるだろう】

つま先は今夜 踵は明後日  井上一筒

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[川柳瓦版 誌上競詠・『咲くやこの花賞』 のお知らせ]

皆様へ、「誌上競詠」へのご参加を心よりお待ちしております。

      内容は下記の通り、ハガキにて投句してください。

2月のお題 「始まる」 選者 森中惠美子

3月のお題  「食」     選者 井上一筒

4月のお題  「衣」    選者 赤松ますみ

参加料/1年間ー(24年2月~25年1月) 2000円 (切手可)

                          (同人、誌友は 1000円)
締切   毎月20日

表彰 毎年3月句会で発表。(一位に優勝杯 二位~十位に瓦版特製記念品贈呈)

投句先 (572-0844) 
        寝屋川区太秦緑が丘11-8    川柳瓦版の会宛
 

拍手[3回]

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微生物だらけ砂漠は生きていた  小林満寿夫

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白河上皇が眠る成菩提院陵(じょうぼだいいんのみささぎ)

     (71) 後三条天皇―(72) 白河天皇 ― (73) 堀河天皇― (74) 鳥羽天皇―

  (75) 崇徳天皇―(76) 近衛天皇―(77) 後白河天皇―(78) 二条天皇  

  ※ ≪中大兄皇子=38代・天智天皇 天智天皇7年(668-672)≫
     
「院政のしくみ」

「院政」とは、

天皇の実父(上皇)・父方の祖父(法皇)が実権を掌握し、

国を統治する政治形態をいう。

普通は8歳の息子・善仁親王(堀河天皇)に譲位した、

白河上皇が、
院庁を開設した応徳3年(1086)を、

院政のはじまりと考えられている。

ただし、院政への足がかりをつくったのは、

白河上皇の父・後三条天皇である。 

透析は中大兄皇子から  井上一筒

 

後三条天皇は、

中宮(妻)が藤原摂関家の出身ではなかったので、

藤原氏に遠慮する必要はなかった。

加えて、彼は即位したとき、すでに35歳と壮年だったため、

みずから実権をとって、政治改革を行えたのである。

その後、後三条天皇は在位4年で、息子の白河天皇へと譲位。

上皇として自由な立場で政治を行なう、

つまり、「院政を始めるつもり」 だったようだ、

が、翌年病没してしまう。 

決別のほうへいざなう鎌の月  たむらあきこ

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  白河天皇

 

その遺言には、

次期後継者だけでなく、その次の後継者まで定めてあった。

56代・清和天皇以来、

約200年も続いた藤原摂関家の政治支配から、

実権を取り戻すことが、

後三条上皇の悲願だったのである。 

止まるとき少しあばれる脱水機  高島啓子

 

白河上皇は、堀河・鳥羽・崇徳の3天皇の間、

43年にわたり、「治天の君」 と呼ばれ政界に君臨した。

※ 「治天の君」=天下を統治する君主をいう。

例えば、上皇は、以前のルールを無視して、

勝手に人事を行なったり、

寺の落成式が雨で3度中止になったのに腹を立て、

雨水を器に入れ獄につないだりと、

かなりの横暴ぶりを見せている。 

「思い通りにならぬのは、賀茂川の水、双六のサイ、僧兵だけ」

 

と豪語した「天下三不如意」は有名である。 

言わないでおこうと思うでもしかし  山口美千代

 

蛇足=僧兵とは、

寺院が自衛のため組織した武装僧侶のことで、

そのほとんどは腕自慢の農民が頭を丸めただけの人間で、

僧侶の国家試験に合格した人物は少なく、

お経を読めるものも稀だった。

ひらがながくねり鍵穴すり抜ける  谷垣郁郎

強力な「親衛隊」を持っていた白河院政の中枢機関は、

「院庁」である。

院庁は院(上皇の御所)に設置された私的機関だが、

ここから出される命令(院宣)には、絶大な効力があり、

朝廷はこれに逆らえなかった。 

待って従ってと波のペースに追いすがる  山田ゆみ葉

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上皇の力がこのように強大になったのは、

直属の武力を有していたことが大きく関係する。

それは、「北面の武士」と称する、

武芸の達人を集めてつくった親衛隊である。 

※ 北面の武士=院の北側に置いて警備などを行なったことから。

 

当時の武士の活躍は、貴族にとって驚くべきことだった。 

かごめかごめ破壊光線発射せよ  蟹口和枝

 

当時、貴族は例外なく仏教信者であった。

だから、無理な要求をかかげて入洛してくる僧兵には、

仏罰を恐れて手出しができなかった。

ところが武士たちは、平然と僧兵を討ち殺したのである。

非情に勇ましく、頼りがいのある輩だった。

つまり、上皇に子飼の武士がいるということが、

そのまま、院庁の権威を増大させる要因になっていた。 

責任をもってわたしが壊します  竹内ゆみこ

 

院政は、白河・鳥羽・後白河上皇と、

「3代・約100年」にわたって続く。

圧倒的な権力を有する白河上皇が存命中は、

鳥羽天皇も、文句を言うことが出来なかったが、

43年にも及ぶ「白河上皇の院政」が終焉すると、

鳥羽上皇の白河上皇に対する『暗い憎悪の情念』は、

第75代・崇徳天皇に向けられることとなる。 

間近では見えぬ仮面を売りさばく  前中知栄

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鳥羽上皇は、まず崇徳天皇の、

母が中宮・璋子であることから、

白河上皇が厚遇した璋子と崇徳天皇を遠ざけはじめる。

すでに鳥羽上皇の気持ちは、

上皇の寵愛を完全に失っていた璋子よりも

14歳も若い得子(美福門院)へと向いていた。

そして、得子との間に出来た子を崇徳天皇に代えて、

わずか2歳の体仁親王(なりひと)を第76代・近衛天皇として、

即位させたのである。

≪しかし、近衛天皇は17歳で夭折する≫

おなじ痛みで悪を貫くこともある  前田芙巳代

その後、藤原家のごたごたと相まって、

鳥羽上皇の四男・雅仁親王(まさひとしんのう)が、

第77代・後白河天皇として即位する。

後白河天皇は、

やはり鳥羽上皇が嫌っていた璋子の子なので、

あまり後白河天皇を推薦してはいなかったが、

近衛天皇の失敗と、時の流れに押されて、

認証せざるを得なかった。 

酔っ払った骨だから誤差を始める  山口ろっぱ

 

『崇徳上皇と後白河天皇の対立』は、

自分の愛人である璋子を、

鳥羽天皇に嫁がせた「白河上皇の暴挙」にはじまり、

その対立が、藤原摂関家の

『藤原忠通と藤原頼長の対立』につながり、、

保元元年(1156)の「保元の乱」へと結びついていくのである。

三角の波にまつわる正気と狂気  小嶋くまひこ

『白河上皇への怨み』 によって、

崇徳上皇に「酷薄な対応」を取り続けた鳥羽上皇は、 

『私が死ねば乱世になるだろう』

 

と不吉な予言をしたとも言われる。

正にこの予言が的中し、「保元の乱・平治の乱」へ、  

すべては白河上皇の死(76歳)にはじまる乱世を導く。

  

≪ちなみに、78代・二条天皇、80代高倉天皇は後白河天皇の子≫

うっかりと弔辞に拍手してしまう  安井小夜

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「お知らせ」

川柳瓦版では、誌上競詠・「咲くやこの花賞」を行っております。

これは毎年2月20日を〆とし、

翌年1月20日〆分までの12回を競うもので、

結社を越えて、皆様の参加をお待ちしております。

     
 
入選句(43句)は、翌々月の瓦版誌上で発表いたします。

投句方法 ハガキにて二句記載。

          (初回は投句料とともに封書でお願いします
     )(。)

 投句料  1年分2000円 (同人、誌友1000円)切手可 〔掲載誌料を含む〕


「平成24年度 第一回のお題」

    「始まる」  選者 森中惠美子 (2月20日締切)

投句先  572-0844
                 寝屋川市太秦緑ヶ丘11-8  川柳瓦版の会

    

拍手[3回]

男の罪を風の罪だと思わねば  森中惠美子

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             清盛ゆかりのご神水

≪若一神社境内にある清盛ゆかりの御神水。

  開運出世の水と伝えられている≫

「清盛の名前の由来」

清盛の出生をめぐるエピソードがもう一つある。

同じく「平家物語の祇園女御」にある逸話だ。

女御忠盛に嫁ぐ際、白河忠盛に、 

「生まれてくる子が女子ならば私の子にしよう。

  男子ならば忠盛の子にして武士として育てよ」

 

といったところ、果たして生まれたのは男子であった。

忠盛はすぐこのことを白河院に報告しようと思ったが、

適当な機会がなかった。

はっとする間もなく固体になっていた  阪本きりり

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さすがに、白河院の皇子の話であり、

他人の前で、あけすけに語るわけにはいかなかったのだろう。

そのうち、白河院が熊野詣に赴くことになり、

忠盛も従った。

御幸の途中、忠盛は赤ん坊の様子を伝えようと、

白河院が休憩しているところへ参上した。

見ると道端の藪の中に、小さな山芋がたくさん生えている。

忠盛はこれを袖に入れて院の御前へまいり、

和歌に託して、 

「いもが子は はふ程にこそ なりにけれ」
 
と詠んだ。 

新任の巫女は万葉語を話す  井上一筒

 

生まれてきた皇子(清盛)をやまいもの子にかけて、 

「赤ん坊がハイハイするくらい大きくなった」

 

ということを表現したのである。

白河はすぐ気づいて、 

「たゞもりとりて やしなひにせよ」
 
『そのまま盛り採って栄養にせよ』

と告げた。 

手拍子を貼って完成させる紙  井上しのぶ

 

忠盛がそのまま引き取って、養育するよう命じたもので、

「忠盛」「ただ盛り採る」をかけてある。

駄洒落の応酬のようだが、

これで会話が成立するのだから優雅なものである。

神様遊戯ツリブネ草咲いた  くんじろう

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「清く盛ふる」

その後も、白河院はそれとはなく,

皇子のことを気にかけていたが、

あるとき皇子があまりに夜泣きが厳しいと聞いて、

次の歌を忠盛に贈った。

「夜なきすと  たゞもりたてよ  末の世に

  きよくさかふる  こともこそあれ」

『その子が夜泣きをしても大事に育ててくれ、忠盛よ。

  将来、平家を繁栄させてくれることも あるかもしれないのだから』

団子鼻ゆいしょ正しいあんたの子  富田美義

そして、この歌の下の句にある、

『きよくさかふる(清く盛ふる)』から「清盛」と名づけられたという。

もとより物語の創作であろうが、よくできた話ではある。

母に先立たれたとはいえ、

白河院や祇園女御など、時の有力者の庇護を受け、

恵まれた環境の中で、

幼年期を過ごしたのである。

沖ははるかうねりは重いものと知る  小嶋くまひこ

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破戒系そのまま蛸になるだろう  岩根彰子

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   「殿上闇討」事件

≪武装して庭に控えているのが平家貞

    殿上で太刀を抜いているのが平忠盛

    家貞は忠盛・清盛の二代に仕えた。 (平家物語絵巻第一巻)≫

「殿上闇討」

長承元年(1132)11月、

念願の殿上人となった忠盛に、

反感をもつ貴族たちが相談して、

来るべき「豊明の節会」の際に、

忠盛を” 闇討ち ” にしようと企んだ。

それを知った忠盛は、懐に忍ばせた刀を抜き、

襲撃者の度肝を抜く。

後日、貴族たちは手出しができなかった腹いせに、

忠盛が宮中に刀を持参したことを鳥羽院に告げるが、

それは、木刀に銀箔を張っただけのものだったため、

上皇は忠盛の機転を大いにほめたという。 

* 豊明(とよのあかり)の節会=新嘗祭の最終日に行われる宴会。

 

赤ペンのインクが洩れる雑木林  湊 圭司

「闇討ち」などというと、暗殺を想像してしまうが、

そのような物騒なものではなく、

せいぜい乱暴狼藉を働く程度のことであったのだろう。

殺人を生業とする武士の、

しかもその棟梁に暴力を振るおうというのだから、

見上げたものだが、

その程度の嫌がらせしかできないところに、

「斜陽の貴族階級」「新興勢力である武士」の、

違いを見ることができる。

さるすべり赤い爪跡ふえている  安土理恵

もっとも、肩すかしをくらわされた貴族たちは、

直後の宴席で、さらに卑劣な嫌がらせを試みる。

天皇の命により、

忠盛が得意の舞を披露していたところ、

伴奏していた貴族たちが、急に拍子を変えたかと思うと、 

「伊勢平氏はすがめなりけり」

 

とはやし立てたのである  

紫を脇に抱えているいけず  山本早苗

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忠盛銀箔の木刀

  

伊勢平氏の忠盛が " 斜視(すがめ) " であったのを、

「伊勢産の瓶子(へいし)が粗悪で、

酢を入れる酢甕(すがめ)にしか使えないこと」 

にかけて、
このようにからかったのだ。

公衆の面前で恥をかかされ、怒りに震える忠盛であったが、

宮中の酒席ではいかんともしがたく、

悔しさを押し殺しながら、早々に退出しるしかなかった。

正解硫酸銅の青の中  井上一筒

この「殿上の事件」を清盛が知っていたのかどうか?

は分からないが、何らかの形で、

耳にする機会もあったのではないだろうか。

こうした屈辱に耐えなければならなかったのは、

忠盛だけではなかった。 

≪清盛が「鼻平太」のあだ名で呼ばれたというのは、

    このころのことである。 「源平盛衰記」≫

 

爬虫類でないが近いと言うておく  井上恵津子

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鳥羽院の寵臣である藤原家成が、播磨守であったころ、

清盛は朝夕に柿色の直垂(ひたたれ)に縄緒(なわお)の

足駄(あしだ)という貧相なかっこうで、

家成邸に出入りしていたので、

京童(きょうわらわ)は「高平太」といって笑った。

清盛は恥ずかしく思ったのか、

扇で顔を隠したが、扇の骨の間から鼻が見えていたので、

京童は、「高平太殿が扇に鼻を挟んだぞ」 といって、

その後は " 鼻平太 " と呼んだという。
 
絆創膏貼って剥がすじゃないか イタイ  山口ろっぱ

外見を笑いの種にする発想は、

「伊勢平氏はすがめなりけり」

にも通じる陰湿で幼稚なものだ。

ただし、家成の播磨守任官は、清盛が十三歳のときであり、

すでに官位を得て貴族の仲間入りをしていた。

忠盛も受領を歴任して、裕福だったはずであり、

この逸話には、かなりの誇張が混じっていると思われる・・・。 

≪が、当時の京都や貴族社会には、依然として

   平家をあなどるような雰囲気があったようだ≫

 

火葬場の横に噂が積んである  和気慶一

このような屈辱を受けるたびに、清盛はいつか、

「貴族たちを見返してやりたい」

と思いを抱いたかもしれない。

だからといって、

「いつか天下をとってやろう」

とまでは、考えもしなかっただろう。 

渋い茶の底で沈んでいる我慢  百々寿子

 

清盛は現実主義者である。

いくら貴族たちのあざけりを受けても、

彼らに公然と仕返しできる力は、今の平家にはない。

屈辱に耐え忍ばなかればならない現実を、

かみしめていたのではないだろうか。

生垣の猫のこの世をこことして  筒井祥文

拍手[3回]

帽子の下にカラスを飼っている男  奥山晴生

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        忠盛燈籠

清盛の父親、平忠盛ゆかりの燈籠は、

六波羅蜜寺からそう遠くない「八坂神社の境内」にある。

モヤモヤした伝承のベールをはぎとっていくと、

「残るは祇園女御がおそらく清盛の養母だったであろう」

との一点のみ。

その実在した女御の痕跡は、時代に翻弄されつつも、

六波羅蜜寺(京都市東山区五条通大和大路上る東)に、

いまもとどまっている。

疑問符の付かない話しませんか  清水すみれ 

「清盛出生の謎」

 

勃興期の平家は、白河法皇の引き立てによって、

力を蓄えていったわけだが、

「清盛の出生」にも法皇の存在は、

大きな影を投げかけていた。

古くから、清盛は白河法皇の「落胤」だったという説がある。

渦を巻く遺伝子しどろもどろの笑み  山田ゆみ葉 

『平家物語』ー「祇園女御(ぎおんにょうご)」の巻より。

 

白河法皇が寵愛する女性に

” 祇園女御 ”
と呼ばれる女性がいた。

京都東山の祇園に住んでおり、

正式な女御ではないが、

法皇のあまりの寵愛の深さから、このように呼ばれていた。

白河法皇はしばしば、お忍びでこの女性のもとへ通っていたが、

ある五月雨の夜、女御の邸宅の近くの御堂で、

不気味な光を発する鬼のようなものに出くわした。 

≪*女御=天皇の妻のうち、中宮の下の位≫

 

アリバイが今日に限ってありません  竹内ゆみこ 

『平家物語』によるとこうである。

 

永久年間(12世紀初頭)、白河法皇が雨の夜に、

寵妃の祇園女御を訪ねるさい、前方に鬼のような姿を認めた。

驚いた法皇は、

北面の武士として護衛にあたっていた平忠盛に、

「あの鬼を成敗せよ」 と命じた。

法皇は供の忠盛に討ち取るよう命じたが、

忠盛は、正体を見定めるべく生け捕りにした。

すると、それは燈籠に明かりを灯そうとしていた社僧で、

雨よけの蓑が灯火で、銀の針のように見えていただけだった。

白河法皇は、 

「あの者を殺してしまったらどれほど後悔したであろう。

  弓矢とる身(武士)とは感心なものよ」

 

と、忠盛の沈着冷静な行動を褒めて、

寵愛の深い祇園女御を忠盛の妻に与えた。

このときの燈籠が、「忠盛燈籠」 だ。 

整骨屋左右の靴を入れ替える  合田瑠美子

 

白河法皇から忠盛に下賜された祇園女御は 

このときすでに身ごもっていた。

 

そして、やがて男児を出産する。

それが平清盛である。 『清盛皇胤説』

≪実際は祇園女御の妹が産んだ子が、清盛だったともいわれる≫

『仏舎利相承次第』の説。(近江・胡宮神社) 

貴賓席にあなたの居場所とってある  皆本 雅

 

ご落胤伝説というと。

たいていは根も葉もない噂話にすぎないことが多いが、

清盛の場合は事情が違う。

現在、多くの歴史学者が、

「清盛の落胤説を支持している」 のだ。

清盛の尋常ではない出世のスピードを見ると、

天皇家の血筋でなければ、説明がつかないというのである。

空豆のロックンロール持て余す  前中知栄

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     岩清水八幡宮

確かに「石清水・臨時祭」に参加する清盛に、

法皇の甥である源有仁が、従者を提供しているのも、

白河法皇と清盛の特別な関係を示唆している。

12歳での「兵衛佐の任官」が、異例だったことや。

さらに不自然なのは、「平治の乱」後の急速な昇進である。

武士にとって、大きな壁である「三位」を越えて、

「公卿」に昇進してから、
わずか7年で、

人臣最高の官職である「太政大臣」に登りつめたのである。

これは、当時の慣例からして、

天皇家との血縁関係なくしては、考えられないといわれている。 

≪*公卿=三位以上の位階をもち、国政の審議にも携わる高級貴族≫

 

幾何学の都市に破調を連れ回す  きゅういち

血縁関係のことだけに、断言できる証拠はないが、

少なくとも当時の貴族たちの頭に、

清盛が「皇胤である」という認識があった可能性は高い。

これが本当なら、鳥羽法皇は甥、

後白河法皇は、甥の子ということになる。

帯状疱疹 正午前の時報  井上一筒 

後年のことになるが、

 清盛が18歳で「従四位下」に叙されたとき、

清盛が法皇の落胤であることを知らない人々は、

その出世ぶりに目をみはり、

「花族のようだ」 といぶかった。

だが、事情を知っていた鳥羽院だけは、

「清盛は花族に劣らない」 と述べたといわれる。 

≪*花族=「摂関家」に次ぐ「清華家」の家柄≫

 

強力な磁場でまん丸二分され  都司 豊 

「平家物語」の逸話だが。

 

鳥羽院が清盛を重用し続けたのも、

出生の秘密と無関係ではなかったのかもしれない。

そうであるなら、 

「清盛自身も出生の秘密を知っていた」  ということになる。

それは清盛にとって、誇り であっただろうか・・・?

あるいは、 と感じただろうか・・・? 

臍の緒よ憶い出せない川がある  古谷恭一

 

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