絶え絶えに弾み妙なる楕円球 中野六助
江戸小咄 「七福神」
「聞きやれ、今度おわり町へ、七福神の見世が出来た」
「コレ 途方もない嘘を言うな」
「ナニ 嘘じゃない、数えてみせよう、まず恵比寿や」
「ヲゝ それから布袋やか」
「ヲゝ」
「それ見やれ、とり集めて二福神、外はないもせぬものを」
「ハテ 野暮な、商売がごふく店ではないか」
(江戸時代、恵比寿屋は銀座五丁目南角にあった呉服太物店)
(布袋屋は、銀座四丁目にあった呉服太物店)
小噺は下手だが顔が面白い 中村幸彦
「七福神」
① 布袋
七福神をのせた宝船の絵は、江戸期に江戸の町方で出来上がった。
もっとも、福神信仰が生れたのは、おそらく鎌倉・室町のころの
京で、当時の京は対明貿易で賑わった。<有徳人>と呼ばれる大
商人たちの行先は寧波(ニンボー)だった。そのころ寧波港は日本
船に対する明側の指定港であり、入国と貿易事務を扱う市舶司も
おかれていた。
そのあたりには大小の寺が多く、上陸した日本人たちは当然参詣
したはずである。ところがたいていの寺に「布袋」と土地の人が
呼んでいる肥満漢の像がわかれ、人々が拝礼していた。聞くと招
福の神だという。
「弥勒菩薩でもあります」ふつう弥勒といえば透き通るような細
身のお姿である。天上で人々をどう救済するかを考えていらっし
ゃって、たとえば飛鳥時代の半跏思惟像がその代表的なイメージ
になっている。
七絶にヒップホップの種明かし 原 茂幸
ところが唐末の乱世に明州(寧波)付近の岳凛寺に籍をおく契比
(カイン)という奇僧がいた。いつも袋を背負ってそのあたりを乞食
して回ったため、人々から、「布袋々々」と呼ばれていた。布袋
さんは食物をもらうと袋に入れた。額が大きく、腹が広やかに垂
れ、たいてい座っていた。ところが死後、あの僧は弥勒菩薩の化
身だったいう人が現れ、その生前の姿を鋳て寺に寄進する人も出、
大いに流行した。
優しさを頂きました有難う 本田洋子
② 福禄寿
中国の民間信仰である道教は、仏教とも習合している。弥勒を布
袋さんとし福神に仕立て直したのは、いかにも道教的である。
道教は現世利益の体系で、福と禄と寿という三大希求をもってい
る。この希求から、頭が長くて杖をついた<福禄寿>という神が
つくられた。
灯明の皿にぽとりと秋の蝶 くんじろう
③ 寿老人
寿老人は、福禄寿と同じく星の化身で、にこやかな微笑をたたえ
手には巻物を巻き付けた杖、そして団扇や桃などを持ち、長寿と
自然との調和のシンボルである鹿を従えている。団扇は難を払い、
桃は不老長寿のしるしである。長寿延命、富貴長寿の神として信
仰されている。寿老人は福禄寿と同一神と考えられ、七福神から
はずされることもある。
タテガミに白髪ようやくきた出番 下谷憲子
④ 毘沙門天
これらにひきかえ、七福神のなかで唯一の武装者である<毘沙門
天>は、インドの神である。仏教以前からインドに存在した神で、
方角として北方を守る神とされ、日本では九世紀末、平安京が造
営されたとき、王城守護の神として、羅城門上に安置された。ま
た都の北の鞍馬寺にも奉安された。もともとイン
ド時代から、財宝富貴を守る神であったらしい。
逃げ場ない男の顔に伝う汗 上田 仁
⑤ 弁財天
弁天さまも日本の日本の神ではない。古代インドではガンジス川
など大河が神格化されてこの女神になった。豊穣と技芸の神であ
り、やがて福徳の利益をもたらす徳をも兼ねた。インドにあって
サラスヴァティ(弁財天)と呼ばれる場合、豊かな乳房とくびれ
た腰をもつ肉感的な姿態で表されるが、中国に入ると唐風衣装に
なった。奈良朝の日本に渡来したときは、むろん唐風で、今もそ
うである。江戸期は、武士階級と富農層が学問をし、都市庶民は
その情熱の対象はゼニに向かわざるを得ず、彼らに信仰された弁
財天は、表記までときに弁財天とされた。
オプションにしますかモナリザの微笑 笠嶋恵美子
⑥ 大黒天・恵比寿
七福神はほとんどが異国の神である。その中にあって、なにやら
日本的な風貌をもつ神として、<大黒天>がある。大黒さまこそ
日本の神話の中の出雲の大国主命(オオクニヌシノミコト)ではないか、と思
いたくなるが、それは中世以後の習合で、もとはインドの神だっ
た。インドにあっては三面六臂の忿怒相の神で、髪が逆立ち、全
身は黒い。平安初期、最澄が渡唐して請来し、叡山の政所の大炊
屋(台所)に安置するうち、諸国の寺々もこれにならい、ついに
は広く台所の神として崇められるようになった。途中、日本神話
の大国主命と習合し、容貌もまろやかになり、江戸期、打出の小
槌をもって二俵の米俵に乗るという姿になったのである。えびす
大黒と併称される。
置物はあなた一人で充分よ 清水すみれ
⑦ 恵比寿。大黒天
七福神の中心はこの二柱にあるらしく、特に<恵比寿>神は小脇
に魚をかかえ、釣竿をもち、まことに活動的なお姿である。恵比
寿神が日本人であるかどうかは別として、日本製であることは紛
れもない。もともと信仰の原形は各地の漁村にあった。日本のほ
とんどの漁村に、古代、漂着死体に神異を感ずる風習があったよ
うで、やがてその死者に大漁を祈念するようになった。たとえば
島一つで一国とされた壱岐に印通寺浦という入江がある。東端が
小さな丘になっていて、丘上に小さな石の祠が苔むしている。土
地では「唐人神」といい、立札に短い説明文が書かれている。中
世のころ唐人の下半身が流れつき、土地の漁師によって祀られた
というのである。漁村に限らず、日本の古信仰には、志が遂げら
れずに死んだ人を崇める風があった。
あの人は前へならえの距離のまま くんじろう
そのことが、行き倒れになっている旅装の死者への尊崇にもなっ
た。望みの地に行けなかったため、魂魄がその地に残っているだ
ろうという想像があったのである。浦々における漂着死体も同様
の信仰によって葬られ、願い事を聞いてもらえる神になった。漁
民の願い事は、豊漁である。豊漁は福につながる。漂流死体が異
国人であれば、なおよかった。遥かな地を目指しながら途中海難
のために行くことも帰ることも出来なくなった死者の霊は、目的
を遂げられなかっただけに奕々と輝いているのである。そういう
想像が、恵比寿信仰を生んだのに相違ない。
えんえんと七を引くよう指示される 下谷憲子
[3回]