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川柳的逍遥 人の世の一家言
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乗り違えたバスで終点まで行こう  加納美津子

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「日露開戦」

日露戦争は、日本がロシアに奇襲をかけたことによってはじまった。

明治37年2月8日、

朝鮮半島の西岸仁川に停泊していたロシア軍艦に、

砲撃を加え、

翌9日には、

当時、ロシアの極東基地になっていた「旅順」への攻撃を開始した。

ロシアに対して、「宣戦布告」をしたのは翌日、

すなわち、2月10日であった。

臍の緒を切って引導渡される  森吉留里恵

日本が開戦にあたって奇襲でのぞんだのには、

二つの理由がある。

一つは、ロシア海軍の主力である「バルチック艦隊」が到着する前に、 

「ロシアに打撃を与えておかなければならない」

 

という点である。

もう一つは、まだシベリア鉄道が開通したばかりで、

しかも、単線のため、ロシア側の物資輸送が、

スムースにいかないことをみこし、 

「弾薬などが、運びこまれないうちに決着をつけてしまおう」

 

という、作戦を立てたからであった。

ピーマンのガランドウから呼び出され  谷垣郁郎

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もっとも、この二つ目の理由については、

日本側は笑うに笑えない誤算をしている。  

「単線のシベリア鉄道においては、空の貨車が帰されるだろう」

  

と考えたのだ。   

「一本の線路で、空の貨車が帰れば、その分、貨物列車が途中で滞るに違いない」

   

という、日本側のあては、完全に外れてしまった。

ロシアは、満州に到着した貨車を壊し、

空の貨車を帰すようなことを、しなかったからである。

灰色の答えを出してすり抜ける  早泉早人

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戦いは、5月になって激しさを増した。

初期での最大の戦いは、8月の「遼陽の会戦」であり、

このとき、ロシア軍は、22万の軍勢をつぎこみ、

日本も、13万の軍勢が集結した。

これがいかに激しいものであったかは、

ロシア側に2万、日本側にも2万、

合わせて、「4万人の死傷者が出た」 ことによってうかがえる。

いさかいをまだ悔いている雨の月  後洋一

そうこうするうちに、10月15日、

バルチック艦隊が、極東へ向けて出発したという報告が入った。

それまでに、旅順を何とかして落とさなければならないということで、

日本軍の主力は、旅順に照準をあてて攻撃した。

このとき、軍司令部は、

旅順港を見おろす位置にある「二〇三高地を占領する作戦」を立て、

11月28日から12月5日までの激しい戦闘の末、

占拠に成功した。

4Bで裂く坂の上坂の下  山口ろっぱ

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もっとも犠牲も大きく、6万4千軍のうち、1万7千人が死傷したという。

こうしてついに、

翌・明治38年1月1日、

旅順要塞司令官・ステッセルが降伏してきたのである。

生きているから階段によく出会う  森中惠美子

その次の大きな戦いは、

3月1日から10日にかけての「奉天会戦」で、

これも激しい戦いとなり、

日本軍24万のうち、7万、

ロシア軍も、32万のうち9万の、死傷者を出している。

このころにはすでに、ロシア軍は敗走しはじめていたが、

日本軍も弾薬がつき果てていた・・・。

ハンカチに書いてもらった処方箋  井上一筒

次ページの 『40分で読める』 日露戦争にお付き合い下さい。

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休みます樹氷を見たくなりました  加納美津子

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       常高寺

「初の遺言」

は心ならずも、姉・と妹・の真ん中に立つこととなり、

どんなに複雑な気持ちで、生き抜いたことだろう。

晩年、初(常高院)は、高次の菩提を弔うため、

また、自らの心のよりどころとするため、

小浜の地に「常高寺」を建立。

没後は、その常高寺に埋葬された。 

初は死んでやっと、自分の安らぎを得ることが出来た。

 

死に顔のうつくしさなどなんとしょう  時実新子

初の遺言には、 

「将来、国替えがあっても、

  常高寺は若狭にとどめ置いてほしい」

 

とあり、彼女が、 

「小浜に強い愛着を持っていた」 
 
ことをうかがわせる。

実際、京極家はその後、出雲・松江に国替えとなるが、

常高寺は残された。

初は、今も、木々に囲まれた静かな墓所から、

「愛する小浜」の地を見守っている。

眼差しを扶養家族に入れますか  蟹口和枝

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    常高寺・初の墓

「遺言状に刻まれた初の姿」

小浜の常高寺には、肖像画をはじめ直筆の書状など、

常高寺ゆかりの品々が伝わる。

なかでも、その死の1ヶ月ほど前に書かれたとされる

遺言書・「かきおきのこと」の写しは、

その人となりを、後世によく伝えている。

わたくしの億光年を束ねます  桂 晶月

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初直筆の書状と肖像画(常高寺)

高次の跡を継いで、

小浜藩主となった忠高(高次の側室の子)に

宛てられた書状では、

常高院に仕えた侍女や小姓など、

実名をあげたうえで、生活や行く末を頼み、

さらには、
三姉妹の異母弟である、

浅井作庵の暮らしをも案じている。

階段の踊り場で手を差しのべる  湊 圭史

作庵は父・長政が自刃した小浜城陥落の折、

命からがら生き延び、

やがて大坂の陣では、

異母姉・淀のもとに馳せ参じ、大阪方として戦った。

徳川に反旗を翻したこの人物は、

当然、徳川から睨まれることになったが、

そこに手を差し伸べたのが、常高院だった。

美しいと愛は同意語だと思う  柏原夕胡

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出家させるのを条件に、

京極家の客分待遇として、500石をとらせたのである。

その遺言状からは、

最期の日まで、

周囲の人々へ温かいまなざしを向ける、

常高院の人柄を偲ぶことができる。

朝露のように岩清水のように  新家完司

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有り様もあらざるモノも現世  山口ろっぱ

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   御台所お江の葬儀

寛永3年(1626)、54歳で逝ったお江。

葬儀は徳川幕府の威信をかけ芝増上寺で、荘厳華麗に行われた。

「お江との別れ」

徳川家の宗旨は、浄土宗である。

家康は、芝の三縁山・増上寺を徳川家の菩提寺に定めており、

元和2年(1616)4月17日に死去すると、

その葬儀が増上寺で執り行われている。

お江の葬儀は、家康に続く形だった。

その6年後に、

同じく54年の生涯を終えた秀忠の葬儀が、

増上寺で執り行われることになる。

つぶやいたことばに色を塗っている  赤松ますみ

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     徳川家霊廟

寛永3年(1626)9月15日、

江戸城・西丸御殿で死去したお江の遺骸は、

18日に増上寺に送られた。

お江は、荼毘に付されることになったが、

荼毘所は麻布・我善坊(がぜんぼう)の地に、

設けられている。

葬儀は、10月18日に執り行われた。

既に京都から秀忠・家光・忠長たちは、江戸に戻っていた。

四つ葉など揃えて野辺で待ってます  信次幸代

前・将軍の御台所にして現・将軍の母・お江の葬儀の様子を見てみよう。

麻布の荼毘所から増上寺までの、

1000間(約1800m)もの間、
筵が敷かれた。

その上には、白布が置かれた。

一間ごとに警備の武士が配置され、蝋燭が提げられた。

増上寺に安置されていたお江の遺骸は、

この白布の上を麻布の荼毘所まで進んだのである。

中程で仏間がしてる生欠伸  岩根彰子

荼毘所は、100間四方の規模で、

四方に門が付けられていた。

荼毘に付される前に、香が焚かれていた。

その香りが周囲を満たす中、

増上寺をはじめとする浄土宗寺院の僧侶が、

法文を読みはじめる。

その中には、家康の母・於大の方の法名を院号とし、

その墓所もあった伝通院の僧侶もいた。 

≪やがて伝通院には、

    お江の娘・千姫や家光の御台所・鷹司孝子が葬られることになる≫

 

きらきらと水陽炎や経流し  大西泰世

僧侶たちの読経の中、

お江の遺骸を包むように積み重ねられた沈香に、

一度に火が放たれる。

その香りと煙は、周囲10町(約1090m)余りに広がったという。

まさに戦国から徳川の世にかけて、

54年にも及ぶ波乱の生涯を駆け抜けた。

お江にふさわしい華やかな火葬だったといえるだろう。

そしてお江の骨は、棺に入れられ、

増上寺境内に造られた霊廟に、納骨されることになる。

火葬する炉にも部屋番号がある  松田順久

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   お江の墓

お江が葬られた宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、

高さ5・15mもある。

そして、霊牌所が造られるが、

完成したのは、寛永5年(1628)のことだった。

お江改め崇源院には、

11月28日に朝廷から従一位が贈位された。

以後、昭和34年の改装で棺が開けられるまで、

お江は秀忠とともに、

増上寺内の崇源院廟所で、眠り続けたのである。

鼻水の積が1ギガバイトほど  井上一筒


 

 

 

 

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もういいとかたちを神様に返す  たむらあきこ

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寛永3(1626)年9月15日、

は、江戸城西の丸で、54歳でその波瀾の人生に幕を閉じる。

法名は、「崇源院殿昌譽和興仁淸大禪定尼」

遠雷や文庫を括る手くらがり  吉澤久良

お江がこの世を去ったのは、

秀忠・家光・忠長が上洛していた時である。

家康・秀忠・家光という徳川三代の時代は、

将軍職に任命される時、

上洛して「将軍宣下」を受けることになっていた。

その晴れの舞台は、京都南郊の「伏見城」である。

落葉焚きイエスタデイを聴きながら  加納美津子

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元和9年(1623)に、家光は秀忠とともに上洛し、

将軍職に任命されたが、寛永3年にも上洛している。

この年、家光の妹・和子が女御となった後水尾天皇が、

京都の「二条城」に、行幸することになったからだ。

こうして、秀忠・家光・忠長をはじめとする徳川一門や、

有力大名も続々と上洛し、天皇の行幸を迎えた。

千枚漬にはさんで今日を消化する  高橋謡子

天皇の行幸は、9月6日から10日まで5日間に及んだ。

ところが終了後の11日、

江戸からお江の危篤を知らせる急便が、

秀忠たちのもとに届く。

忠長は、その日のうちに江戸に向かった。

家光も側近の稲葉正勝(春日局の子)を向かわせたが、

15日にお江は、この世を去ってしまったため、

臨終に間に合わなかった。

いじわるをちょっとしかけてくる雫  小西カツヱ

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徳川家増上寺墓所全景

家光は19日に京都を出立する予定だったが、

前日の18日夜、お江死去の急便が京都に着いたため、

出立を延期している。

お江の霊廟は、「増上寺境内」に建立された。

お江は増上寺に葬られた徳川家の一族のなかで、

唯一「火葬」となっている。 

≪紅蓮の炎のなか、大坂城内で自害した淀と同じく、

    その身は、火の中に消えていったわけだが、

     当時としてはきわめて異例だった≫

 

風はこぶとぎれとぎれの子守唄  新川弘子

火葬の理由は定かではない。

お江の意志だったのかも分からない。

その不自然さにより、

毒殺説まで伝えられているほどだが、
真相は分からない。 

≪お江の晩年の体調を具体的に知る史料もなく、

    現在に至るまで、その死は謎に包まれたままである≫

 

秋深し花屋の菊に風がない  籠島恵子

≪昭和34年に実施された増上寺内の徳川家霊廟改葬の際、

   学術調査が行われた。

   お江の棺も開けられたが、

   その中には,火葬された後の大小の骨片、炭、鉄釘、

  そして、櫛の歯の残片が入っていたという。

  木炭を用いて火葬にし、そのまま炭ごと骨などを棺に納めたのだ。

  その骨は、意外と細かったことが明らかにされており、

  お江は,華奢な体型だったのではと推定されている≫

散りぎわの紅葉 私を黙らせる  和田洋子

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       二重橋

なにはともあれ江は、

母・お市の方の織田・浅井の血を残すという遺命を、

果たしたのみならず、

幕府と皇室にまで、血を伝えたのである。

しかし、お江は寛永3(1626)に死去しており、

娘が即位する日を、見ることはなかった。

切りのいいところでポンと蓮の花  山本美枝

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天と地の境は逆立ちをして歩け  井上一筒

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歌川広重・「目黒爺々が茶屋」

”目黒のさんま”という落語はよく知られているが、

これは将軍の鷹狩に大きく関係している。

3代将軍・家光は鷹狩を好み、

碑文谷原や駒場野などの目黒近郊によく遊猟に出かけたという。

≪村々にて鷹狩が滞りなく行えるよう管理を行う役を通称、

   「鷹番」というが、目黒区内にはそれにちなんだ地名も残る≫

「家光と忠長」

元和9年(1623)7月27日、

家光は三代将軍に任命された。

時に家光は20歳。

秀忠45歳。

お江は51歳になっていた。

江が将軍の御台所から、将軍の母となった日でもあった。

親馬鹿やさて行く末の丁と半  戸田健太郎

家光が将軍に就任する前年に、本丸御殿の改築が完了し、

翌年には、天守閣も再建される。

すべて、家光が将軍に就くための準備であった。

本丸御殿には、現職の将軍が住んだが、

西丸御殿は前将軍、あるいは、時期将軍の御殿として、

位置づけられていた。

寛永元年(1624)11月3日。

本丸御殿には秀忠、西丸御殿に家光が住んでいたが、

将軍職就任に伴い、家光は本丸御殿に移る。

近未来カーブミラーが映してる  高浜 勇

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家光が使用したと伝わる葵紋が入った碗セット(喜多院)

秀忠はお江と共に、その一か月以上前の9月23日、

改築成った御殿に移っていた。

その後、江戸城の大改築が始まる。 

≪現在の外堀が造成されて、江戸城総構えが完成したのは、

   寛永13年のことである。だがお江も秀忠も既にこの世にいなかった≫

 

柿の木に登って見てた天守閣  合田瑠美子

家光が本丸の主となった翌年に、

御台所が五摂家のひとつ、鷹司家の孝子と決まる。

お江は、この結婚に奔走したようだ。

お江が、羽柴秀勝との間に儲けた完子は、

同じ五摂家のひとつ九条家当主の忠栄に、

嫁いでいたが、
そのバックアップもあって、

鷹司家の娘を、江戸城大奥に迎えることができた。

≪以後、五摂家の娘が将軍の御台所に選ばれるのが慣例となる≫

しかし、家光と孝子の仲はよくなかった。

当時、家光が女性には興味がなかったこともあり、

 二人は、いわば家庭内別居状態にあった。

きみ嫁けり遠き一つの訃に似たり  大西泰世

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紅葉山を下りてくる一行(輿には家光が乗っている)          

孝子が御台所に迎えられた翌年(寛永3年)に、

お江はこの世を去るが、

その死は二男・忠長の運命を変えてしまう。

忠長にとり、

最大の庇護者を失うことを意味していたからだ。

この年、家光は右大臣に叙任し、

忠長は大納言に任命された。

家光が将軍に就いた翌年に、

忠長は、駿府城と遠江国 55万石を与えられており、

ここに、駿河大納言が誕生する。

しかし、お江が死去し、

さらに秀忠の最期のときが近付いてくると、

忠長の所行が、常軌を逸するようになる。

ためらいを見せて足音遠ざかる  山田葉子

例えば、寛永8年(1631)のはじめに、

自分に仕えていた大阪船手頭の小浜光隆の子を、

何かの咎で、殺害したことがあった。

ところが、

その翌日に殺害した者を呼び出すように命じたという。

この頃には、こうした正気とは思えない忠長の、

所行の数々が、
世間一般に広まっていたようだ。

ついに、幕府も無視できなくなる。

性格は似ても似つかぬ左右の手  嶋澤喜八郎         

徳川家一門であっても、

幕府の安定のためには、改易は免れなかった。

その一例を言えば、

お江の娘・勝姫の婿である福井藩主・松平忠直は、

重臣・永見貞澄の一族を討滅し、

家臣団を恐慌状態に陥らせていた。

参勤交代の規定も守らなかった。

よって、家光が将軍に就いた年に改易に処せられている。

面取りをしすぎて居場所見失う  河村啓子

そうした先例があるため、

次は忠長が改易されるのではという噂が、

諸大名の間でも流れていた。

同年5月、秀忠は忠長を駿府城から、

甲斐国に移すことに踏み切る。

ただし、改易ではない。

駿河・遠江 55万石の所領はそのままだった。

秀忠としては、世間の評判に配慮しつつも、

忠長の気持ちが落ち着くことに期待して、

所領をそのままにしたのだろう。

投げられた茶碗を拾う私を拾う   時実新子

しかし、秀忠の死期も刻々と近づいていた。

病が重くなっていたのである。

それを伝え聞いた忠長は、

秀忠への見舞いを幕府に願い出る。

併せて自分の赦免も願ったが、幕府は認めなかった。

翌9年1月、秀忠が死去すると、忠長は所領を没収され、

身柄を高崎藩主・安藤重長のもとに移された。

同10年12月6日、幕府から自害を命じられる。

享年28歳だった。 

大の字になって明日へ送られる  鶴 彬
 
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    忠長自刃の間

忠長をはじめとする徳川家一門の粛清とは、

「幕府権力を確立しよう」 

という、徳川将軍家の強い意志を、

内外に示すものに他ならなかった。

お江最愛の息子は、その犠牲になる。

そうした尊い代償を払うことで、

もうひとりの息子・家光の権力基盤は、

磐石なものとなったのである。

過去帳はもう谺さえ返さない  たむらあきこ

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