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川柳的逍遥 人の世の一家言
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坊さんが音痴で成仏せぬお経  上田 仁




祐天和尚・累ケ淵怪談(北斎画)

「北斎百物語」 夏はやっぱり怪談話


「百物語」とは、百の物語を画題として、幽霊・妖怪を描いた化物絵。
当初は百の化物絵として、北斎に依頼したものと思われるが、
今日確認されるものは、下記の5図のみである。







「お岩さん」
「東海道四谷怪談」お岩さん。夫・伊右衛門に惨殺されたため、幽霊
となって復讐を果たすという怪談の定番である。歌舞伎などの舞台では、
恐怖感を煽るため、お岩さんの美しい顔の半分は、毒によって爛れ、目
は腫れ上がり、髪は乱れ、恨めし気な表情で闇に浮かぶが、北斎の描く
お岩さんは、目はたれ目に大きく開き、後頭部の髪が提灯というユーモ
ラスな絵にしている。


ウイッグを捨て駆け出してゆく夕日  河村啓子







「皿屋敷」
番町皿屋敷お菊の幽霊である。ある大名の腰元・お菊は、家宝の皿を
割ったために手討ちにされ、古井戸に投げ込まれる。実は濡れ衣だった。
怨念を抱いたお菊の霊が古井戸から出てきて、夜な夜な皿を1枚2枚…
と陰に籠った声で数えるという話である。北斎が描くと、幽霊のお菊は、
胴体は蛇でろころ首に仕立て、皿が巻き付いている。お菊の横顔は怨念
など認められず、口元の煙は、溜息を吸い込んでいるようである。


人の世はモヤモヤモヤの繰り返し  喜田准一







「笑ひはんにや」
般若とは「嫉妬や恨みの篭る女の顔」とある。女の怨霊である。子ども
の生首を手づかみし、般若顔の女が食べている。血がべっとりついた口
元、何が可笑しくて笑っているのか。人間の子どもをさらっては食べる
鬼子母神の姿と重なる。鬼子母神は後に改心して善神になるが、この鬼
女はまだまだ改心しそうもない。鼻の穴を大きく開き、口は子どもの顔
を一飲み出来るほど大きい。左の人差指は子どもを指さし「これはうま
いぞ」
と言っているようだ。子供の顔が蒼ざめている。


生きているものはいつでも湿ってる  居谷真理子







「小はだ小平二」
小平治は江戸の歌舞伎役者である。ようやく小平次が得たのは、顔が幽
霊に似ているとの理由で幽霊役だった。彼はこれを役者人生最後の機会
と思い、死人の顔を研究して役作りに努めた。苦労の甲斐あって小平次
のつとめる幽霊は評判を呼び、ほかの役はともかくも幽霊だけはうまい
ということで、「幽霊小平次」と渾名され人気も出はじめた。そんな小
平治を尻目に女房は、鼓打ちの安達左九郎と密通していた。二人
には小平治が邪魔になり、旅興行先で左九郎は、「釣りでもどうか」
小平治を誘い安積沼へ行くと、そこで沼に突き落とし殺してしまう。
絵は藻の茂る沼の通路から死んだはずの小平治が顔をだすという、実際
にあった恐い恐いお話し。


悔しさをこんなに溜めてゴミ袋  美馬りゅうこ







「しうねん」
戒名の「茂問爺無嘘信士」。茂問爺は後の画号・百々爺のもじり。北斎
のウイットである。ところどころに隠し絵を散りばめて、戒名の上の梵
字は女の横顔のようだ。また、は北斎が信仰する妙見の印であり、こ
れも北斎の晩年の画号でもある。水の溢れた卍の茶碗にひらりと一枚の
葉っぱ。これは自身の命を表現したものだろうか。白い画紙と北斎大好
物の甘いお菓子が三方に載り、それを大蛇が取り巻いて、生きている自
分を弔っているのだ。「しうねん」とは何に対しての「執念」なのか、
その結論は、自分の長寿へのしうねんなのかもしれない。




マフラーのように大蛇を巻きつける  青砥たかこ





新板浮絵 化物屋敷百物語


『百物語』とは明和~安永、天明、寛政、文化、文政まで流行した「会
談会」のことで、人々が集まり、次々と怪談話をする灯明や蝋燭を百本
灯して、一つの話が終わるたびに一つずつ消していく、最後の一つを消
した途端、あたりが真っ暗になって、何かが起こるという趣向である。


煩悩を捨てると柿は甘くなる  笠嶋恵美子


天明6年(1786)~寛政元年(1789)北斎が勝川春朗を名乗っ
ていた頃、西村永寿堂から大判錦絵「新版浮絵 化物屋敷百物語」を刊
行していた。これはちょうど最後の話が終わり、蝋燭が吹き消された時、
話に登場した化物や妖怪たちがどっと現われ、居合わせた人々がこれに
びっくりして逃げ惑う場面を描いている。
銅版画風透視法を意識した奥行きのある屋敷や邸内を背景に、一つ目小
僧やろくろ首の化物も登場している。女の化物の長い髪の毛やろくろ首
の鱗の鋭い細線が異様で、気味悪さが満ちている。


見たくないでも見たくなる蛇の穴  藤井寿代


北斎、歌舞伎役者と大喧嘩 「葛飾北斎伝ゟ」
文化7年(1810)頃、俳優・尾上梅幸の技芸世に名高し。最も幽霊
に扮するに巧にして、殊に賞せらる。梅幸かつて北斎を招き、「幽霊を
かしめ、その図果たして真に迫らば、これにならい、扮装をなし、愈
々、
其の芸を巧みにせんとす」。北斎来たらず。梅幸一日輿(駕籠)に
のり、北斎の家を訪う。其の家もとより貧しければ、茶、煙草盆の設け
もなく、室内荒れはてゝ、かつて掃除せしことなければ、不潔いはんか
たなし、梅幸このありさまに驚き、再び戸外に出でて輿丁(駕籠かき)
を呼び、輿中の毛氈を出だし、これを室内に敷かしめ、さて室に入りて
座し、一礼を述べんとせしが…、

沈黙がカリフラワーになっている 岩田多佳子


北斎、其の挙動の不敬に亘れるを憤り、机によりて顧みず、梅幸もまた
憤然、一語を交えずして立ちさりたり。北斎意をまげ、世に媚びること
なき此のごとし。されど平常は、謙遜辞譲(譲り合う心)にして、門に
は、百姓八右衛門と書きたる名刺を貼り、室には、おじぎ無用、みやげ
無用の壁書をかかぐ。
 尾上梅幸=文化文政から幕末にかけて活躍した名優・三世・尾上菊
五郎が文化中期のころにこの芸名を用いた。容姿がよく、どんな役をも
こなし、特に怪談もの早変わりものに長じた。


低気圧テトラポットに八つ当たり  中川喜代子


清水氏の話
後に梅幸不敬の罪を謝す。夫(それ)より相交わること甚だ深し。かつ
て梅幸が一世一代の演劇、『東海道四谷怪談』を演ぜし時、北斎の来り
て一覧せんを請う。頃しも夏時北斎夜々其の用いるところの蚊帳を売り、
金二朱を得て、これを懐にし、劇場に赴き、一覧の後、かの二朱を紙に
包み、梅幸に与え、本所石原の家に帰りたり。そもそも本所の地は、卑
湿にして、蚊多し、夏夜蚊帳の設けなければ、寝ること能わず。北斎蚊
帳を売りて後、夜々蚊に刺さるれども、晏然(あんぜん=落ち着いている
様)筆を採りて業をなすこと、平常の如し。友人某これをこれを聞き、
蚊帳を購いて、与えたり。


匕首の流儀は俺様の流儀  居谷真理子




 
法懸松成田利剣(鶴屋南北)


『東海道四谷怪談』
「仕掛け物」についての鶴屋南北の考案もまた非凡で、文政8年(18
25)に書き下ろした『東海道四谷怪談』では、蛇山の庵室に提灯から
お岩の幽霊が抜け出てくる工夫や、敵役がお岩に襟をつかまれて仏壇の
中に消えるという工夫を見せたばかりでなく、穏亡堀(おんぼうぼり)
では、一枚の戸板の裏表に打ちつけられたお岩と小仏小平の幽霊を早替
わりで見せ、さらに水門から、もう一役、佐藤与茂七の美男の姿で現れ
るという、鮮やかな演出を創造した。


薬師如来の駆け出しそうな裾捌き  岩根彰子





謎帯一寸徳兵衛(鶴屋南北)


尾上菊五郎は、この芝居がよほど得意だったとみえ、翌年、大坂の角の
芝居に『いろは仮名四谷怪談』という外題で、上方向きに直した脚本で
上演、江戸に帰るや、次の年の中村座で再演している。以後、江戸で五
回演じた。エピソードがある。「伊右衛門が団十郎、お岩と小平と与茂
七が菊五郎で、団・菊の顔合わせだったが、庵室の場で、伊右衛門に赤
ん坊と見えて、仕掛けで石地蔵に変る小道具を手渡し、「イヒヒヒ」と
笑うとき、あまり怖いので、団十郎が毎日顔をそむけた。菊五郎は《じ
っとこっちを見てくれなくちゃ、情が移らねえじゃないか》と言ったの
だが、どうしても正視ができなかった」
という。


そこにいるあなたの声が聞こえない  河村啓子





尾上菊五郎のお岩

また三演のときは、伊右衛門を二代目関三十郎が演じたが、庵室のお岩
の恐ろしさに、とうとう開演中、病気になったともいわれ、秋山長兵衛
に扮した坂東善次「とても目をあいてみていられなかった」と、述懐
している。『四谷怪談』はいまでも上演の時に、出演俳優が、四谷左門
町のお岩稲荷に参詣するのが例で、それを怠ると、「病人がでる」とい
われる。戦後三越劇場で中村もしほ(後の17代勘三郎)が四谷怪談を
上演した時、劇場の入口に祀られていたお岩の祭壇を拝まずに出入りし
ていた。宅悦の役の中村七三郎がまもなく死んだりして、芝居の世界の
人々を震えあがらせたという話もある。


終章は三原色で描くつもり  瀬戸れい子

拍手[3回]

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僥倖はドラを積って幕が開け  村田 博





          歌川国芳 「猫」

奔りまくっているネズミなども気に止めず、将棋に熱中する猫

「空前の将棋ブーム」



知っているようで正確な意味を知らない熟語があります。
「空前」「空前絶後」です。辞書を引いてみると、
「空前」とは、今までに一度もなかったこと。
「空前絶後」とは、奇跡のように稀なこと、とありります。
この「空前の将棋ブーム」が続いている。ブームの火付け役は、14歳
2カ月でプロ入りを決め、「史上最年少棋士記録」(29連勝)を62
年ぶりに更新した藤井聡太天才棋士である。
王位戦や棋聖戦では「天才棋士、藤井聡太七段の今日の勝負メシは何か」
と将棋とは離れたところでも、将棋が盛り上がっている。将棋をすると
「記憶力がよくなる」といい、老若男女、将棋を始める人が増えた。

素のままの君に引かれる物理学  宮井いずみ

「神武以来の天才」といわれた加藤一二三さんこと「ひふみん」との戦、
両棋士の年齢差62歳6か月も話題となり、それまで、ひふみんが持っ
ていた62年のプロ入り「最年少記録」を更新した。
さらにデビュー以来負けなしで「公式戦の連勝記録を塗り替え」、藤井
聡太が五段の時に、中村太地王座が「前にすると緊張する」といわせた
羽生善治永世七冠に非公式戦とはいえ、いつもの1局といった感じで、
さらりと勝ってしまった。

蟻んこがライオンの背に咬みついた  合田瑠美子

そしてこの7月16日の第91期・棋聖戦五番勝負では、令和最強とも
いわれた三冠・渡辺明棋聖を1勝3敗で敗ってしまった。
「史上最年少17歳11カ月でのタイトル獲得」である。まさに「空前
絶後」
である。つまり長い歴史の間に幾人かの天才が現れ、盤上、盤外
で鮮烈な印象を残すとともに、数々の大記録が打ち立てられた。それで
も、めったなことでは「史上空前」ということは起こりえない。

蹴とばしたつもりの石に蹴つまづき  宮原せつ




(各画像は拡大してご覧ください)
江戸時代の浮世絵「碁将棋双六遊び」 (鳥居清満)
将棋ブームの中で将棋をする女性

「羽生さんや谷川さんら多くの棋士が、藤井聡太を絶賛している」


「スターが出れば業界は盛り上がり、周囲にいい影響を与えてくれる。
それがスーパースターならば、その業界にとどまらず、世の中をも動か
していく。藤井さんはそういう存在になりつつある」

「相手のエネルギーを、自分の力に変えていると思う。そうでなければ、
これほど指数関数的な成長の説明がつかない」

神様が描いた葉っぱが虫になる  谷口東風

「積んでいるエンジンが違う。こっちがとぼとぼ歩いている間に一瞬で
抜き去られたような感じ。スピードがすごかった」
「序盤巧者、中盤の急成長、終盤の切れ味、一気の攻めに丁寧な受け…。
自在で弱点が見当たらない」谷川九段

「序盤の研究、分析の深さを感じた」
「中盤で丁寧に読む姿勢はデビュー当時から変わらない強さ」
「終盤の切れ味の鋭さが光る将棋が多い」羽生善治九段

溜息からできる私の湿地帯  柳田かおる

「プレッシャー、感じてないんじゃないか。というか、もうすでに藤井
くんがプレッシャーをかける側になっているのでは?」

「藤井さんの将棋には、常に序盤で新しい工夫がある。普通の棋士なら
1回や2回で弾切れになるところを、次々と撃ち続けているのが、彼の
すごさ。研究量と発想力の両方が備わっている」

ポジティブな包装紙から出す明日  斉藤和子

「形勢が良くなっても、とにかく勝ちを急がない丁寧さがある」
「中盤の混沌とした局面において、本質や急所をできるだけ短い時間で、
直観的に見極める力が非常に高い」

明日こそ意地がこぼれる独り言  津田照子

「高野六段が語るAI越え」
藤井棋聖が桂取りに金を上がる新手を放ち、悪形とされる「玉飛接近」
の陣形から攻撃を仕掛けた。高野六段には「将棋を始めたばかりの子が
やりそうな手」
とすら映った。が、実は計算ずくの研究手順だった。
中盤では一転、攻めに使うと思われた銀を、守備駒として、自陣に打ち
つけた。多くの棋士の意表を突いたこの手は、最新AIが6億手を読み、
ようやく最善と判断した「AI超え」の妙手として話題になった。

A I は水など飲まぬとも生きる  上島幸雀




 
  関根金次郎と坂田三吉
吹けばとぶような将棋の駒に賭けた命を笑わば笑え

「高野六段が語る羽生9段との観戦記」
「終盤の仕留め方も鮮烈だった。
まるで作ったかのように、痺れる手筋が次々と飛び出した。真剣勝負で
、しかも最強の棋士を相手に、あんな将棋は見たことがない」

奇跡ってこんな喉ごし薄荷水  斉藤和子

「藤井強しというのを知らしめましたね。
藤井さんにしてみれば、普通に指して、普通に勝った。
一番すごいことをやってのけましたよ」
「いくら藤井さんでも、何年かに1回の出来であってほしい。
これが標準だとしたら、勝てる棋士がいないだろう」

皆逃げてだあれも居なくなりました  雨森茂樹

「凄いい人が出てきたなという感じです」
渡辺前棋聖を唸らせた今回の棋聖戦の藤井七段の「58手目3一銀」
は、将棋ソフトに4億手読ませた段階では、5番手にも挙がりませんが、
6億手読ませると、突如最善手として現れる手だったようです。
最強ソフトが6億手読んで初めて最善手と分かる──そんな手を藤井七段
は、わずか23分の考慮時間で指していた。

頬寄せてきたのは枯れてゆく向日葵  みぎわはな

  
   現存する最古の将棋駒



奈良興福寺で11世紀末(平安時代)の将棋の駒「酔象」(すいぞう)
など4点が見つかった。現在の将棋では使われない「酔象」の駒として
は最古。過去の出土例を、約250年さかのぼる。

酔象の長さ2・5センチ、幅1・5センチ。表に酔象と墨書されていた。
ほか2点は表に「桂馬」「歩兵」と書かれ、残り1点は文字が確認でき
ず種類は不明という。




   シャンチー


「将棋の歴史」
「シャンチー」(中国)や「チャンギ」(朝鮮)を伝言ゲームすると
「ショウギ」と聴こえくる。すなわち「将棋」は中国ー朝鮮を経て日本
にやってきた。平成26年に発見された最古の将棋駒「酔象」でもわか
るように、平安時代ころから将棋は主に公家や僧侶の趣味として広まり、
やがて数え切れないほど多くの人々が、この「面白いゲーム」に親しみ、
遊んできた。9×9のマス目の将棋盤の上では、40枚の駒によって、
万華鏡のように数え切れないほどの局面が生じた。盤上も盤外も、つね
に新しい何かが起こる。それが将棋というものである。


瓢箪を出れば我がもの顔の駒  岸田万彩

平安時代に始ったされる将棋も、戦国時代になると、武将にとって戦い
の疑似体験の場であると同時に、静かな空間で精神を研ぎ澄ます修養の
場ともなった。「戦略の重要性、大局的なものの見方、的確な判断力、
精神の集中力」など、厳しい時代を生きる力を養うものと考えられたの
である。とりわけ豊臣秀吉は家臣に将棋・囲碁の戦略性を学ばせるため、
当代一の棋士・本因坊算砂に講義をさせたりしたという。
織田信長も算砂に学び、「本能寺の変」の前夜に算砂を召し出していた
といわれる。算砂は将棋・囲碁ともに優れており、徳川家康庇護のもと、
江戸に「碁所」「将棋所」を創設した。
これが今日に続く将棋・囲碁の基盤になったともいわれている。

巻尺に無かった明日という単位  くんじろう

さて、自陣最前列に並ぶ将棋の駒には、当時の珍品・宝物の名前が付け
られている。金、銀、馬、香(香木)という具合に。
ならば「王」「玉」の方がふさわしいのではないか、となった。
ところが
「〈玉〉では不満じゃ〈王〉にせよ」と難題をふっかけた人がいた。
無理難題をふっかけたのは、豊臣秀吉である。
これを解決したのが、秀吉のお側に仕える知恵者であった。

頭突きでよければ助太刀をいたす  酒井かがり 




「王将」「玉将」には、実質的には違いはないが、「天に二日なく、
地に二王なし」
との言葉に基づき「王将」は1枚とし、上位者(後手ま
たは上手)が「王将」を使い、下位者(先手または下手)が「玉将」
使うようにした。そのため、渡辺棋聖と藤井聡太七段が対局した場合、
「王将」は渡辺棋聖が使い「玉将」は藤井七段となる。
(竜王戦、王座戦、名人戦、棋聖戦など、タイトル戦では、タイトル保
持者が「王将」挑戦者が「玉将」となる)
藤井棋聖は今後上座に座ることになる。ああ尻が痒い。



       
分かった振りするしかない地動説  三宅保州



 
「歩」は大抵、最前線で真先に敵陣に突っ込み戦死する。しかし、まん
まと敵陣に入り込むと、その功績で格が上がり「歩」は「と」になる。
怪しいものだが「と」「金」の崩し文字らしい。
説によると、将棋の駒を作っていた職人が、「歩兵」の駒すべて(18
枚)に「金」という字を彫るのが面倒くさく嫌がったからという。
説まで、まことにあやしい。
「飛車」は、縦横直線に動き爆撃機のようなもの。成る(敵陣に入る)と
「龍」になる。龍に成ると、斜めにも一コマづつ動かせる。
「角行」は、略して「角」といい、成ると、「龍馬」になる。
角は駒として、目くらまし的存在で、斜めに進むから飛車よりも、効果的
トマホークというところだろうか。成ると縦横に一コマづつ動かせる。

雑巾をしぼると引き算ができぬ  靏田寿子







「羽生善治が語る将棋&名言」
対局について、棋士は勝負の時、1つの手を1秒とか数秒で検討する。
そして1つの変化に対して、1000手くらいを数十分から1時間以上
かけて集中して考える。名人戦ともなれば、こうした集中を朝9時から
夜9時まで、丸二日間続けるわけだから、並大抵の集中力ではない。
対局が終わると体重が3キロ落ちているという。

頬から髭へ亡命先を書き換える  村山浩吉

集中力について、羽生さんは車を運転しない。運転をしないのは、免許
がないからでも、車が嫌いだからでもなく、羽生さんの頭の中にある将
棋盤がいったん動きだすと止まらなくなる。あまりにも集中しすぎて、
運転するのが危ないからだそうだ。頭の中で将棋の「シミュレーション」
が始ると、運転をしていることを忘れてしまうから運転はやりません。

黙り込む眉間のあたりから悟る  山本昌乃

感想戦について、大抵の将棋士は、対局後、もう一回最初から最後まで
再現することが出来る。それを「感想戦」という。名人戦などの対局で
は、丸二日間ずっと将棋を指す。朝から夜まで、将棋のことを考え続け
ている。一手指すごとに、「この手はやってはいけない」とか、「この
手は可能性がない」とか、本当は瞬時にたくさんのことを考えている。
その一手一手が脳にインプットされるのです。

この俺をじっと見ている俺がいる  五十嵐定幸

対局中の気持について、勝負には、澄み切った気持ちで始まりますが、
対局が進むと、「喜怒哀楽」が出てきます。
それらを盤上で、有利に生かせるようコントロールしています。
将棋をやると、人の気持ちが分かるようになります。

与謝野晶子的になっている時間  田口和代

一手について、その一手を決断するときに、一番必要なのは、他人の
せいにしないで、自分で結果を受けとめるという覚悟です。
決断した結果が自分に回ってくるという体験を、将棋で重ねることで、
「決断力」が磨かれていきます。

煩悩を捨てると柿は甘くなる  笠嶋恵美子


記憶力について記憶したことを忘れないようにするには、何回も繰り返
すこと。そして深く理解すること。理解すると、絶対忘れません。
やれば誰にでもできます。

正念場脳の湿気を取り除く  上田 仁 

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隠すものはないこれがわたくしです  市井美春




「謎かけ戯画‐鰻」


        『朝日奈三郎平ノ義秀』(勝川春朗)
  鰻とかけて 儘ならぬ恋路ととく………… 
                     さかれてのちに身をこがす


 

れんこんの穴を覗いた楽屋落ち  山本早苗


「北斎の真骨頂」極力年譜に沿って


 
 (各画像を拡大してご覧ください)
「江都両国橋夕凉花火の図」(春朗) 1779~1794 (19歳)



北斎は19歳の頃、役者絵の名手・勝川春章に入門し、20歳で春朗
号し「役者絵」を描き始める。この頃の北斎の画業で特筆すべきは「浮
絵」
を描いていることだ。浮絵とは、浮世絵の様式の一つ。西洋の「透
視画法」
を応用したもので、建物などが手前に浮き出るように見えるこ
とから名づけられた。北斎は春朗の時期に11点の浮絵を手掛けている。

モナリザに描き足してみる笑い皴  前川 真

(画像をクリックすると拡大されます)
  「駿州江尻」 1830-32 (70~72歳)



零点透視図法は、遠くのものほど小さく描くだけで遠近感を与えられる
「遠近法」である。これの特徴は、一点透視図法のような奥行を表現す
る直線がないということである。上の図を見ると、手前の山が富士山よ
りも大きかったり、奥に行くほど人が小さく描かれたりしている。が、
直線はほぼ描かれていない。

そない言うても下が透けてるかずら橋  宮井いずみ


「四代目半四郎(かくし)」 1779  (20歳) 



20歳のとき、春朗(北斎)の名で、役者絵デビューした作品。
北斎といえばユーモアと奇想天外が個性。この頃はまだ、北斎らしいところ
は影もみせていない。

鬼灯を鳴らして肩で風きって   森田律子

 
「夏の朝」 1801~1807   (41-47歳)



北斎は青年期から壮年期にかけて、数多くの「美人画」を描いている。
宗理と名乗った30代後半、瓜実顔に富士額、ほっそりスタイルの「宗
理型美人」を確立した。
水盤には金魚が泳ぎ、手前の鏡の蓋には、茶碗が置かれ金魚が浮かぶ、
その横に歯磨き粉と爪楊枝、釣り衣桁に掛けられた着物は、男物である。
そこに誰がいるのか、謎を含んだ絵の仕立てになっている。

待つことに慣れた女の膝がしら  杉浦多津子


  「酔余美人図」



40代後半に描いた作品。対角線を描くようにして三味線箱にもたれ、
酔いを覚ましている芸者の姿態はこのうえなく艶めかしい。
多くの絵師は、総じて自分の得意なジャンルに特化して画業を極めて
いる。若冲なら花鳥画、歌麿なら美人画というように。北斎は「何で
もござれ」の天才絵師なのである。

サプリより酒に機嫌の良い身体  清水久美子


  くだんうしがふち 1804~09 1(43-49歳)



木版画西洋画に挑戦する。9段坂の牛が淵を描いた風景版画。
キャンバス左上に「くだんうしがふち」という、欧文の筆記体のような
文字、周囲には額縁のような縁取りと、洋風表現が強調されている。
北斎の油絵画風の木版画の中で、特に傑作として評判が高い作品である。

浮世絵の中に流れるフランス国歌  蟹口和枝


「転ぶ駕籠かき」 (1804~18) (43-57歳)



ここではコントの世界へ、駕籠が大きく傾き、中の客が空に足を突き出
しながら、落っこちそうになっている。一方、2人の駕籠かきは動じず
呑気な表情。「点のような目鼻、細長い手足の人物たちを面白おかしく
描いたこの戯画スタイル」「鳥羽絵」と呼ぶ。

アドリブを拾って歩く散歩道  みつ木もも花

    
鳥羽絵集会 「お稽古」  「身づくろい」



「鳥羽絵は」江戸時代初期から中期の京都で生まれたとされ、享保20
年(1720)に大坂で出版された大岡春朴の『鳥羽絵三国志』竹原春
潮斎『鳥羽絵欠留』(とばえあくびどめ)が大流行し、全国各地に広
まった。そこに描かれる人物は、「目が小さく、鼻が低く、口が大きく、
極端に手足が細長いという
特徴を持ち、その名は国宝「鳥獣人物戯画」
の筆者と伝えられてきた鳥羽僧正覚猷(とばそうじょうかくゆう)に由
来するものとされる。 江戸でも名だたる浮世絵師が描いており、読本
挿絵に没頭していた40~50代頃の北斎もそのうちの一人。どれも北
斎らしい軽妙さとユーモアのセンスがキラリと光っている。

思いきり顔を拭いたらずんべらぼん  木本朱夏

    
 「文字絵」(小野小町)1810頃 (50歳)




「おのの小丁」の五文字え輪郭や衣紋が表されているが、これが巧妙で
意外と解読が難しい。「遊び絵」であるが、歌人たちの優美さもちゃん
と描かれている。北斎の六歌仙シリーズは、平安初期の優れた歌人たち
を文字絵で表したもの。「文字絵」は江戸時代に流行し、隠された文字
を解読して楽しむ遊び絵。仮名や漢字を組み合わせた歌仙たちの名前で
肖像を描いている。北斎も楽しみ、ほくそ笑んで描いていただろう。

藤色の基礎体温が高くなる  吉松澄子

   
 在原業平 




北斎による文字絵で、平安時代の和歌の名人である六歌仙の在原業平
歌仙シリーズの一枚。歌仙の名前の文字を、衣文線に用いた文字絵を、
北斎ならではの構成力で巧みに文字を組み込み、典雅な歌仙絵の世界
を見事に描き出している。「在原業平」は、「在ハラのなり平」の文
字で構成され、「在」の草書体が前身頃に、「ハら」は向かって左側
の袖、「の」は右側の脚「な」は右側の肩「り平」は、後ろに引いた
裾(きょ)で表現している。

クレヨンを掴めば壁は子の宇宙  山田こいし





「寄せる波と引く波」



北斎漫画二編「寄せる波と引く波」において北斎は、波の動きに合わせ
てその形を描き分けようとしている。(おそらく)実際に浜辺に立って、
長いこと海を見つめ、丹念に写生したのだろう。
風や滝、富士山など、とことんまで拘りぬいたモチーフは、数多くある。

空は画布ファンタジックな絵を描く  八木侑子


  「琉球八景」 1818  (58歳)



前回は壮観の「東海道名所一覧」を出したが、今回は「琉球八景」。
享和3年(1803)、北斎のライバル絵師とされる鍬形蕙斎(くわが
たけいさい)の鳥瞰図が大ヒットし、数年後に北斎もそれを参考にして
鳥瞰図に取り組んだ。鍬形蕙斎から「よく人の真似をする」されたほど、
実は北斎には、他の絵師の作品に影響を受けて?描いたものが多々ある。
彫師は北斎お気に入りの凄腕職人、江川仙太郎(留吉)が務めた。「こ
のやろう」といいながら性格的にも留吉と北斎とは気があったのだろう。

俯瞰でみたらなんか淋しい馬と鹿  酒井かがり


    「驟雨」 1824-1826    (64歳)



署名はないが「北斎画」といわれている。オランダ製の紙に描かれて、
光が木々の合間に立つ人物を照らし出しているところなど、まるでスト
ロボがあたっているかのよう。意識的に自分でいままでのスタイルを変
えて、常にあたらしいものに挑戦する北斎を見る。応為も手伝っている。

雨の日に雨をなじっちゃいけません  清水すみれ


「富嶽三十六景江戸日本橋」 1831   (71歳)



歌川広重「自分の絵は見たままの景色を写しているのに対し、北斎の
絵は構成の面白さに主眼をおいている」というように北斎「定番を嫌
った
」。「富嶽三十六景江戸日本橋」図を見ても、透視図法に目を奪わ
れてしまうが、日本橋というのに橋は描いていないし、日本橋を象徴す
る往来の賑わいも、あえて手前に描き、人々の頭しか見せず「これが日
本橋でござい」というのである。これが北斎なのだー。

反則のような笑顔で攻めてくる  平井美智子


「富嶽三十六景 甲州三坂水面」 1831  (71歳)



これ絵も掲載は二度目である。北斎のユーモアと言うべきか、面白いと
ころは「平気で嘘をつく」ことである。上の絵は夏の富士山さんなのに、
水面に映る富士は雪を被った冬の富士である。
「諸国滝巡り 和州吉野義経馬洗滝」にしても、歴史の記録を探しても、
見てきたように描いているが、吉野にこのような名称の滝はない。面白
がっているとしか思えない。平気で嘘をついているのである。

キャンパスの海で一日中遊ぶ  柴田比呂志


  「百物語」 1831  (71歳ー)



北斎が描く「百物語」は歌舞伎の演目が多い。その代表的なのが「お岩
さん」
一般的には、お岩さんの顔は、目がつぶれて額まで大きく腫れあ
がっている。ところが、北斎の描くお岩さんは小顔で大きく目を見開い
ている。お岩が提灯に乗り移り、提灯の破れた部分を口にして、情けな
い顔で「助けてー」とか何かを叫んでいるようだ。恐ろしいというより
滑稽で慰めてやりたくなる。「うらめしやー」がセリフなのに。

おんばさらうんうんうんと・・・  山口ろっぱ

          
 「北斎が描いた描いた[日新除魔」」 1843~44    (83-84歳) 



83歳を迎えた天保13年(1842)から1年程の間、北斎「日新
除魔」と称して唐獅子や獅子舞の絵を毎日描いた。朝起きて、ササッと
一枚描いては丸めて家の外に捨て、応為や弟子たちが拾い集めたという。
獅子頭をかぶった人物が片足で立ちながら、御幣(ごへい)を振り回し
て生き生きと舞っている。見るからにサラッと素早く描かれたことが分
るが、その熟達した筆致と躍動感はさすがの一語につきる。
日によって表情や動き、手に持つものが異なり、毎日の北斎の心境も表
れているようで、見ていて飽きない。当時、放蕩の孫にほとほと困り果
てていたことから、その魔除けとして描かれたのではという説もある。

呪いは効いたでせうか柘榴の木  内田真理子


「八十三歳自画像」1843     (83歳)



北斎が83歳、ちょうど「日新除魔」を描いていた頃の自画像である。
これも二度目の登場で注文作などではなく、41,2歳頃の作品への質
問に対する返信状に描かれたもの。右には直筆で「みしゆく(未熟)の
業 御容捨之上 御一笑」とあり、当時の自分を「未熟」と評している。
北斎は『富嶽百景』初篇の跋文でも70歳以前に描いた作品は取るに足
りないと書いており、80歳でますます上達し、さらに百何十歳にもな
れば、ようやく一点一格が生きているように描けるだろうと信じていた。
北斎の自画像はいくつか残されているが、この図は北斎晩年の風貌をよ
く伝えている。常に貧乏で、身なりに全く気を遣わなかったと有名だが、
質素な着物の描写からその生活ぶりがうかがえる。

ええかっこしいが出てくる副作用  きゅういち


「雪中虎図」
 1849 (90歳)



雪の中を満足気な表情を浮かべながら駆け上がっていく一匹の虎。
北斎は、この肉筆画を描いた僅か3か月後、90歳で亡くなる。

葬儀までデザインをして逝きはった  前中一晃

拍手[3回]

ゼロという数字がとても嬉しい日  真鍋心平太





    英名二十八衆句  「犯罪」

「必殺仕事人」 2020





あの世の地獄と この世の地獄 どちらも地獄にかわりなし
 おやおや どっかで誰かが泣いてるかい
そうかいそうかい そういうあんたにゃ他人事か
 云わぬが花とは申されど ひとこと云わせていただきます
あんたが見るか おいらが見るか 誰かが地獄を見なけりゃ 
 終われねえ 善男善女にゃ 無縁の話で御座います
      晴らせぬ恨み 晴らしますー
          (渡辺小五郎編)

一かけ 二かけ 三かけて 仕掛けて殺して日が暮れて
 橋の欄干腰下ろし 遥か向こうを眺むれば
この世は辛いことばかり 片手に線香 花を持ち
 おっさん おっさん どこ行くの
あたしは必殺仕事人 中村主水と申します
それで今日は、どこのどいつを殺ってくれとおっしゃるんで?
           (中村主水編)







金は天下の回り物 ところがどっこい近頃は
  天下が金の回し者 金さえありゃとは申しませんが
    情がありゃとも申せません
  綺麗事ばかりじゃとどのつまりの堂々巡り
     どうやらどの世に生まれても
「こいつだけは許せねえ」 てな輩がおりますもので。

ナレーションはいつもの市原悦子さん。いいですね 悦子さん。

現代版では、仕置人・キラが語る
「不完全な法律で裁きを受けない人間を自らの手で葬り去らなければ、
世界は変わらない。」というのがあります。


湿り気を帯びたことばで刺を抜く  笠嶋恵美子

日本橋の船入場は「八丁堀」と呼ばれる。その八丁堀に「与力・同心」
の組屋敷が並ぶ官舎があったことから、与力と同心は『八丁堀の旦那』
と呼ばれた。いずれも、町奉行が警察署長としての職務を執行する際に
働く事件捜査、犯人逮捕の実働部隊である。同心はたいてい与力に附属
し、その取締は歳番与力(増村倫太郎[ 生瀬勝久]で、その分掌の中で
業務を勤める。同心部屋の机で帳面を前に事件の記録、経緯などを記述
しているのが「例繰方同心」で最前線に出るのが「三廻り同心」である。
その「三廻り同心」の一つが、中村主水(藤田まこと)渡辺小五郎
(東山紀之)が演じる「定町廻同心」である。

遠景に赤い地球が見える窓  蟹口和枝




               
           光琳亀甲鶴                                      丸に唐花

江戸の町を巡回している南北あわせて20人の「定廻り廻り」と「臨時廻
り」
は、独特の格好をしている。「御成先着流し御免」といって、将軍の
御成先でも着流しを許されている。武士なら必ず身に付けなければならな
い袴をはかない。着物の柄は派手な格子か縞。身幅は裾が割れやすいよう
に女幅。その上に竜紋裏三ツ紋付の黒羽織(例えば、渡辺小五郎[光琳亀
甲鶴]
中村主水[丸に唐花])を羽織る。その端を巻羽織といって裾を
内側にまくりあげて博多帯に挟み、茶羽織のように短く着る。髷は八丁堀
風に決め、足元は雪駄履きだ。江戸八百八町の人たちに一目でそうと分か
ってもらうためのユニフォームだった。

豆腐屋のとても豆腐屋らしい顔  くんじろう




 
着流し姿の小五郎


その定町廻同心は、どんな役目を負っているいるのか。法令の施行を視
察し、非違を監査し、犯罪の捜査、逮捕をする役で、現在のパトロール
警官である。当時はどんな事件があったか、通り魔、詐欺・横領・偽造
・放火・強盗・窃盗・喧嘩・傷害・殺人・質入れ、故買時の盗品の不正
取扱い博奕、高利貸し、かたり、強請、追放者のお構い地立ち入り・交
通事故・あおりなど雑多である。

男一匹かけ声だけで終わりそう  久保田千代

しかしながら定員は一町奉行所にわずかに6名である。南、北町奉行所
で12名。臨時廻同心も同数であるから合わせて24名、これで江戸府
内を巡回して、100万都市江戸の治安に勤めたのであるから驚異的で
ある。この12名がそれぞれの受持区域をもって常時廻っているが、つ
い手が足りないから「岡ッ引・下ッ引」が動員されるようになる。

黄昏ないようにと鎌を研ぐ  藤井寿代

同心が自分の身銭で雇う町人の情報屋を「岡っ引き」という。岡っ引き
「御用聞き」といわれる。江戸以外では「目明し」関西では「手下」。
小者が同心屋敷で生活している下男とすれば、 岡っ引きは、同心に個人
的に仕えるだけで、保証らしいものはない。同心の下には、岡っ引きが、
2、3人付いているが、その岡っ引きの下にはまた4,5人の手先が付
いている。岡っ引きも一人前になると、一人で5,6人くらいの手先を
使っていた。張り込みや連絡が必要な時に、 緊急で招集をかけるときの
手数である。それらを「下っ引き」といった。

叫んだら有給休暇もらえるよ  中山奈々

自腹で使う岡っ引きの金は、どのように工面したのか、定町廻同心には
特典がある。町の店の主人は、自分の処へ来てくれる八丁堀の旦那に対
して接待をするから、食事はおろか、酒も飲み放題になる。担当地区の
大家から付け届けなどもあり、年収を数倍も上回る収入があった。これ
は収賄になるがお上からは、お目こぼしの範疇にある。岡っ引きたちの
金はほとんどその中からまかなった。そして渡辺小五郎が同心部屋で昼
行燈を演じていられるのも、実際には、現場で、総勢18人ほどの岡っ
引き、下引きが動いて事件を持ってくる。あとは同心が現場か番屋へ出
向くだけでよかった。

結び目をほどくとそうか そうなんだ  山本昌乃

「必殺仕事人」 2020-すじがき







江戸のこの時代にも、令和の現代と何も変わらぬ事件が頻繁に起こる。
振り込め詐欺、半グレ集団、引きこもり、強請、殺しなど…。
江戸の町で、子を装って親を欺いて金を奪う「親だまし」の詐欺が頻発
する。同心の渡辺小五郎(東山紀之)が勤める本町奉行所には、名裁き
で名高い湯川伊周(市村正親)が町奉行としてやってきた。 新しい与力
として田上誠蔵(杉本哲太)も就任、詐欺の取り締まりに本腰を入れる。
そんななか、小五郎はひょんなことから助けてやった幼い娘・つゆ(古
川凉)
になつかれてしまう。親戚に預けられて厄介者扱いされていると
いう境遇を知ったふく(中越典子)てん(キムラ緑子)は、つゆを家
に置こうと言い出す。

カーテンの隙間に善人のぽかん  森田律子





一方、経師屋の涼次(松岡昌宏)は、博打で儲けた金で祝い酒を飲もう
と訪れた水茶屋でたけ(森川葵)という気立ての良い女と出会う。水茶
屋の仕事でお金を貯め、今は別れて暮らす娘と居酒屋を開くのが夢だと
いう。 リュウ(知念侑李)はといえば、庭師として、働く毎日を送り、
たまたま新与力・田上の家にも出入りしていた。家に引きこもっていた
息子・田上新之丞(杉野遥亮)と親しくなったリュウは、一緒に外の空
気を吸いに出かけることに。街中で出会ったのが「新生塾」を主宰する
熱き教育者・溝端九右衛門(駿河太郎)だった。悩める若者たちに生き
る道を説く彼の熱弁にすっかり心酔した新之丞は、入塾を決意するが、
父の誠蔵には反対されてしまう。

岩間のすみれ 生きるということ  徳山泰子






詐欺撲滅のためやくざ者の取り締まりを強化する奉行所は、奉行の湯川
の指揮の下、賭場の手入れをおこなう。首謀者とにらんだやくざ者は自
害した姿で見つかるが、小五郎は、やくざ者が自ら命を絶つという結末
に疑念を抱く。 取り締まり後も「親だまし」の詐欺は、一向に減る気配
がない。涼次が賭場で得た情報によれば、最近は、やくざ者とはちがう
「グレ者」と呼ばれる悪党が幅を利かせているらしい。仁義も関係なく、
金のためなら手段を選ばないのが連中の恐ろしさだという。

現住所はダンボール的屋根の下  山口ろっぱ






お金を貯めて先は自分の店を持つこと、そして店が持てたら一緒に暮ら
そうと決めたたけつゆ母娘に、義理人情と無縁なグレ者と呼ばれる
一味を率いる詐欺のリーダー・五十嵐鉄太郎が虎視眈々とたけの財布に
目をつけた。か弱い女手に悪の手が勝てるわけがない。たけは軽々とだ
まし取られた金を返して欲しさに、鉄太郎にしがみつき拝むがあえなく
殺されてしまう。その鉄太郎も仕置人の手によって成敗されるが、本当
の悪はその上の上に悠然と居た。主催する新生塾は、隠れ蓑で、熱き教
育者の溝畑九右衛門は、枝の一本に過ぎない。その溝畑の上で、事件を
創作し操っていたのは、実は、やくざ取り締まりを掲げ登場してきた、
奉行の湯川伊周であった。堅物で真っ直ぐな筆頭与力・田上誠蔵と引き
こもりからやっと生き方を悟った息子の田上新之丞も湯川の術中にはま
り詰め腹を斬らされてしまう。
そして小五郎は、この湯川伊周を仕置す
る役目を担った。小五郎を演じる東山紀之は、なかなか殺陣がうまい。
湯川を二太刀で斬り捨てた殺陣は、なかなか重量感があった。
(余談だが、視聴率14、5%御立派)

思い切って白いカラスになりました  靏田寿子

【仕置き法によって処刑することを江戸時代こう呼んだ。
しかし ここに言う仕置人とは、法の網をくぐってはびこる悪を裁く闇
の処刑人のことである。ただし この存在を証明する記録古文書の類は
一切残っていない。

さて、つぎのような言葉がある。

『世には悪のために悪をなす者はいない。みんな悪によって利益・快楽・
名誉をえようと思って悪をなす』   フランシス・べーコン

一コマ目笑った四コマ目泣いた  雨森茂樹

拍手[3回]

生体解剖された日は砂嵐  井上一筒
 
 

岩松院葛饰北斋八方睨凤凰图
(葛飾北斎・応為共作)

「葛飾北斎の家族」


北斎は、2度結婚している。「さわ」とも「悌」ともいうが、正式には
名は不明。その妻との間に3人の子に恵まれた。長男は富之助、長女は
阿美与、次女は阿鉄。しかし二つの不幸が襲う。一つは、寛政6年(1
794)、春朗の時代、勝川派にいながら、密かに狩野派の画法を学び、
それを聞いた師匠の春章が憤り、破門させられ貧乏暮らしの中、唐辛子
売る破目になったこと。もう一つは妻が亡くなったこと。北斎34歳で
ある。3人の子をかかえた北斎は後妻をもらう。後妻の名は「こと女」
(朝井まかて著『眩(くらら)』では、「小兎」という字をあてている。
小兎との間には、2人の子をもうけた。次男・多吉郎、三女・阿栄
小兎は前妻の子を加えて一時は、二男三女の子の面倒をみることになる。

雑草に生まれたことを怖れない  中前棋人

長男・富之助は、中島家の後継者となった後、早世したと伝わる。何歳
だったかは不明。長女・阿美与は、北斎の弟子・柳川重信と文化10年
(1813)頃、結婚し男子を生むが、夫婦仲が悪く、文政5年(18
22)頃に離婚する。阿美与は子を連れて実家に戻るが、まもなく死亡。
北斎には孫にあたる阿美与の連れて帰った子(時太郎)は、大の問題児
であった。ぐれて人様に迷惑をかける暴れるで、手を焼いた北斎は、別
れた婿の重信に引き取れせる。が、重信は天保3年(1832)に死亡。
問題児はまたまた北斎の許へ戻ってきた。成人すると、悪たれの仲間に
交じり、博打・借金など放蕩の限りを尽くす。金がなくなればせびりに
くる、北斎にとって苦渋の疫病神になる孫である。

鶏頭と瓜しか見えぬ四畳半  くんじろう


渓斎英泉の美人画
蝙蝠が飛ぶ夜空ー応為の夜桜美人と美人比べをしてください。
応為の絵のうまさがわかります。



次女お鉄。「画をよくし、他へ嫁せしが、夭死す。一説に幕府の用達
 某嫁せし」とある。また、渓斎英泉『無名翁随筆』(続浮世絵類考)
には「次女は、他へ嫁す 画工にあらず 早世 御鏡御用の家に嫁す」
とあり、画工でないとする部分に食い違うが、早世は確かなようである。
また北馬が北斎に入門したころ、「師北斎は(前)妻を亡くし、一人の
娘と住んでいた」と回想している。お栄がまだ生まれていないので、こ
の娘がお鉄ではないかという推定もあり、錯綜している。何しろ北斎は、
前妻との間の子は、孫の時太郎を含め、良い印象ある家族ではなかった。

薄切りの幸せらしきものひらり  高野末次

小兎の子の阿栄については、ある程度歴史は明確なので、後回しにして、
阿栄の弟の多吉郎をとりあげる。多吉郎は崎十郎と改名し、本郷竹町の
御家人加瀬氏の養子となる。その加瀬家に入った崎十郎は、御小人目付
より御小人頭に進み、支配勘定となり、御天守番から御徒目付へと昇る。
俳諧を好み、椿岳庵木峨の号をもち、北斎が没すると墓を建立し、一人
きりになった阿栄を邸に迎えたりして生活の支えになる。
崎十郎には娘・多知(多知女)が居り、白井家に嫁ぐ。この北斎の孫で
阿栄の姪になる白井多知の遺書を『葛飾北斎伝』が随所に引用している。
『白井多知女は、加瀬崎十郎の女(むすめ)にして、白井氏に嫁す。即
ち白井孝義氏の母なり。[白石氏、今本郷弓町に住す。加瀬氏の後、此
に同居せり]』この白井氏が、北斎の血を繋いでいく。

働いた雲がゆっくり流れてる  市井美春

寛政12年ころ(1800)に出生したとされる三女・阿栄に関しては、
彼女が20歳のころから『葛飾北斎伝』にしばしば登場する。
「阿栄は、天才的な画才あり、画名を応為という。絵師・堤等琳の弟子
南沢等明に嫁ぐが、等明は余りパッとしない絵描きであったので、画才
のある阿栄は、そんな夫に嫌気がさし『未練なく離婚、実家に戻る』
ある。阿栄については、別頁を割いて書くことにするが、この阿栄の下
に四女・阿猶(なお)が目が悪くして生まれ早死にしたという説がある。
『北斎伝』「文政4年11月13日、北斎の娘と推定される人物が没
するとある」が、次女・阿鉄のことなのか、阿猶のことなのか、詳しい
ことは不明である。

ペナルティみたいだなあと年をとる  美馬りゅうこ

 
朝顔美人図

落款における「辰女」「栄女」の「女」が上の字より小さいなど筆跡が

類似し、手や指、頭髪などの細部描写が一致することから、応為の若い
ころ、南沢等明に嫁していた頃の作品とみられている。
 




  『無名翁随筆』


「南沢等明との結婚生活」

南沢等明応為(阿栄)の夫として名は知られつつあるが、実のところ、
作品も知られていなければ、生没年も分かっていない。渓斎英泉『無
名翁随筆』には、等明は「堤派系図」に名前のみあり、関根只誠「浮世
絵百家伝」では「履歴不詳」井上和雄「浮世絵師伝」に至り、ようやく
「三代等琳門人、文政期、堤を称す。南沢氏、俗称吉之助、橋本町二丁
目水油屋庄兵衛の男なり、北斎の娘阿栄を妻とせしが、後之を離縁す」
と出てくる。関場忠武『浮世絵編年史』にも「三女名は栄、亦画を能く
し三代等琳の門人南沢船二に嫁せしが後、離別せり、一文人形の元祖は
即、此栄女なり」と、名がみられる程度である。

応為南沢等明に嫁いだからには、その間、堤派の絵師に数えられてし
かるべきである。が、堤派系図にも応為と言う名も、辰女という名も出
てこない。家事もせず、芥子人形を作っていて、等明の仕事も手伝わな
ければ、絵の拙所を笑ったというのだから、等明の絵に対する仕事ぶり
にそれ相応の不満があったのだろう。夫と同じに見られたくない、しか
し嫁ぎ先で「葛飾」姓を名乗る訳にもいかず、また「堤」とも名乗りた
くない。そこで「朝顔美人図」のような軸物の落款には、敢えて「北斎
娘」と書いた。応為にしてみれば、等明の画業よりも、北斎のもとでの
画業の方が興味を引いたのだろうことは、北斎一門との画巻や北斎一門
が関わったと推定される洋風風俗画の存在からも、確かなことである。
何につけても、等明と阿栄は心擦り合わず、離縁に漕ぎつけてしまった。
とどのつまり
「阿栄、家に帰りて再嫁せず、「応為」と号し、父の業を助く」となる。

それだけの事だったのか離婚印  目黒友遊


北斎の妻であり、阿栄の母である小兎は、文政11年(1828)6月
6日に死ぬ。小兎が没した時、北斎は69歳になっていた。小兎の生前
に阿栄が離縁されたとすると、以後、再嫁せず、北斎のもとにいた理由
も、一人になった父・北斎と暮らす必要を感じたからではなかったか。
嫁ぎ先では「心かなわずして離縁された」とされる阿栄だが、離縁後は
父・北斎の傍にいようと、決めた、厚い親思いの気持があったのだろう。

踏みだした所にシッポがあったから  宮井いずみ

左の文字は栄女筆
大海原に帆掛船図
「天才絵師・阿栄」
《大海原に帆掛け船図》「狂歌国尽」文化七年(1809)頃



 画才は娘たちばかりに受け継がれたようで、阿栄の天才ぶりは、10歳
のころ『狂歌国尽』に、北斎ほか門人ともに挿絵に「栄女筆」の署名で
『大海原に帆掛船図』を描いたとある。
文政7年、24歳の頃、シーボルトが持ち帰った水彩画のうち「商家図」
に文政7年の年記あり、この頃、南沢等明に嫁しており「辰女」の画名
を用いている。天保4年(1833)のころ、渓斎英泉『无名翁随筆』
には「女子栄女 画を善す、父に随て今 画師をなす、名手なり」とある。


選ばれたのね天使が膝に乗っている  大内せつ子


  夜桜美人図


「余の美人画は、お栄に及ばざるなり、お栄は巧妙に描きて、よく画法
にかなえり」  これは北斎が、娘お栄を評して言った言葉である。
天才浮世絵師である父・北斎にここまで言わせ、時には北斎の肉筆画の
代筆や彩色をしたといわれる。また、応為自身にも弟子がおり、裕福な
商家や武家の娘の家を訪問して、家庭教師のような形で絵を教えていた、
こともある。
『阿栄門人あり、大抵商家の娘、および旗下の士の娘などなりし、晩
年には、自往きて教授せり』

くしゃみしたらあかんねこが目を覚ます  宮井いずみ

画号に適当な由来がある。父の北斎が娘の事を「エイ」とは呼ばず、い
つも「おーい」と呼んだ。そこからそのまま「応為」とした。オーイ即
ち呼び声である。27歳のとき、南沢等明と離婚してからは、画から離
れられず、北斎の世話をしながら一緒に暮らし、自らも描き、父の絵の
制作助手を務めた。北斎の『富嶽36景』も、所々、阿栄が描いたもの
といわれる。北斎が没して、阿栄51歳の頃、飯島虚心『浮世絵師 歌川
列伝』には「北斎36景の模造品あり、北斎の死後、応為の手になり出
版されたものか」とある。応為は北斎が遣り残した未完成36景を、ず
っとそれを手伝っていたことでもあり、完成させたのだろう。

粒選りの愛を一粒持っている  みぎわはな

「北斎の死」
嘉永2年(1849)北斎応為は、浅草聖天町の遍照院境内の仮宅に
居た。『馬琴日記』2月25日の条には、
「中村勝五郎来る(勝五郎とは板元)…画工北斎、此のせつ大病のよし、
勝五郎の話也」とある。さすがの北斎も、90歳を迎えた2月には大病
を患っていた。『葛飾北斎伝』では「嘉永二年、翁病に罹り、医薬効あ
らず。是よりさき、医師窃(ひそか)に娘阿栄に謂いて曰く、”老病なり 
医すべからく”と。門人および旧友等来たりて、看護日々怠りなし」この
文に続いて、北斎最後の言葉として有名な「翁死に臨み、大息し、天我
をして十年の命を長うせしめば、といい、暫くして、更に謂いて曰く、
天我をして五年の命をば保たしめば、真正の画工となるを得べし、と言
い終わりて死す。実に四月十八日なり」と吐いたともある。
「天我をして…」の言葉は、臨終に立ち会った者が聞いたことになるが、
応為だったのか、加瀬崎十郎が立ち会ったのか。

天国は死ぬ心配がありません  寺川弘一

 
あたしはあたしのままがいい


北斎
が没し、北斎の家族で残ったのは、阿栄と弟・崎十郎だけになった。
阿栄も北斎が死んだときは、「悲嘆やるかたなく安座することも出来な
かった」という。そんな阿栄に崎十郎は、本郷弓町の自分の居宅に来て、
共に住むようにと何度も説得に通い勧めた。が、阿栄は、堅苦しいとこ
ろは性に合わないと拒絶し続けた。しかし安政の大地震(1855)で、
住むところを失った阿栄は、本郷弓町の加瀬家へ移り住むことにした。
しかし加瀬家にあっても、応為の性格はあたかも男子のようで、崎十郎
の奥とは合わなかった。弟夫婦の家に変人姉が転がり込めば、仲睦まじ
くとは、いかなかった。また、阿栄も溶け込めなかった。
白井孝義氏曰く、「阿栄は、余が母方の祖父・加瀬崎十郎の家に居りし
が、その気性、恰も男子のごとくなれば、祖母と善からず。常に曰く、
妾(わらわ)は筆一枝あらば、衣食を得ること難からず。何ぞ区々たる
家計を事とせんやと」父・北斎と暮らした30年のシミはなかなか落ち
なかった。また落したくもなかったのだろう。

(白井孝義氏は、崎十郎の娘・多知の息子で、北斎からすれば曽孫)
 

真っ直ぐな息吐く海に還るまで  太田のりこ

「応為の行方」
『葛飾北斎伝』には「安政4年の夏、応為は加瀬家を出て、戸塚へ向かっ
たのを最後に、行方知れずになってしまった」とある。
関根只誠『浮世絵百家伝』には「栄女が没年詳ならずといえども、安政
2,3年のころ、加州候寡婦の老衰を憐れみ、扶持せられしが、遂に金沢
に於いて、病に罹り没せしよしにききぬ」とある。
この記録を最後に、以後、応為の行方は分からない。二説を合わせて考え
た時、安政4年の夏に応為は江戸を出て、戸塚に絵を描きに行き、その後、
それ以前に聞いていた寡婦を扶持した加賀藩主の情報を頼り、そのまま加
州金沢に赴き当地で病没した、ということになる。

別に淋しくないの生き死にはひとり  靏田寿子

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