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川柳的逍遥 人の世の一家言
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泣いた子の記憶ばかりが母にある  森中惠美子

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      徳川家光

「将軍の生母・天皇の姑」

幕藩体制の基盤強化に励んだのが、

二代将軍・秀忠だとすると、

それを完成させたのが、

三代将軍・家光である。

大老・若年寄・大目付・目付などの「幕府機構」を定め、

諸大名には、「参勤交代」を義務づけ、

対外的には、「鎖国体制」を完成させたといわれている。

足は葦を合わせ持ってる屈性  中山恵子

にもかかわらず、家光は、 

「すべて重臣まかせ」、

「馬鹿で頓狂者で、他愛もない人」

 

など、後世の人からも酷評される始末。

お忍びで、市中に出たり、

家来を置き去りにして遠乗りしたり、

男色にふけったりと、奇行も目立ったという。

B面を捨てたときから光りだす  中野六助

そうした性格や行動の一端は、

幼少時代に乳母であるお福(春日局)に、

溺愛されるように育てられた結果かもしれない。

病弱で、気弱な家光を当初、

父・秀忠や母のお江は遠ざけるが、やがて父母とも和解し、

徳川三代将軍として、成長していく。

潮騒の欠片 あしたへ握手する  前中知栄

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      明正天皇

「天皇の姑」

お江が秀忠との間に設けた五人の娘のうち、

末娘の和子(14歳)は、

御水尾天皇(25歳)のお妃となる。

そして元和9年、入内した和子が、

後水尾天皇との間に、興子内親王を出産した。

この興子こそ、その後、奈良時代の孝謙天皇以来、

実に860年ぶりの女帝となる、 

明正天皇であった。

 

尾が生えたのでしなやかに振っている  井上一筒

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和子が、後水尾天皇に入内する状況を描いた屏風絵

≪和子は元和6年(1620年)5月8日江戸城を出発し、

    5月28日に京都に着き二条城に入る。

    そして、6月18日、二条城から御所への行列には、

    武家側は藤堂高虎を総指揮者とし、

    譜代大名が家来を多数つれて従い、また公家衆も多数これに従った≫

和子は、天皇家と徳川家の橋渡しする、

”政治的役割” を担わされたわけだが、

和子入内への道は、決して平坦なものではなかった。

和子入内前に、天皇が他の女官との間に皇子を設けたことで、

徳川方が不快感を示し、

入内の期日を延期してしまったからだ。

秀忠としては、和子が皇子を産み、

自分が天皇家の外戚となることで、

徳川将軍家の地位を磐石にしたかった。

遮断機をくぐって通う道がある  籠島恵子

天皇と和子の仲はどうだったのか。

政略結婚で結ばれた二人ではあったものものの、

その仲は睦まじかった。

例えば、元和7年(1621)12月16日に、

天皇の御所に和子が出向き、ふたり水入らずで、

酒のお酌をし合ったことことや、

和子の装束がよくにあっていることに、

天皇が満足したという、記録が伝わってくる。

まぼろしを剥がしつづけた現在地  たむらあきこ

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  明正天皇像

和子は天皇との間に、2人の皇子と5人の皇女を儲けたが、

皇子はふたりとも夭折してしまう。

そして、和子の長女・興子内親王は、

後水尾天皇が譲位するのを受けて、

寛永6年(1629)に、第109代の明正天皇として即位する。

江は、大御所・徳川秀忠の正室にして、

将軍家光の生母、さらには、

天皇の姑として、
その晩年を迎えることになった。

遣り遂げた夕日黙って山の端に  斉藤和子


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大河ドラマ・「お江」-第45回-「息子よ」  あらすじ

元和2(1616)年、秀忠(向井理)は、年頭のあいさつで、 

「多くの血を流した時代は終わった。

 今年は良き年にして参ろうぞ」

 

と語りかけた。

その言葉に感激した民部卿局(宮地雅子)が気合の

入りすぎた返事をして笑いを誘い、

場は平和な時代の幕開けにふさわしい、

和やかな空気に包まれる。

お笑いの地位の向上委員会  杉本克子

一方で、千(忽那汐里)は夫を死に追いやった父が許せず、

秀忠とは、口も利かない状態。

こっそり化粧をしていた竹千代(水原光太)と、

その姿を目撃した江(上野樹里)の関係も、

ぎきしゃくしたままで、
徳川家はいまだ平和とは言えなかった。

共有の藁が浮いたり沈んだり  中井アキ

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江と秀忠は、竹千代に「なぜ化粧をしたのか」

問いただす。

だが、竹千代はその理由を語らない。

口を閉ざす息子を、 

「戦で皆がつらい思いをしているときに化粧など」

 

と叱る江。すると竹千代は

「戦などやめればよかったのです。

  戦で伯母上たちを殺したのは、父上ではありませんか」

と言い返し、立ち去ってしまった。 

焦ったら負けだと諭す試歩の杖  関口きよえ

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江は、そんな竹千代が、

やはり世継ぎにはふさわしくないと考える。

だが常高院(水川あさみ)は、 

「竹千代の心の中を見てやることこそ肝要」

 

 と江を諭す。

夫と義父の関係に気をもむ優しさを、

「自分の息子にも向けてみては」 という思いからだった。

一方、秀忠は、戦を憎み、父に反発する竹千代に、

かつての自分を重ね合わせていた。

本心を見せないために笑ってる  西内朋月

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そんな折、

鷹狩りを楽しんでいた駿府の家康(北大路欣也)が病で倒れ、

それを伝える知らせが、秀忠と江のもとに届く。

だがよく聞くと、家康は回復に向かっているとのことで、

2人はひと安心。

それでも江は秀忠に、家康を見舞うよう提案する。

迷ったら基準は空と決めている  山口美千代

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江は、互いに心を閉ざしている夫と義父が、 

「この機会に腹を割って話をしてくれれば」
 
と考えたのだ。

かくして、駿府に駆けつけた秀忠。

しかしいざ父親と顔を合わせると、

なかなか打ち解けた話ができない。

そうこうしているうちうに、江も駿府にやってきて、

つかの間、3人は不器用ながらもともに穏やかな時間を過ごす。

ところが、家康の病状が再び悪化して・・・。

自信家の語尾少しだけふるえてる  三村一子

拍手[3回]

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風生まれ命育む懐へ  合田瑠美子

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姫路城・西ノ丸にある千姫・化粧櫓(国重要文化財) 

「写真で見る千姫の時間」―姫路城へ潜入

 

徳川の血筋である千姫は、

落城の大坂城から救出されたあと、

翌・元和2年(1616)に

姫路城主・本多忠政の嫡子・忠刻と結婚し、

波乱の人生のなかで、 

最も幸せな時期を姫路城で、過ごしたと言われる。

 

これからを踏ん張らねばと青もみじ  山本昌乃

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外部から見る百間廊下          百間廊下

「姫路城」の西の丸には、忠刻と千姫の為に、

「中書丸」という御殿があり、 

その御殿を、囲むように建てられているのが、

「百間廊下」といわれる建物。 

異次元に跳べる魔法の粉をふる  桂 昌月

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               長い長い百間廊下

「百間廊下」の中には、

千姫お付きの女性たちが住んでいた「長局」があり、 

それに続いて、「化粧櫓」がある。

しあわせの形が少しづつ変わる  籠島恵子

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百間廊下から2階へ行く階段へ

『化粧櫓』とは、千姫が朝夕欠かさず、

城の西北の男山にある「天満宮」 を遥拝に訪れる折に、

身支度をしたり、

化粧直しをしたりするための休憩所である。

申し遅れましたが私は女  前中知栄

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                 渡り廊下                       

この櫓、千姫の持参金で建てたといわれる。

もちろん、この「化粧櫓」だけでなく、

そこから続く「渡櫓」と、

塀に囲まれた西の丸一帯、

忠刻&千姫の屋敷も建てられた。

そうかそうかと時計回りのバスに乗る  森田律子

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         2階から3階長局へ

この内部からは、城内の天守群や、西ノ丸の各櫓、

三の丸などが、一望できる。

千姫が眺めていたであろう三の丸の、

西側には、かって「御殿や屋敷」があり、

東側には、「向屋敷と庭園」があり、

本多氏以降の政務の中心の場であった。 

幸せになるまで廻る木馬たち  中井アキ
 
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       化粧櫓

建物や庭園は、明治時代に取り壊され、現存しておらず、

三の丸跡のうち、本城跡は「千姫ぼたん園」に、

向屋敷跡は、「三の丸広場」となっている。

三の丸広場は、「市民の憩いの場」となっており、

花見や各種のイベントスペースとしても使用されている。

人間の心を持っているお城  太田扶美代

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                化粧櫓ー出口

結婚の翌年、桑名から姫路に国替えとなり、

夫・忠刻とともに、、「姫路城」に入城する。 

身の丈に合うまで靴を履き替える  笠嶋恵美子
 
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    姫路城大天守 

「千姫生涯」

 

千姫は、慶長2年(1597)4月11日、

秀忠と江の長女として、伏見城内の徳川屋敷で産まれた。

慶長8年(1603)、7歳で、従兄弟である秀頼と結婚。

たいへん夫婦仲睦まじかったという。

二人が詠んだ連歌に2人の仲睦まじさが伝わる  

『初秋の 風を簾に まきとりて』   秀頼

『軒はにおほう   竹の葉の露』  千姫

  

花いかだ舞うて沈んでまた舞うて  神野節子

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      千姫筆跡

慶長20年(1615)19歳の時、

大坂夏の陣では、祖父である家康の命により、

落城する大坂城から救出される。 

荒城の月は地デジになじめない  美馬りゅうこ

 

その後、秀頼と側室の間の娘・奈阿姫(天秀尼)が、

処刑されそうになった時に、

千姫は彼女を自らの養女にして、命を助けた。

青汁の雫の中の薬学部  井上一筒

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向かって左から二番目の、侍女に手紙を読ませている女性が千姫とされる。

≪葵紋を散らした鹿の子絞りの小袖を着ている≫


元和2年(1616)、本多忠刻と結婚。

この時、「千姫事件」が起こる。

津和野藩主・坂崎直盛が、輿入れの行列を襲って、

千姫を強奪する計画を立てていることが発覚し、

直盛は自害、坂崎氏は改易処分となった事件である。

≪この時に、忠刻には、10万石の化粧料を与えられたといわれる≫ 

風穴へ真面目な貌で入り込む  山本芳男

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     千姫と幸千代

元和3年、本多家が播磨姫路へ移封。

元和4年に、長女・勝姫を出産し、

元和5年には、長男・幸千代が生まれる。

しかし、元和7年に幸千代が3歳で死去し、

寛永3年(1626)には、夫・忠刻、姑・熊姫

そして、母・江が死去するなど不幸が続いた。 

止まり木に残る心の落し物  河津寅次郎

 

その後、本多家を娘・勝姫と共に出て江戸城に入り出家。

「天樹院」 と号す。

出家後は、娘と2人で「竹橋の邸」で暮らした。

寛永5年(1628)に勝姫は、

父・秀忠の養女として、池田光政の元へ嫁いだため、

天樹院は、一人暮らしとなる。 

強がりを言ってしまったあほやなあ  新川弘子

 

寛永9年(1632)、父・秀忠死去。

寛永16年(1639)、光政勝姫の嫡男・池田綱政が誕生。

天樹院の外孫になる。

寛永20年(1643)、鎌倉の東慶寺の伽藍を再建。

正保元年(1644)には、迷信を避ける為に、

江戸城から移った弟・家光の側室・夏(順性院)と、

その後、生まれた家光の三男・綱重と暮らす。 

≪このことで、天樹院は、大奥で大きな権力を持つようになった≫

 

寛文6年(1666)、江戸で死去。享年70歳。 

生涯の一誌ありけり天の川  大西泰世

 

拍手[7回]

雨風にさらされている耳の位置  小川佳恵

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戦が終り繁栄がはじまる江戸

「江の新しい戦い」

豊臣が滅び、徳川の世となり、平和な世の中となった。

だがには、「次の戦い」があった。

夫・秀忠の後継者争いだ。

乳母のお福に預けていた竹千代より、

自分の手で育てた国松に、愛情を注いでいた江は、

伯父・信長の面影の残る国松に、

第三代将軍を継がせようと思っていたのだ。

舞台反転 印鑑を捺すたびに  赤松ますみ

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駿府城家康坐像

ところが、お福の駿府での直訴に、

家康が、「長幼の序」の必要性を説き、

長男の竹千代を、跡継ぎに決めてしまった。

江は腹を決め、竹千代と向き合って、

将軍に必要なことをじっくりと語って聞かせる。

横からお福が、口を挟もうとするが、 

江の気迫は、それを寄せつけようとしなかった。

 

斬り捨てるときの木蔭を探さねば  森中惠美子

元和2(1616)年正月末、

駿府城で家康が倒れたという報せが、

江戸城の江たちのもとにもたらされ、

江と秀忠は駿府に赴き、家康と最期の別れをした。

そのとき、家康は秀忠の隠し子・保科正之の存在を明かす。

そして、数日後の4月17日、

家康は、75年の波瀾の生涯を閉じた。 

省かれた形に朝が白みだす  美馬りゅうこ

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江戸日本橋に入る大名行列

 

元和4(1618)年、秀忠は戦乱のなくなった世の中で、

将軍職を全うする為には、 

「政務の場と生活の場を分けることが大切だ」 

 

と言い、

生活の場を「奥」、

政務の場を「表」と区別する「大奥法度」を作った。

マタタビのエキスを目薬に混ぜる  井上一筒

元和9年(1623)、元服し名を竹千代から、

「家光」に改めた徳川家の長男は、

7月27日、伏見城で将軍宣下を受け、

三代将軍・「徳川家光」が誕生した。

それに伴い、秀忠は大御所となった。

≪それより三年前の元和6(1620)年には、

    後水尾天皇25歳へ14歳の和子の入内が決まっている≫

改札の向こうにあすという流れ  奥山晴生

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       千 姫

『余談-1』・・・「千は弟思い」

竹千代は病弱で、吃音であったとも言われ、

母のお江に愛されずに育ち、

女性の好みが、とても難しい人だった。

男色の噂さえあり、大奥へ渡ることも稀で、

世継ぎができず、周りにいる者の気をもませた。

めがねかけて裏返してもサンマなり  壷内半酔     

 ただ家光には、尼僧好みという一風変わった趣味があって、

伊勢の慶光院の住職でった尼さんを還俗させ、

側室にしている。

千姫が秀頼の短冊を納めた尼寺の、

眉目秀麗な尼さんである。

この尼さんを連れてきたのが、

家光と同腹の姉、千姫であった。

とても仲のいい姉弟だったから、好みの難しい弟のために、

姉が一肌脱いだということだろう。

筋書きの通りに行かぬ穴がある  西内朋月

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          武家諸法度

『余談ー2』・・「武家諸法度」

慶長20年7月7日、家康・秀忠の命により諸大名は、

伏見城に集められ、
本多正信から、

「このたび武家の法令をおおせいださる

と会合の目的を宣言された。

つづいて僧侶・崇伝が、

武家の法令・「武家諸法度」が読み上げられる。

注目は、幕府が一の目的として打ち出した、

「禁中並公家諸法度」だろう。

「天皇や公家は、今後一切政治に関与せずに、

  学問に専念すること」 
と言うのである。 

≪これによって、朝廷は、政治から完全に切り離されることになる≫

 

とんがり帽子の屋根が夕日を串刺しに  籠島恵子

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『余談ー3』・・「参勤交代」

諸法度のもうひとつの注目点は、参勤交代の制度である。

秀吉の聚楽第時代の習慣・強制を刷りなおしたもので、

人質のように、妻子を江戸に住まわせ、

大名行列を仕立てさせることで、

大名の財力を削ぐ目的があった。

この大名を苦しめた強制が、宿場町を繁栄させ、

江戸が大都市になっていく要因にもなったのである。

城下町ここだけ風が動かない  太田扶美代

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  宿場を進む参勤交代

「諸大名に厳守を命じた法度」 

の内容とは、
国元と江戸とを、

1年交代で往復する「参勤交代」を義務づけ、

大名の妻子は、江戸に住むことを強制され、

1年おきに江戸と国元で過ごすことを義務づけた。  

≪規定では、在府・1年・在国・1年であるが、関東の大名は半年交代であった≫

 

参勤交代城は死ぬまで痩せていた  小川しんじ


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大河ドラマ「お江」-第44回・「江戸城騒乱」  あらすじ

 

秀忠(向井理)は、伏見城に諸大名を集め、 

「徳川政権下で武家がどう振る舞うべきか」
 
を定めた『武家諸法度』を発表。

長く続いた乱世の終りを宣言する。

江(上野樹里)とともに目指す” 太平の世 ”に向けて、

大きな一歩を踏み出したのだ。

 指なめて明日のページを繰っている  谷垣郁郎

だが江戸にいる江は、

徳川家が、淀(宮川りえ)や秀頼(太賀)たちを、

死に追いやったことに、

深い悲しみと責任を感じ、食事ものどを通らない状態。

そのうえ、「淀たちには死んでもらう

と決断したのが秀忠だと知らされ、

さらに大きな衝撃を受ける。

ギシギシと地球の軋む音がする  新川弘子

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そんな中、常高院(水川あさみ)千(忽名汐里)が、

江戸に移されてきた。

3人でひとしきり泣いた後、

常高院から淀の最後の文を手渡される江。

文には、

「するべきことをした秀忠様を恨まないように

と記されていたが、

江は父を許せないという千が、憐れでならず、

夫の非情な決断に対して、

複雑な思いを拭い去れない。

泣き言はお止し湿度が高くなる  オカダキキ

やがて、秀忠が江戸に帰還した。

秀忠は、自分を出迎えた江に、さっそく戦の経緯を話し、 

「最後の決断については、憎まれてもしかたがない、

  だが乱世を終わらせるには、必要なことで悔いてはいない」

 

と述べる。

江は、夫の胸の内を理解しながらも、

太平の世のために、
多くの人が犠牲になったことを、

どうとらえていいのかわからない。 

「この胸が裂けてしまいそうなのです」
 
と、江は
自身の混乱を夫にぶつける。

それを受けて秀忠は、江にある覚悟を語る。

アナログの窓に埃も木漏れ日も  岡谷 樹

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一方、「父に夫を殺される」 という重すぎる現実に耐えかね、

泣いてばかりいる千。

国松(松島海斗)は、そんな姉になぐさめの言葉をかけ、

江を感心させる。

実は、竹千代(水原光太)も、

同じように千を心配していたが、

引っ込み思案な性格ゆえ、

弟のように声をかけることができず、

ただ物陰から見守るばかり。

しかし、常高院だけは、姉を思う竹千代の優しさに、

気がついていた。

秋風にあなたが言いかけたことば  河村啓子

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そして、息子たちに対する江の接し方の違いが気になり、

江と秀忠に、

「もっと竹千代の話を聞いてみては」

と提案する。 

「竹千代と国松、どちらが世継ぎにふさわしいか見極めたい」

 

と考えていた秀忠は、よい機会と考えてその提案に乗り、

ある日、2人の息子を呼び出す。

城は今節電中で悪しからず  合田瑠美子

拍手[4回]

わが死後の植物図鑑きっと雨  大西泰世

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  大坂・夏の陣図屏風         

 

「大坂の陣の悲劇」

         

徳川家康が豊臣家を滅ぼし、

天下統一を完成させた戦いとして知られる「大坂の陣」。

自らも大坂の役に参戦した黒田長政が、

絵師を集めて描かせたとされる「大坂・夏の陣図屏風」に、

その合戦の様子が、克明に描かれている。 

絶えることなきゲルニカの野辺送り   井上一筒
 
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  大坂の陣切り取りー1

屏風絵に描かれた通り、

「大坂の陣」は、戦乱の世においても、

非常に珍しい " 市街戦 ” であり、

多くの非戦闘員が、巻き込まれた戦いであった。

まず、屏風絵の「右側」には、

徳川家康真田幸村など、

武将たちによる戦闘の様子が、描かれている。

原爆の図がいつまでも乾かない  河村啓子

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            大坂の陣の切り取りー2・3

そして、屏風絵の「左側」には 

徳川方の雑兵達が、大坂城下の民衆に襲い掛かり 

偽首を取る様子、

略奪を働き身包みを剥がすところ。   

さらには、

川を渡って逃げる民衆に銃口を向ける光景 

女性を手篭めにする様子、

雑兵に襲われる女性、

首を斬られる農民、

奴隷狩りに遭う人々。 

  

などが 生々しく描かれている。  

ポップコーンの底一面に焼け野原  岩田多佳子
 
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  奴隷狩りに会う民衆

記録によれば 一万数千の首の内、

偽首を取られるなど、殺害された民衆が数多くおり 

生き残ったものの、奴隷狩りに遭った者の数は 

大人から年端の行かぬ子供まで、

数千人に達したとされる。

かなしみの言葉ばかりが地に溜まる  森中惠美子

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        道々で争いが絶えなく繰り返される

これら非戦闘員への被害が拡大した背景には、

徳川・豊臣両家の思惑や、

政治的、軍事的要因が、大きな影響を及ぼしていたことが、

近年の研究によって明らかになった。

さらに、最近発見された史料から、

この戦いは大坂の民衆を分裂させ、

一族同士でさえも、殺し合うという、

最悪の事態を引き起こしていたことが、分かってきた 

もう雲になったか風に聞いている  笠嶋恵美子
 
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       川を逃げる市民・中には、女を守る男もいる

まだ水になれぬ悲しみ抱いている  湯澤冬扇坊     

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           川を逃げていく市民も動物も  

肋骨は木魚じゃないよ渡し船  増田えんじぇる

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            雑兵が婦女子を襲う-1

生命線今年あたりで切れている  森 廣子

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            雑兵が婦女子を襲う-2

空碧く救命胴衣あとふたつ  小嶋くまひこ

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          雑兵に身包みを剥がされる市民

入っています入っていますこの世です  時実新子

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          生きて行く為にひたすら逃げる

命でしょうか秋雨の香りして  前中知栄

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         にせ首にするために狙われる首

人間に生まれて楽しかったかい  笠原道子

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         首をもって逃げる雑兵とその首の妻

ロバの死にロバの貌した神が来る  小川しんじ

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         中には、市民を助ける兵もいる
 
諦めたとき美しくなるこの世  新家完司   
 

「その後」

 

大坂の陣の1年後の元和2年(1616)5月7日、

淀殿が父・浅井長政の菩提寺として建立した養源院で、

仏事が執り行われた。

施主は、だった。

将軍の御台所である以上、夫と義父によって、

自害させられた姉・淀を弔う仏事など、

執り行えるはずもなかった。

だが江は、この日にせめて、仏事を執り行うことで、

姉を救えなかった自分への、

慰めにしたのかもしれない。

ぎゅうぎゅうに詰めた袋の後日談  山本早苗

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そして、豊臣氏が滅んだ大坂の陣で大坂の町は、

一時的に荒廃したが、

江戸幕府は、大坂を天領とし、大坂城を再建する一方、

河川の改修や堀の開削を行い、

諸藩も蔵屋敷を置いた。

蔵屋敷へは、水路で年貢米が運ばれたため、

「八百八橋」と言われるほど、橋と水路の多い町となった。

こうして、「水の都」として復興した大坂は、

日本全国の物流が集中する経済・商業の中心地となり、

「天下の台所」と呼ばれて繁栄した。 

チンすると溶けてしまった蟠り  岩根彰子

 

拍手[3回]

まぼろしを剥がしつづけた現在地  たむらあきこ

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    大坂城落城

「大坂城落城ーよもやま」

外堀まで埋められ、裸同然の大坂城では、籠城はできない。

大坂方の諸将たちは、外に出て奮戦した。

天王寺、岡山田の戦いでは、

家康の孫娘の婿・松本城主・小笠原秀政と嫡子・忠脩を、

討ちとり、
さらに、真田幸村が家康の本陣に迫り、

馬印を倒さざるを得ないまでに、追い込んだ。

ピーマンを刻むと獅子唐になった  井上一筒

しかし、所詮は多勢に無勢。

この戦いで、大坂方が有利だった時に、

秀頼が出陣する絶好のチャンスはあったが、

淀やその側近が、躊躇しているうちに期を逃してしまった。

淀君も、張り切って具足をつけ、

城内を駆け回り、指示を出していたが、

いざという部分で迷ったり、

決断のタイミングを逃すことが多かった。

言い訳をするうっかりが重すぎる  神野節子

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    夏の陣・模様

やがて、幸村も戦死し、

毛利勝永がなんとか兵をまとめて、城内に撤退した。

ここで、大野治長がようやく、

淀殿と秀頼の「助命嘆願」に乗り出し、

千姫を城外に脱出させた。

城内が混乱する中で、

常高院は、家来に背負われ城外へ脱出。

常高院に、淀殿とゆっくり別れを惜しむ時間などなく、

たとえ淀殿が、死ぬのを思い止まっても、

秀頼を含めて、助命を願っても、

家康が許すはずもなかった。 

どの坂を下るか夕日待っている  黒田忠昭

 

淀殿と秀頼の助命については、千姫も願った。

それに対し、家康、「将軍次第」といい、

秀忠は、 

「一度だけでなく、何度も戦いを挑んだのだから、

  仕方ないから早々に腹を切らせよ」

 

と言ったという。

秀忠としては、

父・家康が言わんとすることが分かっていたから、

仕方のない回答だった。 

見つからぬ答に黙秘しつづける  山本昌乃
 
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     秀 頼

淀殿と秀頼は、「山里丸の糒櫓」(ほしいやぐら)に入った。

ここで、井伊直孝から大野治長に、 

「助命は叶わない」

 

という最後通告があった。

最後をともにした中には、

大蔵卿局や長政の従兄弟にあたる饗庭局など、

浅井家ゆかりの者たちがいた。

見限った処へひたひたと足音  安土理恵

この隠れ場所を突き止めたのは、片桐且元だという。

浅井ゆかりの者が、

心ならずも家康の掌のうえで踊らされ、

残酷な役回りをさせられていたのだ。

そして、元和元年5月8日、「大坂城炎上」。

京都からも、大坂の方角の空が赤く染まるのが見え、

御所では清涼殿の屋根に上って、

眺める公家もいたという。

騙し絵を透かせばいくつかの伏字   山口ろっぱ

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     夏の陣・模様

大坂城が燃え上がるのを見て、

家康は、大政所の妹を母とする小出三尹(みつまさ)に、

「どうだ?」 と声をかけた。

その問いに、三尹は、 

「思し召しの程は、心得ず候えども、

  三尹は、未だかかる憂きことには逢い候ことなし」

 

と真情を吐露したので、

家康に諂って、祝いを述べていた諸大名は驚き、

三尹の勇気ある発言に、感じいって涙したという。

ひょっとして今飲み込んだのは毒か  みぎわはな

常高院は、落城の寸前にも、豊臣方の使者として、

徳川方との間の和睦交渉にあたっていた。

が、周辺の混乱が激しくなり、

常高院は、城内に一緒に入っていた従者とともに城外へ、

そして、京都をめざした。

その合戦の最中、足を負傷する。

その時の様子を、

淀殿に仕えた侍女のお菊が、証言している。

フルートが今日のできごとを話す  立蔵信子

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大坂城を脱出する常高院と菊

『おきく物語』

本丸に火の手が上がったため、

菊は、城外への脱出をはかるが、

途中、秀頼の馬印である「金の瓢箪」が、

置き捨てられているのに気付く。

敵の徳川方に奪われたならば、

豊臣家にとって、大恥辱になるため、

もうひとりの侍女とともに、馬印を壊し、

その場を立ち退いた。

歩いたら意外に長い一時間  清水一笑

その後、城外に出た菊は、

和睦の交渉に向かおうとしていた、常高院の一行に出会う。

常高院も戦いに巻き込まれて、足を負傷していたため、

自力で動けず、武士に背負われていた。

菊は、一行に加わり、

大坂城から12キロ離れた守口まで出て、

休んでいたところ、

家康側から、常高院を迎える駕篭がやって来た。

その時、常高院から菊たちに、

「城内にいた以上は、女といえども罰せられるかもしれない。

  できるだけのことはするが、覚悟はしておくように」

と諭したという。

神さまにやっと繋がる声がする  ひとり静

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   大坂城残念石               巨大石運搬模様

≪大坂城の石垣になれなかった石、そして、その石はこのように運ばれていた≫

こうして常高院は、戦場から離脱できたが、

姉・淀と再び会うことはなかった。

翌・8日、大坂城は落城寸前となり、

大坂城天守閣下の山里廓(やまざとくるわ)で、

淀殿は、秀頼とともに自害して果てたのである。

そのときの短刀は母・市の遺品だった。

風のたよりを信じてしまう彼岸花  森中惠美子

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大河ドラマ・「お江」-第43回・「淀、散る」  あらすじ

 

「大坂の陣」が終わって、しばらくすると、

家康(北大路欣也)は、淀(宮沢りえ)秀頼(太賀)に、

到底受け入れられない要求を突きつけた。

そして要求が拒否されるや、

それを理由に、再び豊臣攻めの兵を起こす。

仏滅のあっけらかんと開くドア  井上しのぶ

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秀忠(向井理)も、豊臣攻めに加わるべく上洛するが、

実は、ぎりぎりまで戦を避ける道を探っていた。

彼はまず、常高院に会い、 

「皆の無事を願う江の気持ちを淀殿に伝えてほしい」

 

と依頼。

また、東山の地に高台院(大竹しのぶ)を訪ね、

戦を避けるよう淀を説得してほしいと頼む。

だが、高台院は、今となっては、 

「淀の心を動かすことはできない」

 

と言って、秀忠の頼みを断る。 

同じとこ行ったり来たりする頭  石橋芳山
 
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家康は、そんな息子を一喝する。 

「戦なき世が欲しいなら、戦うて勝ちうる他にない。

  それもわからず、戦がいやと言うなら、

  今すぐここを去るがよい!」   

 

豊臣家を滅ぼさなければ、太平の世は築けない。

それが家康の信念だった。

家康から、一喝され戦いを決意した秀忠は、

軍議の席で、

「総大将として敵主力に当りたい」 と申し出る。

彼には、「避けられない戦」 ならば、

せめて将軍である自分の手で、

締めくくりたいという思いがあった。

何故ダメなのか推しピンで留めておく  田中博造

だが、家康は自ら、「戦の指揮を執る」 

と宣言する。

家康も、これから太平の世を築く秀忠を、

危険にさらしたくはなかった。

そして、豊臣家を滅ぼすという、血なまぐさい仕事は、

古い世代である自分の役割だと考えていたのだ。

外角に強い蛙の眼球ぞ  岩根彰子

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一方、淀と秀頼は、本丸のみの姿となり、

かつての威容は見る影もない大坂城で、

家康との決戦を覚悟していた。 

「戦はお避けくださりませ」

 

と懇願する常高院(水川あさみ)に、淀は、 

「もはや引き返すことはできぬ」 
 
と言う。 

かくして慶長20(1615)年4月

「大坂夏の陣」
が始まる。

地下道を出よう欠片になる前に  くんじろう

豊臣方の諸将は、

裸同然となった大坂城に籠るわけにもいかず、

野戦に打って出た。

武士らしい死に場所を求めるかのような、彼らの奮闘に、

徳川方は、おおいに慌てさせられる。

中でも、幸村(浜田学)率いる真田隊の士気は高く、

敵本陣に突撃をかけて、家康に肉薄した。

端っこが欠けて真ん中あわてだす  籠島恵子


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だが、豊臣方の抵抗もそこまで。

幸村をはじめ、

名のある武将はことごとく討ち取られ、

盛りかえした徳川勢は、いよいよ、

大坂城本丸に迫る。

ことここに至り、

秀吉の遺志を継いで、豊臣家の誇りを守り続けてきた淀は、

ようやく、自分の気持ちに区切りをつけるのだった。

地図にない抜け道なのに混んでいる  寺川弘一

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