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川柳的逍遥 人の世の一家言
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活きのいい入道雲はいらんかえ  吉川幸子


 

   浪人の姿(江戸時代初期から左半分・中期)

 


「江戸時代のちょっとした知識」 口入屋



「口入屋」

江戸幕府は口入屋を「人宿」と呼んでおり、これが正式な呼称だったが、
俗称としては「口入、入口、愛人宿、肝煎、桂庵、慶安、慶庵」など、
さまざまな呼び名がある。今でいえば、人材派遣業である。
因みに、口入屋を「慶安」と称するのは、江戸木挽町(こびきちょう)
に住んでいた医師の大和慶安という人が、医業のかたわら、多数の縁談
を取り持ったことから、人の媒酌や周旋をするのを慶安と称するように
なった、のだといわれる。



献立を巡らす日々を愛おしむ  森地豊子



 
口 入 屋


江戸に於いて、13組からなる人宿組合が幕府に認可されたのは、宝永
7年(1710)のこと。口入屋は、武家から求人の注文を受けるのが一般的
で。武士には、その家格に応じて、徒(かち)や足軽、中間といった武
家奉公人を常駐させておく義務があった。しかし、物価高や俸禄の減少
などにより、多くの武家が奉公人を代々抱え、彼らに給金を払い続ける
のは経済的に困難になった。そこで必要に応じて「口入屋」に依頼し、
安い奉公人を短期契約で雇い入れるようになった。



月曜始まりのカレンダーゲット  下谷憲子



口入屋は、相手の注文に応じて必要な人数を揃えて、奉公人として武家
屋敷へ送ったが、そのさい、請負先と奉公人双方から周旋料をもらった。
藤沢周平用心棒日月抄の主人公・青江又八郎の場合はいつも、任務を
終えてから雇い主より金を貰っているが、実際には、多くの場合、奉公
人は、雇用先から前払いで給金を受け取った。その賃金は、口入屋を通
じて手渡された。だが、こうした前払いシステムを取った場合、奉公人
が金だけを受け取って奉公先から姿をけしてしまうケースが多々あった。


小さめに刻むそういう思いやり  高橋レニ
 



浪人の姿(江戸時代中期から・左半分・後期へ)
 
 

奉公人の多くは、農村からあぶれて都市に来た人たちで、極貧の上素行
のよくない者が多く、契約期間が済まないうちに逃亡してしまうケース
は後を絶たなかった。もし、そうした事態が発生したときは、口入屋が
すべての責任を負った。人の斡旋する際に、口入屋は、先方に人物の保
証書(請状)を差し出し、奉公先でのトラブルの解決や処理にあたる義
務を有した。



目を逸らす間の出来ごとの後始末  宮内泉都



因みに、口入屋とひとくちにいっても、その店の規模や門構えは、まち
まちだった。家持・家主といった家屋敷を有する者もいれば、地借、店
借もいた。小説・日月抄の相模屋吉蔵は、古びたしもた屋を借りて細々
と商売する設定になっているが、実在した平松屋源兵衛という口入屋は、
60以上の武家屋敷に出入りしていた。平松屋のように規模の大きい口
入屋は、小規模な口入屋を幾人も配下に起き、多数の奉公人を集めてい
たようだ。おそらく又八郎が世話になる吉蔵も、大店の口入屋の下請け
をしながら、一方で独自の家業も展開していた部類だろう。
注)口入屋が浪人を用心棒として、派遣したという記録はない。
(因みに、用心棒日月抄は享保年間(1716-1736)の話)



自分史を刻む記憶のあるうちに  若林くに彦









「ということで小説「用心棒日月抄」のさわりを読む」
(主人公・青江又八郎は色んな派遣先を経験していく…これは杉良太郎
と竜雷太で映画にもなった、藤沢周平小説である)


「用心棒日月抄」の主人公青江又八郎は、脱藩して江戸に住む浪人者で
ある。それゆえ主家からの俸禄は途絶え、用心棒稼業をしながら、なん
とかその日の糊口をしのいでいる。そんな又八郎にいつも用心棒の世話
をしてやるのが、相模屋吉蔵であった。吉蔵は、なにも慈善事業や親切
心又八郎に仕事を紹介しているのではない。江戸時代には、人に仕事を
斡旋する「口入屋」という商売が存在し、吉蔵もそれを生業としていた。



錆びついた非常階段に置く明日  木口雅裕



吉蔵は帳面をとりあげて、ぺらぺらとめくり指でさしながら詠みあげる。
「番町の斉藤さま。これはお旗本の斉藤さまですが、お屋敷の普請手伝
いというのがありますな。これは細谷さまのような具合になりますかな」
「・・・・」
「神田永富町の本田さま。ここは道場稽古のお手伝いですな。一刀流に
覚えのあるかた…」
「親父。その口をおれがもらおう」
不意に細谷源太夫(竜雷太)という浪人者が言った。もう立ち上がって
いる。又八郎も唖然としたが、吉蔵も渋い顔をした。
「しかし…」
「しかしもへちまもあるか」
細谷は乱暴な口をきいた。
「前には土方人足の口を回した。今度はきちんとした仕事をよこすべき
だ。ともかく行ってみる。雇われると決まったらまた来る。永富町の本
田ともうしたな」
細谷はそう言うと、勢いよく戸を開けたてして出ていった。
「攫われたな」
と又八郎は言った。道場の手伝いならうってつけの仕事だと、思ったの
だが、髭男がよこどりして行った。さすがに江戸は油断できない土地だ
と思った。



刻のない街が濡れてる通り雨  嶋沢喜八郎



「青江さまは、こちら相当おやりで」
吉蔵は丸く太った指をかざして、撃剣の真似をして見せた。
「自信はある。これは帳面につけておいてもらおう」
「それは惜しゅうございましたな」
と吉蔵は言った。
「本田さまのところは、頼まれますがお手当がなかなかいいのですよ。
しかしさっきの細谷さまは、お子が五人もおられましてな」
「・・・・」
それにご新造さまと六人の口を養うわけですから、大変でございますな。
それであのように大わらわで働いておられるわけで」
「さようか」
又八郎は、風を巻いて出て行った細谷の、雲つくほどの巨体を思い返し
ていた。
「それでは止むを得んな」
「しかし、どうなさいますか」
吉蔵の声が、又八郎の一瞬の感傷を吹きとばすように、無慈悲に響いた。
「あとは犬の番しか残っていませんが」



優しさも怒りも伝染するらしい  西尾芙紗子



② 愛犬まるの護衛
回向院裏の本所一つ目にある雪駄問屋・田倉屋徳兵衛の妾おとよの家で
犬のまるに毒餌が投げ込まれた。「生類憐みの令」により、飼い犬に万
が一のことがあっては大変と、又八郎は犬の護衛を頼まれる。
(報酬 不明)


犬のことを考えているうちに又八郎は、釣りこまれたようにうとうとと
眠くなった。いい陽気で、暑くも寒くもない。そういう季節に、するこ
ともなければ、犬も人も眠くなるのである。犬を笑えぬな、と又八郎が
思ったとき、その犬が物凄い声を出した。一挙動で刀を掴み、はねおき
ると又八郎は部屋を走り出た。みると潜り戸に近い地面に、犬がへたり
こんでいる。犬の首に荒縄が巻きつけてあり、潜り戸が少し開いている
のを、又八郎は一瞬のうちに見た。道には物憂いような日暮れの光が漂
っているばかりで、人影は見えなかった。おそらく犯人は、女達が湯屋
に出かけるのを見とどけ、留守だと思って入り込んだが、人が飛び出し
てくる気配に驚いて逃げ去ったものらいかった。犬の番が、はじめて役
にたったわけである。



懸命に生きる一回きりの旅  山谷町子



「だいじょうぶか」
珍しく心細げなからだを摺り寄せてくる犬に、又八郎は、声をかけて首
を撫でた。すると犬は思い出したように、二、三度咳をした。見たとこ
ろ傷もなく、それほど弱ったところも見えないが、忍び込んだ者は、犬
を絞め殺そうとした形跡があった。荒縄は、端がしまるように輪につく
ってあり、又八郎が見たとき、それは三重に犬の首に巻きついていたの
である。
-すばやい奴だー。
又八郎は犬を玄関脇に連れてくると、自分もそばにある石に腰をおろし
て腕を組んだ。外をのぞいたときには、もう姿が見えなかった犯人のこ
とを考えたのである。犬を見ると、犬も又八郎を見ていた。横着げな犬
だが、さすがに居眠りどころではないらしい。又八郎を見て、喉の奥に
微かに甘えるような声を立てた。



今日の物干しは幸せに乾いてる  市井美春



③ 「小唄稽古通いの油屋娘おようの送り迎え」
娘が消えた。神田駿河町の油屋清水屋の娘・おようが小唄の稽古に行き
帰りに怪しい人影が…。護衛を引き受けた又八郎の目の前に、折悪しく
国許からの刺客が現われ、おようは何者かに連れ去られてしまった。
(報酬 三日で一両)


悪夢のような死闘が続いた。彼らは低く声をかけあい、欄干に飛び上が
って、そこから飛び下りざまに斬りかけてきたり、逃げるとみせてすぐ
に反転して、鋭く匕首を突きかけてきたりする。目まぐるしく飛び交う
彼らの動きに幻惑されて、又八郎の刀は何度か空を斬った。若い男がま
た欄干に飛び上がった。目の端でその動きをとらえると、又八郎は向き
合っている痩せた男を捨てて欄干に駆け寄った。若い男は、鳥のように
欄干の上を走った。又八郎も走る。そして足を薙ぎ払った。男の身体が
少し傾いて橋の飛び下りた場所に、又八郎は、一瞬早く殺到すると頭上
から斬りさげた。すさまじい悲鳴をあげると、男の身体は一回転して、
橋板に倒れた。又八郎の刀から逃げようと身体を傾けた、その首すじを
切先が切り裂いたのだった。



お早くどうぞと葬儀屋のアドバルーン  上田 仁



又八郎が向き直ったのと、もう一人の男が、身をぶちあてるように飛び
こんでくるのが、ほとんど同時だった。刀を構える暇もなく又八郎は、
左の二の腕を刺されていた。そのまま男の腕を抱えこみ、男に背を向け
た姿勢のまま満身の力をこめて逆手に絞りあげる。ぽきっと腕が折れる
音がした。だが男は声をあげなかった。刀を持ち直して、又八郎は男の
脇腹を後ろ手に刺し、抉った。男は膝を折り、又八郎が腕を離して刀を
引き抜くとゆっくり倒れた。最後まで苦痛の声をあげなかった。又八郎
は蛇を殺したような気がした。
 
 
 
 身のほどを知って翼が開かない  村山和子
 
 
 
ー今日は満身創痍だ。
思いながら又八郎は思わず橋の上に膝をついた。そのときになって、眼が
くらむほどの疲労が全身を包んでいるのを知った。身体が石のように重く、
それでいてどこかに頼りなく浮揚して行くような感覚があった。
「大丈夫ですか、青江さま」
駆け寄ってきた喜八がそう言い、又八郎の脇の下に身体を入れて立たせ
た。するとおようももう一方の脇の下にもぐりこみ、又八郎の腕を肩に
かけた。そうしながら、おようはまだ泣きじゃくっている。十七の小娘
の顔になっていた。
ーそういえば、飯を喰っていなかった。
それにしては働きが過ぎた。用心棒としては、やや不甲斐ない姿勢で、
二人に助けられて歩きながら、又八郎はそう思った。



黙り込む眉間のあたりから悟る  山本昌乃



④ 「夜鷹の夜道の送り」
神田川河岸柳原で、又八郎は呼び止められる。女は同じ裏店に住むおさ
だった。変な男に見張られているという。又八郎は夜道の送りを引き
受けるが、迎えが遅れた夜、おさきは殺されてしまう。
(報酬 毎日の晩飯)


「ちょいと旦那」
豊島町の角を、俗に柳原と呼ぶ神田川の河岸に出たとき、不意に呼ばれ
た。見ると女が一人立っていた。黑っぽい着物に白帯、頭を白手ぬぐい
で包んだ女だった。又八郎は一瞬ギョッとしたが、すぐに女の正体に思
い当たった。
ーははあ、これが夜鷹と申す女か。
白塗りの化粧に顔を隠し、手拭いをかぶり、手に茣蓙を抱えて辻に立ち、
袖を引く女たちのことは聞いていた。そういう女たちが、夜の町にひっ
そりと立つようになったのは去年あたりからだという。噂には聞いてい
たが、見るのは初めてだった。又八郎は苦笑して、ほっそりした身体つ
きの眺めながら言った。
「遊んでやりたいが、生憎金の持ち合わせがない。勘弁してもらおう」
「待ってください、旦那」
女はすばやく又八郎に擦り寄ってくると、腕にすがって囁いた。
「助けてくださいな。変な奴に追われているんです」
 
 
 
おぼろ夜にひょっこりと紫の女  徳山泰子



⑤ 「老中小笠原佐渡守の夜歩きの護衛」
怪我した細谷原太夫の後釜として、老中・小笠原佐渡守の屋敷に雇われ
又八郎の役目は、老中の夜歩きに付き添うこと、同道して訪れた屋敷
で話を盗み聞いた又八郎は、それが浅野浪人の援護者たちによる会合と
知る。(報酬 一日二分、飯付きで十日間、計五両)



⑥ 「呉服問屋備前屋の内儀おちせの護衛」
神谷町の大養寺へ出かけて会ったのは浅野浪人吉田忠左衛門。
備前屋は資金援助をしていたのだ。町で同郷の土屋清之進に会った又八
郎は、藩主壱岐守が死んだこと、又八郎の元婚約者の由亀が又八郎の
帰りを待っていること
を知る。(報酬 一日二分)



ひとりにはひとりのドラマ枯葉舞う  佐藤正昭



⑦ 「代稽古」
道場主は、つい先ごろ迄城勤めをしていたらしい30代半ばの長江長左
衛門。道場には素性の一定しない客の出入りが多い。ある日細谷が、客
の中に浅野家に仕官した神崎与五郎を見かけたという。実は長江道場は
浅野浪人の素窟、長江は堀部安兵衛その人であった。ある夜、又八郎と
細谷は飲み屋で小唄の師匠おりんと知り合う。おりんは浅野浪人の動き
を探っていた。(報酬 三日で一分二食付き 約ひと月で二両二分)
 
 

⑧ 「内蔵助の身辺護衛」
川崎宿の北、平間村に垣見五郎兵衛と名乗って、滞在する大石内蔵助。
平間村にある山本長左衛門の隠宅に集まった男たちの中に、聞き覚えの
ある声が…浅野浪人、吉田忠左衛門だ。又八郎は垣見が大石内蔵助だと
知る。ある夜、賊が侵入してきた。一人はおりんだ。又八郎は怪我をし
たおりんを逃がしてやる。大石が日本橋石町の小田屋に移り、仕事を
える。(
二日で一両十日間計五両)



思い切って白いカラスになりました  靏田寿子





     酒を飲みかわし蕎麦屋で談笑する又八郎と細谷



 ⑨ 「吉良邸の用心棒」
師走、吉良邸の用心棒を引き受けることになった又八郎。ある日、土屋
が知らせを持ってきた。一つは由亀の手紙と間宮中老からの帰藩の命令。
もう一つは、十四日の晩に吉良邸が襲撃されるという伝言。又八郎は、
喧嘩を口実に細谷とともに吉良邸を脱出。十四日の夜、又八郎と細谷は
吉良邸の門の外に佇み、浅野浪人による討入の様子を見守っていた。
(報酬 一日一分)


邸の中に異常なことが起こっていることは確かだった。それは吉良家と
境を接している旗本の土屋家の塀内に、高張提灯が三つ、赤々と立てら
れていることでわかった。
「喧嘩かの」
土屋家と吉良家の境目の塀ぎわに集まっている人々の中で、首に襟巻を
巻いた年寄の武家がそう言った。火事ではありませんか、と中年の町人
風の男が言った。集まっているのは十人ばかりの人だった。又八郎
も、その中にいた。二人は昨夜誘い合わせて東両国で落ち合い、深夜
までそば屋で時を過ごしたあと、このあたりをうろついていたのである。
中で何が行われているかを、正確に知っているのは、又八郎たちだけだ
った。二人はおよそ一刻前、闇の中をしのびやかに来た浅野浪人の群が、
一気に吉良邸に押し入ったのを見ている。



鬼さんこちら騙しつづけて内蔵助  岩城富美代



「長いの」
細谷が言ったとき、不意に邸内の物音がぴたりと止んだ。そして次に大
勢の男たちが泣くと思われる、異様な声がわっと上がった。又八郎と細
谷は顔を見合わせた。
「仕とげたらしい」
と又八郎がささやいた。邸内にふたたび微かなざわめきが戻った。その
中で誰かがりんりんと声を張って、何かの口上のようなものを述べ、そ
の声が終ると、土屋家の高張提灯がするするとおろされるのが見えた。
まったく突然に、吉良家の裏門が内側から開き、そこから切れ目なく人
が出て来た。おびただしい数に見えた。黒い人影は、一様に火事装束を
身につけているようだった。門前に出て来た人数は、およそ五、六十人
はいると思われたが、きわめて静かに、黒々と隊列を組み終ると、やが
て又八郎たちに背をむけて、ゆっくり歩き出した。元禄十五年十二月十
五日の夜があけようとしていた。そのかすかな光の中に、隊列から突き
出ている槍の穂が鈍く光って遠ざかっていった。



望み叶って針穴を通る糸  藤本鈴菜



「あの中に神崎も茅野もいるかの」
細谷が言った。細谷は潰れたような声を出した。又八郎が見ると、細
谷は頬に涙をしたらせていた。細谷は鼻みずをすすった。又八郎も胸が
熱くなった。―堀部も、岡野もいるだろう。そしてやはり一党を指揮し
たのは、あの大石なのだろう。堀部にしろ、大石にしろ、ただの男たち
だったと思い返すと、命をかけて、復讐ということを仕とげた男たちの
健気さが胸に迫ってくるようだった。中に知人がいる細谷が感動するの
は当然だと思った。



嘘のつける相手がいなくなっていく  高野末次



➉ 「最後の用心棒」
細谷吉蔵に見送られ、又八郎は国元へ向かう。途中、佐久間山宿の北の
街道で女刺客の襲撃を受ける。佐知との出会いである。大富家老の甥、
とも剣を交える。家に戻った又八郎は、由亀と祖母に再会。間宮中老
会い、馬廻り組百石に復帰した又八郎は、藩主暗殺の陰謀が露見した大富
家老の処分に立ち会う。細谷からの手紙で浅野浪人たちが切腹をしたこと
を知った又八郎は、武家勤めの辛さを噛みしめつつ、用心棒暮らしの気楽
さを懐かしむのだった。



迂回路閉鎖 人生ってこんなもの  雨森茂樹

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庭にいる石灯籠はお爺さん  新家完司


「北斎娘・応為(お栄)」 美人画







上「新聞記事」
江戸時代の天才浮世絵師・葛飾北斎の三女・お栄が画いたと思われる美
人絵の「下絵」がこのほど、小布施町伊勢町の旧家で見つかった。
下絵は、北斎の日課獅子図などと共に、貼りまぜの屏風に貼られている。
卓越した技量で、北斎の代作者との説もあるお栄が、小布施と関わった
ことを示す資料として注目される。
お栄作とされる根拠として、お栄の手紙2通が同じ旧家にあり、そのう
ち1通には「一緒に美人画の下絵を送る」と綴られている。北斎・お栄
に詳しい久保田一洋さんは「下絵は、衣や髪型、かんざしの描き方まで
お栄の特徴が出ている。また指先を細く、足の爪を細かく描く繊細さ、
ほつれ髪を出す部分はお栄と思われる」と話す。



お互いの隙間に入れる接続詞  みつ木もも花




 
 
 
 
お栄は、北斎から「美人画はお栄にかなわない」と評され助手を務めた
という。屏風には、北斎が描いたと思われる日課獅子図もある。北斎は
日課獅子を83歳から描き始めたとされるが、久保田さんは「この獅子
図は、北斎が江戸から信州に向かった86歳の作品と考えられ、小布施
で描いたのでは」と推測する。
またもう一つの屏風には、お栄作と思われる「百合図」もある。
久保田さんは「これらの資料は、お栄の人物像や業績、小布施での交友
関係などを探るきっかけになる」と期待する。



新聞の奥から氷河割れる音  下谷憲子





         朝 顔 美 人 図



「朝顔美人図」
肉筆で朝顔をめづる美女の図がある。「北斎娘辰女」と落款が入ってい
る。団扇を片手に半ば物恥じらう顔を傾げた風情。えもいわれぬ云われ
ぬ艶美な匂いが漂うている。衣紋も北斎ほど癖が露骨でなく、なかなか
技巧がしっかりした点がみられ、傍らの皿鉢に盛られた数輪の朝顔は、
この美女に話しかけているかのように、よく融合っている。
吹き出しには、長高亭雲道「垣根より取りゑしままの朝顔に露もたる
かと思ふたをやめ」と書き、負けず嫌いの北斎も「美人画だけはお栄に
かなわない」と折り紙をつけているほど、お栄の「美人画」はうまい。



床の間に置くと黙ってしまう壺  桑原伸吉 





     夜桜美人図
 
                                                           

「夜桜美人図」「眩」(くらら)ものがたり
お栄は木枠にピンと張った絹布の前で大きく息を吸い、吐いた。滲み止
めの礬水(どうさ)はもうひいてある。左膝の脇に置いた下絵を目の前
に掲げ、もう一度見直した。善次郎(渓斎英泉)が訪れてから五日とい
うもの、納期が急く仕事をこなしてから、一日に五枚、六枚と違う設定
の下絵を描き続けてきた。井戸の釣瓶に朝顔を這わせてみようかと思っ
たが、桜と季節が合わない。井戸をやめて軒先にしてもみたが、すると
善次郎から教えられた句がたちまち蘇る。
「井のはたの 桜あぶなし 酒の酔い」いったん知ってしまうと、その
響きはどんどん大きくなる。お栄はさんざん迷い、惑った。三十枚ほど
描き上げて、今日は朝からそれを並べてみた。違うと思うものを外して
いく。すると残ったのは、やはり夜桜の景だったのだ。



トナリから攻め寄るたとえばの話  山口ろっぱ 
 
 
  
何日も費やして回り道をして、結局、元の案が手許に残った。この娘が
歌人の秋色を想起させようがさせまいが、今はどうでもいいような気が
している。観る人が、思い思いに捉えてくれたら、それでいい。むしろ
夜の座敷の床の間にこの夜桜の絵があることで、その場の興趣を誘いた
い。百組の酔客のうち、たった一組でいい。娘が短冊に何を記そうとし
ているのか、思いを馳せてくれる人らもいてくれるのではないか。そん
な夢想を始めると、躰の中から沸々と湧くものがある。



にじいろの影の持ち主いませんか  中野六助



彩色を初めて三日目の夕暮れに、十八屋の小僧が訪ねてきた。信州に滞
在中の父・北斎からの手紙と味噌や粕漬けと共に、折り畳んだ半紙が、
油紙に包まれていた。父のことに思いを馳せつつ、お栄は善次郎が届け
たという包みを解いた。やはり厚みのある紙が入っていて、けれど何も
記されていない。と、上の紙がずれて奇麗な朱色が見えた。絵だ。中央
に描いてあるのは、髷簪の形からして上級の遊女で、鳳凰の羽を描いた
朱色の襠(うちかけ)を纏っている。画面の右上には、桜が何本もの枝
を伸ばし、遊女の足許には大きな塗り提灯が置いてあるので、この絵も
夜桜のつもりであるらしい。



僭越な箸でゲテモノをまさぐる  美馬りゅうこ





       手許に注目



「俺ならこう描くって腕自慢だ、これは。ほんと、負けず嫌いだねぇ」
呆れて文句をつけた。お栄は絵を手にしたまま立ち上がり、己の下絵の
前で腰を下ろした。二枚の絵を並べてみる。ああやっぱりそうだ。お栄
の描いた娘は筆を持ち、燈籠の灯を頼りに今、何かを書こうとしている
図だ。そして善次郎の描いた遊女は、提灯の灯を求めて身を屈め、文を
読んでいる図である。「お栄、お前ぇが描いたものを、こうして受けと
める者がいるってことさ」善次郎の絵は、そんなふうに告げているよう
な気がした。



他人からもらう時間はあかね色  清水すみれ 



 



とんだ独りよがりかもしれないけれど、こんな返し方をしてきてくれた、
そのことが嬉しかった。「嬉しいってことは、いいもんだな、善さん」
そう呼びかけながら、善次郎の絵を文机の上に置いて、お栄は胡粉を溶
いた皿を指をもう一度混ぜた。極細の面相筆の穂先をほんの少し浸して
皿の縁でしごいてから、夜空に星を描き入れる。一つ、二つと小さな瞬
きを増やしていく。この白の上に、青や赤を挿していこうと思いついた。
光にはいろんな色がある。身を起こして立ち上がり、数歩退がって絵の
全体を見返した。「うん、やっぱりあたしの方が巧いわ。断然」また独
り言がでた。
 
 
「女子栄女 画ヲ善ス、父ニ随テ今専画師ヲナス 名手ナリ」

渓斎英泉が天保四年『无名翁随筆』に記している。



振り向くとみんな大きな愛でした  牧渕富喜子





         女重宝記・習い事


        
「女重宝記」
「お栄は美人画に長じ、筆意或は、父に優れる所あり、かの高井蘭山
の『女重宝記』の画のごとき、よく当時の風俗を写して、妙なりといふ
べし。弘化4年出版の「女重宝記」応為栄女筆と記され、15、6図の
挿絵を描いている」(葛飾北斎伝)



   (拡大してご覧ください)
       女重宝記・習い事



 女重宝記とは、江戸中期に婦女子の啓蒙教化、実用日益を主として刊
行された。この書物は、世の推移につれ、流行を追い、補足訂正されて
いったものでー、『絵入日用女重宝記』には、一之巻に、女風俗の評判、
言葉遣い、化粧、衣服のこと、二之巻には、祝言に関すること、三之巻
懐妊中の心得、四之巻には、女の学ぶべき諸芸(手習い、和歌、箏、
かるた、聞香(ぶんこう)等)、五之巻には、女節用字尽くし、女用器財、
衣服、絹布、染色の諸名、などが載せられている。



清流で洗うこころのかすり傷    三井良子 

拍手[5回]

アンタッチャブルそこは私のコンセント  笠嶋恵美子







「北斎と馬琴」 別れの真相



葛飾北斎が「北斎」の画号を使い始めたきっかけ。
北斎は寛政9年39歳のとき、曲亭馬琴から「北斗七星は、星の中で最
も光の強い大物の星であり、かつまた、天上での最高が北斗だ」
と教え
られた。中国山東省の泰安市にある地上で、最も高い山を「泰山」と呼
ぶということも教示され、現世の権威者を「泰斗」ということなどから
「北斎辰政」という号が生れた。北斎が生涯、30数回改号したなかで、
「北斎」「辰政」「辰斎」「雷斗」「雷震」などは、そこから由来して
いる。飯島虚心の『北斎伝』には、次のような書かれている。
「…北斎辰政と号す。妙見は北斗星、即ち、北辰星なり、その祠、今、
本所柳島にあり。又、かつて、柳島妙見に賽せし途中、大雷のおつるに
遇いて、堤下の田圃に陥りたり、その頃より名を著したたりとて雷斗と
名づけ、また、雷震という」
と。


立つ時に雀大きな羽音させ  萬二






そんなことがあって北斎は、7つ年下ながら物知りの馬琴を尊敬し先生
と呼ぶようになった。その後も正反対の性格だが『椿説弓張月』『水
滸伝』
など挿絵と著作でふたりの良好な関係は続いた。そもそも北斎が
信仰する「妙見信仰」とは、北の空で輝く北極星と、その周りを一日で
一周する北斗七星を神格化させ、仏教、道教とを習合させた妙見菩薩を
祀った信仰である。海上の安全・五穀豊穣・商売繁盛・安産・良縁など
の御利益があるといわれ、庶民層に幅広く支持されていた。
(北極星は一年中動かず、同じ位置に座している。航海人は、北極星と
その周りを回転する北斗七星の柄杓の部分の動きで、現在位置を確認し
たという)


頬寄せる為に覚えた星座の名  伊藤良一




 
        風流東都方角 柳島法性寺妙見堂図


北斎がまだ春朗を名乗っていた頃「柳島法性寺妙見堂図」という版下絵
を残している。上記の絵にあるように、俯瞰構図で描かれ、左方に北辰
妙見菩薩を祀った妙見堂があり、右方の北極星が臨降したという影向松
(ようごのまつ)が描かれている。妙見堂のかたわらの縁台に、芸者と
歌舞伎役者が、北の空を見上げている図柄である。妙見は神秘を表し、
正しい見解、中立的立場を意味するという。(また妙齢な外見の意味に
も解せられるから、役者や花柳界から絶大な信仰を集めていたという)


じっと見つめる首筋の曲がり角  青木公輔






「さて、北斎との馬琴との交わりである)
北斎が馬琴と初めてコンビを組んだのは、黄表紙『花春虱道行』(はな
のはるしらみのみちゆき)読本『小節比翼文』からであり『椿説弓張月』
以降、『敵討裏見葛葉』(かたきうちうらみのくずは)『そののゆき』
『三七全伝南柯無』(さんしちぜんでんなんかのゆめ)『皿皿郷談』
ど十数種類に及ぶ『椿説弓張月』は28冊にも及ぶ大河小説で、波乱
万丈、破天荒なストーリーの面白さに加えて、ドラマチックな画面構成、
残酷・怪奇の挿絵に読者は酔いしれ、大人気になった。
しかし、2人が人気者になるに従い、個性の強い2人の間に激しい芸術
論争がはじまる。2人は共に、双方の才能・芸術性を強く認めていたが、
ついに大喧嘩となり、文化元年より続いた11年のコンビは解消される。


植木鋏で切り離すまでは雲  井上一筒


2人の中が険悪になった原因をあげてみると、
馬琴があまりにも小うるさく注文や要求を出すので、北斎はいたずら
心で、馬琴の下絵に、右方に置かれた人物を、絵の具合によって、勝手
に左に画いた。これに馬琴は、手を焼き、この後、北斎に画かせる場合
には、人物を右に画かせようとする時には、下絵の時点で、左に画いて
置いた。すると馬琴思い通りの絵となったとか。
ある日『三七全伝南柯夢』では、馬琴が書いた話に関係なく、北斎が
勝手に狐の絵を描くので「これじゃあ狐にだまされてるみたいだ」と馬
琴が言い喧嘩になった。
ある時、馬琴が「草履を口にくわえた絵を描いてくれ」というと北斎
「そんな汚ねえ絵がかけるか、だったらてめえでくわえてみやがれ」
と北斎が言い、喧嘩になった。というぐあいである。

わたくしの三分の二が拒まれる  徳山泰子

北斎の弟子の露木氏の話によれば、
「北斎馬琴の家に食客たりしころは、恰も門弟のごとく、共に他に出づ
る時は、北斎は、麻裏草履をはき、後へにつきて歩きたりと。かれこれ
考えれば、かの挿画などのことにつき、激しき議論もなしたらんが、こ
の故に、交わり絶つほどのことはあるまじとおもはる。また北斎が馬琴
と深く
交わりしは、文化5年のころよりなるべし」しかし、馬琴が
滸伝に書肆また北斎子とよし。予も一面の交わりあれば、やがて彼人に
就いて、巻のところどころに、其像を出だし、もて水滸伝の模様に擬す
云々〉」というように
馬琴は、ことのいきがかりで北斎と喧嘩をしたが、
また共に仕事をしたいと考えていたようである。

だからって炎を消しちゃいけません  清水すみれ



(拡大してご覧ください)
  椿説弓張月より

かつて北斎の春朗時代における挿絵は、黄表紙、洒落本、噺本、談義本
ほかがあったが、一例を除き、そのいずれも墨一色の黒刷本であった。
当然、そこで求められるのは、墨と薄墨のみの不利な条件下で、いかに
作者の意図を汲み、読者を惹きつけられるかが、挿絵の評価となる。
北斎の読本挿絵の絶大な評価は、筋立て以上に雄大、怪異、残虐、情緒
的など、各場面を臨場感豊かに表出しているのである。だから馬琴とし
ては、北斎と喧嘩わかれなどしたくはなかった、のだが、双方のプライ
ドが邪魔をして、どちらから折れることもせず、むやみに数年が経った。
それでも馬琴は、仕事仲間で喧嘩友達の北斎を求めた。

ちぎれ雲追って追われてオニヤンマ  森田律子

それが証拠に、馬琴が北斎のお見舞いに現れた。
またまた北斎の弟子・露木氏の話から。
「かつて北斎が母の年回に、馬琴その困窮を察し、香典許干(わずかば
かり)の金を紙に包んで与えたり。其の夕、北斎帰り来りて談笑の間、
袂より紙を出だし、鼻をかみて投げ出だたるを、馬琴見て大いに憤りて
曰く〈これは今朝与えし、香典包みの紙にあらずや、此の中にありし金
円は、かならず仏事に供せずして、他に消費せしならん。不幸の奴め〉
と罵りかれば、北斎笑うて〈君の言のごとく、賜るところの金は、我れ
口中にせり、かの精進物を仏前に供し、僧侶を雇い、読経せしむるが如
きは、これ世俗の虚礼なり、しかず父母の遺体、即ち、我が一身を養は
んには、一身を養い、百歳の寿を有つは、是れ父母に孝なるにあらずや〉
という。馬琴、黙然たりし」
。またここで二人は諍ってしまった。

静止画のままでひと日が暮れて行く  中野六助

「これ親密なる朋友間の一時の戯言にして、交情の厚さは却って、この
一条にて知らるゝなり。何ぞ瑣々たる挿画より、交わりを絶つの裡あら
んや。馬琴或は絶交せんを欲するも、北斎は自ら進みて交わりを絶つ如
き人にあらざるなり。これかつて馬琴の恩恵を蒙ること、すくなからざ
ればなり。また按ずるに、北斎は、かならず馬琴と絶交するの意なかる
べし。されど、馬琴の人となり、謹厳にして、胸中寛活ならざる所ある
をもって察すれば、馬琴或は実に怒りて、絶交せしものか」
ああどちらに非があるのか、折角の仲直りの機会も無にして、以来40
数年、2人は二度として合おうとはなかった。


二の足を踏んで出口を見失う  上田 仁



嘉永元年(1848)馬琴は82歳で死去する。娘のお栄は北斎に「葬式に
行かなくていいのかい?」というと、本当は、行ってやりたい気持ちが
ありありながら、北斎は黙々と『富嶽36景』の富士山を描くことに執
念するのだった。
その日本一高い頂上を中腹から仰ぎ見たとき、それよりもなお高い空の
彼方に広がる天上界に思いを馳せるのは、ごく自然であり夜ともなれば、
満天にさざめく星のうち、北の空でひときわ輝きを放つ北極星や北斗七
星を追い求め、祈りを捧げる気持ちになるのは、想像に難くはない。
北斎は、星空について語っている遠い日の、馬琴を偲びながら、迷いは
一気に突き抜けた。北極星や北斗七星に思いを託そう。それをこれから
も生きる指針にしよう。北斎の心は「人の世の出来事」よりも天上界に
向いていったのである。
この翌年に仕上った絵が、薄藍色に霞む富士の頂きより、なお高く黒煙
をあげ、天空めがけ、龍の姿を描いた「富士越龍図」であった。

来た道が見えるところで一休み  新家完司

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泣き場所を探すはぐれ雲を探す  森田律子

「十返舎一九」 伝説の一九




十返舎一九肖像画 (歌川国貞画)
まず、十返舎一九は「じっぺんしゃいっく」と読む。
「十返」を「じゅっぺん」と読むとパソコンは変換拒否するし、
答案用紙に書くと、バツをもらうことになる。



誤字脱字生きる形は問われない  佐藤正昭



一九は天保2年(1831)、67歳で亡くなったが、死に際に門人を枕元に
呼び「これからあの世に行くが、俺が死んでも湯灌などするんじゃない。
このまま棺桶にいれて焼き場に運んでくれ」とと遺言をした。
門人は師の言葉を忠実に守り、一九の遺体をそのまま棺に入れて火葬場
へ運んだ。ところが、えらい騒ぎになった。
竈に点火したとたん、耳をつんだく爆発音とともに、一九を納めた棺桶
から凄まじい火柱がたち上ったのだ、人々は驚きとともに腰を抜かした。
「何の落もつけないで死ぬのも自分らしくない」と、考えたのか自分の
体に花火を巻きつけていたのだった。そしておどけ一九が遺した辞世は、
「この世をば どりゃおいとまに せん香の 煙とともに 灰さようなら」
というものであった。



淋しくてまた死んだフリしてしまう  高橋レニ
 



 
         江戸の道中記・金の草鞋 (十返舎一九)


 
一九の伝説には、真偽を別にして次のようなものもある。
 室内の調度や盂蘭盆の棚、正月の鏡餅、門口、などを壁紙に画いて
すませた。
 年始の礼に来た質屋・近江屋の主人に入浴を勧めて羽織を無断借用
して年礼した。
 近江屋へ借金の証文を質草に入れて金を借り、その金で酒と鰹を求
めて、近江屋の主人と盃を酌み交わして、座興に狂歌を詠んだ。
 ある日、柳原の知人のところへ遊びに行き、背の高い一九は歳徳神
の棚に頭をぶつけ、即興で狂歌を詠み、その隣家の酒屋の主人が、この
一九の機転を喜び一九をもてなし、一九は再び狂歌を詠んで、酒屋より
酔って湯櫓を借り被って帰った。など。



そんなことあったかなあと卵とじ  みつ木もも花



ところが、こんなふざけた一九を知る人は、次のように語っている。
「一九は、旅をしていても、のべつ書きものをしていて寡黙な男だった」
(柴井竹有)
「一九は、楽天的で呑気で剽軽な弥次、喜多のようなズッコケた人物で
なかった」(『膝栗毛論講』(共古))
「一九には、両三度も出会いしが、膝栗毛など戯作せし人とは見えず、
立派な男ぶりにて、いささかも滑稽など綴る人体とも思われず」
(『随聞積草』南方径方)
「一九は気さくで、酒を嗜むこと甚だしく、やりきれないものを紛らせ
ようとして飲み、飲むほどに一層心が憂いて、滅入ってゆく酔いを潰す
ためにまた飲む…陰のある感があった」(笹川臨風)
「生涯言行を屑(いさぎよし)とせず、浮薄の浮世人にて、文人墨客の
ごとくならざれば…」(『江戸作者部類』滝沢馬琴)
酒のまぬ人に見せばやこの景色徳利の鶴に日の出盃


二合飲む二合分だけ酔うてくる  雨森茂樹



「どんな人だった・一九」

「一九子、姓は重田、字は貞一、駿府(静岡)の産なり幼名を市九(又
は与七)云う。弱冠の頃より小田切土佐守直年に仕えて
都にあり
其後、摂州大坂に移住して志野流の香道に称(な)あり。
今子細あってみずからその道を禁ず。寛政6年、ふたたび東都に来りて
はじめて『心学時計草』を著す」
 
 

 
 (拡大してご覧ください)
       心学時計草



一九は明和2年(1765)駿河の府中の千人同心の子として生まれた。
名貞一、通称重田与七、幼名幾五郎とあって「幾」から「一九」という
雅号にしたという説がある。一九を根本作り上げた大切な時期でもある
彼の幼少時代、また、どのような環境に育ったか詳細を示す資料はない。
ただ、武士の子として生まれて、文武両道厳しく育てられたことだろう。



いつもより近くの蝉とテレワーク  山口美千代



青年武士貞一は、天明元年(1781)、駿府町奉行であった小田切土佐守
注簿の役として仕えた。父親が千人同心であったことから、もっと早く
見習いのような形で勤めていたかもしれない。がいずれにしろ天明3年、
土佐守が大坂町奉行に任ぜられると、同年8月に彼もまた摂津大坂に移
住した。
だが一九は、まもなく土佐守のもとを致仕した。致仕とは、老齢のため
に辞職することで、70歳の異称として用いられるコトバである。20
歳そこそこの青年が致仕したというのは、いささか怪異な印象を与える。
のちに、戯作者の道を歩むことになるのだが、この頃から遁世者に心が
向かっていたのかもしれない。



くさってる場合じゃないと背中押す  吉岡 民



一九こと重田貞一は、あまりまじめな勤め人ではなかったようである。
その後の大坂における一九の行状がそれを語っている。彼は義太夫語り
の家の居候になったり、材木商の家に入婿して、離縁されたりしている。
離縁の原因は、大坂大福町のえびすやへ40歳で入婿となったけれども、
娘が50歳なので逃げ出したという話を、一九が書いている。(『両説
娵入談』)しかし、大坂という商都の材木商には役にも立たぬ、香道に
うつつをぬかし、義太夫を唸るのでは、隠居じみており、入婿としては
グウタラ過ぎるのではないか。こちらが離縁の真の理由かもしれない。



風のやむときふと我に返るとき  竹内ゆみこ








しかし結婚生活には躓いたが、彼は大坂在住の期間に初めて筆を持った。
25歳のとき、若竹笛躬・並木千柳とともに、近松与七の名で『木下蔭
狭間合戦』という浄瑠璃を合作したのである。この作品は、寛政元年2
月21日に、道頓堀大西芝居興行で上演された実績を持ち、さらに独学
で黄表紙のほか、洒落本、人情本、読本、合巻、狂歌集、教科書的な文
例集まで書いた。筆耕・版下書き・挿絵描きなど、自作以外の出版の手
伝いも続けた。寛政から文化期に自ら「行列奴図」や、遣唐使の吉備真
を描いた「吉備大臣図」などの、肉筆浮世絵を残している。
水上は 雲より出て 鱗ほど なみのさかまく 天龍の川



窓際で空を睨んでいる机  上田 仁
 
 
 

       耕書堂・蔦屋重四郎



 寛政6年(1794)一九は、本格的な作家をこころざし、漂泊の人となり、
30歳にして、10年ぶりに、ふたたび江戸に出た。
「わたしは、他人を笑わせ、他人に笑われ、それで最後にちょっぴり奉
られもしてみたい」と願い「死ぬほど絵草紙の作者になりたい」と思い
つめた材木問屋の若旦那・栄次郎の狂言回しとして登場「ひと月前、大
坂から出て来た」近松与七
…」と、作家を目指す十返舎一九を題材に
上ひさしが『手鎖心中』に書いている。
江戸に着いた一九は、どのような縁があったのか、通油町の地本問屋耕
書堂・蔦屋重三郎の食客なり、いちおう浄瑠璃作家としての待遇を受け
ることになった。(寛政6年は、馬琴がおと結婚し作家として蔦重か
ら独立したときで、一九と入れ替わりに蔦重に入った年である)
さつさつとあゆむにつれて旅衣ふきつけられしはままつの風



落ちそうな吊り橋ですが行きまひょか  吉川幸子



さて逸話について
花火仕掛けの葬式や書割の家財道具など、また辞世にしても、疑いを持
つ人も多い。一九が滑稽本作者であることから、一九らしく伝説を作り
上げたのではないかというのである。
「書割の家財道具」の話は『狂歌現在奇人譚』にあり「仕掛け葬儀」
落語家・林家正蔵の葬儀始末と間違われたのではないかといわれている。
天保13年、死を前にした正蔵は家人を呼び寄せると「わしが死んだら、
そのまま火葬にしてくれよ」と遺言をした。家人は、正蔵のいう通りに
したのだが、その結果は一九と同じだった。
名物をあがりなされとたび人にくちをあかするはまぐりの茶屋



摩訶不思議火のないところから炎  津田照子

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ギラギラと敵も味方も紙魚になる  蟹口和枝
 
 

 
 
右が弥次郎兵衛、左が喜多八
身なりの他、丸顔の弥次郎、面長の喜多八の特徴は、

以後の多くの2人の肖像画で踏襲され、定形化する。

「東海道中膝栗毛」 十返舎一九



『東海道中膝栗毛』弥次さん喜多さん道中は、品川から箱根であった。
「神風や伊勢神宮より、足引きの大和巡りして、花の都に梅の浪花へと、
こころざして出で行くほどに」と本文は始るけれど、本の売れる確証も
あるわけではないから、とりあえず「箱根まで」のつもりで書き始めた
とされる。というのも、その表紙には「浮世道中膝栗毛 完』と刷られ
たとされる。




捨てられる一瞬空を見るティッシュ 田村ひろ子





東海道中膝栗毛・表紙 (明治13年3月)文事堂



ところが予想に反し好評を得て、続きが書かれることになり、享和3年
に、後編二冊が出た。箱根から大井川まで書かれた。これも後編とある
ことから、ここで終わるつもりであった。
しかし、またまた好評を得た。続けて読んでくれる読者をかかえること
さえ出来れば、シリーズは続くのである。
文化元年(1804)3編上下を出版、岡部から荒井までである。残り二編で
終了とし、四編で舞阪から四日市まで五編で伊勢から大坂まで記す。と
している。しかし本が売れれば、少しでも続いたほうがいいので、実際
はその通りにはなっていない。



耕せばコツンとあたる鰯雲  くんじろう



ともかくも弥次さんと喜多さんの掛け合いは、際限なく駄洒落を飛ばし、
狂歌を詠み、テンポのいいしゃべくりを続け。お上品とは言い難い低俗、
猥雑、無責任な話を、飽きもしないで繰り返す。町の人はあきれ顔で2
人を非難するけれども、どんなひどい目にあって醜態をさらしても、決
して懲りることはない。ひたすら悪ふざけをすることが、自分たちの使
命なのだといわんばかりに、軽薄を演じることに徹するのだ。どういう
わけか分からないが、こうした男に共感をして、膝栗毛は売れまくった。



立ち読みの袋とじからぬっと足  森田律子





「書画五拾三駅 川崎」 左・弥次郎 右・喜多八。
口の周りに濃い髭が見られ、野卑な感じがする。ものを
食べながら女性を見ている姿は、2人の性質を表している。
明治5年、暁斎・若虎画



あの堅物で、お堅い本しか読まない滝沢馬琴が「膝栗毛」を読んで…、
「十二編は新案を旨とせしが、編の累(かさなる)まゝに、古き落し話
などもまじえ、且、相似たること共、多けれども、看るものはそこらに
気をとどめず、ただ笑いを催すを愛(めで)たしとして、飽くことなか
りし…」盗作(伊勢物語)気味の部分もあるが、飽くことがない面白い
本で「笑った笑った」と、あの馬琴が評し、褒めているのである。
結果、『東海道中膝栗毛』の初編は、享和2年(1802)に出版され、文政
5年(1822)に終了するまで、21年にも及ぶ長編小説になったのである。
というわけで、本来、本の始まりにあるべき「発端」は、5編に置かれ
ている。



あんた何時から味醂になりはった  山口ろっぱ
  
  
 
 
膝栗毛マップ
上右から ① 借金を踏み倒して出立 ② 女の尻を見て臼になった
③ 留め女につかまる   ④ 五右衛門風呂を壊す~



「発端」
弥次さんの本名は、栃面屋弥治郎兵衛とちめんややじろべえ)。生国
は十返舎一九と同じく駿州府中。「親の代より相応の商人として、百二
百の小判には、何度でも困らぬほどの身代なりしが」とあるから、裕福
な家の若旦那だったが、酒や女にはまった挙げ句、旅役者、華水多羅四
(はなみずたらしろう)一座の役者、陰間(かげま)の鼻之助に夢中
になる。陰間とは、男色を売る人・いわゆるお釜。鼻之助は後の喜多八。
弥次さんは、鼻之助と戯気(たわけ)のありたけをつくし、「はては身
代にまで途方もない穴を掘りあけて」その借金の始末がつけられぬまま
に鼻之助と「尻に帆かけて」江戸に夜逃げをした。というのが、膝栗毛
VOL5にでてくる弥次喜多道中話の始まり(発端)である。
そこで弥次さんが詠んだ狂歌を一首。
「借金は富士の山ほどあるゆえにそこで夜逃げを駿河ものかな」



明日には明日のケチがつくだろう  木口雅裕





⑤ 箱根で「初篇」終了 ⑥ スッポンにくいつかれる
⑦ 夜這いにあう    ⑧ とろろまみれの夫婦喧嘩



江戸では神田八丁堀の借家に住んだが、少しの蓄えさえたちまち使い果
たし、仕方なしに鼻之助を喜多八と名乗らせて、商家に奉公させ、自ら
は、国元で習い覚えた密陀絵を描いてその日暮らしをするようになった。
その後、弥次さん、酒のみ友だちの世話でさるお屋敷に奉公していた
年上の女と夫婦になるが、相変わらずの性格で、おのれの家を悪友たち
の遊び場所として貧乏暮しは変らない。喜多八も喜多八で奉公先でしく
じり「十五両の金が必要になった」と弥次さんに泣きついてくる始末。



終活のザンゲで満ちるゴミ袋  上田 仁
  
  
  
 
 
⑨ 幽霊騒動に腰を抜かす ⑩ 比丘尼を口説いて振られる
⑪ 名物の餅を前に値切り ⑫ 焼き蛤が股間に



そこでひと芝居たくらんだ弥次さんは、我が女房を追い出し、十五両の
持参金つき孕み女を嫁にして、その金を喜多さん用立てようと、実行
する。ところが、その女というのがなんと、喜多さんのいわくつきの相
手だったと判明し、すったもんだの大喧嘩を男同士がするうちに、産気
づいた女は苦しがった挙げ句に命を落してしまう。喜多八は、せっかく
勤めた奉公先から追い出され、弥次さんも、せっかくつれ添った女房を
冷たく離縁してしまう。ヘタな芝居で元も子もなくしてしまった弥次さ
ん喜多さんは、地方にも江戸にも、住処をなくし「たがひにつまらぬ身
のうへにあきはてて」「お伊勢参りへでも行ってみるか」と2人の旅が
始ったのである。



よろしくと交わし二人は照れている  徳山泰子




⑬ 間違えて地蔵に夜鷹  ⑭ 難所の鈴鹿越え
⑮ 餅がつかえてさあ大変 ⑯ 京都にまで失言




戻るに戻れないふたりの旅。お伊勢参りというよりは、流浪の旅。それ
を当人たちは心の底では感じている。感じてはいるが負け惜しみから、
口には出さない。そのかわり、その不安な気持ちをおのれにも誤魔化す
ために、彼らはくだらぬ狂歌を詠み、むやみと洒落のめし、江戸っ子ぶ
って行く先々で威張り、法螺を吹く。「笑いを催す」ようなこの半可通
のふたりの心情の底には、流浪者のさびしさが含まれているのである。



どの風に乗ったのだろう逃亡者  合田瑠美子



「すでに夜もいたく更けわたれば、みな〳〵やうやく一睡の夢をむすぶ。
あかつきの風、樹木をならし、浪の音、枕にひびきて、つきいだす鐘に、
目さめてみれば、はや明方の烏『カアカア』馬のいななき『ヒインヒイ
ン』長もち人足のうた『さかはなァてる〳〵ナアエ、すゞかはくもる
(ナアンアエ)どっこい〳〵』出舟をよぶこえ『舟が出るヤアイ〳〵』」
朝の街道宿場の寂しげな情景は。弥次さん喜多さんの心象風景でもある。



前頭葉はデコボコ脳は壊れぎみ  山本昌乃



「雨はしきりにふり続き、いつこう洒落も無駄も出でばこそ、たゞとぼ
〳〵と歩みなやみ」これは江尻の宿にさしかかったときの姿である。
あるいは府中近くでは「洒落と無駄もどこへやら、たゞうか〳〵と た
どりながら」
弥次「きたや、俺ァもう、坊主にでもなりてい」
喜多「おめえ、とんだことをいふ」
弥次「いっそ江戸へかへろうか」
喜多「なにさ、けえることがあるもんだ。柄杓をふっても、お伊勢さま
まで行ってこにゃあ、外聞がわりい」
江戸に戻りたくても戻れないのは、彼らがともに生活破綻者だったから
である。乞食同然でも、せめて伊勢参りだけは果たさねば、その江戸に
も戻れぬ事情がこの2人の江戸生活にはあった。



カオスから届くカシオの腕時計  田久保亜蘭





金毘羅参詣膝栗毛(口絵)高峰虎次郎・芳洲画 明治19年



だがその伊勢参りをすませたあとも、この2人は真っ直ぐに江戸には帰
らない。一九は彼らに終わることのない旅を強いるのである。『金毘羅
参詣膝栗毛』『宮島参詣膝栗毛』そして『木曽街道膝栗毛』へと続くの
である。その事情はおそらく『東海道中膝栗毛』の好評に出版元の欲が
働いたのだろう。そういう事情を、百も承知の上でもなお、この終わり
なき旅は、弥次さん喜多さんにとって、人生の宿命であったように読者
に感じさせるのだ。



オハナシはまだ終わっていませんの  高野末次



「雨はいよいよ降りしきりて、桐油を通し、骨までくさるばかりに、方
言も洒落も出でばこそ、やうやく草津の姥が餅屋にいたりける」時折、
2人がうち沈むこうした姿を一九は間に挟み込む、あるいはまた、みじ
めな街道の旅籠の寂しい朝がたの描写も忘れない。「ほどなく寺々の鐘
のひびきもあけがた近く、はや表には、すけがうの馬のいななく声『ヒ
イン〳〵〳〵〳〵』人足のうた『よせばよか」ったにナアンアエ、長もち
やおウもいナアンアエヨウさうだぞ〳〵』」
一九は季節感も佳景の描写も城の威容もわざと無視するくせに、街の朝
がたの哀愁ある様子だけは、きっちり描いている。それを一九この道中
記におけるリズムとしたのである。

        十返舎一九ー次へ続くかも知れない。



イージーに死にたくないと伊勢うどん  中村幸彦

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