忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[181] [182] [183] [184] [185] [186] [187] [188] [189] [190] [191]

風の駅まもなく電車が入ります  時実新子

eca50655.jpeg

浜松城(秀忠はこの城で生まれた)

”家康の名言”

『誠らしき嘘はつくも、嘘らしき真を、語るべからず』

「家康の征夷大将軍」

48f35411.jpeg

  岡崎の家康

≪岡崎は家康誕生地(1542~1616)≫

慶長8年(1603)、

徳川家康は、朝廷から「征夷大将軍」に任命された。

だが実は、本来なら家康は、

「征夷大将軍」になれない人間であった。

源頼朝以来、慣例とし将軍職には”源姓”のつくものしか、

付くことが出来ない。

ゆえに、源姓でない豊臣秀吉の場合は、

室町幕府15代将軍、足利義昭の養子に入り、

「将軍たらんことを切望した」 

が拒否され、朝廷の最高職たる「関白」として、

国家を統べる方法を、選択したのだった。

立秋にちょっと歩幅の微調整  前中知栄

a889cf8f.jpeg

  浜松の家康像

≪三河を平定、浜松城へ(1568~1586)

   三男・秀忠浜松城にて誕生(1579)≫

永禄9年、三河統一を成し遂げた家康は、

織田信長と同盟を組み、戦国大名への道を歩み出していた、

この年の12月、家康は、従五位下・三河守への官位認定と、

松平から徳川への改称を申請した。

だが、正親町(おおぎまち)天皇は、

「先例がないため公家にはできない」

とこれを拒否した。

たとえばのはなし枯木に花が咲く  荻野美智子

4617f4ba.jpeg

 駿府の家康

≪駿府へは、今川家の人質として入る(1549~1560)

   浜松から駿府へ再び(1586-) その後、五奉行直前から京都へ。

   秀忠将軍職を譲り、再度駿府に居住(1605~1616)≫

そこで家康は、浄土宗の僧侶を通じて、

関白の近衛正久に協力を仰ぐことに・・・。

すると、近衛家の家来であった京都吉田社の神主が、

先例として、利用できる古い記録を発見した。

それは、

「源氏の新田系の得川氏の流れで藤原氏になった家があった」

ということだった。

神主が、その場で書き写したものを、

前久が清書し、朝廷に提出したところ、

天皇の許可が下ったという。

曲がるとこ曲がってまっすぐも曲がる  清水すみれ

対して、徳川氏は、

「源姓の家系だから、スムーズに将軍になれたのだ」

と誤解している人もいる。

家康は、慶長7年(1602)まで、「藤原氏」を名乗っており、

将軍就任を意識して、この年、源氏に復姓したのだ。

復姓とは、妙な言葉だが、家康の言い分によれば、

「もともと徳川は源氏だったが、

  いつのころからか,藤原氏を名乗るようになった」

のだそうだ。

だから、元の姓に戻るのだと主張する。

朝顔は系統好きをもて弄ぶ  岩根彰子

eea0a89c.jpeg

 最も表情の優しい家康画

このとき家康は、証拠の家系図を朝廷に提出したが、、

それは、『偽系図』である可能性が高い。

なにはともあれ、慶長8年、家康は征夷大将軍に任命され、

名実ともに、豊臣秀頼に代わる天下人となった。

この徳川幕府の誕生は、

豊臣家に大きな衝撃を与えることとなる。

たましいの束の間ほたる二三匹  河村啓子

大坂城にはまだ、秀頼がおり、

大坂方では、家康が将軍になったことに、

ショックを覚えたが、それでもまだ

「天下の家老」
という受けとめ方をしていた。

「秀頼が成人した暁には、政権を返すはず」

という思いがあった。

そうした大坂方の思惑を、完全に打ち砕いたのは、

その2年後である。

隣の椅子でたぬき寝するゲリラ  山口ろっぱ

72429135.jpeg

    駿河城復元模型

家康が将軍職を辞し、息子の秀忠が二代将軍になった。

これは、

「江戸幕府は徳川氏が世襲する。

 政権はもう秀頼には返さない」

という、意思表示である。

「秀頼が成人すれば」

「家康が死ねば」

と考えていた大坂方は、喩えようもないショックを受けた。

モザイクをはずすとそうかそうなんだ  山本昌乃

このように老獪に、「大坂の陣」は、

準備されていったわけだが、

時代の流れは、完全に徳川方であり、

豊臣氏は、結局、滅ぼされるしかなかった。

慶長19年(1614)10月からはじまる「大坂・冬の陣」、

そして、翌・元和元年5月の「大坂・夏の陣」によって、

豊臣氏は、滅亡させられてしまう。

常識を埋める とぶための儀式  松本としこ

拍手[5回]

PR

火柱の中にわたしの駅がある  大西泰世

9f702986.jpeg

       御座船

≪豊臣家をしのぐ徳川家の力を見せつけるように、

    数千艘の伴船を従えて、山科川を下っていく千姫の御座船≫

「千姫の婚礼」

慶長8年(1603)、家康が、「征夷大将軍」に任命されて、

5ヶ月後の7月28日、千姫秀頼のもとに嫁ぐ。

秀吉の生前に婚約していた2人だが、

家康の将軍職就任直後に、千姫を輿入れさせた背景には、

徳川家の政治的配慮があった。

豊臣家の心証はもちろん、

関が原の戦いで
勝利に貢献した、

豊臣家恩顧の諸大名への、配慮があったのだろう。

福島正則らは、家康を天下人にするために、

関が原で、奮戦したわけではなかったからだ。

カタログをタヌキキツネが零れ出る  谷垣郁郎

ad43e2d9.jpeg

7歳になった千姫は、秀頼との婚儀を執り行うべく、

伏見へと向かう。

それには、お腹に ”4人目の子” を宿しながら、

江も、同行することとなった。

娘の婚儀に、母親が同行するなど、

前例のないことだったが・・・。

それが、江らしかった。

さすがに、婚礼には出られなかったが、

伏見に行ったことで、姉のとの再会を果たした。 

≪ここで身籠っていた子は、やはり女児で、、初姫と名付けられ、

 子供の出来なかった姉・初との約束で、姉の養女となる≫

 

悲しいときは嬉しい顔の叩き売り  前中知栄     

伏見城から大坂城へ、船で下る千姫の輿入れは、

盛大なものだった。

千姫が乗った「御座船」の周りには、

葵の紋所が染め抜かれた幔幕が張られた。

迎えの数千艘の船を従えた御座船を、

大坂城に向かわせることで、

徳川将軍家の威光を、

豊臣家の影響力が強い上方に、知らしめようとしたのだ。

手応えを握りこぶしは知っている  片岡加代

f7da7058.jpeg

当時、家康は伏見城にいたが、秀忠は江戸城にいた。

実は、徳川家側は、この婚儀をあまり歓迎していなかった。

そんな徳川家の姿勢を物語る、次のような話がある。

婚儀となれば、

諸大名は、自ら婚儀に出席するが、

出席できなければ、

祝意を述べる使者を、派遣することになる。

考える葦一本の生き上手  皆本 雅

例えば、妻のガラシャを、

関が原の直前に失った小倉城主・細川忠興は、

7月11日に、小倉城から大坂に向かう。

21日、大坂に到着し、

26日に、伏見城にいた家康に、祝意を言上した。

婚儀から2日後の晦日には、秀頼に祝意を述べている。

忠興は、小倉にいた嫡子・忠利に、

婚儀に祝意を述べる、使者の派遣を命じようとする。

処方箋裂けたぎょうにんべんと0  井上一筒

家康にとっては孫娘、

秀忠にとっては長女の、輿入れであり、、

徳川家への配慮にもつながると、判断したに違いない。

忠興は、使者を送る前に、

徳川家に、この件を問い合わせている、

が、意外な指示が下る。 

「使者をわざわざ、豊臣家に送るには及ばない。

  祝意を述べる書面を送れば充分である」

 

というのだ。

約束の指で消去のキーたたく  斉藤和子

dc162e97.jpeg


11歳で政略結婚をした秀頼

この婚儀を通じて、

「豊臣家が、天下の注目を浴びるようなことは避けたい」

という、徳川家の意向が伝わってくる。

新しい天下人の徳川家としては、

かっての天下人・豊臣家の印象は、極力薄めたかったのだ。

こうした徳川家の姿勢を、当然、お江は察していただろう。

お江がわざわざ、大坂城に赴くことに、

家康が、あまり歓迎しなかった理由は、ここに明白である。

しかし、豊臣家と徳川家の間が、

「将来、手切れになる事態は、
どうしても避けたい」

との気持ちが、お江を動かした。

秀忠も、黙認せざるを得なかったのかも知れない。

リセットができないままのトコロテン  山口ろっぱ

03aab5c3.jpeg   e49f48e2.jpeg

大河ドラマ「お江」・第37回-「千姫の婚礼」 あらすじ

「関が原の戦い」が終わって、1年余、

力を増すばかりの家康(北大路欣也)は、

主君である秀頼(武田勝斗)への新年のあいさつを、

なんと、2月になってから行う。

治長(武田真治)は、その不遜な態度をとがめるが、

家康はまったく気にする様子もない。

それどころか、 

「征夷大将軍を拝命することになりました」

 

と、さらりと宣言し、秀頼とともに、

挨拶を受けた淀(宮沢りえ)を驚愕させる。

もちろん淀は、

「秀頼様が成長するまでの仮の将軍」

という家康の説明を信じてはいなかった。 

心してかかる相手は宇宙人  山内美代子


  6fefb47a.jpeg

「征夷大将軍といえば、亡き秀吉も就きたいと望んでいた、

 武家を束ねる役職である。

 今、武家の頂点にあるのは、

 秀頼ではなかったのか・・・・」

 

家康が、その将軍職に就くと聞き、動揺する江に、

秀忠(向井理)が、さらなる衝撃的な話を聞かせる。

長女の千(芦田愛菜)を、

秀頼に輿入れさせるというのだ。

秀頼と千の婚姻は、秀吉の遺志でもあり、

既定の流れだったとはいえ、千はまだ7歳。

かつて、わずか3歳で嫁に出した次女・珠(渡辺葵)が、

不憫でならず、

今も泣いてばかりいる江(上野樹里)としては、 

「もう少し先でも」

 と思わざるをえない。 

油断した隙に尻尾が生えてくる  合田瑠美子

b6a3daf6.jpeg

 

しかし江は、自身の経験から、

こうした話が動き出せば、まず拒めないことをよく知っていた。

ゆえに、 

「この婚姻を、豊臣と徳川の ”和平の証し” としたい」

 

という秀忠の意もくみ、

しかたなく千の嫁入りを受け入れる。

そして今度は、千とともに

「自分も大坂に行きたい」
と願い出る。

江は婚儀直前に、千の気持ちを確かめ、

もし嫁入りを心底嫌がっているなら、

どうあっても、連れかえるつもりだったのだ。

また、千の姑となる姉・淀に会い、

「直接話をしたい」 とも考えていた。

臨月のあなたの中のダイナマイト  河村啓子

拍手[5回]

譜面踏み抜き単線の成れの果て  かがり

seki-13.jpg

「さすが三成は、日本の政務を取りたる者なり」

と言って、家康は三成の戦いぶりを褒めた。

「関が原の勝敗を分けたもの」

「関が原の戦い」で、西軍の明らかな敗因は、二つある。

一つ目は、2、3位連合特有の弱さであろう。

毛利は、一門をすべて併せると、2百万石近くあり、

上杉佐竹など、伝統的な友好勢力も西軍にいた。

この両者を併せると、

東軍の徳川を上回っていたはずなのだが、

互いを当てにして、総力を挙げて戦っていなかった。

もし毛利輝元が、総大将として関が原に出陣するか、

上杉景勝が関東に進撃するか、

で、西軍に勝利の波は寄せていただろう。

金魚も猫も音だけじっと遠花火  玉木宏枝

seki-10.jpg

「心とするところ」

二つ目は、石田三成のプライドである。

現場をあまり知らない三成は、

机上の戦をしてしまったということ。

つまり、織田信長は桶狭間のあとは、

兵力が優位なときしか、戦いをしかけなかった。

また豊臣秀吉も、兵站に力を入れて、

相手を力でねじ伏せるような戦い方を、得意としていた。

その申し子であるはずの三成は、

奇襲などをひどく嫌い、

理屈で戦いに挑んだことである。 

勘が鈍って天気予報をあてにする  墨作二郎

 

それに対して家康は、

何度も相手より少ない兵力での戦いを経験し、

勝つための戦略(謀略)を持っていた。

岐阜城の織田秀信が、軽率に城外に打って出て、

1日で落城したこと。

京極高次・初の大津城が、

1週間の三成の攻撃に耐えたことも、

西軍の敗因に繋がっている。

視野狭いわたしにも欲しいトンボの目  内藤光枝

seki-12.jpg

「命をみだりに棄てざるは、将の心とするところ」

斬首に甘んじた三成を、家康が讃えたことば。 

「三成に過ぎたるものが二つある」

 

島左近と佐和山城のことである。

これは、ナルシスト・三成が、

自身を自画自賛して語った言葉なのだろう。

1590年10月、豊臣秀吉が天下統一を成し遂げたとき、

秀吉から、19万石と佐和山城を与えられた。

そして石高の19万石から、三成は、5万石を与え、

島左近を召し抱えたという話が残る。

5万石といえば破格の給料だ。

島左近についての説明は、後日におくるとして、

三成のよく分からないところは、佐和山城である。

向き合っているのにこころ分らない  早泉早人

d328b1e5.jpeg

    佐和山城跡

「佐和山城が何故、三成に過ぎたるものなのか」

関ヶ原の合戦の直後、佐和山城は、

徳川軍の攻撃を受けた。

この時、三成は関ヶ原の合戦で敗れて、

伊吹山を彷徨っていた。

佐和山城にいたのは、三成の父・正継と兄・正澄

徳川の兵士はみんな、

「三成の城ともなれば、豪華絢爛だろう」

と思い込んでいた。

いずれ又と軽く指切り外される  山本昌乃

ところが、城壁は上塗りもしていない土塀で、

屋内もほとんど板張りのまま、

庭には、樹木すら植えられておらず、

手水鉢も、苔むした石でしかなかった。

乱世の時代、家を堅固にしてこその武将である。

三成が、「三成に過ぎたるものが2つある」

と言って憚らなかった城が、これである。

武将としては、失格ではないか。

結論は出ている 梅は熟れている  藤本秋声

seki-9.jpg

「恥辱にあらず」

三成は、もともと戦をすることなど考えない、

平和主義者であるなら、

家康に戦いを挑んだのは、「間違いだった」ということになる。

そして、関が原が三成にとって、

「たまたま、戦になってしまった」 というなら、

西軍についた武将の意気も、

あがらないのは当然のことであった。

五分五分であったはずの、決戦の行方は、

三成のナルシストな性格による、

「ひとり相撲」で決まったともいえる。

さよなら三角そんなかたちの雲がある  田中博造

551235d3.jpeg

「ナルシスト・三成が顕著に出る本多正純との問答」

家康は三成に、「さらばでござる」の一言を残し、

三成の身を本多正純に預けた。

そのとき、正純は、三成に静かに言った。 

「秀頼公が年若くいるうちは、

 平和を保つ道を考えるべきでございますものを、

 理由もない戦を起こしたがために、

 あなたはこうして、

 縄目の恥辱を受ける羽目になったのですよ」

 

はさまった悔いを掻きだす糸楊枝  佐藤美はる

三成は、この正純の言葉に冷静に応じた。 

「自分にとっての太閤殿下のご恩は、

 とてつもなく大きいものである。

 内府を討たねば豊臣家のためならずと考え、

 軍を起こしたのだ。

 しかし、いざ合戦となって裏切り者が出て、

 勝つべき戦を落としたのは口惜しいことだ。

 

 とはいえ、かの源義経公でさえも、

 天運に見放されたがゆえに、衣川で滅びた。

それがしの敗戦も天命であろう。 是非もない。」

と答えを返す。

なんとまあ刹那に生きてきたのだろう  清水すみれ

正純はさらに、

「智将というものは、人情をはかって時勢を知るものだ。

 諸将が裏切ったのは、心から同心していなかったからで、

 そんな状態で軽々しく兵を挙げ、

 ”敗れても自害すらせず、

 捕らえられて、こうしておるとはなんたることだ”」

と言う。

語尾ひとつ昨日の距離が加速する  桂 昌月

三成も、この言葉には冷静にはおれず、 

「汝は武略を露ほども心得ておらぬ。

 敗けて腹を切るなどは、葉武者の所業よ。

 源頼朝公が石橋山の敗戦後、朽木の大洞に身を潜めた。

 その心が汝にはわかるまい。

 頼朝公があの時、大庭景親に捕らえられておれば、

汝らはわしと同じように、頼朝公をも嘲ったことであろうな」

 

と応答した。

月光に任すわたしという冬野  たむらあきこ

f6e193a0.gif

石橋山朽木の洞窟

☆ 源頼朝は石橋山の合戦で、

大庭景親や伊東祐親の軍勢に破れて敗走。

洞窟に身を隠していたところ、敵将の梶原景時に発見される。

これを梶原は報告せず、頼朝は生きのびることが出来た。

のち頼朝は復活する。

アルバムは正直すぎる物語  吉川コリン

seki-4.jpg

 西軍の総大将・毛利輝元

「関が原やる気のなかった武将たち」

天下分け目の決戦となった関が原の戦いの結果について、

東軍が勝ったのは、

「たまたま」という見方が最も正しい。

西軍についた大名のなかには、 

「本当は東軍につきたかったのに、諸事情で西軍についた」

 

と弁解する大名がいれば、

東軍についたものでも、 

「西軍が優勢になれば、裏切るつもりだった」

 

と見られる大名が沢山いる。 

裏切りを忘れたふりの処世術  有田晴子

 

また、真ん中に立って、どちらとも取れる大名も数々いる。

たとえば、加賀の前田、越後のは、

一応は、東軍側で働いていたが、

決定的に踏み込まず、戦う格好だけをしていた。

伊達政宗に至っては、

同じ東軍の南部領の一揆を、扇動している。 

田植えゲームをパソコンの中でする  井上一筒

 

戦後の論功行賞をみると、

前田利長は、西軍寄りだった利政の領地に、

小松の丹羽長重の領地を併合するだけ。

上杉の非道を、がなりたて、

関が原の戦いのきっかけを作った堀秀治は、

本領安堵のみ。

政宗も、「百万石をやる」という約束にもかかわらず、

白石城を加増されただけに留められている。

家康の眼は、誤魔化せなかったということか?

それとも家康の二枚舌だったのか?

真実は真っ黒そして多面体  嶋澤喜八郎

拍手[5回]

白を出て白に還ってゆく命  たむらあきこ

seki-2.jpg

9月15日の決戦の日、

関が原には、東軍7万4千、西軍8万4千、

あわせて5万を超す大軍が対峙していた。

軍勢の数だけでいえば、

西軍の方が、わずかに勝っていたことが分かる。

しかも、東軍・家康方は、

西軍・三成方が待ち受ける関が原に進む形となった。

この布陣は、明らかに西軍有利であった。

三成は、「我に勝機あり」と考えていたであろう。

鬼ごっこ鬼が帰ったのも知らず  杉山ひさゆき

6ee6fca1.jpeg

 関が原三成軍・陣の跡

たしかに、

南宮山に布陣していた毛利・吉川の軍勢が動き、

「関が原中央」に押し出してきた家康本隊を攻めれば、

東軍は西軍によって、押し包まれる格好になり、

西軍の大勝利で終わった可能性があった。

笑うのに時の流れを借りている  立蔵信子

seki-7.jpg

しかし、家康は、事前の周到な根回しに、

絶対の自信を持っていた。

吉川広家との間に、

「毛利・吉川の軍勢は南宮山を動かない

との密約を交わし、

また、松尾山に布陣した小早川秀秋にも、

「途中で東軍に内応する

という約束が、取り交わされていたのである。

お手数をとらせてばかり狐面  くんじろう

戦いは、前夜来の雨もあがり、

重くたれこめていた霧が晴れだした、

午前8時ごろに始まった。

東軍の先鋒隊は福島正則で、

この福島隊と井伊直政隊が、

西軍の宇喜多秀家めがけて、鉄砲を撃ちはじめたのが、

開戦の合図となった。

麻雀もカードもずるい奴が勝つ  奥山晴生

seki-1.jpg

あとは、両軍入り乱れての戦いになったが、

毛利、吉川の軍勢が動かず、

また小早川隊も動かなかったので、

東軍の方が数が多いことになり、西軍には苦しい戦いが続いた。

午前11時頃、三成の陣所から烽火があげられた。

松尾山に陣取ったまま動かない小早川秀秋に対する、

参戦催促の烽火だったが、

小早川隊は動かなかった。

疑いを物干し竿にかけておく  山本輝美

seki-3.jpg

正午ごろ、今度は、

家康陣営から松尾山へ鉄砲が撃ちかけられた。 

「約束通り、早く寝返りせよ」

 

との催促の意味である。

秀秋自身、そのころまで

「このまま西軍として戦うべきか、東軍に寝返るべきか」

と去就を決しかねていたが、

家康からの威嚇の鉄砲に恐れをなし、

ついに意を決して山を下り、

麓に布陣していた西軍の大谷吉継隊に、

攻撃を開始したのである。 

平常心持てど波立つ着信音  淡路 弓

 

この小早川秀秋の裏切りは、

戦況推移に決定的な意味をもった。

西軍は総崩れとなり、午後3時ごろには、勝敗が決した。

西軍の総帥・石田三成は伊吹山に逃げ、

逃亡6日、ついに9月21日に捕らえられ、

本多正純に預けられた。

靭帯の切れた人から泣きなさい  井上一筒

mitu-4.jpg

「エピソードー石田三成」

家康引見の朝、

三成は、門外の一畳ほどの筵の上に座らされていた。

その前を通りがかった福島正則は、 

「無益の乱を起こして、そのザマだ。いや、いい気味よ」

 

と憎しみと嫌みを込めた言葉を、三成になげかけた。

すると三成は、 

「汝を生け捕り、縄目につかせられなかったことは、天運だ」

 

と言い返した。

この天運の意味の中にある、三成の真意が

頭の少し弱い正則に、通じたのかどうか。 

梅そえてあげる鬼にも仏にも  森中惠美子

 

しばらくして、今度は、小早川秀秋が通る。

三成はその姿を見かけると、 

「汝に、二心あるを見抜けなんだは、愚かであったが、

 義を捨て人を欺いた汝は、

 武将としての恥辱を末代まで語り継がれ、

 嘲りを受けるだろう

 

と言った。

さぞ、秀秋を憎かったのであろう、語気は強かった。

そして10月1日、

小西行長、安国寺恵瓊とともに、

京の六条河原で処刑される。

影までも僕を離れていくらしい  加納美津子

fa633188.jpeg

大河ドラマ「お江」・第36回-「男の覚悟」  あらすじ

家康(北大路欣也)方三成(萩原聖人)方が、

美濃・関が原で激突した大戦は、

家康方の圧勝に終わった。

しかし、3万余の兵を任されたにもかかわらず、

関が原に遅参した秀忠(向井理)にとって、

とても喜べる勝利ではなかった。

「初めての大将としてはようやった」

とねぎらう家康に対し、秀忠は、 

「そのようなことは言われたくない」

 

と言いかえす。

誰よりも彼自身が、

大将として,重大な過ちを犯したとわかっていたのだ。

水色をこぼして夏の絵が描けぬ  神野節子

82fa8d4b.jpeg

そんな折、逃亡していた三成がとらえられ、

家康、秀忠のもとに連れてこられる。

家康は、三成が戦場から離脱した理由が、

「再起を図るためであったこと」 を確かめ、 

「やはり生きておられては困る」

 

と死罪を宣告し、その場を去った。

赤は血の色白は死の色花捨てん  時実新子

2eab0006.jpeg

一方、秀忠は三成に歩み寄り、 

「義を通したあなたが、罪人になるのはおかしい」

 

と、素直な思いを伝える。

すると三成も心を開き、

自分の最後の願いであるとして、

秀頼(武田勝斗)淀(宮沢りえ)を守ってほしいと、

頭を下げるのだった。

わたくしの波紋を消した水澄まし  大海幸生

96756b18.jpeg

一方江戸城の江(上野樹里)は、

遅参とは、「いかにも秀忠らしい」 と噴きだしてしまう。

その様子を、大姥局(加賀まりこ)に咎められるが、

とにもかくにも、夫の無事は確認でき、

戦に巻き込まれたという初(水川あさみ)

無事とわかってひと安心。

思い出し笑いを何度したことか  筒井祥文

そんな彼女を、今度は急な吐き気が襲う。

江は再びみごもっていたのだ。

同じ頃、

江のそば近くに仕える奥女中・なつ(朝倉あき)も、

子を宿していたのだ。 

突風が沈めた妬心泡立てる  斉藤和子
 

 

拍手[5回]

構想を一時共有できた船  筒井祥文

98c5e173.jpeg

   勝者の将・家康の兜

≪真意は分からないが、家康は、関ヶ原の合戦を目前にして、

    イタリア・ミラノで作られた甲冑を用意していた≫

858dca8b.gif

 敗戦の将・三成の兜

「戦後処理」

家康の戦後処理は迅速だった。

西軍の首謀者である三成、安国寺恵瓊などは、

市中引き回しの後、

六条河原で斬首となった。

家康は9月27日に大坂城に入城。

豊臣秀頼淀殿と会見した後、論功行賞を行った。

なりゆきで真一文字に眉を引く  谷垣郁郎

秀忠隊を欠いた状態で、決戦に臨んだ家康は、

勝利こそ得たが、

その分、論功行賞で自軍に加わった豊臣恩顧諸将に、

大封を与えざるを得なかった。

その予算を捻出するため、

豊臣家は、「今回の反乱には直接関係ない」

と裁定を受けたが、

200万石に及んでいた直轄地は、

65万石にまで下げられてしまった。

そして遅参してしまった秀忠にも、

家康は、なかなか会おうとはしなかった。

よほど迷ったのか、重臣に、 

「世継ぎは、誰がよかろうか」

 

と尋ねているほどだった。 

水色の声を放ってバリケード  岩田多佳子

 

本多正信は、秀忠の兄・結城秀康を推し、

徳川四天王の井伊直政は、弟の松平忠吉を推したという。 

≪忠吉は、直政の娘婿に当たり、

   関が原では、先鋒の福島正則を出し抜いた形で、

   一番槍の巧妙を上げていた・・・≫

 

だが秀忠の遅参は、まったくのお咎めなしとなった。

実は、家康は秀忠率いる徳川本体は、温存しておきたく、 

「わざと遅参させた」
 
のだと、家康は江に言った。 

転がっているだけで意地悪な石  山口ろっぱ

 seki-16.jpg

家康・輝元が交わした証文

「戦闘に参加しなければ、毛利の所領は保証する。」

こうして関が原の戦いにより、

大名の配置図はガラリと変わった。

廃絶された西軍所属の諸大名・90人の領地・

660万石は没収、

西軍の総大将だった毛利輝元は、

周防2カ国に削減され、

上杉景勝は4分の1の30万石に減らされた。

実は合戦前、家康は、毛利軍に対して、 

「動かないでくれれば、

  中国10カ国、120万石の領地をそのままにする」

 

と約束していた。

毛利軍の主力は、その通り、動かなかったが、

実際には、領地の大半を取り上げてしまったのだ。 

一生のお願いですと二度三度  津田照子

 

取り上げた分は、どこへ行ったのかというと、

東軍の諸大名や、家康の一門、家臣に加増されたのである。

家康は、直轄領を増やし、

さらに井伊、本多ら譜代家臣を大名として独立させると、

関東から京都、大坂を結ぶ諸国に配置した。

こうして、よその大名の土地を踏むことなく、

江戸、京都、大坂を、行き来できるようになった。 

謎解けた 風の後ろに回ったら  原 洋志

aab4f21e.jpeg

      
関が原の戦い

 

「影の功労者」

関が原で家康が、一敗地にまみれていたならば、

秀忠は徳川家の世継ぎの座を追われ、

、「御台所」になれなかったかも知れない。

関が原の戦いの勝利が、

秀忠のミスを帳消しにした格好だが、

その裏で、

初の夫・京極高次が、大きな役割を果たしていたことは、

あまり知られていない。 

一望千里帰る男の野火の跡  萩原三四郎
 

seki-15.jpg

   三成・大吉の軍団

もし、大津城に釘付けされた1万5千人もの大軍が、

関が原に到着していれば、

家康にとって、
三成との戦いは、

もっと凄惨なものになったかも知れない。

高次が大津城に籠ったことの戦略的意義は、

実に大きなものがあった。  

皮肉なことに、初・高次夫妻が、

妹・江・秀忠夫妻の窮地を救ったことは、

裏返すと、姉・茶々、そして豊臣家の行く末を、

暗転させる結果となったのだが・・・。

  

ポップコーン生きてることが祭りです  たむらあきこ

拍手[5回]



Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開