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川柳的逍遥 人の世の一家言
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チャルがゆれて架空が色づいた  森井克子
 
 
 
                            都名所之内 愛宕山之図
 
 
「麒麟がくる」 光秀愛宕百韻


 「応仁の乱」という革命の発端から百数十年続いた乱世で、悉く秩序は
壊れた。その反動として、人々は秩序を求めた。
その一例が「連歌」の流行である。連歌は平安末期、京の宮廷とその周
辺で生まれ発達、一人が和歌の上の句を詠むと他の一人が下の句を詠み、
最後の挙句まで、繋げて楽しむ遊びである。
順序として、先ず「発句」で始まる。「発句」は挨拶の句とされ、通常
はその会の主賓が詠む。傍からみれば、七面倒くさいものだが、座の人
々はその制約をよろこび、一座の秩序に服した。「連歌」とは、4,5
人から10人ほどが一座をなし、第一句(発句)を一人が詠むと、第二
(脇)、第三句(第三)、最後の「挙句」というふうに、人々が順次
詠みあう形式に発展し、規則として固定化した。



指を折る音色に今日をかけてみる  今井弘之
 


 
                             里 村 紹 巴
 

明智光秀が連歌会に初めて参加したのは、永禄11年(1568)11
月15日に催された百韻興行で、連歌師の里村紹巴(じょうは)の一門
である昌叱(しょうしつ)心前のほか、細川藤孝ら12名が参加して催
された。紹巴が12句、藤孝が10句を詠む中で、光秀はわずか6句し
か詠んでいない。それは光秀が、信長配下となって日が浅く、また連歌
の熟練度が相当レベルまで達していなかったからだろう。
光秀は判っているだけで、生涯で50数回の連歌会を主催あるいは参加
したといわれている。天正5年以降になると、光秀の連歌熱はいっそう
高まることになる。



秋風に晒す薄っぺらい矜持  徳山泰子



「光秀の連歌経歴」
天正5年4月5日から7日の3日間にわたり、光秀は京都の愛宕山千句
「賦何(ふすなに)連歌」を興行した。参加したのは紹巴やその一門
に加え、藤孝も招かれていた。千句の興行の場合は、百韻を十回繰り返
すハードなものだった。以降、光秀はハードな千句の興行に力を入れて
いく。
天正7年7月18日、光秀は居城の丹波亀山城で、千句の賦何連歌を興
行した。天正9年1月6日にも、光秀は居城の近江坂本城で、連歌会を
催しており、かなり嵌っていたようだ。
元亀元年の「比叡山焼き討ち」後の坂本城築城工中にあった次のような
エピソードがある。



瓢箪を磨いていると葉書あり  高野末次



「三甫という人物が <浪間より かさねおける 雲のみね> と発句を詠む
と、光秀は <いそ山つたへ  しげる杉村> と即、脇句を付けた」という。
光秀の脳内は、連歌のこと半分、戦のこと半分だったようだ。



脳回路は真綿色からミモザの黄  山本早苗



天正9年4月12日には、丹後宮津の細川忠興に饗応膳に紹巴とともに
招かれ、そのあと「連歌会」を催している。
また、光秀は戦場に立つ先々で
「ほととぎす いくたひもりの 木の間哉」とか「夏は今朝 嶋かくれ行く
なのミ哉」などと発句を口ずさんでいる。
前者は生田の森を、後者は明石から見える淡路島を詠んだものだろうか、
光秀が連歌に大層、ご執心であったことが伺える、記録である。
そして「本能寺の変」まで7日前と迫った天正10年5月28日、
愛宕山の西坊へ紹巴を招き「連歌会」を催した。
参加したのは、当代隋一の連歌師・里村紹巴、昌叱、兼如、心前、行祐
(ぎょうゆう)、宥源(ゆうげん)、光秀子息の十兵衛光慶、家臣の東六
郎衛行澄らであった。



思い出はやさしく口惜しさは強く  中村幸彦
 


 
                           愛 宕 百 韻

 
 
この「連歌会」は、「発句から挙句まで百句詠む」という形式のもので
「愛宕百韻」と呼ばれる。この前日、光秀は戦勝祈願をするため、愛宕
山に入った。愛宕山には愛宕神社があり、愛宕勝軍地蔵が祀られている。
光秀が謀叛を決意していた証だろう。光秀は、2度3度と神籤をひいた、
という。
やがて会は「ときは今 あめが下知る 五月哉」と光秀の発句で始まった。
「とき」は土岐氏の一族である光秀自身を指し「あめが下知る」は天下
を治める、という意味が込められている。と解釈されてきた。



満月を君は寂しい月という  宮井いずみ
 
 
 
                                     里 村 紹 巴
 
 
「その前に、連歌の基礎的知識として」
連歌師宗匠・紹巴が連歌についてルールを述べている。
「連歌の発句「切字」というものが入っておりませんと、発句とは言
えません。もし切字が入っておりませんと、それは「平句」ということ
になり、まずいのであります。また発句には、必ず「季語」が入ってい
なければならず、無季の発句というものはありません。「俳諧」の発句
も、まったく同じです。切字と季語を必須の条件とします」。
即ち、発句はすべての起こりとして、ここから変転、果てしない連歌の
世界が始まるのです。



狙いますあなたのハート鷲摑み  藤内弥年 



そして二番手の「脇」は、発句に添えて詠み、座を仕切る亭主が詠む。
「当季、体言止め」とする。体言止めとは、句の最後を体言(名詞)で
終えること。そうすることで、余情・余韻が残るということ。
(「挙句の果て」の「挙句」は、この連歌を起源としている)



ふわり雲失くしたものが出てきたは  山本昌乃



「第三句」は、相伴客あるいは、宗匠の次席、にあたる者が詠む。
発句・脇句の次にくる17字の付句。発句と同じ季語を入れること。
「脇句」からの場面を一転させ、多く「て」で止める。
「第三も脇の句程わなくとも、是も発句に遠からぬ時節をするべし。
発句、真名字留の時は、第三まな字留は、かしましき也」(長短抄)
 第三句は、転回をしなければならないルールがあり、前句には付け
るが、そのもうひとつ前の句からは離れる。
次の「第四句」「軽み」「あしらい」を要求される。
これも、ルールである。
では、どのようにあしらうか。あしらうのにもかなりの芸能がいる。



栄養不足の脳へ刻む哲学書  靏田寿子
 






では光秀が主催した「明智光秀張行百韻」をルールに合わせみてみよう。
時は今雨が下しる五月哉  光秀
水上まさる庭の夏山  行佑
花落る池の流れをせきとめて  紹巴
発句に光秀は、「時は今雨が下しる五月哉」と詠みあげ、
続いて脇が、「水上まさる庭の夏山 と詠む。
第三句は「花落る池の流れをせきとめて」と続いた。



針金で縫いたいほどの心傷 伊藤良一



光秀が美濃の「土岐源氏」であることは、席につく誰もが知っている。
光秀の華麗な「暗喩」に富む句は、土岐の世が来るということを「時」
でほのめかし、その時こそ「五月の雨」の季節であり「雨は天」と掛け、
「しるは統べる」に重ねた。
脇を付けた愛宕西之坊威徳院住職の行佑は、光秀の真意を察し、
「水上まさる庭の夏山」と詠み鮮やかに毒を抜いた。
次の第三句では、脇から句境を一転せしめ「て留め」にする決まりがある。
そこで紹巴、「花落る池の流れをせきとめて」と光秀の世間に知られる
と危険な句を、さらに無毒にする句を詠んだ、と解釈される。
 
 
 
欲望を静かに消してゆく硯  堀川正博


『明智光秀張行百韻・全句』続けてお読みください


 


 天正十年五月廿七日「愛宕百韻」に臨んだ光秀の脳の内は
「信長打倒」のことが、離れない意味の句がつらつら並んだ。
出席者と歌の数。
光秀 15 紹巴 18 昌叱 16 兼如 12 心前 15 
仰佑 11 宿源 11 行澄  1 光慶  1


時は今雨が下しる五月哉  光秀
 水上まさる庭の夏山  行祐
花落る池の流れをせきとめて  紹巴
(4句目から挙句までを平句と呼ぶ。季語にはこだわらない)
 かせは霞を吹(き)をくるくれ  宿源
松も猶かねのひひ(び)きや消(え)ぬらん  昌叱
 かたしく袖は有明の霜  心前
うら枯に成ぬる草の枕して  兼如
 きヽなれにたる野辺の松虫   行燈
秋はたゞ涼しきかたに行きかへり  行佑


替芯も冬の星座も見失う  くんじろう


 尾上のあさけ夕くれの空  光秀
立つゝく松の木葉や深からん  宿源 
 浪のまかひの人うみの里  紹巴
漕帰る海士の小舟の跡遠み  心前
 隔りぬるも友ちとりなく  兼如
しは(ば)したゞ嵐の音のしつまりて  兼如
 たゞよふ雲はいつく成らむ  紹巴
月は秋あきは寂中の夜半の空  光秀
 それとは(ば)かりの声ほのか也  宿源
たたく戸の答はとふる柿の露  紹巴


筆圧を変えて吐露する胸の内  上田 仁


 我より先にたれ契るらん  心前
いとけなきけはいならぬはねたまれて  昌叱
 とひてかくいひ(い)そむくくるしさ  兼如  
度々の仇の情は何かせん  行祐
 たのみかたきはなを後の親  紹巴
初瀬路や思わぬかたにいさ(ざ)なはれ  心前
 ふかくたつぬる山時鳥  光秀
谷のと(戸)に草の庵をしめ置て  宿源
 薪も水も絶(え)やらぬかけ  昌叱
松か根の朽(ち)そひにたる岩つたひ  兼如


順番が来て山茶花は散りました 嶋沢喜八郎


あらためてかこふ垣のふる寺  心前
 春日野やあたりも廣き道にして  紹巴
うらめ(み)つらしき衣手の月  行佑
 葛の葉の乱るヽ露や玉かつら  光秀
たはゝになひ(び)くいと萩の糸  紹巴
 秋風もしらぬ夕やぬる小てふ(蝶) 昌叱
みきりもふかき霧そ(ぞ)こめたる  兼如
 村竹の淡雪なか(が)ら片敷(い)て  紹巴
岩根をひたす涛のうすらひ  昌叱
 鶯鴨やをりゐる羽ねをかはすらん  心前


ひょっとしてあの冗談は本音かも  荒井加寿


みたれふしたるあやめ菅原  光秀
 山風の吹(き)そふ音は絶(え)やらて  紹巴
とち果にける住ゐ(い)寂しも  宿源
 問(う)人もくれぬるまゝに立帰り  兼如
心のうちにあふやうらなひ  紹巴
 はかなきを頼(り)かけたる夢かたり  昌叱
おもひになか(が)き夜は明しかた  光秀
 舟はたゞ月にそうかふ浪の上  宿源
ところ〳〵にちる柳かけ  心前
 秋の色を花の春迄うつしきて 光秀


アルミ缶踏んづけている解消法  河村啓子


山はみな瀬の霞たつくれ  昌叱
 下とくる雪の雫の音す也  心前
なをも折たく柴の屋の内  兼如
 しほれしを重ね侘たるきよ衣  昌叱
おもひなれぬる妻そ(ぞ)えたゝる  光秀
 浅からぬふみの数々つもるらし  行佑 
とけるも法は聞ふるにこそ  昌叱
 賢は時を待(ち)つゝ出るよ(う)に  兼如
心ありける釣のいとなみ  光秀
 行々も濱辺つたひの霧晴(れ)て  宿源


5ミリほど残る未練とここにいる  桑原すゞ代


一筋しろし月の川水  紹巴
 紅葉はや分(け)る立田の峯おろし  昌叱
夕さひ(び)しき小男鹿のこゑ  心前
 里とをき庵も哀(し)住(み)馴(れ)て  紹巴
捨てる憂みのたのみこそあれ   行佑 
 みと(ど)り子の生たつ末を思ひやり  心前
猶なかゝれの命ならす(ず)や  昌叱
 契たゝ(懸け)つゝくめる盃に  宿源
別れてこそはあふ坂の闘  紹巴
 旅なるを今日は明日はの神もしれ  光秀


蓮開くこの世あの世の境目で  笠嶋恵美子


爰かしこなか(が)るゝ水のひややかに  仰佑
秋の蛍や暮いそく(ぐ)らむ  心前
村雨の跡よりもなほ霧降(っ)て  紹巴
露はらひ(い)つゝ人のかへ(え)るさ  宿源
宿とする木陰も萩の散(り)盡し  昌叱
山より山にうつるうつるうく(ぐ)ひ(い)す  紹巴
朝霞うすきか(が)うへに重りて  光秀
ひき捨けらし横雲の空  昌叱
出なむも浪風かは(わ)る泊舟  兼如
めくるしく(ぐ)れの遠き浦々  昌叱


竹林の庵でひねる妄想句  櫻田秀夫


むら芦の葉かくれ寒き入日陰  心前
立(ち)さはき(騒ぎ)ては鴨の羽かき  光秀
行人もあらぬ田面の秋過(ぎ)て  紹巴
かたふくままのとまふきの露  宿源
月みつゝ打もや明けす(ず)さよ衣  昌叱
ねむ袖の夜半の休(やす)らひ  仰佑
しつ(づ)まらは(ば)更てこんと(ど)の契にて 光秀
あまたの門を中のかよひ路  兼如
埋めつゝ竹のかけ桶の水の音  紹巴
岩まの苔は幾重成らむ  心前


闇に文字描いて明日を吉にする  瀬川端紀


みつ(密)か(書)きは八千代へぬへきと計に  仰佑
 翁さひ(し)たる袖のしらゆふ  昌叱
明(け)る迄霜夜のかくらさやかにて  光秀
 とり〳〵にしもうたふこゑ添ふ  紹巴
はるは(ば)ると里の前田を植渡し  宿源
 縄手の行衛たゝちとはしれ  光秀
いさむれは(ば)いさめるまゝの馬の上  昌叱
 うちゑみつゝもつるゝともなひ  仰佑
色もかもゑひをすゝむる花の下  心前
 國々は猶長閑なる時  光慶


心音を数えて一日が終わる  合田瑠美子

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ハートにも枯れ葉模様が降り積もる  新家完司



「光秀激動の15年」 光秀、謀反の動機
 
 
 
   
   明智光秀        森蘭丸
 
 
 
天正9年、光秀54歳。前年に「天下」(京都周辺の領域)が平定され
た後、光秀は、信長の支配領域である「天下」を守備する立場として、
信長の親衛隊長のような役割を担っていた。その一方で光秀は、信長に
従って甲斐の武田氏討伐に出陣し、その終了後の10月15日、近江安
土城へ駿河加増の礼へ来訪した「徳川家康の接待」を任された。
『信長公記』によると、光秀は「京都堺にて珍物を整へ、生便敷(おび
ただしき)結構にて、十五日より十七日迄、家康の接待に没頭した」
ある。このように光秀は、準備に奔走して、家康を、至れり尽くせりの
もてなしをした。が、この3日のうちに「信長と光秀の間で、何らかの
対立が起こっていた」と、ルイスフロイス『日本史』に、秀吉『川
角太閤記』にすっぱ抜いている。



紫の袱紗をかけて出す料理  山本早苗



【光秀は、どんな料理で家康をもてなしたのか』



 
1の膳
① 金高立入 蛸(湯引たこ) ② 鯛の焼き物 ③菜汁 ④ 膾(な
ます) ⑤ 高立入 香の物(味噌漬大根) ⑥ 鮒の寿司  ⑦ 御



どうにでもしてくださいと鯛のうつろ  寺島洋子



2の膳
① 絵を書いた金の桶入 うるか(鮎の内臓の塩辛) ② 高立入 宇
治丸(鰻の丸蒲焼き) ③ ほや冷や汁 ④ 太煮(干ナマコに由芋を
入れた味噌煮) ⑤ 貝鮑(絵入り金色の輪にで) ⑥ 高立入 はも
(照焼き) ⑦ 鯉の汁



本籍を移した白焼きのうなぎ  森田律子



3の膳
① 焼き鳥(鶉[雲雀]の姿焼き) ② 山の芋鶴汁(仏産鶴とろ汁 
味噌仕立て)③ がざみ(ワタリガニの一種) ④ 辛螺(にしがいの
壷煎) ⑤ 鱸の汁



じゃがいもよお前もほんのりと恋  山口ろっぱ



4の膳
① 高立入 巻するめ  ② 鮒の汁  ③高立入 椎茸 ④ 色絵皿



味付けは薄めであしたから他人  清水すみれ


 5の膳
① 真名鰹さしみ  ②生姜酢  ③ 鴨の味噌汁 ④ けずり昆布  
⑤ 土器入りのごぼう



秘伝の出しは利尻昆布と猫のツメ  岡谷 樹



6の膳(足付の縁高御菓子)
① から花(造花)  ② 干し柿  ③ 豆飴  ④ 胡桃
⑤ 花昆布  ⑥ 求肥(はぶたえ)餅



あこがれの大空を行く 鯉として  徳山泰子







【飲み会の締めは、汁かけ飯】
非公式なので式次第には書かないが、宴会の最後は無礼講。当時の武家
の饗応は、箸の取り方から饅頭の食べ方まで、事細かなマナーに縛られ
ていたが、会の最後にはそんなことは忘れ、提供されたあらゆる汁もの、
吸物をご飯のうえにかけたようだ。
雉の青かち汁に饅頭のかけ汁、魚介の吸物を姫飯のうえにかけ、ズズッ
と景気よく啜ったら…安土桃山時代の飲み会の締めは、ラーメンライス
先祖のような味がする。



泳法を変えて世間を広くする  吉松澄子



「食のエピソード」
「かわらけに盛られた吸い物や酒を飲む時は、事前に唇を舐めて湿らせ
ておかないと唇の皮が剥ける」
これはルイスフロイスが痛い目にあった経験から、仲間の宣教師に丁寧
に忠告した言葉。天皇も公卿も武将も茶人も、食前にペロっとやったの
であろうか。



唯一の失敗が横で寝ています  中岡千代美




      森蘭丸に殴打される光秀
信長の勘気に触れ、家康の饗応役を解任されたうえに森蘭丸に殴打され
るという、屈辱を味わった光秀。(『絵本太閤記』ゟ)


【蘭丸の光秀殴打事件の出所は『狂言絵本太平記』か】
狂言絵本太平記は武智(明智)光秀を、暴君・小田春永(織田信長)の
イメージに耐える貴公子とした。激怒した春永が、美少年の森の蘭丸に
鉄扇で打擲するよう命じる場面は、定番になり、四世鶴屋南北などでも
踏襲されている。歌舞伎や浄瑠璃の世界では、光秀は、いわれなき虐待
を受ける悲劇のヒーローであり、それが判官贔屓の感情を刺激して、魅
力的な武将の劇に仕立て上げられている。



鴨川を流れる噂みたいなもの  雨森茂樹




                    斉藤利三(太平記英雄伝)



【光秀、謀反の動機についてー①】
斉藤利三「無双の英勇」「隠れなき勇士」とうたわれた明智家随一の
勇将であった。その武勇は「丹後攻め」においていかんなく発揮された。
天正7年(1579)に黒井城を攻略し、丹波平定を終えると、利三は
城主に任じられ氷上郡の支配を任された。一方、独自の人脈により光秀
の外交政策も担った。実兄である石谷頼辰の妻の姉妹が四国の長曾我部
元親に嫁いでいた関係から、光秀が信長と元親の同盟の取次役となり、
外交窓口を利三・頼辰兄弟が務めた。長曾我部氏との交渉は、天正6年
ごろに始ったとされ、以後、織田家と友好関係を保ったが、この役目が
利三と光秀の運命を暗転させることになる。



方程式狂って影を切り刻む  上田 仁



天正8年、信長の「四国政策」の転換により、元親の分国の縮小方針が
打ち出されると両家の関係は、一気に冷え込んだ。光秀・利三の面目は
丸潰れとなり、信長に対する不満が高じていった。そこに、利三が信長
に自害を命じられる事件が起きる。
同10年、稲葉一鉄の家臣・那波直治(なわなおはる)が利三の口利き
で明智家に仕官した。しかし、怒った一鉄が信長に訴えたため、那波は
稲葉家に帰参、利三には、切腹が命じられ、光秀も激しい譴責を受けた
という。
信長の側近のとりなしで、何とか助命されたが、この裁定が伝えられた
のが「本能寺の変」の4日前であることから、光秀の謀叛決起に何らか
の関係があったのではないかと推測されている。変後、公家の山科言経
「斉藤利三を今度謀叛随一也」と名指ししているのも、利三の主導的
役割を示唆しているのかもしれない。



しゃないなあ開き直って生きるしか  合田瑠美子



この一件に関し、幕末の吉田東洋の歴史書『日本外史』にも、光秀謀叛
の原因を、次のように説明している。
『信長配下の稲葉一鉄に仕える斉藤利三那須和泉守が稲葉家を去って
光秀に仕えた。信長は、光秀に「那須を返して斉藤を誅殺せよ」と命じ
たが、光秀は応じなかった。そのため信長は光秀を激しく罵倒し、遺恨
を残した』



タイヤ痕残して消えた三輪車  森 茂俊




     光秀を折檻する信長



【光秀、謀反の動機についてー②】
織田家中の酒席で、酒を飲んでいない光秀に腹を立てた信長「酒が飲
めないなら これを飲め」と光秀を組み伏せて刀を突きつけた。さらに
信長は、光秀の頭を抱え「この禿げ頭は鼓の代わりだ」と言って頭を叩
いた。光秀は、信長が自分を殺そうと思っているのではと恐怖を感じた。
(『日本外史』ゟ)



釘抜きは曲がった釘を産み続け  くんじろう



【光秀、謀反の動機についてー③】
信長が寵臣の森蘭丸が、光秀が領する近江国志賀郡を欲した。信長は
「3年以内に願いを叶える」と返答。これを密かに聞いていた光秀は、
光秀は3年以内に殺されると思った。(『日本外史』ゟ)



あさっても亀は多分を引きずって  山本早苗



【光秀、謀反の動機についてー④】 
光秀徳川家康の接待を命じられた時、もてなしの途中で中国地方への
出征を命じられた。光秀は無駄働きをさせられたことに怒りを感じた。
(『日本外史』ゟ)



一枚のコピーで人を売り渡す  森中惠美子



※ 日本外史の内容には、間違いも多いと、当時から指摘されていたが、
幕末から明治にかけて最も盛んに読まれた歴史書である。つまり、近代
の日本人が「本能寺の変」をどう見ていたかの標準が、ここに示されて
いるのである。



美しい嘘だな永久保存する  山本昌乃



【光秀謀反の動機については、様々な史料で語られてきた】
① 『川角太閤記』(1620代)では、家康もてなしの接待係を命じ
られた光秀「生魚を腐らせてしまった」「腐っている鯛を出した」
信長にいいがかりをつけられて、接待係を首になってしまった、ことを
怨んだ、と書いている。




腐っても鯛太っても愛妻  川畑あゆみ



② 『総見記』(1650頃)では、丹波八上城を攻めた光秀が、母を
人質に出して城主・波多野氏を懐柔したところ、信長が「約束を破り波
多野氏を殺害、光秀の母も殺されてしまった」ことが怨恨を生んだとし
ている。




収まりは付かず抜き身のままである  石橋芳山      



③ 『明智軍記』(1690頃)では、中国攻めの結果、光秀は毛利領
の出雲・石見を与えられる代わりに、丹波近江を召し上げられるという
話が語られ、これに不満の光秀が謀反に及んだとしている。




花びらをまとって風も狂うとき  居谷真理子
 
 

※ 『川角太閤記』にしても『総見記』にしても「本能寺の変」から、
70~100年も後の書物であるため、史料的な価値は低く、確かな
史実や時代状況との整合性もないため、現在では「俗説」の一つと、
とられている。




反逆の血をたぎらせて緋を纏う  森吉留里惠



【光秀と茶会】
信長から茶の湯の開催を許された光秀は、天正6年正月11日、初め
ての「茶会」を催している。光秀にとっては、初めての茶会で十分な
亭主を務めることが出来ず、茶人・天王寺屋宗及が、霜夜天目という
名器を用い、光秀の代わりに濃茶を点てた。おかげで光秀は信長から
「水を得た魚のように接待上手ぶりだった」と褒められた。
宗及への感謝の礼は、光秀が白綾の小袖など、様々な贈り物をしたと
以前にここに書いたが、その後、光秀はその経験を生かし、正月のた
びに茶会を催している。その経験豊かな光秀が、家康の饗応膳で何の
失敗を犯すのだろうか。「本能寺の変」まで後6ヵ月と迫っている。




寝返りを考えている涅槃像  河村啓子

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政論が大好物の天邪鬼  松浦英夫



 
                            「 麒 麟 が く る  」
 
 
「天正7‐8年 光秀の動き」
光秀は、丹波・丹後両国の平定を成し遂げ、既に任されていた近江志賀
郡に加えて丹波国を領国として支配する「織田大名」となった。
天正7年10月のことである。翌8年には、光秀は、丹後宮津城の城主
となった細川藤孝、忠興親子や大和郡山の筒井順啓らと縁戚を交わし、
日本の中央にあった京都など、畿内地域(『天下』)の守衛を掌った。
つまり、信長が日本の中央に君臨する「天下人」であるならば、光秀は
その活動を裏から支える織田家の重鎮にあった。
まず手始めにとりおこなったのが「馬揃え」(軍事パレード)であった。



政治にはパフォーマンスという虚飾  森井克子



「光秀激動の15年」 天正9-10年



【馬揃え】
天正9年(1581)正月23日、光秀54歳。信長は京都で馬揃えを
敢行することを決め、光秀に「京都の公家や織田軍団の諸将には、光秀
から馬揃えのことを触れるように」という内容の朱印状を与えている。
こうして馬揃えの総責任者に抜擢された光秀は、公家や諸将に馬揃えを
報じると共に、京都御所の東に東西一町(約87㍍)、南北八町(約8
72㍍)の馬塲を構築した。



馬の足さくら吹雪の外にいる  村山浩吉



『信長公記』によれば次のような顔触れ、順番であったという。
一番=丹羽長秀・摂津衆・若狭衆
二番=蜂屋頼隆・河内衆・和泉衆
三番=明智光秀・大和衆・上山城衆
四番=村井貞勝・根来衆・上山城衆
五番=織田信忠・御連枝の御衆
六番=近衛前久・公家衆
七番=細川昭元・旧幕臣衆
八番=馬廻衆・小姓衆
九番=柴田勝家・越前衆
十番=織田信長
羽柴秀吉は遠征中のため不在だが、この馬揃えには、織田軍団の精鋭が
参加しており、近衛前久ら公家衆も顔を出している。当日、特設された
桟敷から見物した正親町天皇(おおぎまち)も馬揃えの素晴らしさを称
賛したという。



マンモスをティッシュで包むプロジェクト  井上一筒



少なくとも、ここまでの光秀の出世と明智家の権勢獲得には、信長との
強い信頼関係があったことはいうまでもない。
「馬揃え」を見事に成功させた光秀は、信長からお褒めの言葉を賜った
ろうが、近年、軍事力を見せつけることで「信長には、正親町天皇に譲
位を迫る意図があった」とする説が支持されている。そのような意図が
あったとすれば、光秀の心中も複雑だったに違いない。



秋風に晒す薄っぺらい矜持  徳山泰子
 


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  明智光秀家中軍法


【光秀の微妙な心の変化】
では、そんな天下人の信長から、強い信頼を得ていた光秀や明智家を、
謀反にかりたててしまった要因とは、なんだったのだろうか。
実は、畿内地域の守衛の役割を基盤に権勢を誇っていた明智家だったが、
その一方で織田家を取り巻く「情勢変化」の中で、その立場や今後の行
く末に、影響のおよぶ事態が起きていた。
その一つが、近年注目される織田家の「四国対策」である。



ブラックホールを時系列で刻む  森田律子


 

            四 国 征 討


問題となったのは「四国の支配」をどう行うかということだった。
戦国時代、四国では、土佐に本拠を置く長曾我部と、阿波に本拠を置く
三好氏とが覇権を争っていた。信長は当初、長曾我部氏と結んで、四国
に勢力を伸ばそうとしていた。その仲立ちをしたのが光秀である。
光秀を頼った長曾我部氏は、信長に忠誠を誓うことで、安心して合戦を
続け、四国全土を征服しかねない勢いを見せた。
ところが、天正9年6月、信長は突如として思いもよらぬ命令を発した。
長曾我部氏の当主・元親の弟。香宗我部親泰(こうそかべちかやす)へ
の朱印状には、次のように記されている。
「阿波の支配は三好氏に任せることにするので、長曾我部氏は、三好氏
を援助するように」



大根の髭は他人を騙さない  桑原伸吉



【次に、暦の変更問題】
天正10年2月、光秀55歳。信長はさらに、思い切った要求を朝廷に
突き付けた。「暦の変更」である。
天皇が定めた当時の暦では、天正11年1月に「閏月」があった。
しかし、信長の出身地尾張では、天正10年12月を「閏月」にする暦
が使われるなど、地方によってまちまちだった。
朝廷の暦は「宣明暦」を基礎とした京暦を用いたのに対し、尾張などで
使われていたのは「三島暦」という。その暦を、信長は尾張のものに統
一しようとしたのである。
「暦の制定」は、古来、日本では天皇だけが定める権限を持つ、いわば
神聖にして浸すべからざる事柄であった。その権限を浸そうとする信長
の行為は、多くの人に衝撃を与えた。光秀もまた、その一人であったと
考えられる。



蟷螂の斧が吠えてるお月様  荻野浩子



信長が暦の問題に介入してきたというのは、明らかに天皇に対する権限
侵害を狙ったものだろう。行幸することによって、天下人である信長の
権威の前に、天皇が平伏していくという構図が、可視的にアピールされ
ることになる。ましてや国主大名クラスの重臣ですら、転封を余儀なく
されていた体制の成立がみえてきていた時だから「伝統的な幕府体制の
復活」にかけていた光秀にすれば、大変なことだ思っただろう。
そして光秀は、公家衆や信長の家臣団の不協和音や反感を、目や耳にし
たりして、「反信長は自分一人ではない、将軍義昭を奉じて、朝廷と結
び信長を討てば、きっと自分は広く支持されるのではないか」と確信し
ていった。



雨ノニホヒ水瓜ノニホヒ御乱行  酒井かがり



【蛇足】
「暦の制定」という問題は「元号の制定」と同じで、重要な問題であり、
当時の天皇に残された唯一最大の権限であった。信長が暦の問題に介入
してきたというのは、明らかに、天皇に対する権限侵害を狙ったものと
解釈される。



賛同はいたしかねます一括り  山本早苗
 


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   石谷家文書

この石谷家文書に収録されている天正10年5月21日付け「斉藤利三
宛 長曾我部元親書状」が公表されたことで、光秀蜂起の動機をめぐる
「四国政策転換説」が再浮上した。



 【再び、四国問題】
「暦の問題」が起きてから三ヶ月後の天正10年5月、信長は、光秀
決定的に追い詰める出来事を起こした。
長曾我部氏に最後通牒を突き付けて、四国への遠征軍編成したのだ。
5月7日、信長は「四国の処分案」を明らかにした。長曾我部氏の勢力
圏とはお構いなしに、讃岐と阿波は、信長の三男・信孝三好氏に預け、
土佐と伊予の処分は、あとで信長が決めるというのである。そしてその
遠征軍の出発日は、6月2日と決められた。



しゃっくりが止まらぬままに幕上がる  指方宏子



そもそも阿波は、長曾我部氏が自らの努力で領土とした土地である。
それを一方的に「三好氏のものにせよ」という命令は、承服しがたいも
のだった。
<信長に忠誠を誓ったのも、領地を保証してもらえると思ったからこそ
のこと。なのに、ここに来て、突然取り上げられるとは>長曾我部氏の
当主・元親は反発した。長曾我部氏が従わないとみるや、四国侵攻の準
備を命じた信長。その真の狙いは、四国全土の征服であることは明白で
あった。



浮き雲の裏でゲリラを産みおとす  堀口雅乃
 



  長曾我部元親



信長長曾我部氏の仲立ちをした光秀の面目は、丸つぶれになった。
長曾我部元親は、光秀の重臣・斎藤利三の妹と縁組をしていたうえに、
光秀は長曾我部氏に「信長に尽くせば安泰だ」と説得していたのである。
思わぬ成り行きに驚く光秀、追い打ちをかけるように、光秀は信長から
四国担当を外されてしまう。
<おかしい。信長様はいったい何をやろうとしているのか>
光秀の心には、信長の改革に対する底知れぬ疑念と恐怖が沸き起こって
来たにちがいない。「本能寺の変」その半年前のことであった。



いっぱいの矛盾へコーヒー冷めてゆく  山本昌乃



【刻々とその時へ】
「古い秩序の回復」を目指す光秀は、朝廷の権威をないがしろにする信
長の行動に危機感を強めていったのだろう。そんな光秀と朝廷の一部と
が、連携をとりつつあったと推察できる史料がある。
<信長打談合衆>(信長を討つために談合していた衆である)この勧修
寺晴豊の日記『天正10年夏記』6月17日のくだりは、明智光秀の家
臣・斎藤利三が、護送されているのを見て記されたもので、光秀と公家
が、信長暗殺について相談していたともとれるものである。



道程の中程からは土砂降りで  北原照子



「三七殿(織田信孝)、五郎左衛門殿(丹羽長秀)、四国へ6月2日に
渡海あるべし…」(『細川忠興軍功記』)
「このままでは長曾我部氏は滅亡して、光秀の立場も危うくなる」
長曾我部氏の文書には、光秀の重臣・斎藤利三が、信長の四国攻撃を
憂いて光秀に謀反を促した、という記述が残っている>
「斎藤内蔵助(利三)は四国の儀を気遣いに存ずるによって也、明智殿
謀反の事いよいよ差し急がるる」(『長曾我部元親記』)
光秀は重臣からも「信長討つべし」という突き上げを受けていたのであ
った。「本能寺の変」3週間前のことである。



右寄りの風がびしびし吹いている  上山堅坊



【斉藤利三宛長宗我部元親書状】
土佐の戦国大名・長宗我部元親が、明智光秀の腹心に宛てた書状からは、
「本能寺の変」の要因をめぐり、元親と光秀の緊密な関係がクローズア
ップされた。



闇に文字描いて明日を吉にする  瀬川端紀

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デジャヴが揺れるマネキンの昼下がり  森田律子




 
         安土城天守

 
 
「麒麟がくる」 光秀激動の15年③



信長の夢の象徴ともいうべき安土城。その姿からは、天下統一のあとに
信長が考えていた新しい日本の体制が、どのようなものであったかを伺
い知ることができる。最近の発掘調査によって、安土城の天守の傍らに、
天皇の御所である清涼殿に似た建物が建てられていることが分った。
『信長公記』には、天正10年(1582)正月のくだりに「御幸の間」
「安土城本丸御殿」にあるという記述がある。
さらに信長と朝廷との間の連絡役、武家伝奏という役目を担っていた勧
修寺の日記『晴豊記』の正月七日の記述には、
「行幸之用意馬鞍こしらえ出来」行幸に使う馬に鞍の用意ができた)
とある。
おそらく信長が、天皇を安土に招くつもりで、行幸の準備が進められて
いたのだろう。天皇を招いて自分の膝元に置く。そういう信長の考えは、
朝廷の権威をないがしろにするものと受け取られた。



その話ふくらみすぎてカットせよ  畑 照代



「天正1-5年補足と光秀の動き」
 
【長政、自害】
天正元年(1573)光秀46歳。4月、武田信玄没。7月、坂本城で
連歌会を催す。信長に従い足利義昭を山城槙島城に攻める。義昭降伏。
8月、朝倉義景自刃。9月、長政「一緒に死にます」と縋るお市を諭し、
小谷城落城とともに自刃。
『信長語録』
信長は、朝倉義景を滅ぼした一乗谷城の戦いの「朝倉を逃がさないよ
うに」と何度も家臣らに厳命した。 朝倉軍が撤退をはじめると、信長は
自ら先駆けて追撃したが、再三厳命を受けていた先陣の家臣らは、信長
よりも遅れて駆けつけたため、信長から叱責された。
家臣らは謹んであやまったが、その中で重臣の佐久間信盛は、涙を流し
ながらも「そうはおっしゃいましても、我々ほどの家臣はお持ちにはな
られますまい」と言い返し、信長はその自惚れに激怒して、機嫌が悪か
った、という。



ひと言が多くていつも蹴躓く 津田照子



【越前を一向一揆が支配】
天正2年(1574)光秀47歳。2月、東美濃に出陣。7月、越前が
一向一揆の支配国となる。信長は伊勢で抵抗を続けていた長島願正寺に
大軍を派遣。完全殺戮を命じ、男女2万人が焼き殺された。
『信長語録』
一向一揆討伐で蒲生氏郷が、大剛の敵の首を取って実検にもってきた時、
信長は冷笑しながら
「およそ勝負は時の運によるもので、計画して勝てるものではない。
功名は武士の本意とはいっても、そのあり方によるものだ。いまの汝の
功名は、軽率な挙動だ。一角の武を志す程の者ならば、決してこのよう
な功名を望んではならぬ。身の危険を顧みないのは、それ程の功とはい
えぬ。今後はこのことを忘れるな」と氏郷を戒めた。



あざやかな切り口文体が透ける  荻野浩子




             長篠の戦



【一向一揆、敗退】
天正3年(1575)光秀48歳。5月、「長篠設楽原の戦6月、
丹波攻略に着手。「明智十兵衛尉」「惟任日向守」に改名。
信長と共に越前討伐を開始。荻野直正の丹波黒井城を攻める。
『信長語録』① 「名将言行録ゟ」
「組織に貢献してくれるのは、優秀な者よりも能力は並の上だが、忠実
な者の方だ」
長篠の戦いの時、信長は牛久保から新城まで、三里の道を三日かけて進
んだ。織田家中の上下の者らは「これは武田を恐れてのこと」として悉
く非難した。しかし、信長の腹の内は「武田勝頼に弱みをみせ、思い上
がらせておく」という策であった。そして、なにも知らない勝頼は信長
を侮り、無謀な戦を仕掛けて大敗した。



「判ったぞ」そうか私は馬鹿なんだ  中野六助



『信長語録』② 「名将言行録ゟ」
『必死に生きてこそ、その生涯は光を放つ』
長篠の戦いで多田三八郎の子の久蔵を生け捕りにした際、信長は久蔵に
「家臣になるよう」に言った。彼は信玄に仕え29回もの戦功を挙げた
猛将であったからである。ところが久蔵は「縄をほどいたとたん、長柄
を取って、信長の若い家臣を数人突き刺して殺し、逃亡を計ったため、
その場で取り押さえられて、首を取られてしまった」
信長は、勇将の久蔵の死を深く惜しんだという。



人情の機微は法では裁けない  山田順啓
 



        鉄張り戦艦
 


天正4年(1576)光秀49歳。1月、丹波八上城の波多野秀治の寝
返りにより黒井城攻め敗走。信長、安土城へ移る。4月、本願寺攻め。
荒木村重、明智光秀など織田軍は、海と陸から「本願寺攻撃」に向かう。
本願寺は新たな包囲網で対抗。上杉謙信、武田勝頼、友好関係にあった
毛利輝元も信長包囲網に加わる。5月、陣中で発病するも7月には平癒。
11月、妻の煕子(ひろこ)没。
【毛利水軍、織田軍を破る】
7月、毛利水軍は、「本願寺」に兵糧を運ぶために船隊を組んで大坂湾に
進む。木津川口で迎え撃つ織田軍の船は、毛利水軍の武器「焙烙」(ほう
ろく)に圧倒され敗北する。これに対し、信長は九鬼嘉隆滝川一益大船
の鋳造を命じる。「焙烙」の攻撃を防ぐために、船に厚い鉄板を張り付け
させ、大砲を三門搭載。世界初の「鉄張り戦艦」を完成させた。



実力をお目にかけます明日から  新家完司



天正5年(1577)光秀50歳。3月、紀伊雑賀党を攻める。8月、
松永久秀、信長に背き、大和信貴山城に依る。10月、久秀自害。細川
藤孝と丹波籾井城を攻め、丹波攻略を再開。



草抜いておけば問題ないでしょう  竹内ゆみこ
 
 

   
   荒木村重         波多野秀治
  
 
 
天正6年(1578)光秀51歳。1月、坂本城で茶会を催す。3月、
上杉謙信、没。波多野秀治を八上城に攻める。8月、娘(ガラシャ)
細川忠興に嫁す。10月、光秀と姻戚関係にあった摂津の荒木村重が、
信長に離反し、毛利方につく。光秀の必死の説得も好転せず、信長より
荒木村重討伐を命じられる。



猿のままいればよかったのに進化  清水すみれ



天正7年(1579)光秀52歳。1月、坂本城で茶会を催す。5月、
琵琶湖のほとりの安土の地に、巨大な城の建設をはじめていた信長は、
城が完成すると、その天守に移り住んだ。6月、八上城落城。7月、
丹波宇津城、同鬼ヶ城を攻める。御料所丹波山国荘を回復した功により、
正親町天皇より鎧などを賜る。8月、黒井城の赤井忠家を降す。9月、
荒木村重、有岡城から尼崎城へ移る。10月、安土城で丹波・丹後平定
を報告。



ピリオドの棘をきれいに抜いておく  みつ木もも花





         安土城石垣と資料



【信長の安土城建設の意図】
安土城は信長が、まさに夢を託して築いた城であった。その天守が聳え
る安土城の麓に、信長は、武家屋敷を建築させた。配下の武士たちに、
「本国の領地を離れて、安土に住むこと」を命じた。それは当時の武士
の常識を覆す命令であった。
鎌倉時代以来、武士たちは「本領」といわれる先祖代々の土地に根付い
て暮らしてきた。有力な武将に仕えて奉公するのは、この「本領」を安
堵してもらうため、つまりは土地の支配権を保証してもらうためだった
のである。ところが、信長の方針は違っていた。信長は、家臣に新たな
領地を与えるのではなく、預けておく、だけにしたのであった。こうす
れば、家臣たちは、その土地の権益にとらわれることなく、政治に励む
ことになる。信長が武士を土地から切り離そうとしたのは、家柄という
過去の遺産によらず、個人の能力を最大限に発揮させるためだった。



お醤油をたらしてちょうどいい厚み  井上しのぶ   



【武家改革の真意と光秀の違和感】   
伝統的な幕府体制の復活にかけていた光秀からすれば、大名が領地から
離されて、ましてや役人化していくような、こんな急激な改革には「と
てもついていけない」と感じた。これに光秀は信長に違和感を抱いた



卵焼きの匂いがする始発駅  神乃宇乃子 
 



     兵農分離とは
 

 
中世の武士にとって、父祖伝来の領地というものは「本領」として、将
軍であろうが守護であろうが勝手に、召し上げられるということなどは
なかった。また、武士が自分の実力で切り取ってきた「領土」について
も同様である。ところが信長の改革は「武士をその本領から離していく」
という激しいものだった。信長は、全国の統一事業を進めていく上で、
家臣対しては、その能力に応じて、領地、城郭、領民を与えていった。
戦争が大規模化して長期化していくと、会社的な規模で職業的な軍人と
専業農民とを分けていくこと、いわゆる「兵農分離」を進めたのである。



躓いた小石に明日を捥ぎ取られ  上田 仁



その兵農分離を進めていく前提として、天下人である信長の命令一つで、
領主が領地から離されたり、新たな土地へ転封されたりした。
つまり「鉢植え大名」を作っていくのである。
大名は、まさに鉢植えの木のように動かされ、家臣団もそれについてい
かねばならない。鉢植え大名化が進めば、兵農分離も進んでいくのであ
る。国主大名クラスの重臣ですら、転封を余儀なくされていくという体
制が見えてくることは、伝統的な「幕府体制の復活」にかけていた光秀
からすれば、大名が領地から離されて、ましてや役人化していくような、
こんな急激な改革には「とてもついていけない」と感じた、はずである。



目的があって階段下りた筈  前中一晃



【光秀、丹波を平定】
天正7年7月、光秀は難攻不落と言われた丹波国を平定し、信長は高く
評価。恩賞として丹波一国を与えられる。



ト書きにはここで「クシャミ」と書いてある  嶋沢喜八郎





      大坂本願寺推定復元模型 (まさに城である)



【信長、講和案を提示】
天正8年(1580)光秀53歳。1月、坂本城で茶会を催す。3月、
信長顕如率いる本願寺に「大坂の地を引き渡すならば、教団を許し、
今後その地位を保証する」という講和案を提示。
これに顕如は、大坂を出て和歌山の鷺森御坊に移る。信長と妥協した
顕如に対し、顕如の息子・教如は、本願寺にこもり徹底抗戦を全国各地
の信者に呼びかける。8月2日、教如も大坂の地を退く。織田軍に追い
詰められた本願寺もついに降伏。ここに「石山合戦」は終結を迎える。



虹になる真っ最中のアメフラシ 河村啓子



【信長、佐久間信盛を高野山に追放】
信長は身内に対しては、超合理的な組織を築いた。出自にかかわらず
実力を重んじ、有能な者をどんどん抜擢した。農民出身の豊臣秀吉、
浪人の明智光秀、忍者出身といわれる滝川一益らが、大きな領地と仕事
を任された。反面で信長は、使えない家臣には容赦がなかった。
石山本願寺との戦いが終結すると、すさまじいリストラを断行。
林通勝佐久間信盛ら老臣を次々と追放していく。その行き過ぎた合理
主義が、神経の細い光秀をして「自分も追放されるのでは」と、疑心を
もたせるにつながっていくのである。



10センチ以上も以下も間引かれる  居谷真理子

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蔦もみじ秋一切を深くする  前中知栄




      「真柴久吉武智主従之首実検之図」(月岡芳年画)
戦いに勝った側は、負けた側の大将の首を使って「首実検」を行う。
首実検とは、文字通り、その首が本人のものかどうか吟味すること。



蓮咲いて俄に浄土近くなる  合田瑠美子



「麒麟がくる」 光秀激動の15年②



「元亀年間の補足」
元亀元年(1570)4月。光秀43歳。信長は越前後略を目前に妹の
お市の方を嫁がせ、同盟関係を結んでいた浅井長政の裏切りの報を受け
取った。この後、3年におよぶ近江諸勢力との戦い。元亀争乱の始まり
である。
6月に浅井・朝倉連合軍を破った信長は、9月には、「打倒信長」の兵
を挙げた大坂本願寺を攻撃するため、大坂に出陣する。その間隙を突い
て浅井・朝倉連合軍は、京を目指し湖西路を南下し、坂本で宇佐山城を
守る信長の家臣・森可成(森蘭丸の父)と戦ってこれを敗死させた。
対して信長も、大坂から取って返し、京を離れて比叡の山々に立て籠も
った浅井・朝倉勢と対峙する。「志賀の陣」である。山上・山下で両軍
が睨み合う膠着状態は、その後3ヶ月に及び、同年12月、信長は義昭
の斡旋により、浅井・朝倉と講和を結んだ。



寄り添っていよう残り火尽きるまで  平井美智子



元亀2年(1571)9月12日、光秀44歳。信長「延暦寺焼打ち」
を敢行する。志賀の陣で浅井・朝倉に味方したことに対する報復である。
 ところで光秀は、延暦寺焼打ちに、どの程度関わってたのだろうか。
延暦寺焼打ち後、光秀が志賀郡を拝領し、比叡山山麓である坂本に城を
築いている。ということは、延暦寺焼打ちの戦功によるものと考えられ、
積極的に光秀が、延暦寺焼打ちに参加したことは間違いないだろう。



月光に白クマの胃を縫い合わす  井上一筒



元亀3年(1572)光秀45歳。『兼見卿記』に元亀三年閏正月六日
条に「明十坂本において普請なり見廻りのため下向しおもわぬ」とあり、
光秀は志賀郡を与えられてほどなく、築城を開始している。



燃やしてみるか才能の残りカス  森田律子



元亀4年(1573)光秀46歳。また『兼見卿記』に元亀四年六月二
十八日の条には「明智十兵衛見廻りのため坂本に下向せしめ、果李の文
台、東門三十、持参しおわんぬ、天守の下に小座敷を立て、移徒(わた
まし)の折節、下向祝着の由機嫌がなり」とあり、この年天守に移った
ことがわかる。(「移徙」=貴人の転居)



謁見の間でサロンパス貼り替える  くんじろう




      坂本城跡発掘調査区全景
焼土層からは礎石跡、石組み井戸跡と思われる遺構が出土している。



「坂本城」
光秀の死後に、城は徹底的に破却されたため、地上に「坂本城」の痕跡
は一切残っていない。現在では、琵琶湖が渇水した際に姿を見せる石垣
の底部だけが、ここに城が存在したことを示している。
「幻の城」となった坂本城だが、実際は、総石垣の大規模な城郭であり、
天守が存在したことが分っている。
つまり信長の安土城に4年も早く、光秀は天守建造を始めたことになる。
(坂本城は天正10年6月、本能寺の変の後、光秀が「山崎の合戦」で
秀吉に敗れると、城に籠っていた光秀の妻子一族とともに焼失している)



帰り道省みるもの捨てるもの  新保芳明



天正元年(1573)、光秀46歳。元亀4年7月3日、義昭は反信長
の兵を挙げて宇治の槇島城に立て籠ったものの、織田の大軍に包囲され
てなす術もなく、同月18日、嫡子を人質として差し出して信長に降伏。
これを受けて信長は、義昭を河内に追放し、「元亀から天正へ」の改元
を実現した。
信長は将軍義昭の追放ののち、信玄が死去すると、間髪を入れずに朝倉
義景と裏切り者の浅井久政・長政攻めの挙に出た。講和中ではあったが、
越前は、織田領である美濃と京都間に突き出された槍、という位置から、
義景を服属させる必要があったため、いずれは刃を交える敵に、先制攻
撃を仕掛けたのであった。



猜疑心メガネ曇っていませんか  上田 仁



 
   朝倉義景         浅井長政
 
 

「越前から小谷城陥落中継」
信長軍は3万の兵をもって小谷城を攻撃。刀根坂で朝倉軍を破り、越前
に侵攻、一乗谷を焼き払い、義景は大野に落ち延びようとするところを、
朝倉景鏡の裏切りにあい、自刃に追い込まれる。
一方、小谷城を包囲した秀吉軍は、清水谷から小谷城京極丸を陥落させ、
本丸を守る長政と小丸を守る長政の父・久政を分断させ、長政を窮地に
追い込んでいた。信長の妹・お市は、兄・信長に夫の助命を嘆願すると、
信長は「袂を分かったとはいえ、義弟である長政への最後の情け」とし
て、大和一国を与える事を条件に降伏・再従順するよう勧告した。
しかし長政は降伏を拒絶し、その後、2日に渡り徹底抗戦を続けた。が
意地も尽き、赤尾屋敷で重臣・赤尾清綱、弟・政元らと共に、自害して
果て、浅井は三代で滅びた。



線の通り歩くと三途の川がある  田中博造



 信長の語録に次のようなものがある。
『愚かな間違いを犯したら、たとえ生きて帰ってきてもワシの目の前に
姿を見せるな』
これを具現するように、戦後処理において、信長の浅井氏への仕置きは
苛烈を窮めた。浅井久政・長政親子の首は京で獄門にされ、長政嫡男の
万福丸は、敦賀に潜伏していたところを捕らえられた後、関ヶ原で磔に
され、親族の浅井亮親、浅井井規、家臣の大野木秀俊も処刑された。
信長の浅井や朝倉への怨み、怒りは収まらず、翌年の正月には、信長の
残忍性の一面を象徴する、饗宴が催された。



その時間なら罵っておりました  竹内ゆみこ




 
金箔の長政義景久政髑髏盃


 
天正2年(1574)正月、 光秀47歳。岐阜の信長のもとへ挨拶に
きた他国の諸将らをもてなすため、酒宴が開かれた。そして彼らが退出
後、信長は、今度は馬廻り衆と酒宴を行なったが、このときの肴は浅井
久政、浅井長政、朝倉義景の3人の首(頭蓋骨)に金箔と漆を塗ったも
のだった。(『信長公記』)
光秀はこの時、大和・河内へ参陣中だったため、宴には参加していない。



悪党の一人もいないまずい酒  松田俊彦




       武智道秀ー明智光秀と家臣の笑い首

 
            
天正2年1月1日の『信長公記』にはこうある。
『朝倉義景、浅井久政、浅井長政、三人が首、御肴の事。正月朔日、
京都隣国の面々等、在岐阜にて御出仕あり、各々三献召し出だしの御酒
あり、他国衆退出の巳後、御馬廻りばかりにて、古今に参り、及ばざる
珍奇の出で候て、又、御酒あり。去年北国にて討ち取らせられ候。
一、朝倉左京太夫義景首。
一、浅井下野首。浅井備前首。
巳上三ツ、薄濃(箔濃=はくだみ)にして公卿に据え置き、御肴に出だ
され候て、御酒宴。各御謡・御遊興、千々万々。目出たく、御存分に任
せられ、御悦びなり』と。
(薄濃とは、頭蓋骨に漆を塗り、金粉をまぶすこと)



夕凪の裏に罵詈雑言の立つ  酒井かがり 



「反撃の二百挺ー通説では千挺、又は三千挺」
天正3年(1575)5月、光秀48歳。信長は、豊富な資金と流通経
路の確保で、千挺もの鉄砲を準備した。その威力は、早速、天正3年の
「長篠の戦い」で発揮された。長篠の戦いは、同年5月、織田・徳川連
合軍3万8千が1万5千の武田勝頼の軍勢と戦った合戦で、
「織田方が三千挺もの鉄砲隊を組織して、三段撃ちで矢継ぎ早に銃火を
浴びせ、武田騎馬軍団をせん滅した」という戦である。
(『信長公記』には、三千挺とあるが、有力な説として実際は、千挺で
あり、千挺という大量の鉄砲の一斉掃射による轟音によって、馬の冷静
さを失わせ、武田騎馬隊の大混乱を誘ったのでは、というのである)



笑うしかない犬にくらった猫パンチ  田口和代
 



          黒井城空撮



「丹波攻め敗北と自身の病いと愛妻・煕子の死」
天正4年(1576)1月、光秀49歳。時期は少し戻るが、天正3年
6月、信長は光秀に、「明智十兵衛尉」から「惟任日向守」を名乗らせ、
丹波攻略を命じた。11月ころには、光秀は、丹波国衆の大半を従えて、
黒井城の荻野直正を攻撃した。この時、光秀の勢いからほぼ落城は免れ
ないと認識されていた。
ところが、翌4年正月、突然織田方についていた八上城の波多野秀治
敵方に寝返ったため。光秀は京都まで退却し、丹波攻めは一旦、頓挫す
ることになった。丹波攻めが中断されても、光秀に休みはなかった。
5月には、大坂の本願寺と戦ったが、ここで光秀は、病に倒れてしまう。
さらに11月に、妻の煕子(ひろこ)が亡くなるなど、光秀にとっては、
生涯最も辛い日々が続いた。



あなたより先に電車が来てしまう  河村啓子



天正5年(1577)10月、光秀50歳。それでも休む間もなく光秀
に、戦いの日々が続く。光秀は丹波攻めを再開し、波多野方の籾井氏が
籠る籾井城を攻撃した。だが光秀自身は、松永久秀や大坂の本願寺など
織田方の勢力と戦い、また羽柴秀吉の援軍として播磨へと派遣される
など、多忙を極め、妻の死を悲しんでいる暇は、与えられなかった。



底に着いたら挑戦状を突きつける 立蔵信子  

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