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川柳的逍遥 人の世の一家言
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ポリバケツ履いて帰ってきてしまう  森田律子


   東海道名所一覧



鳥の目を持つ北斎が、東海道53次を一望するという鳥観図を描いた。
北斎の北斎らしい一枚である。雪舟の『天橋立図』に対抗して描いた
北斎の負けず嫌いも凄いが、版木に再現した彫り師の技も超人的だ。


七並べから始まったいけずの芽  オカダキキ


「北斎の逸話」 奇人といわれた北斎





   葛飾
北斎伝


明治26年(1893)に飯島虚心が著した『葛飾北斎伝』という本を
編むにあたって、凡例のなかで次のように述べている。
嘉永2年(1849)北斎が没して、43年の月日が流れている。
「まず遺族を尋ねようとしたが、所在が明らかでなく、菩提寺の誓教寺
を訪れ寺僧に問うが、すでに子孫は絶えたことを聞く。次に、直接北斎
と面談のあった古老を捜すが、存命するのは、戯作者の四方梅彦(柳亭
種彦門人)と門人の露木為一の二人で、他はニ三度面談したことがあっ
たという考証家の関根只誠(しせい)と戸崎某(本所石原で菓子商を営
む狂歌子・文志)の四名から、多くの情報を得た」としている。そして
「かつて北斎の版本を出版したことのある版元を尋ねるものの、すでに
閉店した店も多く、調査できたのは三店だけであったが、書簡数通と遺
事のいくつかを知り得た」とある。


アドリブを拾って歩く散歩道  みつ木もも花



 これら東京での調査の他に、「天保年間(1830-1844)に一時潜居したと
される相州浦賀を訪れ、また名古屋の永楽屋東四郎の店と、文化14年
の同地で描いた120畳大の「大達磨の図」の所在をも調べた」引用し
た文献としては13種類の書名と美術誌の一誌を提げ、これらによって
纏めたことを明記した。ただ虚心自身が凡例で述べているように、内容
の多くは北斎と面談したことのある人たちからの聞き取りを行ったまま、
弁証することなく、紹介するに止まっていることに信憑性を欠く憾みが
ある。だが北斎像の大半は、この一書に収録されている動静や人間性に
よるところが極めて大きく、今日でも広く一般にイメージされている北
斎像は、この『葛飾北斎伝』が出発点なのである。


哲学の道の途中で足す小用  藤井孝作



自らを画狂とした自画像



この北斎伝には、史学者で貴族院勅選議員でもあった、重野安繹(やす
つぐ)が序文を寄せて、冒頭から「画工北斎奇人也」と北斎は「奇人」
であると断じている。何をもって奇人としているのかは、やはり虚心の
聞き取りによる話の内容が大きく原因しているのだろう。例えば、度重
なる転居、乱雑な環境での生活、日常の振舞と風貌などがあげられる。
それを虚心がどのように描いているのか。
「性転居お癖あり、広益諸家人名録に、住所不定とす、生涯の転居93
回、甚だしきは一日三所に転せしときありとそ」
「又懶惰(らいだ)にして居室を掃除せず、常に弊衣を着し、竹の皮や
炭俵など左右に取り散らかして、汚穢(おあい)が極まれば、即居を転
して他に移る、という……」


身のほどを知っているから迷わない  橋倉久美子


「まずは四方梅彦氏からの聞き取り」



四方梅彦氏が言うには、北斎は転居の癖があった。私はかつて北斎の
引っ越し癖の疑問に対して、言った。引っ越し三百といって諺があって、
先生のように度重なる引っ越しでは、たとえ富裕であっても、終には費
用に追われて、生活に困ることとなってしまうでしょう。部屋の汚穢を
嫌って引っ越そうと思うのであれば、人を雇って掃除させれば良いので
はないか」と言った。北斎は、微笑んで、「幕府の寺町百庵という人が
あって、この人は生涯に百回引っ越すと目標をたてて百庵と号し、いま
九十数回の引っ越しをして、そのうえで死に場所(最後の居宅)を占っ
て定める」と言った。


ぴったりの甲羅磨いているところ  津田照子


 
転居先で息つくカッパ




嘉永元年、北斎は本所から浅草聖天町の遍照院境内に転居。
「梅彦氏が言うには、北斎が遍照院境内の長屋へ移転して来た時に、一
首の狂歌を詠んで贈ったところ、北斎は大いに喜んだ。その狂歌は「百
越もおろか千里の馬道へ まんねんちかくきたの翁は」というものであ
った。北斎は生涯葛飾の里に居住して死ぬのだと言っていたが、浅草に
来た翌年、終にこの地で死去した。
案ずるに、この狂歌の大意は「北斎の転居の癖は諫めても、無駄なので、
百回でも二百回でも壮健なうちは行うべきだ。命あってこそあってこそ
転居も可能なのだから、という意味を含めて、北斎の年齢もまた百歳を
超えて欲しいと、祝ったものである」


紙オムツついに汚さず逝った父  渋谷さくら


北斎が転居を繰り返していたことは、一時親交のあった曲亭馬琴「居
を転すると、名をかゆることは、このをとこほどほどしば々なるはなし」
(『曲亭来簡集』)としていることからも、虚心の聞き書きも、北斎と
直接交わりのあった四方梅彦らからの話が大半を占めているので、信憑
性は十分ある。だが、文中の「生涯の転居93回、甚だしきは一日三所
に転せしことありとそ、の部分は、?である」93回というのは、何処
から出た数なのか、北斎が四方種彦に語ったというように、90余の転
居を行なったというのであればまだしも、93回という具体的な数には
疑問を投げかけざるを得ない。


転居通知届く日記の真ん中に  新川弘子


「転居癖に続き、乱雑な生活について」





 北斎下仮宅の図
北斎の弟子・露木為一が描いた84歳の北斎と娘・お栄の住んだ仮宅。
2人は、本所亀沢町榿馬場(はんのきばば)という場所に住んでいたと
され、今もある「稲荷神社」の横に長屋らしきものがあったとされる。




関根只誠が、嘗て浅草なる翁の居を訪いし時、「翁は破れたる衣を着て、
机に向い、その横に、食物を包みし竹の皮など、散りちらしありて、そ
の不潔なりしが、娘・阿栄(おえい)も、その塵埃の中に座して描き居
たりし。そのころ翁歳八十九、頭髪白くして、面貌痩せたりと雖(いえ
ど)、気力青年の如く、百歳の余も生きぬべしとおもひしが、俄然九十
にして死せり、惜しむべし」と同氏の話なり。また「翁の面貌は、痩せ
て鼻目常人と異ならざれども、ただ耳は巨大なり」いう。


ちはやぶる神はとっくに転勤す  田口和代


 
 北斎の上の貼り紙には



画帖扇面之儀は堅く御断申候
三浦八右衛門
      娘 ゑい
             為一 国保




過日、露木為一氏は、北斎が本所亀沢町榿婆に住んでいた時の有様を描
いて、私に贈ってくれた。この図中で、炬燵を背にして布団を肩にかけ
筆を執っているのが北斎で、その傍らに座り作画の様子を見ているのが、
お栄である。室内の様子はいづれも荒れ果てて、北斎の傍らの杉戸には
「画帖、扇面之儀ハ、堅く御断申候、三浦屋八右衛門」と書いた紙が貼
ってある。又、お栄の傍らの柱には、蜜柑箱を釘づけにして中に日蓮の
像を安置している。火鉢の傍らには、佐倉炭の俵や土産物の桜餅が入っ
ていた籠、鮓を包んでいた竹の皮などが取り散らかされ、物置や掃溜め
などと同様な状況である。
按ずるに、北斎翁仏法を信じ、日蓮宗に入り、深く日蓮を尊敬せしもの
と思われる。


玄関に倒したままの竹箒  森田律子


四方梅彦氏が言うのには、「北斎は礼儀や減り下ることを好まず、性
格はとても淡泊で、知人に会っても頭を下げることはなく、ただ「今
日は」というか「イヤ」と言うだけで、四季の暑さや寒さや、体調の
具合など長々と喋ることはなかった。また、買ってきた食べ物や、人
から贈られた食べ物も器に移さず、包みの竹の皮や重箱であっても、
構うことなく自分の前に置き、箸も使わないで、直に手で掴んで喰い
食べ尽くすと、重箱や竹の皮はそのままに捨て置いていた」 という。


「ふ~ん」「へぇ~」午後のカップの聞き上手 百々寿子


清水氏曰く、戸崎氏誉翁を訪いし時「翁机によりも筆をもて、室の一隅
を指し、娘阿栄を呼びて曰く、「昨夕まで此に蛛(くも)網のかかりて
ありしが、如何にして失せたりけん、爾(そう)ならずや阿栄首を傾
げ、すかしみて、大に怪しみ居たり。戸崎氏出でて人に語りて曰く「北
斎および阿栄の懶惰(らんだ・なまけおこたること)にして、不潔なる
ことは、此の一事にても知るべし」。

戸崎氏曰く北斎翁、本所石原片町に住せし時は、煮売酒店の隣家にて、
三食の供膳は、皆この酒店より運びたり。故に家には、一の飯器なし。
唯土瓶、茶碗二三個あるのみ。客来れば、隣の小奴を呼び、土瓶を出し、
茶をといい、茶を入れさせて、客に勧めたり」と。


ひと巡りして真実になる噂  橋倉久美子


露木氏曰く、「翁誉自ら謂て言うには『余は枇杷葉湯に反し、九月下旬
より四月上旬までは、炬燵を離るることなしと。されば如何なる人に面
会すとも、誉炬燵を離るることなし。画くにもまた此のごとし。倦む時
は、傍らの枕を取りて睡る。睡りさむれば、又筆を採りて画く。夜着の
袖は、無益なりとて、つけざしし。昼夜かくの如く、炬燵を離れざれば、
炭火にては、逆上(のぼ)すとて、常に炭団を用いたり。故に布団には、
虱の生ずること夥し』と。


電気椅子大塚家具に誂える  雨森茂樹


 
 北斎獅子の絵


北斎翁、本所榿馬場(はんのきばば)に住せし頃、毎朝小さき紙に獅子
を画き、まろめて家の外に捨てたり。或人、偶(たまたま)拾い取りて
披(ひら)きみれば、獅子の画にして、行筆軽快、尋常にあらず。より
て翁に就き賛を請う。翁即ち筆を採りて、
「年の暮さてもいそがし、さはがしし」
或人更に翁に問う。
「何の故に毎朝獅子を画きて捨て給うや」
翁の曰く、
「これ我が孫なる悪魔を払う禁呪なり」
杉田玄端氏の話なるよし。乙骨氏いへり。奇といふべし。画工・翆軒
竹葉、誉この獅子の画、数十葉を蔵せしが、日課に画きたるものなれば、
一葉ごとに月日をしるしてあり。紙は、皆半紙なりとぞ。又按ずるに、
書中一行禅師、一生キンメイ録とあれど、キンメイ録といふ書なし。蓋
(けだし)看命一掌金なるべし、禅師は唐の人なり


自由律であるはずなのに見る 埃  小林満寿夫



絵の分解—北斎の様子を書いた北斎の上の文を読み解くー



 <卍翁が人に語るには、我は枇杷葉湯に反し、九月下旬より四月上旬ま
では、炬燵を離るることなしと。されば、如何なる人に面会すとも、誉
炬燵を離るることなし。画くにもまた此のごとし。倦む時は、傍らの枕
を取りて睡る。睡りさむれば、又筆を採りて画く。夜着の袖は、無益な
りとて、不付(つけない)よし。>









その左、一段下がって
 本所亀岡町はんの木馬場假宅(仮宅)の躰老人長く住居…
ゑかく
    御物語 御目通し…
 昼夜如斯なる故炭にてハ、逆上なす故炭団を用ゆ
然るゆへ虱の湧ことたとゆるに物なし









左下、お栄の上の文
娘 ゑ以
角一畳分 板敷分、佐倉炭俵土産物の桜餅の籠 
鮓の竹の皮 物置ト掃溜と兼帯之
お栄ー左横の箱の上
蜜柑箱に高(く)祀像ヲ安置す
 

山惑へ笑いとばして阿弥陀像  小嶋くまひこ 

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国宝級の男は梅干が好き  福尾圭司




   
「北斎と娘・お栄(応為)の似顔絵と手紙」



目は小さく、鼻が大きく、もじゃもじゃの白髪――。
お栄の額の点は、ほくろではなくゴミがついている――。
その容姿が様々に描かれている江戸の浮世絵師、葛飾北斎が晩年、
自分と娘お栄の肖像を描き、風貌の特徴までつづっていた手紙を、
東京都内の収集家が所蔵していることがわかった。


心太天声人語ゴビ砂漠  いなだ豆乃助




 北斎が描いていた自分の横顔(記事)


 手紙は当時、亀沢町(東京都墨田区)に住んで三浦屋八右衛門と名乗っ
ていた北斎、「何屋何兵衛」にあてた画料の受取状。
 「一 金何両ト何拾何匁石は画料として慥(たしか)ニ拝納仕候為念 
かくのごとく御座侯以上」と認(したた)めている。
(お金の額や相手の名を特定しないまま出している受取状で、これから
お金を取りに行くという内容などから、北斎は絵を描かずにお金を無心
した可能性もあるとみられている)
 その手紙の最後に、自分の横顛と、娘お栄の正面からの肖像を描き、
「眼の小キ 鼻之大キ成 白髪のモジャ/\と致侯 親父か 腮(あご)の
四角ナ女」と二人の特徴を述べて、どちらかがお金を取りにいく、など
と結んでいる。


曇り空いつまで昨日引っ張るの  みつ木もも花


手紙は、長野小布施で見つかったことが研究者の間で知られていたが、
現物は行方知れずになっていた。業者を通じて数年前に、東京都内の
収集家の手に収まったという。似顔絵は、画料を受け取りに行く人物
が相手にわかるように、と送った手紙で、ちゃめっ気もうかがえる。
北斎研究家の伊藤めぐみさんは「『面長で厳しい顔つき』という従来
のイメージを覆すもので、好々爺然としたイメージで描かれている」
と話している。

まんまるい顔はリスクになりたがる  岩田多佳子



北斎はどんな顔の新聞記事



「北斎の顔」

 北斎の肖像は、これまで、ほお骨が張った長い顔に、切れ長の厳しい目
というイメージが一般的に定着している。これは北斎の死の44年後に、
浮世絵研究家・飯島虚心が出版した日本初の北斎研究書『葛飾北斎伝』
に載ったものがもとになっている。その三年後にフランスで出版された
「北斎」にも転載されたため海外にも広まった。
さらに、この肖像画とそっくりの「北斎像」が浮世絵商の小林文七の手
で、版画にされたことで、広く知られるようになった。


あざ笑うなかれ只の凹凸なんやから 山口ろっぱ


 しかし、この肖像画については、飯島が出版元の意向で使わざるを得な
かったとして「このごとき怪しき肖像を出せるは、これ世人を欺くに似
たり、また北斎翁をあなどるに似たり」と悔やんでいたことも明らかに
なった、という。
 墨田区北斎館開館準備担当でもある伊藤さんは「いわれがはっきりしな
いこれまでの肖像とは違って、最も本人に近い肖像画の一つといえる。
北斎は自ら特徴とした大きな鼻が目立つように横顔を描いたのだろうが、
現存している中では唯一のものだ」と話している 。


鰯雲の解体現場に立ち会った  江口ちかる


「北斎はどんな顔」


 
「葛飾北斎伝」の扉絵になって広まった肖像




江戸後期の浮世絵師葛飾北斎「どんな顔」をしていたのだろう。明治
時代の研究書に載った肖像をもとにした「面長で厳しい顔つき」との通
説に対し、この肖像は北斎ではなかった、という疑いが出てきた。
研究書の著者は、「この肖像を載せれば、本の信用までなくなる」と拒
んだが「版元の意向で載せざるを得なかった」と告白していた……。
こんな資料を東京の墨田区北斎館開設準備担当の伊藤めぐみ学芸員が掘
り起こし、研究誌『北斎研究16号』(東洋書院)に紹介している。


後ろめたい昨日の雑巾が乾く  山本早苗



明治三十三年八月 東京 小林文七蔵版とある北斎




新聞記事転載で内容は多少ダブっています。
一般的に知られている北斎の肖像は、ほほ骨が張った長い顔で、切れ長
の厳しい目が特徴。北斎が死んで44年後の明治26年(1893)浮
世絵研究家の飯島虚心がまとめた日本ではじめての北斎研究所『葛飾北
斎伝』(
蓮枢閣)に載った3年後、フランス人のコンクールが出版した
「北斎」にも転載され、世界に広まった。虚心の『北斎伝』出版から7
年後、この肖像は東京・上野で開かれた北斎展に出品された。
ところが虚心は別人を装って「局外閑人」のペンネームで、読売新聞の
批評欄に次のような批判記事を載せた。


痛いから影を踏んではいけません  宮井元伸





小林文七載版の肖像
(北斎のそっくりさん)

この如き怪しき肖像を出せるは、これ世人を欺くに似たり、また北斎翁
を侮るに似たり」…「斃死してわずかに40余年の今日、その顔を知れる
人々もなお現存すれば、これを掲ぐるははなはだ快からず」さらに虚心は
「事実の精確を主として著せるこの書も、それがためにあるいは信を失う
に至らんとて、強く拒みたれども、聴かず、ついに巻頭に掲ぐることとな
りたるなり、遺憾の至りというべし」と告白している。
出版元の浅草の浮世絵商・小林文七の意向で、肖像を載せざるを得なかっ
たのを悔やんでいた、とみられる。
(この肖像の原画は現存しておらず、由来もはっきりしない。だが文七は
北斎展の年、この肖像と瓜二つ「北斎翁」を刷り物にした。)


双子ですかいいえ従兄妹のつもりです  酒井かがり


虚心の没後「局外閑人」虚心本人だったことが公になった。だが北斎
に関するこれまでの研究で、先の新聞記事についてはほとんど触れられ
ていない。伊藤学芸員はこの記事に基づいて「虚心が『北斎伝』の肖像
の件で悔やんでいる気持ちが痛いほど伝わってくる。文七が虚心を利用
した可能性も高い」
と分析している。


無垢の木に指紋が二つ残っている  河村啓子



『煙管を吸う漁師図』

天保6年(1835)自画讃。自画像との説がある。


この夏、長野県松本市の日本浮世絵博物館・酒井信夫理事長は、北斎
娘・お栄が詠んだと思われる狂句の入った版画を「北斎の自画像の可能
性がある」
と公表した。
丸顔に、ちょっと下がり気味のまゆ毛。釣り竿を抱え、キセルを咥えて
一服する姿。自分で絵を描き画中の詩文を意味する賛(さん)も入れた。
とする「自画讃」の文字がある。酒井理事長は「狂句の内容から、北斎
がお栄の嫁入りを記念して知人らに配った版画で、賛をした北斎かお栄
のどちらかが描いた絵と見るのが自然だ。図柄は、自分を漁師にみたて
たのだろう」
という。



 
水彩画の海でひとでになるつもり  月波余生







だが東京都渋谷区にある太田記念美術館の副館長で、北斎研究家の永田
生慈
氏は「自画讃で自分の姿を描いたとはいえない。北斎は酒も飲まず、
たばこも喫わなかったと『北斎伝』に記されている。この絵を自画像に
結び付ける根拠はなにもない」と否定する。


途中からSの話になっている  森田律子




 八十三歳自画像





ちゃんちゃんこを着て座っている。少し笑い加減で一見優しそうな目だ。
「八十三歳」と書かれている。これは天保13年(1842)北斎41,
2歳ころの作品への質問に対する返信状に描かれたもの。右には直筆で
「みしゆく(未熟)の業、御容捨之上御一笑」とあり、当時の自分の作
品を未熟と評している。が、最も写実的といわれ、晩年の風貌をよく伝
えている。北斎『富嶽百景』初篇の跋文でも「70歳以前に描いた作
品はとるに足らない」
と書いており「80歳でますます上達し、さらに
百歳にもなれば、ようやく一点一格が生きているように描けるだろう」
と信じていた。(北斎の自画像はいくつか残されているが、本図が北斎
の顔に最も近いものではないかと言われている。)


すっかりじいちゃん籐椅子は飴色  下谷憲子



渓斎英泉が描いた北斎の肖像
為一翁」




幕末期の浮世絵師で北斎と親交が深かったとされる渓斎英泉も、北斎の
肖像を描いた
『 戯作者考補遺』(
木村黙老著)の渓斎英泉の描く「為一翁」だ。
羽織姿で上品な雰囲気。目は切れ長だ。北斎を知る絵師の手になるもの
だけに、研究者の間では、最も写実的だとの見方もある。
「北斎伝」には、北斎の容貌についてこんな説明がある。「やせており
日常人と異ならざれといえども、ただ耳は、巨大なり」


ほどほどの悩みもあってみぞれ和え  山本昌乃




北斎が80歳になった自分の姿を描いた自画像


「これが北齋(この時点では爲一)の自画像である」
1991秋田市立先週美術館、岐阜市歴史博物館、松本市日本浮世絵博物館
で展示を行い、図録に解説を書いている。飯島虚心は、葛飾北齋傳巻頭
の妙な杖の老人を北齋ではないと後年に苦情を呈している。版元の小林
文七は、何とか北齋の肖像を巻頭に出したかったので、妙な杖突き老人
の画像を掲載した。しかし無款であり、北齋ではない。


玄関にまずは遠慮を脱ぎ捨てて  吉川幸子



時太郎可候名の自画像




まだ北斎を名乗っていない北斎が、蔦重の奉公人であり、やはり馬琴
名乗っていない馬琴を先生と呼んで、拙作を読んで、教授してほしいと
書いた戯作『竈将軍勘略巻』「舌代」と自画像。竈将軍勘略巻を刊行
したのは、北斎41歳のころで、とてもその年齢には見えず、すっかり
お爺さん顔である。


真ん前に鏡が置いてあるいけず  北原照子


「画中の文章」
「舌代 不調法なる戯作 仕差上申候(げさく つかまつりさしあげもうし
そうろう)。是ニ而(にて)御聞(おあい=お相手)ニ合候はゞ、何卒
御覧の上、御出板可被下(くださるべく)候。初而之儀(はじめてのぎ)
に御座候得は、あしき所ハ、曲亭馬琴先生へ御直し被下候様、此段よ路
(ろ)しく奉願(ねがいたてまつり)候。又々、當年評判すこしもよ路
しく御座候へは、来春より出精仕(しゅっせいつかまつり)、御覧に入
れ可申(もうすべく)候。右申上度(もうしあげたく)、早々不具(急
ぎ書き、気持ちを充分に言い表わせていませんが)
                十月十日 蔦屋重三郎様(二代目) 


木に登ると花を咲かせてみたくなる  神野節子


小林文七のこと
浮世絵の蒐集家で浅草・駒形で画商を営むかたわら、上野で浮世絵の展
覧会を開いたり(日本初の浮世絵展・明治25年11月)蓬枢閣という
出版社を作って美術書を出版したり(飯島虚心著「葛飾北斎伝」「フェ
ロサの大著」
など)、芸術家や作家のパトロンになったり、明治の美術
界をリードした民間の大プロデューサー。浮世絵を含め収集した美術品
を海外に売ったりもした。特にフェノロサには、ギブ・アンド・テイク
で多くの美術品を献呈したという。


身のほどを知れと叫んでいるムンク  井本健治

拍手[3回]

内ポケットにチャンチキおけさ一くさり 酒井かがり


「名将四天鑑 織田春永公」若虎
小田春永公 辰川左近将 真柴久吉 武智光秀 柴田辰家
(織田信長 滝川一益 羽柴秀吉 明智光秀 柴田勝家)

 

『絶対は、絶対にない!』
元亀元年(1570年)の越前出兵(金ヶ崎の戦い)で、義弟の浅井長政が
背いたとの情報が入ったとき、信長は最初は信じなかった。
しかし、次々に同様の報告が入ったため、即座に退却を決意して金ヶ崎
城に秀吉、光秀ら殿軍を置き、退却したという。(『信長公記』)

右の手はずっと男の貌である  居谷真理子

「麒麟がくる」 光秀ー信長の家臣に


足利義昭「永禄の変」の直後
三好三人衆から逃げる、義昭を救出する家臣・和田惟政


永禄8年(1565)「永禄の変」で13代将軍・足利義輝が暗殺され、
一条院門跡となっていた弟・覚慶(義昭)の身にも危険が迫る。そこで
義昭は細川藤孝らの幕臣の助けを得て近江・若狭を転々とした後、朝倉
義景を頼って越前に入る。当時、朝倉家に出入りしていた光秀は、藤孝
に接近し信長と義昭の橋渡し役を務めたという。(『細川家記』)それ
によると光秀は、藤孝に対し、「朝倉を頼っていたのでは、義昭を京に
帰す大功は立てられない。信長は当代の勇将で頼むべき人物である」、
と説き、岐阜に使者を送るように勧めた。後日、義昭の依頼を受けた光
秀が、自ら使者となって岐阜へ赴き、義昭の帰洛を助けるよう信長に説
いた。光秀は優柔不断な義景を見限り、信長の非凡な能力と将軍候補と
しての義昭の将来性にかけたのである。

福音を聞くまで耳の土用干し  中野六助

一方、義輝を討った三好三人衆ではあったが、松永久秀との主導権争い
に没頭するあまり、義昭を奉じる織田信長の上洛軍を阻めず、野望虚し
く京から退却。そして同11年7月、義昭は岐阜城に入り、10月には、
信長とともに上洛を果し、室町幕府15代・将軍に任じられた。
(その月の18日に三人衆が推戴する14代将軍・足利義栄[義昭の従
弟]を信長によって廃され、将軍の座を義昭に奪われる)。
この頃の光秀は、信長の家臣でありながら義昭にも近侍する立場にいた
とされる。信長の家臣として京の行政に携わる一方、義昭からも知行を
与えられ、その下知を武将に伝えるなど、将軍の近習的役割を果たして
いる。信長と義昭の2人の主君をもつところに、他の織田家臣と異なる
光秀の特殊な立場があった。

ポーカーフェイス吊り橋渡り切るまでは  郷田みや


   村井貞勝



翌年、光秀は京都支配の担当者任命され、信長の家臣とともに、文書の
発給を開始する。信長側の担当者は村井貞勝・木下秀吉・丹羽長秀・中
川重政らで、光秀は彼らと協力しながら、信長から支えられた義昭の政
権を支えていくことになる。
当時の義昭・信長にとって解決すべき課題は、若狭国の守護・武田氏
内紛であった。武田氏は相次ぐ内部対立で力を失い、隣国の越前から介
入した朝倉氏を頼る者と、義昭・信長を頼る者の間で、重臣が紛争を起
こしていた。光秀は義昭・信長の命令を受けて、味方についた武田氏の
「36人衆」に対し、武田元明への忠節を誓うよう指示を出しているが、
信長と義景の対立は、決定的な状況になっていく。

月を描くつもりの線が歪みだす  吉川幸子

そこで、信長は越前の朝倉氏を討伐するため、元亀元年(1570)4
月に敦賀へ侵攻したが、信長と姻戚関係にあった近江国小谷城の浅井
が朝倉方についたことを知ると、琵琶湖の西岸から京都へ退却した。
「絶対に絶対はない」の言葉が生まれた信頼関係崩壊の出来事だった。
このとき光秀秀吉とともに、最後尾で敵の攻撃を防ぐ殿を務め、味方
を無事に退却させている。その後、信長は光秀と長秀を若狭に派遣する。
光秀は5月に義昭の側近だった曽我助乗に出陣を伝え、業務の引継ぎを
行なった、光秀と長秀は若狭で朝倉方の武藤友益から人質を取り、城館
を破壊して引き上げたとされる。

すってんころりほんとの顔で立ち上がる  星井五郎



長島一向一揆『太平記長嶋合戦』(歌川芳員 )
 伊勢長島一帯の本願寺門徒と織田信長軍との間に起こった戦。


さらに、義昭信長を取り巻く状況は厳しさを増していく。元亀元年の
8月から9月にかけて、三好三人衆や大坂の本願寺が相次いで蜂起し、
浅井・朝倉両氏は比叡山と手を結んで・近江国宇佐山城に攻め寄せた。
この城は信長の本拠地であった美濃と京都を結ぶ重要な拠点で、織田家
臣の森可成が配置されていたが、可成は9月に坂本で戦死してしまう。
これに対し、信長は坂本に陣を構え、光秀は比叡山を牽制するため勝軍
山城に入った。その後は両軍の睨み合いが続いたが、12月に義昭と朝
廷の仲裁が入り、信長と浅井・朝倉の両氏は、和睦している。光秀は戦
死した森可成の後任として宇佐山城に移り、引き続き浅井・朝倉両氏と
比叡山の監視役を担うことになった。

打ち水で地球を少し湿らせる  橋倉久美子

だが翌年の元亀2年8月には信長浅井・朝倉両氏の対立が再び起こり、
信長が近江に出陣する事態となる。そして9月12日には、織田軍によ
「比叡山焼き討ち」が実行された。信長は比叡山に対し「浅井・朝倉
軍を追い出して、こちらの味方につくか、中立の立場をとれば、攻撃し
ない」と通告していたが、比叡山は浅井・朝倉軍を山中に匿ったため、
これを敵対行為と判断した信長は、ついに比叡山への攻撃命令を下した。
この下りは『明智光秀』(桑田忠親著)が次のように記‎されている。

おろし金右手で持った十三夜  河村啓子


大田上総介春永公

 8月に入って信長はまた、江北の小谷山を攻めたが、9月12日、
突如として比叡山に侵攻し、延暦寺の根本中堂をはじめ、山王21社、
東塔の坊舎をことごとく焼き払い、老若の僧徒千数百人を殺戮した。
前年度の僧兵の反抗に報い、その跋扈を膺懲(ようちょう[征伐してこ
らしめること])したのである。伝教大師このかた、殺生禁断・国家鎮
護の霊場にたいして、このような暴挙に出たことは、前代未聞の不祥事
といえた。しかし、かの白河法皇でさえも―加茂川の水と山法師と双
の賽の目は、意のままにならぬ―と、嘆かれたが、信長は、その山門

荒法師どもの度肝をぬいたのであった。この風聞に接して五畿内諸寺

の坊主どもは、我ことばかりに、震え上がった。と同時に、信長のこと

を仏敵として憎悪するのであった。
(後年、信長が本能寺で横死をとげたとき、比叡満山の僧侶は―仏罰覿
面―と叫んで、哄笑したといわれる)

すぐ破るルールでセロテープだらけ  山本早苗

「比叡山焼き討ち」は、信長の残虐性を示す事件として知られているが、
光秀はそれに反対する立場を取っていたというのが一般的な見方だった。
だが最近の研究で、事実はまったく異なっていたことが明らかになった。
光秀のイメージは「保守的」「常識人」といった面が強く、「革新的」
「非常識」信長に振り回された、という印象がある。


しかし新史料によって光秀は、目の前の状況に対して冷酷な態度をとり、
自分の役割をはたそうとしていたことが、分かる。それがこれ、宇佐山
城で比叡山と対峙していた光秀は、近江国雄琴の和田氏など近隣の有力
者を味方につける画策を行っていた。和田氏に対し光秀は「敵方の村を
撫で切り(皆殺し)にしてしまえば、我々の思い通りになるでしょう」
という内容の書状を送り、また、信長に敵対する志村城などを織田軍が
攻撃した際の状況として「信長様が干し殺しをなされた」と書き送って
いる。

草間彌生で隠す心の破れ  合田瑠美子


  比叡山焼き討ち




9月12日に攻撃を開始し、聖俗あわせ「数千の死体」をあたりかまわ
ず散乱させたまま、(おそらく)「あとの始末は、光秀、おまえにまか
せる」といって信長は9月20日に岐阜に戻ってしまう。
そのときから光秀の苦悩が始まる。与えられた滋賀郡はもともと延暦寺
の寺領だったのであるから、厄介事のすべてを引き受けねばならない。
(多分)そういう思いを抱きながら、比叡山の登り口の坂本に城を築き
始めるのであった。比叡山の焼討を実行した信長は近江国滋賀郡を光秀
に与え、比叡山領の管理を任せてた。この頃の光秀は義昭に仕える立場
だったが、近江での戦いにおける光秀の功績を、信長は高く評価したの
である。

寒空に探すハートの置き所  和田洋子

元亀2年(1571)9月、光秀は、信長から近江国滋賀郡を与えられ、
比叡山領の管理を任されることになった。さらに足利義昭信長の家臣
とともに、京都の支配を担当する任務も引き続いて担っている。光秀の
主な仕事は、京都の治安維持や地子銭(税金)の徴収、朝廷や公家の領
地に関する訴訟などであり、義昭と信長の下で「天下静謐」を担う重要
な役割を任された。だが光秀は、比叡山、朝廷・公家の権益を自分のも
のとし、しばしばトラブルに見舞われていた。本来、公家や寺社の紛争
を解決するのは将軍の役割であったため、朝廷は義昭に苦情を申し入れ、
義昭も光秀の行動を問題視した。

なりゆきにまかせ流れる雲を追う  靏田寿子

このような状況に嫌気がさした光秀は、義昭の側近だった曽我助乗
お暇をいただいて出家したいので、義昭様の許可をいただけるよう取り
なしてください」と伝え、義元の元を去りたいと願い出ている。京都や
その周辺で起こる問題を解決する役割を担っているはずの光秀が、この
ときは逆にトラブルメーカーとなってしまっていたのである。
その一方で、光秀は信長の命令を受けて近江を転戦し、朝倉・浅井両氏
の軍勢と戦い、坂本に新たな城を築くと光秀は、周辺の諸勢力を味方に
つけ、信長から篤い信頼を得るようになっていった。

褒め言葉鵜呑みしてから胃痙攣  上田 仁

 
 三好長慶
「天下人」というと織田信長、豊臣秀吉、徳川家康を思浮かべるが彼ら
の前に、天下統一を成し遂げた武将がいた。三好長慶である。
 
 
「三好長慶」
 長慶は11歳で元服し三好家当主となる。細川晴元三好元長を殺害
するために借りた一向一揆の勢力は、やがて晴元では抑えられなくなり
「享禄・天文の乱」と発展。 それを長慶こと12歳に過ぎない千熊丸
15歳まで幼名・千熊丸で呼ばれていた―が、一向一揆と晴元の和睦を
斡旋した話が残る。17歳で本格的に活動を開始し、たびたびの存続の
危機も驚きの手段で乗り越え、のち天下を制する下地も築いていく。

私の位置外れぬように線を引く  津田照子

まず天文18(1549)年、27歳で、父の敵である晴元軍を敗り畿
内を拠点とすることを決め、細川管領家に取って代わった。(江口の戦)
そこから長慶は、長弟の三好実休に本国阿波を任せ、次弟の安宅冬康
淡路水軍を、三弟の十河一存(そごうかずまさ)に讃岐の国衆を継承さ
せると、自らは摂津に居城を移し、松永久秀ら畿内の土豪を新たに登用
し、臥薪嘗胆の日々を過ごした。そして紀伊の根来寺や大和の筒井順昭
を従える河内の遊佐長矩(ゆさながのり)の養女を室に迎えて、同盟を
結ぶ。「江口の戦い」で晴元を敗り管領家の名乗りは、晴元を支援する
将軍・足利義晴・義輝親子や晴元の義父である六角定頼との戦いの始ま
りであった。

誤字脱字生きる形は問われない  佐藤正昭

長慶は当初、義輝と和睦し幕府再興を意図していたが、度重なる義輝の
破約に怒り、天文22年に京都から追放した。当時は形だけでも、足利
将軍家や古河公方家の者を擁するのが常識で、大内義興北条氏康、上
杉謙信もそうしていた。しかし、長慶は戦国時代で初めて、将軍家の者
を誰も擁立せず「京都ご静謐」を実現したのである。ただ大きく揺らい
だ幕府を支えたのは、上杉謙信や一色義龍、織田信長など下克上で国主
になった大名であった。彼らは幕府が滅亡し、社会が不安定化すること
よりも、将軍の公認による安定を求めていた。このため、長慶は義輝と
和睦するが、細川・畠山両管領家の領国を併呑する。また、北条氏康や
毛利元就と同格の御相伴衆の格式だけでなく、天皇家に由緒をもつ桐御
紋を免許されるなど、足利将軍並の家格を得ると、義輝の娘を人質とし、
天皇に改元を執奏するという将軍の権限を行使した。

ご破算ということですよリセットは  中村秀夫


  松永久秀




このように将軍を克服しようとする長慶を支えたのが松永久秀であった。
久秀は寺社や大名との交渉に力を発揮し、のちには大和の支配を任された。
長慶は、久秀が譜代家臣ではないにもかかわらず、自らと同じ従四位下の
官位に就き桐御紋の免許も認めた。外様や低い身分の者を登用する際には、
武田信玄真田昌幸に武藤姓を、上杉景勝樋口兼続に直江姓をと、主家
の一族や重臣の名跡を継がせて、家格に配慮するのが常識であったが、長
慶はそうした従来の秩序にとらわれなかった。

ややこしい理論に向かぬ河内弁  岸田万彩

永禄7年(1564)5月9日、長慶は弟の安宅冬康を居城の飯盛山城に
呼び出して誅殺した。松永久秀の讒言を信じての行為であったとされてい
るが、この頃の長慶は、相次ぐ親族や周囲の人物らの死で、心身が異常を
来たして病になり、思慮を失っていた。冬康を殺害した後に久秀の讒言を
知って後悔し、病がさらに重くなってしまったという(『足利季世記』)。
このため6月22日には、嗣子となった義継が家督相続のために上洛して
いるが、23日に義輝らへの挨拶が終わるとすぐに飯盛山城に帰っている
事から、長慶の病は、この頃には既に末期的だった。そして、11日後の
7月4日、長慶は飯盛山城で病死した。享年43歳だった。

現実と夢の狭間で聞くピーポー  宇都宮かずこ

拍手[3回]

逆らって生き強靭な顎一つ  佐藤正昭
 
 


「諸国名橋奇覧 飛越の堺つりはし」




地上の森羅万象を捉えようとした葛飾北斎の眼は、大自然の絶景、奇景
を大胆な構図を描き出し、かつてない風景画を生み出した。その超人的
な想像力と描写力の高さが、あり得ない世界をリアルに感じる傑作へ
と昇華させている一枚・『飛越の堺つりはし』である。

「三人の奇人絵師」葛飾北斎・歌川国芳・河鍋暁斎





「富士越龍図」
「九十老人卍筆」 印章「百」
 墨絵の筆致で北斎独特の幾何学的山容の富士。雲を呼び、昇天する龍に
自らをなぞらえる。落款に出生の宝暦10年と共に嘉永二己酉年正月辰
ノ日とあり、北斎90歳のときに描いたものと分かる。北斎はこの作品
を仕上げ3ヵ月後に死去している。
 
 
 
 
葛飾北斎のコトバに「絵に掛けぬものはない」というのがある。
ほとばしる才能を画面に投影し、異次元の世界を探求し続け、森羅万象
この世のすべてを北斎は描き尽した。北斎の代表作『富嶽三十六景』
出版がはじまったのは、天保元年(1830)頃、この時71歳に達し
ていた。このあと『諸国瀧廻り』『諸国名橋奇覧』といった浮世絵の歴
史に残る傑作を発表。さらに80歳を超えてから細密な肉筆画に挑んだ。
飯島虚心『葛飾北斎伝』に次のような北斎のコトバがある。
「70歳までに描いたものは、とるに足らぬものである。73歳でやっ
と生き物の骨格や草木の生まれを知った。80歳になればますます腕は
上達し、90歳で奥義を極め、100歳で神技といわれるであろう」




縁側で鼻を乾かしているじいじ  森田律子






「百物語 こはだ小平二」
こはだ小平二は「木幡小平次」という怪談物の主人公。小平次は大根役
者だったために、もっぱら幽霊の役ばかりやらされていた。その小平次
には妻がいて、これが他の男と密通したうえ、共謀して小平次を殺して
しまった。殺された小平次は、恨みの余り往生できず、今度は、本物の
幽霊となって、自分を殺した者の前に現れる、という話である。




その北斎の言葉通りに、作品の深みを増していったのだから恐れ入る。
といって、遅咲きの絵師であったわけではない。幼いころから絵を描く
ことが好きで、19歳で役者絵や美人画を得意とする浮世絵師・勝川春
に弟子入り、翌年には自作を発表している。ところが、北斎は勝川派
の一絵師にとどまる器ではなかった。35歳頃に同派を離れ、孤高の道
を歩む。以後は、江戸時代の絵画の本流ともいえる、狩野派や装飾的な
琳派の絵師・俵屋宗理に学び、しばらく自身も宗理二代目を名乗った。
時には、喜多川歌麿や三代目堤等琳(つつみとうりん)をライバルとし、
さらには『芥子園画伝』などから「中国絵画」をも習得した。40代以
降は、滝沢馬琴『椿説弓張月』などの物語に挿絵をつけた「読本」の
世界で活躍し、人気絵師となる。
 

目立たないようにさすがが佇っている  山本早苗


「魚濫観世音図」

この絵には落款がない。「傳 北斎筆」と添え書き(鑑定書)にはあり、
北斎晩年の肉筆画だったとみられている。北斎は敬虔な仏教徒だったか
ら、無落款の仏画が多く、誰がの/真筆の立証は、出来ないが北斎という
ことに落ち着いている。



さて北斎にこんなエピソードがある。還暦を3年ほど過ぎた頃のこと。
「当時、北斎という画号は一般の婦女子ですら知っていたが、川柳での
号「卍」というのは誰も知る者はいなかった。ある時、中橋の小川とい
う茶屋で、川柳点の開巻があり、帰りが夜中になってしまった。そこで
道すがら日本橋の傘店で、小田原提灯をひとつ買うこととなった。とこ
ろが生憎、桐油もひいていない白張提灯しかなかったので、仲間の一人
で本所堅川に住んでいる夢介という者が、この提灯をさして『卍さん、
チョット描いて給われ』といった。北斎は『よしよし』といって傍らに
あった硯箱から筆を取り、提灯の下げる方を店の男にもたせ、底の方を
左手で持って、蕨の文様を2,3描いた。これを見ていた男は『お前さ
んはなかなか絵心があります』と言ったので、仲間連中はドッと笑い出
したのだった」。この話は、後年この話を思い出した北斎は『とてもお
かしな事だった』と語ったという。飯島虚心・『葛飾北斎伝』

カニカマは蟹の棚には並ばない  村山浩吉



クロード・ドビュッシー 交響詩「海」

ドビュッシーは北斎の「神奈川沖浪裏」の絵を初版楽譜の表紙に使った。

北斎も50代には、全国に弟子も増え、一つ一つ手をとり教えるのも無
理だし、性格的に面倒くさいということで、彼らの手ほどきとなるよう
に出版したのが、絵手本・「北斎漫画」である。ともかく孫弟子も含め
て230人もの弟子がいたとされる。私淑の弟子を数えると数はさらに
増える。絵画のクロード・モネ、ファン・ゴッホ、ポール・セザンヌ
ガラススタンドのコンフォート・ティファニー、ブロンズ像のカミュ―
クローデル、陶器のクリストファー・ドレッサーらが、海外の私淑弟子
であり、日本では、有名なところで「歌川国芳」「河鍋 暁斎」がいる。
そろって、北斎に負けず劣らず「奇人の絵師」である。
参考に三奇人の生年月日を記しておく。
葛飾北斎 (1760-1849)
歌川国芳 (1797-1861) 北斎37歳の時に生誕。
河鍋 暁斎   (1831ー1889) 北斎71歳の時に生誕。

体験入棺釘付けされて「ん」  上山堅坊


 『みかけハこハゐが とんだいゝ人だ』 寄せ絵
 
(見かけは恐いが飛んだいい人だ)
「大ぜいの人がよつてたかつて とふと いゝ人をこしらへた とかく人の
ことハ 人にしてもらハねバ いゝ人にはならぬ」
(大勢の人が寄ってたかって、とうとう、いい人をこしらえた。兎角、
人の事は人にしてもらわねば、いい人には成らぬ)

「歌川国芳」
12歳の頃に描いた『鍾馗図』が、初代歌川豊国の目に止まり、程なく
豊国門に入る。20代は不遇の時を過ごすが、31歳の頃、『通俗水滸
伝豪傑百八人之一個』を版行。これが人気を呼び、「武者絵の国芳」
称された。役者絵、美人画、風景画と何でもこなしたが、中でも3枚続
のパノラマな構図の武者絵や歴史画、ウィットに富んだ戯画は大衆の心
をつかんだ。親分肌な人柄から、落合芳幾、月岡芳年、河鍋暁斎ら多く
の優秀な門人を集めた。(飯島虚心「浮世絵師歌川列伝」)

武者震いいいえ貧乏揺すりです  合田瑠美子


『源頼光公館土蜘作妖怪図』
源頼光と配下の四天王による土蜘蛛退治に題をとった作品とみせ,
時の老中・水野忠邦の天保の改革を痛烈に風刺した作品といわれている。

天保8年(1837)、国芳41歳の時、22歳の斎藤せゐと結婚する。
公私ともに充実した状態で「一勇斎」から「朝桜楼」に号が変わり、住
まいは向島へと移った。国芳の元には、多くの弟子が集まり、河鍋暁斎
が弟子入りしたのもこの頃であった。順風満帆は生活であったが、45
歳の時、運命は一変する。老中・水野忠邦による天保の改革。質素倹約、
風紀粛清の号令の元、天保13年には、国芳や国貞らも人情本、艶本が
取締りによって絶版処分となっている。また浮世絵も役者絵や美人画が
禁止になるなど大打撃を受ける。江戸幕府の理不尽な弾圧を黙って見て
いられない江戸っ子国芳は、浮世絵で精一杯の皮肉をぶつけた。それが
『源頼光公館土蜘作妖怪図』である。この頃に 国芳は葛飾北斎門人の
大塚道菴の紹介により、私淑の師・葛飾北斎と出会っている。国芳が独
楽廻し竹沢藤治の絵看板を描く際、道菴に補筆を頼んだときである。

荒海を描けば故郷の風の音  相田みちる


   風俗大雑書




北斎国芳がダブル時間は48年。即ち、北斎が90歳で死去するとき、
国芳は、48歳であった。想像力を駆使した絵や奇想天外を描いた絵が
北斎の絵に似たものがあれば、国芳の人生も少し北斎に似ている。若い
頃の国芳も常に金に困っており、歌川派を代表していた兄弟子・歌川国
の家に居候し、彼の仕事を手伝いながら腕を磨いた。この居候時期に
役者絵や合巻の挿絵などを描いていたが、あまり人気が出ず作品も僅か
であった。また勝川春亭にも学んでおり、さらに葛飾北斎の影響も受け、
後に3代堤等琳に学んで、「雪谷」と号した。国芳は晩年『北斎漫画』
のように『風俗大雑書』を描いている。

よろしくと交わし二人は照れている  徳山泰子


寝そべる猫と片足立ちの猫で「はんにゃめん」

明かりを背にして障子の前に座り、手や腕を組み合わせてできた鳥や動
物の形の影を障子に浮かび上がらせる「影絵遊び」、このアイディアを
浮世絵に持ち込んだのが歌川国芳である。

『歌川の門流中、筆力秀勁にして意匠巧妙なるは、蓋し国芳におよぶも
のなかるべし』
奇抜で豪胆、自由闊達。歌川国芳の浮世絵を評す言葉は、そのまま彼の
性格そのものだったといわれる。「ヒ」が「シ」(日が暮れる-しがく
れる
)になる。「ユ」が「イ」(指切りがい-いびっきり)になる。
aiの連母音を「エー」(お侍-おさむれへ・大事ーでへじ)という。
化政文化に成熟した「べらんめえ口調」で、火事と喧嘩が大好きな江戸
っ子気質。幕末屈指の人気絵師でありながら「先生然」とするのが嫌い
だった。気性の荒い町火消たちと親しく交わり、火事と聞けば遠近問わ
ず駆けつけて、消火を手伝う男気のよさ。親分肌の国芳のもとには、7
0人以上の弟子がいた。歌川芳虎、歌川芳艶、落合芳幾、歌川芳藤など
直弟子に「最後の浮世絵師」と呼ばれた月岡芳年や、幕末から明治前期
に活躍した異色の絵師・河鍋暁斎も弟子だった。

やんちゃな男が四角を丸にする  福尾圭司


     国芳ー百色面相
 
 

「こんなとこにも北斎と国芳と暁斎の共通点」
葛飾北斎には葛飾応為(お栄)という浮世絵師がおり。歌川国芳にも2
人の娘(芳鳥、芳女)が浮世絵を描いる。そして河鍋暁斎にも、一人娘
(暁翠)がいる。
そして大きなお世話に、奇想の父の娘として、意味なく比較するのだ。
とりあえず、生年だけは、ひかくしておきましょう。
葛飾応為      寛政12年(1800)
歌川 芳鳥女 天保10年(1839)
歌川 芳女  天保13年(1842)
河鍋 暁翠  慶応3年(1868)
それから、夫々の描いた美人画は、ネットでお知らせしています。





「狂斎百狂 どふけ百万編」
大蛸は力を失った幕府(五本丸→御本丸→江戸幕府→大きいだけで骨なし)
と風刺している。シャチホコは尾張藩、鍾馗は水戸藩を描いている…とも。




「河鍋暁斎」
河鍋暁斎天保2年(1831)4月、下総国古河石町に生まれる。幼名
周三郎、周麿・狂斎・是空道人・惺々斎等と号し、のち暁斎と改める。
暁斎は「ぎょうさい」とは読まず「きょうさい」と読む。それ以前の号
「狂斎」の読みを残したのものとみられる。
親の欲目でもないが、母につれられ館林の親類・田口家へ赴いたとき、
2歳の周三郎が「蛙」の写生をした。これは天才と喜んだ親は、周三郎
が7歳になると歌川国芳の画塾に入れ絵を学ばせた。でも、親は国芳が
信用できず、2年後に狩野派の塾に移した。こうした経緯に流派・画法
にこだわらず独自の世界の中で、自らを「画鬼」と称し、狩野絵と浮世
絵を混淆した画に特色をもたせ、多くの戯画や風刺画を残す画家となる。




支離滅裂な理論解いてる青ガエル  森 廣子 


象を描いたユーモラスな暁斎の漫画




歌川国芳
の教育。国芳は門弟に人を打ち、組み伏せ、投げ飛ばし、また
投げ飛ばされる様々な形態を、注意深く観察すべきだと教えていた。若
年の暁斎は、この師の教えを忠実に実行するため、一日中画帖を片手に
貧乏長屋を徘徊し、喧嘩口論を探して歩いたという。暁斎がみずから挿
絵を描いた談話集『暁斎画談』には「暁斎幼時国芳へ入塾」の項がある。
この項は国芳の画塾の様子を伝える挿絵でよく知られている。ここには
幼時の暁斎と国芳の関係が示されるとともに、国芳が暁斎に語ったとい
うことばが引かれている。次へ。

生き方にあわせて作る力こぶ  吉川幸子


暁斎の鯰

三味線を抱いた天狗が、ナマズの首につけた手綱を操り地震(風刺)を
巻き起こす。富士迄しつらえて北斎を意識した絵になっている。

「暁斎幼時国芳へ入塾」の一説。
『暁斎年甫(はじ)めて七歳周三郎と云いしとき、故一勇斎国芳の門に
遊ぶ 国芳、元来(もとより)活発を好むの性質なる故師を奇童として
愛し、常に教えて云う 我武者を描くことを好めども其の拠り所とする
基礎を得ず、一時、宋人李龍眠の描きし「水滸伝百八人の像」を見て大
いに感ずる処有るにより、是を模して錦絵を描きたるに初めて国芳の名
を人に知らるゝに至りたり…後略』

鎧つけた武者は腹式呼吸する  山本昌乃

    
             
暁斎のカエル
国宝・『鳥獣人物戯画』を模写し、暁斎が自分なりにアレンジして生み

出した作品。鳥獣人物戯画で表現されていたユーモア精神や擬人化され
た動物たちはそのままに。

幼い頃、描いた「蛙」に未来予想でもあったのだろうか、暁斎は、遠く、
平安後期の、鳥羽僧正にも想いを寄せていたようだ。何故なら、鳥獣人
物戯画とそっくりな、ひょうきんな蛙が出てくる作品がいくつもある。
加えて、鳥羽僧正の名作『放屁合戦』を模した作品もある。そして北斎
暁斎、二人の個性の違いがよく表われているのは、動物の表現だろう。
哺乳類、鳥類、魚類、爬虫類、さらには空想上の動物まで、あらゆる種
類のものを描き尽くそうとする北斎。一方、暁斎は、カエルや象、モグ
ラなどに、人間さながらの豊かなポーズや表情をとらせており、平安時
代の絵巻物『鳥獣戯画』を蘇らせてくる。

鳥獣戯画のセリフなだめている深夜  ますみ

  
    暁斎漫画         北斎漫画




「動物 描き尽くす北斎、擬人化する暁斎」
北斎は、暁斎が18歳のときに亡くなっているので、多分出合うことも
なかっただろうが、暁斎は『暁斎漫画』『暁斎酔画』などの絵本で、
踊る骸骨や擬人化された蛙などのユーモラスな画題のみならず、北斎に
匹敵するほどのありとあらゆるテーマを手掛けている。「暁斎漫画」は、
描き方、画題等、いろんな点で「北斎漫画」とよく似ている。
暁斎は北斎を憧憬し、お手本にしていたに違いない。
そういえば、北斎、国芳、暁斎の三人共、「画題は何でもござれ」の、
奇想の絵師、発想のユーモア画家という共通項があり、今も我々を楽し
ませてくれている。

海原を一気呵成にのみ込んで  河村啓子

拍手[3回]

額縁の栓を今すぐ抜いてくれ  河村啓子




 
(各画像は拡大してご覧ください))
       北斎漫画百面相


「漫画とは、事物をとりとめもなく、気の向くまま、漫ろに描いた画」
『北斎漫画』初編序にて、北斎自身が述べている。( 漫ろ=そぞろ)
「『北斎漫画』は、文化11年(1814)より順次刊行され、北斎没
後の明治11年(1878)に15編が出されるまで、常に人気も高く、
後刷本も大変人気のロングセラーとなった」

時刻表にはなかったバスがやってくる 竹内ゆみこ


「葛飾北斎」 北斎漫画







『北斎漫画』の総図数は4千ほどで、よくもこのように多数の図柄を思
いついたものだと驚嘆させられる。そこには、人物鳥獣画魚介、草木に
山水日常目にする光景から伝説の物語、幽霊や妖怪まで、通常思い至る
範囲をはるかに越えた、ありとあらゆるものが描かれている。当初は、
絵を学ぶ人の手引書や図案集を意図した。いわゆる絵手本として制作さ
れたらしいが、その再版の多さからしても、絵を志す者だけが、鑑賞者
ではなかったことが分かる。北斎もまた、弟子や絵を学ぶ者に教示する
というよりは、「見る人を喜ばせたくて仕方がないとでもいうように」、
頁をめくるごとに、次々と奇想天外でユーモアあふれる図で、鑑賞者を
迎えるのである。

ボンレスハムに毎夜聞かせている理論 森田律子


 「風に悩む人々」

特に秀逸なのは、人物の仕草を題材にした図で、人間の営みとは、この
ように滑稽なものであったかと気づかされ、つい笑ってしまう。
風に悩む人々の図「風に悩む人々」では、本来であればすまして歩いて
いてもよいはずの人々が、風に翻弄され、抵抗むなしく滑稽な姿に変貌
する様子が可笑しい。もちろんいくら風が強いといっても、ここまでの
姿になることは、現実的にはあまり考えられないのであるが、北斎独特
のユーモアセンスと想像力を持って、誇張して描き、見るものを笑いに
誘うのである。

画布すべて私色に染めてゆく  中田 尚


  「縦横」


北斎は身の回りで起こること、知り得ることのすべてを、ユーモアとい
うセンサーでキャッチして、必ず滑稽な造形に変えられるような、才の
ある絵師であったのだろう。おそらく自らの発想を、自ら面白がり、時
に笑いながら、筆を進めていたに違いない。もっともあり得ない人気の
図に、達磨が縦と横に顔をつぶしている「縦横」がある。このバカバカ
しく可笑しい城に、北斎は、やすやすと入ることができる。絵で人を笑
わせるということは、どの浮世絵師でも出来ることではない。どこから
思いつくことなのか、その想像力たるやもはや無限、北斎の自在な発想
の動きには、様々なツールや情報を持っているはずの現代のクリエータ
ーたちも太刀打ちできないのではないだろうか。


坊さんを連れて主治医が顔を出す  井上一筒
 



 「ジャポニズム」
北斎が影響を与えた)
  ↓


伏羲・神農 日本の知識に対する寄与

 
「北斎漫画」三編 (文化12年)
中国の神話に登場する伝説の帝王。
人類の始祖伏羲(ふつぎ)(右)医療と農耕の祖神農(左)





 ゴッホ「ばら」
ヨーロッパの伝統では、花瓶の花を描くのが基本。野生の花をクローズ
アップして描くのは、北斎の花鳥画に学んだ視点といわれている。
 
 
北斎「牡丹に蝶」
北斎は花鳥画の名手でもあった。ゴッホが感嘆したように、北斎は葉の
一枚、花びらの一片まで細やかに描き分けている。






サントヴィクトワール山(セザンヌ)


 駿州片倉茶園ノ不二



しかし人間の滑稽な姿を描いていても、北斎の絵が決して下品さや嫌味
を感じさせることがないのは不思議なほどである。18世紀半ばには、
ヨーロッパに伝えられた『北斎漫画』「ジャポニズム」の熱狂を導き、
欧米の画家や工芸などに大きな影響を与えたことはよく知られているが、
しばしば北斎の絵は優雅であるとさえ評される。それは画品というべき
ものであろうが、人間の滑稽さでいえば、それをただ、揶揄するのでは
なく、常に温かい眼差しを備えた観察眼が、愛すべき存在としての人間
を肯定的に捉えているからだろう。
※ 『北斎漫画』は北斎在命中から、シーボルトの著『NIPPON』
をはじめヨーロッパの出版物に転載され、19世紀のヨーロッパで大流
行しジャポニズムの端緒になった。


浮世絵に潜んでいるのはゴッホです 木口雅裕



旅を行く北斎
(葛飾応為画)




「北斎、名古屋への旅」
北斎がはじめて尾州名古屋の地を踏むのは、文化9年(1812)53
歳の秋のことである。売れっ子作家・曲亭馬琴の『椿説弓張月』で、斬
新かつ残酷な挿絵で一躍注目され人気者となった北斎だったが、馬琴と
制作上の意見の食い違いで、喧嘩別れをして、挿絵の注文が激減、かわ
って絵手本や一枚版画の依頼が多くなり、北斎としては一大転機を迎え
たときであった。この年、いわば江戸の絵画教師として,絵手本『略画
早指南』初篇を敢行した北斎は、生涯初の関西旅行に出発、帰路名古屋
に滞留した。名古屋で北斎を歓待したのは,牧助右衛門信充という15
0石取りの尾張藩士で、号を墨僊(ぼくせん)といった。名古屋城下鍛
冶屋町に住む墨僊は、自身の居宅を北斎に提供、同時に北斎の門人とな
った。墨僊は、熱烈な北斎の支持者で、江戸詰めのとき、喜多川歌麿
入門、歌政の号を持つ浮世絵師でもあった。
 
 

脇道に逸れて出会った福の神  高浜広川
 





高力猿猴庵の描いた絵


この折の名古屋滞在が,何日ほどであったかははっきりしないが、尾州
本屋・永楽屋東四郎の提案で、絵手本第二弾『北斎漫画』初篇の下絵を
描いた。北斎と永楽屋を結び付けたのは、江戸の蔦屋重三郎だった。
無論、墨僊も永楽屋東四郎と懇意にしていたに違いない。いずれにしろ、
東都の人気絵師・葛飾北斎の名古屋入りは、尾州の本屋、貸本屋、文化
人たちの話題を浚ったことは確かだ。そして、少年時代、貸本屋の小奴
として働いた経験を持つ北斎が、日本一の蔵書を誇る胡月堂大惣を訪れ、
文化サロン大惣に集う文人や画家たちと交流を持った。とりわけ『尾張
名陽図会』の著者、 猿猴庵(えんこうあん)こと高力種信とは、この折
に知り合ったものと思われる。高力は、墨僊の画友であり同じ尾張藩士
で、馬廻り役から大番にまで進んだ人物だが、尾張の地誌、風俗を記録
した著作で知られている。後に『尾張名所図会』の挿画を担当する小田
切春江は、高力の弟子である。


懸命に生きる一回きりの旅  山谷町子


 





北斎が墨僊の家で下絵を描いた『北斎漫画』初篇が永楽屋から刊行され
たのは、2年後の文化12年のことであった。
「目に見、心に思う ところ筆を下してかたちをなさざる事なき」
とは、『北斎漫画』第三輯の序に書かれた太田蜀山人の言葉である。
読本の挿画とは違い、本文の制約を受けることなく、眼に触れる森羅万
象の形姿をスケッチし、人物表現、自然風物、鳥獣中魚、お化け、など
寸景などを当代の天才絵師北斎は、自由闊達に描き出して見せた。
(好評を博した『北斎漫画』は、第二輯を北斎改め葛飾泰斗の署名で、
翌文化13年、やはり永楽堂から刊行された。

カシミヤの手ざわりですね美辞麗句  笠嶋恵美子



   北斎の描いた動物たち




北斎が、文化9年秋から名古屋鍛冶屋町の墨僊邸に何か月滞在したかは
不明だが、『北斎漫画』初篇300余図の版下絵を描いたとすれば、同
年師走近くまでいたのではないだろうか。とにかく翌10年2月6日に
は、北斎は江戸の自宅から墨僊宛に新年の挨拶状を送っている。絵手本
『北斎漫画』は二編以降、毎年一冊か二冊、ほぼ定期的に刊行され、文
政2年(1819)第10編を出して、一応、当初の計画を終了する。
しかし、続編を希望する読者が多く、結局15編まで続く。
(完結したのは、北斎没後30年目の明治11年(1878)で版元の
永楽屋東四郎も4代目善功になっていた)



僥倖を連れて来たのは泣きぼくろ  岸井ふさゑ








絵手本とは、門人たちに与えるための肉筆の教本である。それが版元に
よって出版されるに至ったのは、文化年間に入って北斎の門人が急増し
たこと、読本挿画画家としての北斎に熱烈な私淑者が多かったからであ
る。門人は、孫弟子も入れ、ピーク時で230人余りといわれ、私淑者
はその何倍かを数えただろう。名古屋の主な門人は、居宅を宿舎として
提供した墨僊を筆頭に、墨僊の門人で、やはり150石取りの尾張藩士
沼田月斎、本業は大工の東南西北雲、履歴は不詳の北鷹ら数人であった。
また、漫画のルーツである。百面相や人物表現では、後輩の広重、国芳
らにも大いなる影響を与えている。


広重も北斎もいる夏の雲  矢沢和女



北斎のお化け




「北斎、名古屋再び」
文化14年(1817)春、北斎は2回目の関西旅行を敢行、再び名古
屋へ立ち寄った。永楽屋の要望による『北斎漫画』版下制作のためで、
滞在は半年に及んだ。この時も墨僊邸を宿舎としたが、当時、永楽屋で
小僧をしていて、後に別家した永楽屋佐助の証言によると、途中からは
花屋町の借家にいたらしい。小僧として、版下絵をもらい受けにいくだ
けの佐助の目には、敷きっぱなしの床の横で、制作に没頭する58歳の
北斎は、ただの薄汚れた老人としか映らなかったに違いない。このとき
北斎が描いていたのは、第8編の版下絵であった。その8編の序に緯山
漁翁はこう書いた。
「戴斗翁、劫(むかし)より画癖あり、唯食唯画而巳(のみ)遂にもて
葛飾一風を興して画名声に高し於茲(ここにおいて)其門に入りて技を
学ぶ者多し翁これに教えて曰く「画に師なし唯真を写事をせば自ら得べ
北斎漫画によって北斎は葛飾一風を世に示した。


右腕は残業 左には団扇  中村幸彦


「佐助の回想録」
花屋町の家へ版下絵を受け取りに通っていたとき、
「先生はいつごろ江戸へお帰りですか」
と佐助が尋ねると
「オレはもう江戸へは帰らぬよ。この名古屋は真によい所で、オレの身
体には、時候も食い物もあっているから、ここがオレの死に場所だな」
と北斎は答えたそうである。これを聞いて佐助は、何となく嬉しくなっ
たが、それから間もなくして、北斎は伊勢に旅立っていった。


福耳の持ち主もいるホームレス  藤原紘一








「120畳の紙に大達磨を描く」
紙の大きさは縦18㍍、横10㍍、日時は10月5日早朝、場所は西本
願寺別院(西掛所)の東庭。版元は事前にチラシを配っておいたから、
貴賤老幼の見物客は夥しい数にのぼった。







「北斎、だるせん」
名古屋にて二度目の滞在の折、北斎は城下の人々を驚かせる一大パフォ
ーマンスを行った。百二十畳の紙の上に達磨の大画を群集の前で描いて
見せた。北斎にとって群衆での大達磨制作は、これが初めてではない、
文化元年4月、45歳のとき北斎は、江戸音羽の護国寺境内で、やはり
120畳の紙の上に、達磨半身像の大画を描いている。
因みに「だるせん」とはダルマ先生のこと。このパフォーマンスの反響
に気をよくした北斎は、江戸の本屋と組んで本所合羽干場では馬を、ま
た両国回向院では、布袋の大画を描いている。つまり名古屋の大達磨は
4度目のパフォーマンはだったことになる。
 

絵に描いたダルマ時々会釈する  青木公輔
 
 
 
 


集合所の軒に添って杉丸太の木組みが作られていて、両端の丸太の先端
には滑車が仕掛けてあり、料紙の上方につけられた軸に、細引きの綱を
つけ、滑車で引き上げられるようになっていた。両側を夥しい観客が囲
む中へ、北斎は襷をかけ、袴の裾をまくって現れた。昼過ぎより描き始
めた画は、まず鼻を、次に左右の眼、続けて口、耳、頭と描き進められ、
毛書で月代、髷を描いた後、棕櫚箒(シュロほうき)に薄墨をつけて隈
取とした。次に代赭(たいしゃ)色を淡く、棕櫚箒でのばすのである。
大画が小車で引き上げられたのは、夕方であった。滑車の音を響かせな
がら引き上げられたとき、群衆の中から沸き上がったどよめきと喚声は
凄いものだったらしい。このパフォーマンの後、あまり日をおかないで
北斎は名古屋を出立した。旅程は名古屋から伊勢に入り、伊勢から紀州
を廻って大坂、京都へ歴遊した。

スゴーイで片付けられる凄い技  永井 尚

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