川柳的逍遥 人の世の一家言
無常から朧の宵へ皮膚呼吸 森田律子
平安京の図
「源氏物語」の舞台となるのは、およそ千年前の「平安京」である。
桓武天皇により延暦13年(794)に開かれた平安京は、唐都・長安
を手本に、縦横にはしる道路で碁盤のように区切られていた。 北側中央には帝の住まい(内裏)や政治の中心がおかれた大内裏があり、
南北にはしる朱雀大路をメインストリートに、東側の左京、西側の右京 に分れている。 なかでも左京の北側は、多くの貴人たちの邸がある高級住宅街だった。 開けたら襖開けても襖また襖 田村ひろ子
式部ードラマの舞台
帝のお妃の位には、中宮→女御→更衣と順位があった。 のちに中宮より上に「皇后」が位置することになる。
女房は、妃ではなく、独立の局を与えられた後宮女官のこと。
「後宮シンデレラ物語」
当時の帝は、第一のお后である中宮のほかに何人もの女性を妃に迎え、
内裏の中の後宮という所に住まわせていた。 <女御とか更衣というのは、お妃の身分を表す言葉>で、父親の身分に
よって決められていた。 当時の特権階級である公卿のなかでも、上位の摂関や大臣の娘が女御に、
次の位の更衣大納言以下の娘がなった。 女御でなければ、正室の中宮になることはない。
主人公・光源氏の母・桐壺更衣は、大納言の娘で更衣であるために、
どれほど帝に愛されても、中宮になれない。 いわば悲劇のシンデレラだった 飛び抜けてべっぴん揃いのミカンです 賀部 博
帝が普段日々を送る平安京内裏の図
女性たちは、帝のお召しがあると廊下伝いに夜の御殿へわたる。
桐壺更衣は、遠く淑景舎(しげいしゃ)から、他の妃の殿舎の廊下を通
っていかなければならなかった。 「霧の花咲く庭に」
帝が日常生活する建物が清涼殿。
寝室にあたる夜の御殿は、その北部分にあり、背後には七殿五舎が並ぶ。 後宮の殿舎は、それぞれ壺(中庭)に植えられた庭木にちなんで「桐壺」 「藤壺」などと呼ばれ、そこに住むお妃は、「桐壺更衣」「藤壺女御」 呼びならわせている。殿舎の位置は、おもにお妃の身分によって決まり、 桐壺更衣に与えられたのは清涼殿から一番遠い淑景舎だった。 雲つき抜けてお久振りなんてね 酒井かがり
平安時代の官職制度の中核である太政官の組織図
寝殿中央に帝、右に東宮そして簀子には公卿たちの姿が描かれる
「恋愛特権階級」
「源氏物語」に登場する貴族たちは、当時、その地位を律令という法律
で厳密に定められていた。具体的には、一位から初位(そい)まで30 もあった役人の位階のうち、五位までがいわゆる貴族であり、その人数 は多くても150程だった。 そのうちの三位以上と四位の参議が「公卿」と呼ばれ、帝の住む清涼殿
に上がることができた。 それ以外で、特別に許されて清涼殿に上がることのできる者は「殿上人」 と呼ばれた。 滑り込んだのは四つ葉のクローバー 市井美春
女性ゆえに母ゆえに弘徽殿女御の憎しみは… 「嫉妬と嫌がらせの渦の中で」
桐壺更衣が帝に召されて清涼殿へ。
その夕に上がるとき、早朝3時ごろに下がるとき、やっかみ・いじめが 強烈で、他の後宮の女房たちから通り道の内橋や渡殿などのあちこちに、 不浄のものを撒き散らす意地悪な仕打ちを受ける。 桐壺更衣のお供の女房たちの裾は、汚れて、汚いやら臭いやら…。
そのままでは、清涼殿には上がれないようにしたのである。
触ってはダメ嗅ぐのはもっとダメ きゅういち
普賢菩薩像
「平安女性に人気だった法華経」
「法華経」が女性に愛されたのは、経典に女人成仏が示されていたから
である。それまでの仏教では。女性の成仏は難しいとされていた。 源氏物語でも、女性の登場人物と法華経は色濃く結びついている。
当時の法華経絵画には、普賢菩薩、羅刹女(るさな)、鬼子母など女性
に馴染み深い尊像が多く描かれた。 女性信者の人気を狙ったのだろうか、仏画というより、絵巻物のように
麗しく表され、女性好みだったという。 平等に春は誰にもやってくる 奥山節子
継嗣への流れ
「帝の子なら男の子 貴族の子なら女の子」
天皇に入内させた娘の母親には、娘の男子出産が最大の関心事。
いずれ皇子が即位すれば、娘の一族も前途洋々というわけである。
逆に貴族の娘たちには、女の子を産むことが望まれた。
もし娘なら入内させる可能性があるからだ。
また、娘の実家が迎え入れる「婿取婚」が当時の結婚の形態。娘が権力 のある男性を婿に取れば、親族の昇進も期待できたから。 太陽をポンと割ったら卵焼き 石川憲政
百人一首像讃抄 賢子 (菱川師宣画)
紫式部の娘・賢子は大弐三位(だいにのさんみ)と呼ばれることも。
「有馬山猪名の笠原かぜ吹けばいでそよ人を忘れやはする」
の歌で小倉百人一首にも登場している。
「帝の乳母は女性の憧れ」
育てた子が天皇に即位すると、乳母には、典侍(ないしのすけ)という
女官の役職が与えられ、多くは三位の位を授与される。 三位は天皇の后であっても、なかなか授与されない位なのだ。 育ての親なので天皇との結びつきは強く、親類縁者の昇進を天皇に口添 えしてもらったり、遺産をもらうこともあった。 天皇の乳母として成功したのが、紫式部の娘・賢子(かたいこ)で、 育てた子が即位して後冷泉天皇となり、三位を授与され典侍の地位に 就いている。 天皇の後ろ盾で夫は、受領(地方長官)として富を蓄え、賢子は豊かな
人生を送った。 いい知らせ春のソナタにのってくる 山本昌乃
百人一首画帖 和泉式部
恋の噂が絶えなかった和泉式部も宮仕えの女房。
橘の道貞とけっこんしたものの為尊(ためたか)親王との恋が芽生えて 離婚。その後宮仕えに出て、藤原道長の家司・藤原保昌と再婚するなど 華やかな恋愛遍歴を持つ。 あらざらむこの世のほかの思ひ出に 今ひとたびの逢うこともがな
「宮仕えは花形職業」
平安女性にとって、宮仕えは憧れの職業。紫式部や清少納言のように、
専門知識を生かして見聞を広めたい、という気持ちから、宮仕えした女 性もいたが、多くの女性は華やかな社交界に憧れ、結婚相手を見つける ために宮廷に入ったという者のほうが多い。 しかし、雇用条件は不安定で、仕えていた相手が没落すれば、失職して
しまう。そのため女房たちの間では情報交換が盛んで、よりよい職場を 求めて、日々転職活動にも勤しんでいたという。 太陽を総身に浴びて深呼吸 曾根田夢
源氏物語行幸
「行幸の巻」を描いた貝合わせ
京都御所にある年中行事障子
宮廷の年中行事は、正月の四方拝にはじまり、鎮花祭、新嘗祭、大祓など
が知られる。 「一年中、行事で帝は超多忙」
帝の仕事は、おもに年中行事を行うこと。
清涼殿の殿上の間には、予定を記した年中行事障子があり、それに従っ て行事を行うのが宮廷の当時の政だった。 一年中、毎日のようにさまざまな行事があって、帝には、帝には内裏の 外に出る時間などほとんどない。 年に数回、外に出て、平安京の周辺の寺社へ参るなど「行幸」の機会も あるにはあったが、多くはなく行動も限られた。 白い息続いてぐっと飲む酸素 野口 裕
宇宙観を体系的に表した曼荼羅
加持は密教の渡来とともに生まれた。
密教は大日如来を本仏とし、仏や菩薩をその化身と考えている。
「平安遷都は怨霊封じ」
怨霊から逃れる方法には加持祈祷などがあるが、最もスケールの大きい
方法が、遷都。怨霊の巣くう古い都を脱出し、新しい土地に都を作って 祟りから逃れるのである。 桓武天皇は、70年以上続いた平城京を捨て京の南、長岡京に遷都する
ものの、途中で造営使長官が暗殺され、工事は停滞。 あげくに平安京へと移るが、それでもなお天皇の不安は収まらない。 そこで天皇は、怨霊を封じ込めるため、鬼門である東北の地に延暦寺や
鞍馬寺を造営した。 抄録に載せぬ火葬場行きの過去 藤井智史
三郎岩
背後に見えるのが、後鳥羽上皇の配流地、隠岐島、上皇の敗北は、
乳母・郷の局に甘やかされ、先を見誤ったゆえの悲劇だった。
「産みの親より、育ての親?」
一般に貴族の子供は、乳母に育てられる。
乳母は実母よりも長く子供と接するので、互いに愛着が強く、生涯にわた る親密な関係は親子以上に。 例えば、鎌倉時代、後鳥羽上皇の乳母、卿の局(藤原兼子)は、上皇好み
の愛人や美少年を世話して、権力をほしいままにした。 ついには、朝廷の人事さえ左右するようになり、上皇が鎌倉幕府相手の戦・
承久の乱に敗れて、隠岐島に流された後も、鎌倉方と直談判して後継将軍に 上皇の子を推薦。東の尼将軍・北条政子とその女傑ぶりを競ったのは有名。 ありがたいけれど強力母性愛 下谷憲子 PR 浅漬けのナスとキューリと白い飯 津田照子
「女房36歌仙」 赤染衛門 鳥文斎栄之 「枕草子」の作者、清少納言は「女房」である。 女房の「房」は部屋と言う意味。
つまり女房とは、部屋を与えられて貴人に仕える女性をいう。
ところで宮中に何人ぐらいの女房がいたのだろうか。
藤原道長の娘・彰子が一条天皇に入内したときには、40人もの女房が
いたという。この時すでに宮中には、中宮定子の女房、他の女御・更衣 たちの女房、さらに天皇づきの女房もいたのだから、その数は、相当な ものであったと推測される。 その中に、清少納言や紫式部、和泉式部、赤染衛門、百人一首でお馴染
みの伊勢大輔、大弐三位らがいた。 お節介ながらここに「女房の一日」を再現し、王朝時代に思いを馳せな
がら、その生活を覗いてみよう。 アンテナを広げて揺れる象の耳 大島美智代
式部ーとある女房の一日 辰の刻 (8:00 a. m)
朝起きた女房は、身支度を始める。
髪を洗うことはめったになく、
簡単な手入れですませていたようである。
白粉を塗り、額の上に眉を書いて、歯にはお歯黒、口には紅。
これで女房メイクの完成。
香をたきしめた女房装束に身を包む。
私の顔やさしくしてる低い鼻 岸本孝子
巳の刻 (10:00 a. m)
女房装束にはいつも、香がたきしめられていた。
午の刻 (12:00 p . m)
女房たちが与えられている部屋の前で、殿上人と呼ばれる高級官人たち が通ることもあった。「枕草子」にも、細殿と呼ばれる女房の部屋の前
を通る男性たちと、女房たちの恋の駆け引きの様子が描かれている。 女房たちの生活は、実に開放的だった。
発芽してみようあなたに会うために 栃尾奏子
羊の刻 (2:00 p . m)
女房たちの中には教養溢れる者も多く、主人に和歌や漢詩を講義したり、 歌を詠み合ったりしていた。「枕草子」にも、和歌や漢詩が登場する場
面が多く、宮廷の女房たちの間に、和歌や漢詩が浸透していた様子がう かがえる。 野々宮蒔絵硯箱 (サントリー美術館) 蓋の裏側には黒木の鳥居・小柴垣が描かれ光源氏が六条御息女を 野々宮に訪ねた場面が表現されている。 申の刻 (4:00 p . m)
硯は女房の必需品であった。
女房・和泉式部が昼間あった殿上人からの手紙の返信を認めている。
酉の刻 (6:00 p . m)
女房たちの恋愛は手紙から。 この女房には昼間あった殿上人から手紙が届いた。
手紙には歌などが書かれており、送り主のセンスが問われる。
ダサい歌などが書かれていたりすれば、たちまち女房たちの噂話の格好
のネタとなってしまう。 ペラペラの嘘を束ねた置手紙 高野末次
戌の刻 (8:00 p . m)
歌と並んで楽器の演奏も、女房の必須アイテムだった。 管絃に優れているのは教養ある女性の証明。
楽器は暗くなってから演奏されることが多かった。
当時の楽器は、琴、筝、琵琶、横笛など。
モーツァルトを流し血糖値を下げる 門脇かずお
亥の刻 (10:00 p . m)
枕草子 『無名といふ琵琶の御琴を…』を清少納言の文章で…。 子の刻 (12:00 p . m)
女房のところへ昼間あった殿上人がやって来た。 当時の結婚は通い婚。
男性が三夜続けて通ってきたら、結婚の成立となり、披露が行われる。
一夫多妻制で、夫は複数の女性の元へ通ったが、結婚前は女性も複数の 男性を通わせていたようである。 丑の刻 (2:00a. m)
やってきた男性と女房は二人仲よく床に入った。
当時の枕は、木製や石製、陶製など、さまざまな材質でつくられており、
形状もまたさまざま。 意中の男性を迎えるために、枕に優雅な蒔絵を施したり、香をくゆらせ る女房もいた。 弁財天色香ほんのり座をまとめ 花篤洋二
寅の刻 (4:00a. m)
「枕草子」 『暁に、女のもとから帰る男』を清少納言の文章で…。 卯の刻 (6:00 a. m)
女房のところへやって来た男性は、まだあたりが暗いうちに帰る。 男性が自宅に戻ってから、女性に送る手紙を「後朝(きぬぎぬ)の文」
といい、女性のところから帰った後、これを送るのが早ければ早いほど、
情熱や誠意がある証とされていた。 ほとんど同じ日々を繰り返し、このように、女房の一日はおわります。
良い妻であっただろうか柿を剥く 工藤千代子
「扇面古写経」小堀鞆音・寺崎広業 (東京国立博物館蔵)
烏帽子姿のまま臥す男は添寝する女の髪を愛撫している。 「枕草子」 『暁に、女のもとから帰る男』
------ゆうべ枕もとに置いた扇やふところ紙を探すとて、暗いものだから、
手さぐりで、そのへん一帯を叩いたり、「おかしいな、へんだぞ」など とひとり言を言って、ばたばたとしている。 やっと探し出して、ざわざわとふところに入れ、扇をひろげて、ばたば
たと使いながら、「じゃ帰るよ」などというのなど…、まあどうだろう、 にくらしい、なんてなみ一通りのものじゃない。 可愛げがないのにも、ほどがあるというものだ。 フェークスピアとはよくいう恋の指南役 通利一遍
そうかと思うと、烏帽子の紐を固くむすんで、ちゃんと身づくろいして
出る男。どうせ夜もあけぬうち、女のもとから出てゆくのに、着くずれ ていたって、どうして人が咎めようか。 暁の男女のわかれの有様こそ、やはり風流なものであってほしいものだ。
裏庭に投げ捨てられた耳ひとつ 合田瑠美子
しぶしぶと起き上りがてにする男、女はいそがせ、「夜があけすぎたわ、
みっともないじゃないの」と言い、男はためいきついているさま。 こういのこそ、飽かれぬわかれ、という趣きがあるのだろうと思う。 指貫なども坐ったまま、はきもあえず、まず女のもとに寄って、ゆうべ 一晩話したことの名残りを女の耳にささやく。 なんとなく物うげに、帯などをむすんだりしている。
格子を押し上げ、妻戸のある所は、そこまで女とともにいって、「べつ
べつになる昼の間は、不安なものだね」、などと言いながらそっと出て いく男のうしろ姿を女はながめ、互いに情趣ふかく、名残り多きわかれ だろう。 疲れはてているボタンの穴くらい 酒井かがり
こんなのに比べると、きっぱりとはね起きて、ばたばたと身支度し、指
貫の腰をぐっと強く結び、直衣、狩衣、などの袖をまくりあげ、いろん なものをふところに収め、帯をぎゅっと締めたりしている。 まあそのみれんげもない態度の、なんと憎らしいこと。 ワタクシのここが急所と書いてある きゅういち
琵琶を中にして語り合う、中宮定子と一条天皇 枕草子 『無名といふ琵琶の御琴を』 「これが名よ、いかにとか」と聞こえさするに、「ただいとはかなく、
名もなし」と、のたまはせたるは、なほいとめでたしとこそおぼえしか。 無名という名前がついた琵琶の御琴を、帝が持って、中宮のお部屋に
いらっしゃった時、女房たちが、それを見てかき鳴らしたりもする、と いいたいところだが、琴を弾くわけではなく、弦などを手でまさぐって 遊んで、「この琴の名前は、何といったでしょうか」と聞くと、中宮は 「ただもうつまらない物だから、名前もないのよ」と、お答えになられ たのは、やはりとても素晴らしいと思われた。 淋しい耳は淋しい声を聞き分ける 平井美智子
淑景舎(しげいしゃ)の方などがいらっしゃって、中宮と雑談をされた
ついでに、「私のところにとても素敵な笙の笛があるのです。亡くなっ た父上が下さったものなのです」と、おっしゃるので、僧都の君が「そ れを隆円に下さいませんか。私のところに素晴らしい琴がございます。 それと交換してください」と、申し上げたが、淑景舎の方は、全くお聞 きにならないで、違うことを話しているので、隆円は、何とか答えさせ ようと何回もお聞きになるのだが、それでも返事をしないので、中宮様 が「いなかへじ(交換はしたくありません)と、お思いになっておられ るので」と、代わりにおっしゃってあげた時のご様子は、とても才気に 溢れていてこの上なく素晴らしいものであった。 (僧都の君・隆円は、藤原道隆の4男、定子の実弟。また、景舎の君・
原子の兄にあたる) 一すじの髪が水際に浮かぶ 笠嶋恵美子
この「御笛」の名前を、僧都(隆円)もお知りにならなかったので、
ただ恨めしくお思いになっていたようだ。 これは、職の御曹司がいらっしゃった時に起こった事である。
帝の手元には、「いなかへじ」という名前の御笛があったのである。
帝がお持ちになっているものには、御琴にも御笛にも、みんな珍しい 名前が付いている。 玄上(げんじょう)牧馬(ぼくば)井手、渭橋(いきょう)無名、など の名前である。 また、「和琴」(わごん)なども、朽目(くちめ)塩釜、二貫(にかん)
などの名前が付いている。水龍(すいりゅう)、小水龍、宇多の法師、 釘打(くぎうち)、葉二(はふたつ)など、他にも色々な名前を聞いた けれど、忘れてしまった。 冗談のように記憶が飛んでゆく 亀井 明 巻貝のつぶやきカモメのひとり言 森 茂俊
清少納言と女房たち (枕草子絵巻 逸翁美術館蔵)
中宮定子の周辺の華やかなりし頃、天皇のお住まい清涼殿に定子が参上
していたときのこと。自分に仕える女房たちの、機転のほどを知りたか った定子は、色紙に古歌を書かせた。 清少納言は、気後れしながらも古歌を巧みに改変した一首を書きくわえ、 中宮からお褒めの言葉をもらった。 <年経れば齢は老いぬしかはあれど 花をし見れば物思ひもなし>
という歌の下の句を清少納言は、<君をし見れば 物思ひもなし>と、
中宮を讃える歌で返した。中宮は、「そうそう、こういう機転が欲しかっ たのよ」と、少納言を褒め称えた。 にんげんを仕上げる老いという風味 若林柳一
式部ー枕草子ー華やかな日々
「荒海の障子に描かれた・手長足長の図」 清涼殿の東北の隅、北のへだてにある「荒海の障子」に描かれている古
代中国の想像上の怪物が手長・足長。現代でも家を建てるときなど東北 の方角には、台所や風呂をつくらない人がいるが、昔の人は東北の方角 の方に鬼が住み、災いが集まると信じられていたらしい。そこで東北の 隅に荒海の恐ろしい絵が描かれた障子を置いて魔除けとした。 幽霊が出る前風を湿らせる 中村秀夫
主上の常のご殿である清涼殿の、東北の隅、北の隔てにある 障子には、荒海の絵や、「手長足長」の恐ろしげな絵が書いてある。
弘徽殿の上の、御局の戸を押しあけると、いつもそれが目に入るので 「いやあねえ」などとみんなで笑ったりするのだけれど…。 縁の高欄のところに、青磁の花瓶の大きいのを据えて、桜のみごとに咲
いた枝の五尺ぐらいのを、たいへんたくさん挿してある、それが高欄の 外まで咲きこぼれている。 濡れているのか泣いているのか楠若葉 柴本ばっは
昼ごろいらした大納言どの(藤原伊周)は、瓶の桜に負けぬほどお美し
かった。桜の直衣の着なれて、すこし柔らかになっているのに、濃い紫 の指貫(袴)何枚か重ねた白い下着、上には濃い紅の綾織物のとても鮮やか なのを出衣(いだしぎぬ)にしていられる。 色美しい幾枚かの下着の裾を、上着と指貫のあいだにわざと出すのを、
出衣というのだが、その彩りの美しいこと。 主上がこちらにお渡りになっているので、戸口の前の細い敷板にお坐り
になって、お話しを申しあげていらっしゃる。 (弘徽殿女御=女御とは、後宮 に入り天皇の寝所に侍した高位の女官。
后・中宮に次ぎ、更衣の上に位した) 男の美学またの名を見栄という 北原おさ虫
上のお局の御簾の内には、女房たちが、桜の唐衣をゆったりまとい、
藤、山吹襲などの衣の襲(かさね)色目もさまざま趣味よく、小半蔀
(こはじとみ)の御簾の下からとりどりの色の袖口がこぼれたりして いる、そういう折に、主上の昼の御座所の方では、主上のお膳をお運 びする足音ゆきかう。警蹕(けいひつ)の声など聞こえる。 うらうらとのどかな春の昼つかたの有様、言おうようなくすばらしい。
(警蹕=天皇や貴人の通行などのときに、声を立てて、人々をかしこ
まらせ、先払いをすること、その声) 最後の食膳を運んでいる蔵人が、こちらへ参上して「お食事の用意が
ととのいました」と、奏上すると主上は、中の戸から昼の御座所へ向 かわれる。主上のお供をして大納言どのは、お送りしていらして、 またさっきの高欄の花のもとに帰ってこられた。 渋柿を甘い甘いと言わはって 大内せつ子
几帳
台に2本の柱を立て、柱の上に一本の長い横木をわたして帳をかけたもの。
室内に立てて隔てや間仕切りにする。 中宮さまが御几帳を押しやって、敷居のところにいらっしゃるご様子。
ただもうすばらしく、宮廷の華やかさに酔う心地がする。 お仕えする私どもも、うっとりするほどである。
「月も日も かはりゆけども 久に経る みむろの山の……」と、
大納言どのが、ゆるやかに吟唱なさるのも趣きふかい。
ほんとに、千年もどうぞこのままで、と、願わしい中宮さまのめでたさ
であった。 きれいだね花壇と会話する亭主 助川和美
陪膳にお仕えする人が、蔵人などを召す間もなく、はや主上はこちらへ
お渡りになった。 「御硯の墨をおすりなさい」と、中宮さまは、私に仰せられるのだが、
目はただもう上の空で、主上の方ばかり見上げてしまっているので、 どうかすると、墨挟みの継ぎ目も取り外してしまいそうだ。 中宮さまは白い紙をたたんで、
「これにたった今すぐ思い浮かぶ古歌を書いてごらんなさい」
と、仰せられる。
御簾の 外の大納言どのに、「あらまあ、どういたしましょう、これは」
と、頂いた色紙をお渡しすると、 「ともかく早くお書きなさい。男は、口出しすることではありませんか
らね」と、またお返しになった。 明日を語る資格などありません 雨森茂樹
橘 千鳥蒔絵硯箱 (東京国立博物館蔵)
定子は硯をさげおろして「早く思い浮かぶ古歌を書いてみなさい」
とせかしたが、それは女房たちの機転のほどを試すためだった。
中宮さまは、御硯をさげおろされて、
「早く早く、そんなに考えないで、手習いのいろはでも何でも、ふっと
思いついたことを」 と、お責めになるのに、こういう場合はどうしてか気後れして、みんな
顔を赤くして思い乱れるものである。 春の歌、花の心など、そうは言いつつも、上級の女房たちが二つ三つ書
いて「どうぞ」と、私の方へ回ってきたので、 「年経ればよはひ(齢)は老いぬしかはあれど 花をし見れば物思ひも
なし」という古歌の「花」とある所を「君をし見れば」と、わざと書き かえて出した。中宮さまはご覧になって、 「あなたたちの、こういう気働きや、機転のほどが知りたかったの」
と、仰せられ、興に入られた。
まだ夢に見る赤点の追試験 藤原紘一
紀貫之
人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほいける 「昔、円融院の御時、草子に歌を一つ書きなさい、と、殿上人に仰せら
昔、円融院の御時、草子に歌を一つ書きなさい、と殿上人に仰せられた
ので、、みんな咄嗟に書きにくくて、譲りあっていられたのを、もう 筆蹟の上手下手や、歌の時季外れ問わぬからただ早く早く」
と、お急かせになられ、仕方なくみな書いた中に、ただいまの関白どの
が三位中将でいらしたころ、 「しほの満ついつもの浦の いつもいつも 君をば深く思ふやはわが」 という古歌を『たのむやはわが』と、お書きになったの。 それを主上は、たいへんお気に入られてお褒め遊ばしたということです。
少納言の頓智も、その話に似ていますね」 と、仰せられ、私はいっぺんに嬉しくなり、汗が吹き出る思いがした。
年の若い人だったら、なるほど書けない類のことだったかしら…。 いつもなら、上手にうまく書く人も、咄嗟のことで、あいにく遠慮し、 書き損じてしまうのだった。 明日を語る資格などありません 雨森茂樹
『古今集』の綴じ本を中宮さまは御前に置かれて、いろんな歌の上の句
を仰せられ、「この下の句はなに」と、お尋ねになるのに、 ふだんはよ く知っている歌が、さっぱり出てこない。 中宮さまは、村上天皇の御代の、宣耀殿(せんようでん)の女御のお話しを
なさった。 女御がまだ、姫君でいらした時分、お父上の小一条の左大臣のご教育は、
まず第一に習字をなさい。次に琴を上手に弾くこと、第三に古今集の歌 二十巻を全部記憶すること、というのだった。 健やかな耳朶にシャランと巫女の鈴 宮井いずみ
一条天皇と中宮定子 (枕草子絵巻 逸翁美術館蔵)
美しい容姿と高い教養に恵まれた定子は、女房たちの憧れの的だった。
この定子の兄が大納言伊周、伊周の人生は当時第一の権力者であった父・ 藤原道隆の死によって急変していった。 伊周は弟・隆家とともに、花山院に矢を射かける事件を起こし、流罪と
なってしまう。そして定子の身にも不幸が襲いかかっていく。 かねてお聞きになってらした帝は『古今集』を持って、女御の部屋にお
越しになり、試験をあそばしたの、几帳を引いて女御との間を隔てられ たので、女御は<いつもと違って変ね>と、思われたが、帝は古今集の 綴じ本を開かれて、「なんの月の、なんの時に、誰かが詠んだ歌は、 なんという歌か」と、お尋ねになるので、女御は、 <几帳で隔てられたのは、こういうことだったのか>
と理解なさって、<おもしろい>と、思われるものの、
<間違って覚えていたり、忘れているところがあったら、大変なこと>
と、むやみに心配されたに違いない。 砂時計のくびれにそっと触れている 高野末次
帝は、歌の方面に疎くない女房を二、三人ほど呼ばれて、間違った歌は
碁石を置いて数えることにして、女御に無理にお返事をおさせになった 時など、どんなに素晴らしく面白かったことだろう。 御前にお仕えしていた人までも、羨ましい。
帝が強いてお尋ねになるので、利口ぶって、そのまま終わりの句までは おっしゃらないけれど、女御はちっともお間違いにならなかった。 帝はしまいにお悔しく思われ、ちょっとでもお間違いを見つけたら、
それでやめようと思し召されたのに、とうとう一つも、お間違い遊ばさ ないの。負けました、と、途中でやめて仲よくお休みになったけれど、 いや、やはり事の決着はつけなくてはと、またお起きになって大殿油 (おおとのあぶら)をお近くに灯させて、夜ふけるまでお尋ねになり ました。でもとうとう、女御は、最後までお間違いにならず、よみあ げられたのです。 えり足の深いところに累ケ淵 くんじろう
村上天皇陵
村上天皇は一条天皇から数えて4代前の天皇で祖父にあたる。
醍醐天皇・村上天皇は天皇親政を行い、後世、理想の治世と
され、「延喜、天暦の治」と呼ばれた。
帝が女御のお部屋にお越しになって、こういうことが、と、女御の父の
左大臣殿に人を遣わして知らされると、父君はたいへん心配してお大騒 ぎなさって、「どうぞ娘が間違わず詠みあげて、帝のお褒めに預かりま すように」と、神仏に懸命にお祈りになったということよ。 その親心にもしみじみしますけれど、「昔は風柳だったのねえ」と、仰 せられた。主上も興がられて、 「村上の帝はよくまあ、おしまいまで調べられたことだね。私なら三巻 か四巻までしか詠まれないだろう」と、言われた。 女房たちも参り集うて、そんな話に聞き入ったり、褒めそやしたりする
ありさま……これほどのたのしい、満ち足りた豪奢な時間が、またとあ ろうか。 カラスならカアで終りにする悩み 山下炊煙 刃物かもしれない耳朶までのボブ 酒井かがり
「源氏物語絵巻 宿木」 清涼殿朝餉の間 裳と唐衣をつけた正装の女房たちと、碁を楽しむ帝を描いている。
清涼殿は天皇が日常生活を送った場所で、朝餉の間は食堂にあたる。
犬の翁丸に追い立てられた「命婦のおとど」は朝餉の間に逃げ込んだ。 「清少納言、枕草子執筆のきっかけ」
「枕草子」が執筆されたのは、清少納言が中宮定子に女房として仕えた
平安時代中期の正暦6年/長徳元年(995)頃から執筆が開始され、 中宮定子が亡くなった翌年の長保3年(1001))に、ほぼ完成した ものと推測されている。 清少納言が枕草子を執筆するきっかけとなったのは-------跋文によると
中宮定子が兄の藤原伊周(これちか)から、当時においては大変貴重な 紙を貰った際に、 「これに何を書けば良いのかしら。帝( 一条天皇)は、『史記』という 書物をお書きになったけれど…」と、清少納言が尋ねられたため、彼女 は「枕でございましょう」と、即答した。 すると中宮定子は「それならあなたにあげましょう」と言われて大量に あった紙を渡された、ことから、清少納言は、これを用いて『枕草子』 を執筆することになった、らしい。 さて「枕」とは何のことだろうか。 「帝が『史記』を書かれたのなら「枕」が必要でございましょう。
「敷布団」には「枕」が欠かせませんもの」 <史記と敷き>、頓智を利かせた清少納言の返答に中宮定子は、お笑い になっただろうか…。 中宮定子は、清少納言のこうした面白く明るいところが好きだったそう。 過呼吸になる程あなた大好きで 石田ます江
「源氏物語絵」 紐で繋がれている猫 (京都博物館蔵)
猫は大陸から渡来した貴重な動物で大切に飼育されていた、 らしい。現在とは違い紐で繋がれているのが普通だった。
翁丸は五位を授かり「命婦のおとど」と呼ばれていた。
式部ー枕草子ー翁丸
「ある日のこと、清涼殿で小さくて大きな事件があった」
天皇のお住まいで飼われている猫は、天皇が従五位下の位まで与える程、
可愛がり大切に育てられている。名は「命婦のおとど」という。 この猫が、あまり行儀が悪いので世話役をしている命婦が、 「まあ、お行儀が悪い。部屋へ入りなさい」というのに、猫は言うこと を聞かない。苛立った命婦は、 「翁丸、どこにいるの!おとどに食いつきなさい」と、言うと、本気に とった犬の翁丸は、おとどに飛びかかったので、おとどは怖がって、 天皇のいる朝餉の間に逃げ込んでしまったから、大変な大騒ぎになった…。 それの一部始終を見ていた清少納言は、この話題を筆にした。
(命婦=宮中や後宮の女官。従五位以上の位階を有する女性をさす)
鉛筆を少し炙れば滑らかに 山本早苗
清涼殿朝餉の間
清涼殿の裏側にあたる西廂には、北から御湯殿の間、御手水の間、朝餉
の間、台盤所、鬼の間が並ぶ。 翁 丸
主上のおそばにいる御猫は、位をいただいて「命婦のおとど」と呼ばれ
ている。たいへん愛らしいので主上は、大切にしていらっしゃる。 その猫が縁先に出て寝ているので、世話係の馬係の命婦という女房が 「いけませんねえ、内へお入りなさい」と呼んだ。 しかし猫は動かず、日向でじっと眠っているので、驚かすつもりで、 「翁丸、そうれ命婦のおとどにかみつけ」と言った。 翁丸というのは、これも飼われている犬の名である。
眠たくて三途の川が渡れない 井上恵津子
馬鹿な翁丸は、本当かと思って走り向かったので、猫は飛び上がり慌て
ふためいて御簾のうちへ入ってしまった。 朝餉の間に主上はいらしたときで、ごらんなされて、たいへんびっくり
された。猫をふところに入れられて、殿上の男の人たちをお召しになる。 蔵人の忠隆が参上すると、「この翁丸を追い払え、いますぐにだよ」と 仰せられるので、みな集まって大騒ぎして追い立てた。 主上は馬の命婦をもお責めになって、
「守り役を変えよう。この調子では心配だ」
と、仰せられたから、恐縮して御前にも出ず、引きこもっている。
犬は狩りたてて、滝口(宮中を警備する武士)に命じて追い払われた。
スイッチのオンとオフとの別れ道 和田恂子
「まあねえ、いままでえらそうに威張って歩き回っていたのに。
三月三日には頭の弁が柳かずらを頭につけ、桃の花をかんざしにし、
桜の枝を腰に挿させて歩かされたりなさったっけ。 そのときはこんな目に会おうとは、まさか思わなかったでしょうに」 と、みんな哀れがった。
中宮さまのお食事のときは必ず、正面に伺候していたのに、いないのは
淋しいわね、と言い合って三、四日たった。 選ばれたつもりが実は排除され 伊藤良一
犬一匹に大騒ぎの滝口や女房たち お昼ごろだった、犬がたいへん鳴くので、どこの犬が、こんなに長鳴き
しているのかしら、と聞いていると、たくさんの犬が走り回って騒いで いる。女官が走ってきて、 「たいへんでございます。犬を蔵人二人でお打ちになっておられます。
あれは死にますわ。 お捨てになった犬が、帰ってきたといって、 打ち懲らしめていられるのです」という。 「かわいそうに」。翁丸なのだ。忠隆、実房が打っている。というので、
止めにやるうちに鳴き止んだ。 死んだから陣屋のそとに捨てたというので、私は不憫でたまらなかった。 影薄く生死不明になる噂 木口雅裕
「春日権現験記」天皇と次の間に控える女房たち
一条天皇の怒りをかってしまった哀れな犬、翁丸は、蔵人2人に打ち叩
かれた。蔵人とは、天皇の側近として殿上の雑務をつとめる役職である。 翁丸と思しき犬は、階の柱のもとにうずくまり、呼びかけても応えなか ったが、女房たちの同情する話を聞いて涙を流す。 ところが夕方、ひどく腫れ上がり、哀れなさまの犬が震えながら歩き回
っていた。 「翁丸かしら。こんな犬は、このごろ見たことないもの…翁丸」
と、呼んでも聞きも入れない。
「あれはたしかに翁丸だわ」、という人もあれば、「ちがうわ」という 人もある。中宮さまは、「右近が見知っているはずだから呼びなさい」、 と仰せられるのですぐ召し出した。 右近は、 「似ておりますが…まあひどい姿。翁丸と呼ぶといつもは喜んでまいり
ましたものを、これは呼んでも来ません。ちがうのでございましょう。 第一、あの翁丸は殺して捨てた、と申しておりましたもの。 あの屈強の男どもが、二人で打ったのでございますもの、どうして助か りましょう」 と、申し上げたので、中宮さまは可哀そうに思し召して辛がられた。
天秤が息を殺しているようだ 河村啓子
暗くなって、物をたべさせたけれど、食べない。やっぱり違うのねと、
結論を出した。 翌朝、中宮さまは、朝の御身じまいをなされていた。私が御鏡をささげ、
中宮さまが御髪をごらんになっているとき、犬が階の柱のもとにうずく まっているのが目に入った。 「ああ、昨日、翁丸をひどく叩いたのでしたっけ。死んだのは可哀そう
なことでした。こんどは何に生まれ変わっているのでしょう、どんな に辛い心地がしたでしょうね」 などと言っていると、うずくまっている犬が震えわなないて、涙をポロ
ポロ落とすので、驚いてしまった。 では、やはり翁丸だったのだ。
ゆうべは警戒して、隠れて堪えていたのだと思うと、可哀そうやら可笑 しいやらだった。 思わず御鏡をおいて「お前、それじゃ翁丸なの」というと、ひれ伏して
しきりに鳴く。中宮さまもたいへんお笑いになった。 赤チンがもう見当たらぬ薬箱 石田すがこ
主人の許しを待つ健気な犬 右近の内侍を召して、こうこうと仰せられると、また大笑いになった。
主上も聞かせられてこちらへお渡りになった。 「驚いたものだね、犬などにも、こんな心があるものなのだね」
とお笑いになる。
主上つきの女房たちも聞いてまいりつどい、翁丸を口々に呼ぶと、 今は動いたり顔を見たりする。 「顔が腫れているので手当てをさせましょう」 と私が言うと、 「ほらほら、翁丸びいきの人が、ついに本音を出したわ」
とみんな笑った。忠隆が聞いて、
「ほんとですか、翁丸が帰ってきたとは」
とやって来たので、「ああ怖わ、怖わ…見つかればまた打たれるわ」、
と思い、かばって「ここにはそんなものいませんわ」 「そうですかね、いつまでも隠しておおきにはなれますまいよ、
いつかは見つけますよ」 などと言うのである。
笑い泣き傘のしずくが切れるまで 佐藤正昭
でも、そのうち、お咎めも許されてもとのように飼われた。
あの、人に哀れがられて、震えながら鳴いて出てきたときの様子の、
おかしくもしみじみした哀れさは忘れられない。 人間なら、人に哀れまれ同情されると、思わず涙をこぼす、ということは
あるけれど、犬が同じように泣くなんて…そんなこともあるものなのね。 こんなにも不安だったかプチ家出 前中知栄 ひらがなで怖い言葉が書いてある 上坊幹子
十二単衣の清少納言 「清少納言出自」
清少納言は清原元輔を父として康保3年(966)頃に生まれた。
「清」は姓を示し「少納言」は女房名である。元輔は「梨壺の五人」の
一人として、源順(したごう)や大中臣能宜(よしのぶ)らとともに 『後撰和歌集』を編纂した有名な歌人である。 幼時から和歌や漢学の教育を受けて育ったらしく、981年頃に橘則光
と結婚し則長を生んだが離婚し、993年に中宮定子に宮仕えする。 宮中では藤原公任、藤原行成、藤原斎信らをはじめとする貴族と交際し、
当意即妙の才能を発揮して定子方を代表する女房となった。 定子が1000年に死んだ後は、世間との交渉を避け、愛宕郡鳥戸の南
にある月輪の棟世の山に隠棲した。 こうした晩年の状態から、清少納言が落魄して、遠国に流離したという 数々の説話が発生した。 リタイアをしてからいい味になった 河瀬風子
枕 草 子
式部ー清少納言~枕草子 「をかしの文学」
清少納言は、鋭利な感覚と観察力によって自然や人事の断面を鮮やかに
描き出す。対象を知的な目でとらえる「枕草子」は、しばしば「をかし の文学」と評される。即ち、彼女の文章には、感傷や不安感が全くない。 これは稀なことである。しかし、彼女は、紫式部のように時間の流れの 中で、人間感情を多面的に叙述する物語や、和泉式部のように、情熱を 真摯に傾けて歌い上げる和歌は不得手であった。 このことは、人間生活に伴う悲哀や愛を「をかし」の世界にはぐらかし
ていた彼女の生き方と関連する。 宮中での彼女は、駄洒落や軽口をたたいて、笑いを作る役を買って出て
いたらしく、これは父の元輔が、「人笑わすを役とする翁」であったこ とと無縁ではない。彼女の本質からして、物事を感覚的に断片化して把 える「随筆」形式が最適であり、その意味で『枕草子』の中には、王朝 時代の1人の女性の本質が表現されている。 これが『枕草子』の魅力ともいえる。
カジュアルなこむらがえりで浅葱色 井上一筒
「清少納言と紫式部」
『枕草子』において清少納言は、縦横に才気を走らせ、無邪気に正直に
語る。人物評においても、その姿勢は変わらず、中宮定子への絶大なる 賛美はもとより、敵方である道長を称える記述もみられる。 <よいものはよい>という一方で、敏感なもの、弱いもの、みじめなも
のへの嫌悪感を隠すことのない彼女は、紫式部の夫が、情趣を解さない 衣装で参詣したことを呆れかえっている。 清少納言と紫式部二人の才媛の生い立ち、環境、経歴は見事なまでに相
似形でありながら、性質的には対極にあった。 (因みに、清少納言の性格は、開放的で明るく、積極的でポジティブ、
ユーモアに富む、男好き・女嫌い。一方、紫式部の性格は、根暗内向的、 消極的でネガティブ、生真面目でユーモアが苦手、女好き・男嫌い) 面白くない話を聞いて笑うこと 奥田民生
枕 草 子 絵 巻
春はあけぼの-------
春は、あけぼのが情趣深い。だんだん白んでゆく山ぎわが、少し明るく
なり紫がかった雲が細く横になびいているなぞ、すばらしい。 夏は夜-------
月のあるころはもちろん、闇もやはり、蛍がみだれ飛んでいるのなど、
すてき、雨などの降るのも心たのしい。 秋は夕暮れ--------
夕日が華やかにさして山ぎわちかく、ねぐらへいそぐ烏が、三つ四つ二
つと、飛んでゆくのも情緒がある。まして雁などの、列をつくっている のが小さく小さく見えるのも、秋らしくしみじみしていい。 日が入ってしまってのちの風の音、虫の音…。 冬は早朝があわれふかい-------
雪の降っているときの面白さはいうまでもない。霜などがたいへん白く、
またそうでなくても、非常に寒い朝、火などを急いでおこして、炭火を もってゆくのなど、冬の情感にぴったりである。 もっとも昼になって、寒さが和らいでくると、火鉢の火も白く、灰がち
になっている、などというのは、つまらないけど。 (灰がち=火桶の火が白い灰ばかりになっていること) 飾らねば時がひたひた押し寄せる 平田朝子
破 魔 矢 ・ 羽 子 板 正月-------
一年中、どの月も私は好きなのだけれど、正月一日はまして、空の様子
がうららかにいつもと変わって、目新しい感じ、フレッシュであるのが いい。あたりは初春らしく霞みわたり、世の人みな、身なりをあらため 美しくお化粧して、お仕えするご主人や我が身をもお祝いなどしている のは、ふだんと変わった様子でおもしろい。 七日は七草の日である-------
雪の消えたところに生い出ている若菜を摘むが、青々と美しい若菜を、
ふだんはそんなものを、見慣れぬ高貴なあたりも、もてさわいで珍重 されるのがおもしろい。 元日のどこかで笑う声がする 後藤梅志
牛 車 普通は4人乗りで、2人乗りや6人乗りの場合もある。 整備の悪い牛車はぎしぎし音を立て、うるさかったのだろう。 節会-------
節会の白馬をみようとして、宮仕えせぬ一般人の女たちは、牛車を美々
しく装ってみにいく。待賢門の敷居を引き出すときは、牛車をぐらっと するものだから、同乗している女たちが、頭をぶっつけあって鉢合わせ をし、飾り櫛が落ちたり、用心しないと折れたりなんかする。 みんなキャアキャキャというのも浮き立つ思いで、心たのしい。 ようするにアナタ油断をしましたね 太下和子
宮中で正月七日に、青馬を見て邪を払う儀礼が行われた。
建春門の外-------
左衛門の役人の詰所に、殿上人もたくさん立っていたりして、舎人の弓
をとって馬を驚かし、笑っている、それを牛車の隙間からわずかに覗く のも面白く、立蔀(たてじとみ)などのみえる彼方に、下級女官たちの ゆきかうのも、思わず目を吸い寄せられる。 いったい、前世でどんないいことをした人だろう。
尊い宮中をこんなになれなれしく行き交うて、などと、宮仕え人がうら
やましく思えたりするのも、そういう時である。 でも宮中と言ったって、いま見るのは狭い範囲で、もとより九重の奥深
くはうかがうべくもない。 舎人の顔の白粉がはげて、黒い土に雪がまだらに消え残っているように
見えるのも見苦しい。 女はそんな細かいところが目について困ってしまう。
馬が踊りあがって暴れているのも恐ろしく思われるので、車の中へ引っ
こみがちで、よく見れないものである。 ちっぽけな私に似合う蓋がある 牧野ねえね
十五日は餅かゆの節句-------
15日の粥の歳時には「粥杖」の行事が流行し、枕草子には
「十五日節供まいりすえ、粥の木ひきっかくして…」とあり
邪気払いの十五日粥を作るために、新鮮な火を起こした薪の
木を削って作った「粥杖」で子供のいない女性の尻を叩くと
子宝に恵まれる、或いは男性の尻を叩けばその人の宿すとい
って粥杖を持ってお互いに隙を狙って打ち合って戯れている
様子が記されている。
八日-------
この日は女性を対象に、位階を授けられたり禄をたまう日。
人々がお礼の言上に車を走らせる音も、いつもよりは喜びが溢れている
ようで晴れがましくていいものだ。 十五日-------
餅粥のお食事を主上にさしあげる日。
貴族の家では「かゆの木」のさわぎがおかしい。これは粥を炊いた木で 女性の腰を打つと、男の子が生まれるという俗信があるのである。 公達や若い女房がそっと狙っているのを、互いに打たれまいと、用心を していつもうしろに注意しているのも面白いが、どうやってうまく隙を 見つけたものか、ぴしりと首尾よく腰を打ち、「してやった」と面白が ってどっと笑っていたりするのも、華やかでいいものである。 打たれた方は、くやしい、と思うのも尤もだ。
音のない日暮れに愛は育たない 森田律子
粥杖をもって姫君を追いかける女房 下・粥杖 新婚の姫君と婿君のところでも面白い------- 婿君は宮中へ参内されるために部屋を出られる、それを待ち遠しがって
古参の女房などが、奥の方にそっと佇んでいる。 姫君の前にいる女房たちはそれと気づいて笑うのを、「しっ、静かに」
と手まねで制するが、姫君は知らぬげにおっとりと坐っていられる。 「ここにあるものを取らせてくださいまし」などと言ってそばへより、
走りざまに姫君の腰を打って、逃げると、そこにいる限りの人々は、 どっと笑う。 姫君も愛嬌よくにこにこしているのも面白い-------
女房同士打ち合ったり、はては男性まで打ったりするようだ。
油断して打たれた人は、どういうつもりか泣いたり、腹を立てたり、
しているのもおかしい。 宮中でもこの日ばかりは無礼講で大さわぎである。 姫君のうなじにも蚊の刺した跡 筒井祥文
年中行事絵巻「朝覲行幸」
官吏の移動------- 除目(じもく)の頃の宮中のあたりの様子は興味深いものがある。
雪が降り、道が凍ったりしているころ、申文(叙任申請の文書)を持っ
てあちこちへいく四位や五位の人々が、若々しい好青年であるのは、 いかにも見ていて前途洋々の感じでたのもしい。 しかし、年とって頭も白くなった人々が、つてを求めてじぶんのことを
たのみ、女房の局(部屋)にまで寄って、自分の経歴や業績をしきりに 売り込んでいたりするのはどうだろうか。 若い女房たちはおかしがって、かげで真似たりして笑っているのを本人
はむろん知るはずもなく、「どうぞよしなにお取り成し下さい」などと
頼み込んだりしている。それでも望みの官を得たのはよいが、得られな かったのは、哀れげなものである。 これからのニッポンよりも今のボク 半田知弘
三月三日、上巳(じょうし)の節句-------
この日は水のほとりで祓をし、曲水の宴を張る日である。
うらうらと長閑に日は照り、桃の花の咲きほころぶのがいい。
柳の美しいさま、それも葉のよく開かず、蚕の繭ごもりに似た様がいい。
広がってしまったのはにくらしい。 花の散ったあとも厭わしいものだ。 きれいに咲いた桜を長く折って、大きな瓶に挿してあるのもいい。
桜の直衣に出袿(いだしうちき)といって、下に着こめ美しい色の着物
の裾をわざと出すのだが、そういう有様も美しい殿方のそれが客にせよ、 御兄弟の青年貴族にせよ、その花の近くにいて、何かはなしていられる のも、絵のように美しい風趣があるものだ。 泳いでる紙のパンツを穿いたまま 宮井元伸
賀 茂 祭 五穀豊穣を祈念して京都の上賀茂神社と下鴨神社で行われた。 四月の、賀茂祭りの頃-------
木々の木の葉もまだそう繁くはなく、若々しく、青々とし霞も霧もない
澄んだ初夏の空の快さ。 少し曇った夕暮、忍び音に鳴くほととぎすの、「あ、空耳かしら」と、 思わせるほど、かすかに聞こえるのなど、なんてまあ心ときめく素晴ら しさであろう。 いよいよ「賀茂祭」も近くなって青朽葉や二藍(ふたあい)などの反物
を裾濃(すそこ)むら濃、巻染などに染めた布も、いつもよりおもむき 深い。 女の童の、あたまばかり洗って手入れしたものの、身なりは綻びて乱れ
ている、そんな子が、足駄や履などの緒をすげさせたりして騒ぎ、 「早くお祭りが来ないかな」と燥いでいるのも可愛らしい。 お転婆の女の子たちも、いよいよその日になると、物々しい衣装を着け
られ、まるで法会のときの、坊さんみたいにもったいぶって、練り歩い ている。心もとないのだろう。それぞれ身近に応じて、親や姉などが供 をして、世話をやきながらついて歩くのも面白い。 階段に手すりに脈がある四月 なかはられいこ
つづく |
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