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川柳的逍遥 人の世の一家言
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考える人の真横で考える  和田洋子

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旅順ヤマトホテル

日露戦争の面影ー旅順随一の格式をもったホテル(上)。

日露戦争の面影。「男装の麗人」・川島芳子はここで結婚式を挙げた。

下ーさまざまな歴史の舞台となった正面階段と入口。

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「短期決戦しかない」  40分/5分

明治37年(1904)2月4日の「御前会議」において、

ついに、「日露開戦」は決定されることになる。

2月6日、日本はロシアに対して「国交断絶」を通告した。

2月9日、ロシアは日本に宣戦布告を行い、

翌10日に日本も、ロシアに宣戦布告を行う。

しかし、実は、宣戦布告の前から戦闘は始まっていた。

特に日本の方には、「速攻に出なければいけない事情」 があった。  

ひと言のノーがすべてを物語る  佐藤美はる

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「司馬氏記」

 

≪ 陸軍参謀本部の総長・大山巌が、作戦計画をたてている次長・児玉源太郎に対し、

  「児玉サン、何度も申しますが、長くはいけませんぞ」

    ということを彼の言うように何度も言ったが、

    児玉はもろん百も承知でいた。

    戦いが長引けば、日本の戦力は、からからに干上がってしまい、

    日本は自滅するのである。

    要するに、戦略の主眼は、

    『短期間にできるだけ、はなやかな成果をあげ、

    そのあとは外交でいう、心理的契機をとらえて平和にもちこむ 』

    というものであり、この主眼をはずしては、

    この戦争はまったく成りたたないことを、政府要人の全員が知っていた ≫

ペンキ塗るわけにいかないココロザシ  中野六助

この頃の日本側の作戦計画は、

主作戦場を満州に置き、ロシア軍の主力に打撃を与えて、

これを北方に追い、さらに、太平洋艦隊を破って、

「制海権を確保」することを方針とした。

このための陸軍側の作戦計画は、次の通りである。 

入るのはいとも容易い出入り口  下谷憲子
 

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    砲撃する満州軍

『第1期』  

第1軍は、朝鮮から北進して「鴨緑江右岸」(満州側)に進出し、

第2軍は、「遼東半島東南岸」に上陸して、根拠地を築き、第1軍と呼応して北進する。

第3軍も上陸して、「旅順要塞」を監視し、必要に応じてこれを攻略する。

第1・第2軍の北進に呼応して、「渤海東北岸」に第4軍を上陸させ、

各軍協力して「遼陽」を占領する。 

等分はできない昨日今日明日  吉川幸        

 

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  ロシア側旅順港-1  

『第二期』

第1期作戦が、春に開始されれば、その完結は秋となるので、

遼陽以北の好条件の地点に「冬営」し、

翌春、行動を開始してロシア軍の主力と戦い、再起不能の打撃を与える。

なお、両期間の適当な時期に「樺太」を占領する。 

おーい雲気持ちばかりが走り出す  松本光江

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   ロシア側旅順港ー2   

このような作戦計画大網のもとに、

当初の「制海権の確保」「朝鮮の確実な占領」について、

特に綿密に検討された。

ロシア艦隊は、有力な増援艦隊が到着するまでは、

もっぱら、旅順港に立て籠もって決戦を避け、

その勢力を温存するものと判断された。 

笑い皺も含め帳尻合わせとく  谷垣郁郎 

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       海軍省       

そこで日本軍は、開戦直後、仁川方面に上陸を敢行し、

進んで京城を占領、朝鮮に対するロシアの圧力を除くこととした。

ついで、海戦の勝利によって、「制海権」を完全に握ったうえで、

朝鮮の北西部に強大な兵力を上陸させて、

第1軍を編成し、

平安道から北進、南満州に進入しようとした。

上陸点は、結氷期は仁川を本土陸地、満州を補助上陸地とし、

解氷期は鎮南浦を考えた。

第1軍が、鴨緑江右岸に前進する頃、

遼東半島の東南岸、大孤山付近に、

第2軍を上陸させることを考えた。 

つぶやいたことばに色を塗っている  赤松ますみ

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三笠ー菊のご紋章と日の丸

2月6日午前9時、「連合艦隊」は佐世保港から出撃した。

先頭が第3戦隊、

ついで、駆逐艦、水雷艇隊、第3陣が第2戦隊、

第4陣が、連合艦隊の「旗艦・三笠」を中心の第1戦隊であった。

最後尾の水雷艇が港から見えなくなったときは、

昼近くになっていた。 

肝心なところに句読点がない  一階八斗醁
 
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     三笠ー2

秋山真之参謀は三笠の艦橋にいた。

その任務は、ロシアの旅順艦隊を撃破して、

「制海権を手に入れること」 と  

「朝鮮仁川港に陸軍を陸揚げすること」  であった。

一等巡洋艦の「浅間」を中心とした瓜生戦隊(瓜生外吉司令官)は、

主力が出た2時間後に、抜錨し仁川に向かったのであるが、

その途中で、仁川港から脱出してきた三等巡洋艦・「千代田」に出会う。 

エンドロールの中に溢れている未来  瀬渡良子

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三笠が誇る30㌢主砲

千代田の報告では、

二等巡洋艦・「ワリャーグ」と砲艦・「コレーツ」が、

仁川港に停泊しているとのことで、

早速、仁川港に赴いてロシア艦に出航を迫り、

港外に出たところで戦闘を開始した。

この時に、浅間から発砲された8インチ砲弾が、

「日露戦争の海戦における第1発目」 といわれている。

結果は、ワリャーグは大破、

コレーツは、無傷であったが、共に仁川港に逃げ帰り自沈した。

日本海軍の最初の勝利であった。 

曲線の方が正しい時もある  嶋澤喜八郎
 
2日後の12月8日に続きます。(だんだん面白くなっていきます)

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大仏の背中をガリバーが蹴った  井上一筒

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      旅順駅

≪ロシア時代に建てられた駅舎が今も保存されている≫      

多くの面で劣勢であった日本が、いかにして、ロシアに勝利したのか?

「40分で詠む戦争のエッセンスー」

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「プロローグ」  40分/4分

「日清戦争」の後の日本は、

帝政ロシアの南下政策に対応して、朝野を挙げて、

その対策に全力を尽くした。

軍事面で言えば、陸軍はすでに中国東北部(満州)を席捲し、

朝鮮半島北部にまで侵攻しているロシア陸軍を、

「いつ、どこで、どのような」 型で撃攘(げきじょう)するのか。

そのためには貧弱な日本陸軍の兵力を、

どのように準備するか。

三番目くらいの高さ保つ杭  河津寅次郎

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整列した歩兵第8歩兵たち

海軍は、旅順ウラジオストック「軍港」を持ち、

総兵力では、ほぼ日本海軍と同等のものを保有するロシア海軍、

在欧の「バルチック艦隊」を合すれば、

実に倍の戦力になる、強大な海軍力を持つロシアに対し、

「どんな戦略と戦術で対応するのか」 という難問と直面していた。

外交的には、

「朝鮮が日本の国家的利害の焦点」 として、

歴史的にも、地勢学的にも、正に不可分の関係にあった。

影を見るために後ろを振り返る  松原未湖

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「司馬氏記」

≪満州に居座ったロシアは、北部朝鮮にまで手をのばしている。

    当然ながらに本の国家的利害と衝突する。

   日本は、朝鮮半島を防衛上のクッションとして考えているだけではなく、

    李王朝の朝鮮国を、できれば市場にしたいと思っていた。

    他の列強が、中国をそれにしたように、

    日本は朝鮮をそのようにしようとした。

人の世は喜怒哀楽に欲を塗る  大海幸生

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     関東軍司令部

    笑止なことに、維新後30余年では、まだまだ工業力は幼稚の段階であり、

   売りつけるべき商品もないに等しいというのに、

    やりかただけはヨーロッパの真似を、つまり、

    手習いを、朝鮮に於いてしようとした。

   その真似をしてゆけばやがては、強国になるだろうと考えていた。

   自然、19世紀末、20世紀初頭の文明段階のなかでは、

    朝鮮は、日本の生命線ということになるのである ≫

長いもの巻かれたふりをして生きる  嶋澤喜八郎

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  関東軍司令部内部

「日露戦争」が勃発する下地は、すでに出来上がっている。

ロシアのほうは自信満々であった。

「日本になど負けるはずがない」

その根拠もちゃんとあった。

明治36年(1903)に日本にやってきたクロパトキン陸相は、

日本陸軍をじっくりと見学した後で、  

「日本兵3人にロシア兵は1人で間に合う」

  と言い放った。

一方、海軍は、西郷従道山本権兵衛のコンビで、

世界五大海軍国の末端に連なるまでに至ったのだが、

やはり明治36年に、

「大観艦式」に訪れた巡洋艦・アスコリド艦長・グラムマチコフ大佐の報告は、 

「物質的装備は整っていても、

  海軍軍人精神はまだまだ、軍艦の操法、運用は幼稚」

 

というものであった。

足し算をしては誤算をしてしまう  籠島恵子

ロシアは、「開戦いつでもよし」の状態にある。

それに対して日本の方は、

「できることなら日露戦争は避けたい」

要するに、勝つ自信がなかったのだ。

そうした「日露戦争回避論者」の筆頭が、伊藤博文であった。

伊藤は、戦争を避けるために対露交渉をすべく、

明治34年(1901)11月、ペテルブルグを訪れた。

そこで伊藤は、ロシア帝政政府における唯一の日露戦争回避論者である、

大蔵大臣・ウィッテに歓待された。

また、外相・ラムスドルフも、 

「軍事ではなく外交で問題を処理したい」  と述べた。

甲冑の中に届いている夕日  たむらあきこ

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 伊藤博文

これは、実は、外交的駆け引きに過ぎなかったのだが、

伊藤は、日露戦争を回避できると思い込んだ。

そして、同時進行していた「日英同盟」は、

「見合わせるように」 と政府へ助言をした。

当時の桂太郎首相、小村寿太郎外相にとって、

こうした私的外交は、迷惑至極であった。

茶柱が立とうとたつまいと挑む  竹内ゆみこ

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   日英同盟の諷刺画

≪左側のロシアに後から背中を押す英国≫

しかし、幸か不幸か、伊藤は裏切られる。

ドイツ・ベルリンのホテルで待つ伊藤の許に届いたロシアからの文章は、 

「ロシアの満州での行動は自由である、日本の朝鮮での行動は、

 制限された自由しか認めない」

 

というものであった。

こうなっては、強国イギリスに後ろ盾になってもらうしかない。

即ち、「日英同盟」である。

イギリスも、極東でのロシアの傍若無人な行動に、

脅威を感じていたのだろう。

極東の小国、日本との同盟に応じる。

積ん読の中であくびをする栞  泉水冴子

明治35年(1902)1月30日、日英同盟は調印された。

大きな後ろ盾が出来上がったのである。

明治36年(1903)、日本はロシアに対して、最後の外交交渉を行うが決裂。

この段階で日本に大問題が起きた。

それは日本陸軍の対露作戦計画の中心人物である、参謀次長・田村怡与造が、

36年10月1日に、突然病死したのである。

また一つ悲しいものをファイリング  中野六助

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   児玉源太郎 

田村は、参謀総長・川上操六の後継者として、

部内の嘱望を集めていて、「今信玄」といわれていた。

その田村が、作戦計画のまとめの時期に、急逝したのである。

田村の後任として、その職に就いたのが児玉源太郎である。

児玉は、日清戦争当時、陸軍次官兼軍務局長として、

事実上の大臣職を見事に成し遂げた実績があり、

その後、台湾総督、陸軍大臣、内務大臣、文部大臣等を歴任した大逸材である。

その児玉が、国家の危機にあたって、

兼職をやめ、進んで下級職である参謀本部次長の職に就いた。

中央統帥部としては、正に磐石の人事態勢であった。

理想論乗せて軋んでゆくレール  桂昌月

2日後の12月6日に続きます。

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乗り違えたバスで終点まで行こう  加納美津子

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「日露開戦」

日露戦争は、日本がロシアに奇襲をかけたことによってはじまった。

明治37年2月8日、

朝鮮半島の西岸仁川に停泊していたロシア軍艦に、

砲撃を加え、

翌9日には、

当時、ロシアの極東基地になっていた「旅順」への攻撃を開始した。

ロシアに対して、「宣戦布告」をしたのは翌日、

すなわち、2月10日であった。

臍の緒を切って引導渡される  森吉留里恵

日本が開戦にあたって奇襲でのぞんだのには、

二つの理由がある。

一つは、ロシア海軍の主力である「バルチック艦隊」が到着する前に、 

「ロシアに打撃を与えておかなければならない」

 

という点である。

もう一つは、まだシベリア鉄道が開通したばかりで、

しかも、単線のため、ロシア側の物資輸送が、

スムースにいかないことをみこし、 

「弾薬などが、運びこまれないうちに決着をつけてしまおう」

 

という、作戦を立てたからであった。

ピーマンのガランドウから呼び出され  谷垣郁郎

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もっとも、この二つ目の理由については、

日本側は笑うに笑えない誤算をしている。  

「単線のシベリア鉄道においては、空の貨車が帰されるだろう」

  

と考えたのだ。   

「一本の線路で、空の貨車が帰れば、その分、貨物列車が途中で滞るに違いない」

   

という、日本側のあては、完全に外れてしまった。

ロシアは、満州に到着した貨車を壊し、

空の貨車を帰すようなことを、しなかったからである。

灰色の答えを出してすり抜ける  早泉早人

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戦いは、5月になって激しさを増した。

初期での最大の戦いは、8月の「遼陽の会戦」であり、

このとき、ロシア軍は、22万の軍勢をつぎこみ、

日本も、13万の軍勢が集結した。

これがいかに激しいものであったかは、

ロシア側に2万、日本側にも2万、

合わせて、「4万人の死傷者が出た」 ことによってうかがえる。

いさかいをまだ悔いている雨の月  後洋一

そうこうするうちに、10月15日、

バルチック艦隊が、極東へ向けて出発したという報告が入った。

それまでに、旅順を何とかして落とさなければならないということで、

日本軍の主力は、旅順に照準をあてて攻撃した。

このとき、軍司令部は、

旅順港を見おろす位置にある「二〇三高地を占領する作戦」を立て、

11月28日から12月5日までの激しい戦闘の末、

占拠に成功した。

4Bで裂く坂の上坂の下  山口ろっぱ

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もっとも犠牲も大きく、6万4千軍のうち、1万7千人が死傷したという。

こうしてついに、

翌・明治38年1月1日、

旅順要塞司令官・ステッセルが降伏してきたのである。

生きているから階段によく出会う  森中惠美子

その次の大きな戦いは、

3月1日から10日にかけての「奉天会戦」で、

これも激しい戦いとなり、

日本軍24万のうち、7万、

ロシア軍も、32万のうち9万の、死傷者を出している。

このころにはすでに、ロシア軍は敗走しはじめていたが、

日本軍も弾薬がつき果てていた・・・。

ハンカチに書いてもらった処方箋  井上一筒

次ページの 『40分で読める』 日露戦争にお付き合い下さい。

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休みます樹氷を見たくなりました  加納美津子

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       常高寺

「初の遺言」

は心ならずも、姉・と妹・の真ん中に立つこととなり、

どんなに複雑な気持ちで、生き抜いたことだろう。

晩年、初(常高院)は、高次の菩提を弔うため、

また、自らの心のよりどころとするため、

小浜の地に「常高寺」を建立。

没後は、その常高寺に埋葬された。 

初は死んでやっと、自分の安らぎを得ることが出来た。

 

死に顔のうつくしさなどなんとしょう  時実新子

初の遺言には、 

「将来、国替えがあっても、

  常高寺は若狭にとどめ置いてほしい」

 

とあり、彼女が、 

「小浜に強い愛着を持っていた」 
 
ことをうかがわせる。

実際、京極家はその後、出雲・松江に国替えとなるが、

常高寺は残された。

初は、今も、木々に囲まれた静かな墓所から、

「愛する小浜」の地を見守っている。

眼差しを扶養家族に入れますか  蟹口和枝

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    常高寺・初の墓

「遺言状に刻まれた初の姿」

小浜の常高寺には、肖像画をはじめ直筆の書状など、

常高寺ゆかりの品々が伝わる。

なかでも、その死の1ヶ月ほど前に書かれたとされる

遺言書・「かきおきのこと」の写しは、

その人となりを、後世によく伝えている。

わたくしの億光年を束ねます  桂 晶月

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初直筆の書状と肖像画(常高寺)

高次の跡を継いで、

小浜藩主となった忠高(高次の側室の子)に

宛てられた書状では、

常高院に仕えた侍女や小姓など、

実名をあげたうえで、生活や行く末を頼み、

さらには、
三姉妹の異母弟である、

浅井作庵の暮らしをも案じている。

階段の踊り場で手を差しのべる  湊 圭史

作庵は父・長政が自刃した小浜城陥落の折、

命からがら生き延び、

やがて大坂の陣では、

異母姉・淀のもとに馳せ参じ、大阪方として戦った。

徳川に反旗を翻したこの人物は、

当然、徳川から睨まれることになったが、

そこに手を差し伸べたのが、常高院だった。

美しいと愛は同意語だと思う  柏原夕胡

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出家させるのを条件に、

京極家の客分待遇として、500石をとらせたのである。

その遺言状からは、

最期の日まで、

周囲の人々へ温かいまなざしを向ける、

常高院の人柄を偲ぶことができる。

朝露のように岩清水のように  新家完司

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有り様もあらざるモノも現世  山口ろっぱ

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   御台所お江の葬儀

寛永3年(1626)、54歳で逝ったお江。

葬儀は徳川幕府の威信をかけ芝増上寺で、荘厳華麗に行われた。

「お江との別れ」

徳川家の宗旨は、浄土宗である。

家康は、芝の三縁山・増上寺を徳川家の菩提寺に定めており、

元和2年(1616)4月17日に死去すると、

その葬儀が増上寺で執り行われている。

お江の葬儀は、家康に続く形だった。

その6年後に、

同じく54年の生涯を終えた秀忠の葬儀が、

増上寺で執り行われることになる。

つぶやいたことばに色を塗っている  赤松ますみ

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     徳川家霊廟

寛永3年(1626)9月15日、

江戸城・西丸御殿で死去したお江の遺骸は、

18日に増上寺に送られた。

お江は、荼毘に付されることになったが、

荼毘所は麻布・我善坊(がぜんぼう)の地に、

設けられている。

葬儀は、10月18日に執り行われた。

既に京都から秀忠・家光・忠長たちは、江戸に戻っていた。

四つ葉など揃えて野辺で待ってます  信次幸代

前・将軍の御台所にして現・将軍の母・お江の葬儀の様子を見てみよう。

麻布の荼毘所から増上寺までの、

1000間(約1800m)もの間、
筵が敷かれた。

その上には、白布が置かれた。

一間ごとに警備の武士が配置され、蝋燭が提げられた。

増上寺に安置されていたお江の遺骸は、

この白布の上を麻布の荼毘所まで進んだのである。

中程で仏間がしてる生欠伸  岩根彰子

荼毘所は、100間四方の規模で、

四方に門が付けられていた。

荼毘に付される前に、香が焚かれていた。

その香りが周囲を満たす中、

増上寺をはじめとする浄土宗寺院の僧侶が、

法文を読みはじめる。

その中には、家康の母・於大の方の法名を院号とし、

その墓所もあった伝通院の僧侶もいた。 

≪やがて伝通院には、

    お江の娘・千姫や家光の御台所・鷹司孝子が葬られることになる≫

 

きらきらと水陽炎や経流し  大西泰世

僧侶たちの読経の中、

お江の遺骸を包むように積み重ねられた沈香に、

一度に火が放たれる。

その香りと煙は、周囲10町(約1090m)余りに広がったという。

まさに戦国から徳川の世にかけて、

54年にも及ぶ波乱の生涯を駆け抜けた。

お江にふさわしい華やかな火葬だったといえるだろう。

そしてお江の骨は、棺に入れられ、

増上寺境内に造られた霊廟に、納骨されることになる。

火葬する炉にも部屋番号がある  松田順久

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   お江の墓

お江が葬られた宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、

高さ5・15mもある。

そして、霊牌所が造られるが、

完成したのは、寛永5年(1628)のことだった。

お江改め崇源院には、

11月28日に朝廷から従一位が贈位された。

以後、昭和34年の改装で棺が開けられるまで、

お江は秀忠とともに、

増上寺内の崇源院廟所で、眠り続けたのである。

鼻水の積が1ギガバイトほど  井上一筒


 

 

 

 

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