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川柳的逍遥 人の世の一家言
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いらっしゃいませどの淋しさにしましょうか 赤石ゆう




                          阿根川大合戦の図      (月岡芳年)




織田信長
には妹がいた。近国無双の美人と讃えられたお市である。
このお市を浅井長政に嫁がせて、「同盟」を結ぼうと考えた。
浅井長政さえ味方にしてしまえば、京の都への道は開けたも同然になる。
長政は信長の本拠・岐阜と京の間にあって、強固な基盤を築いていた戦
国大名である。その長政の城・小谷城は、「信長が、天下布武の理念を
実現し、天下に覇を唱える」ために京を目指す途上に聳えていた。
1568(永禄11)兄・信長の命に従ってお市長政に嫁いだ。
絶世の美貌を持つお市を娶った長政は「大果報の人」と羨まれた。
見も知らぬ他国へ輿入れした花嫁を、長政は優しく迎えた。
政略結婚で嫁いだとはいえ、お市は夫・長政を深く愛するようになった。




人生は薔薇を受けたり渡したり  市井美春





       浅井長政・お市画像



「どうする家康」
 お市の悲劇




永禄11年9月26日、信長は6万の軍勢を引き連れて京へ進撃した。
長政を味方にし、側面から攻撃される憂いをなくしていた信長軍は敵対
勢力を破竹の勢いで蹴散らして、上洛を果たした。
京に上った信長は、すかさず諸国の武士に命令を下した。
天皇や将軍に挨拶をする為に、ただちに京に馳せ参じよというのである。
この命令は、「天皇・将軍のために」という名目を掲げていたが、実質
的には「信長に従え」というものであった。
日出の勢いともいえる信長の力を恐れ、多くの大名が京の都に集まった。




ヘタを切り落とすと大人しくなった  竹内ゆみこ




だが信長の命に対し、中々態度を明らかにしようとしない大名がいた。
越前国(福井県)を支配する朝倉義景である。
朝倉家は、五代百年にわたって続いてきた名門で、古い家柄と格式を誇
っていた。 信長の命令に対し、朝倉家の家臣たちは口々に異を唱えた。
ー朝倉家は、代々、大国を預かってきた由緒ある家柄である。
どうして成り上がりの信長如きに従う必要があろうか。
義景は結局、信長の命令を無視してしまった。
これは信長にとって、思う壺であった。
天皇・将軍のためにという命令を無視したからには、
逆賊として討伐できる。




少量のニンニク添えた減らず口  宮井元伸




    浅井長政が、織田信長と戦っていた陣中から出した書状




1570(永禄13)4月20日、信長は3万の軍勢を率い、朝倉の越
前一乗谷に侵攻した。先陣をつとめるのは、売り出し中の木下秀吉
の若き盟友・徳川家康である。
不意を打たれた朝倉勢は壊滅した。
奇襲は成功し一気に朝倉の本拠に迫ろうとしていた矢先、思いがけない
知らせが、信長の陣にもたらされた。
「江北浅井備前手の反復の由」
浅井長政が朝倉方について、信長に叛旗を翻したというのである。
この時の信長が吐いた言葉は「虚脱たるべき」であった。
ー嘘であろう。まさか、あのお市を嫁がせた長政が裏切るとは……。
長政の「裏切り」を知ったその日、意外なことが起った。
信長が突如として戦場から姿を消してしまったのである。
「是非に及ばず」 あとに残したのは、このひと言だけであった。
戦場に3万の軍勢を残して、信長は消えた。
同盟者として参戦していた家康にすら、その行動は知らされなかった。



裏切りの予感は蜜を抱いている  前中知栄



目まぐるしく動く永禄13年は、元亀に改元された年でもある。
信長が消えてからの「姉川合戦」へと続く、激しい戦況を見てみると、
4月28日 取り残された織田軍に朝倉軍は、逆襲を開始した。 
      織田勢の殿(しんがり)となって敵を防いだのは、
      家康・秀吉・光秀の三武将であった。
      戦場から姿を消した信長は突然京の都に姿を現した。
6月19日 信長、近江に侵攻し長政の居城・小谷城に迫る。
6月21日 信長、小谷城に火を放ち虎御前山に布陣。
6月24日 浅井家の横山城を包囲。
6月25日 長政、小谷城を出て大依山に陣を移す。
6月26日 朝倉景建が長政の援軍として着陣。
      浅井・朝倉軍の兵力1万8千となる。
6月27日 浅井・朝倉軍、姉川北岸の野村三田村に布陣。
      織田・徳川軍、姉川南岸の上坂に布陣。
6月28日 徳川軍の朝倉軍への突撃から「姉川の合戦」がはじまり、
      浅井朝倉軍が敗退する。
合戦城周辺には「血原」「千人斬りの丘」などの地名が残り、戦いの
壮絶さを偲ばせる。
(血原とは兵卒たちの血で真っ赤に染まったとされる場所)



最後尾の星が一番泣いていた  矢沢和女





     日本五大山城の一つに数えられる小谷城。


標高約495m小谷山(伊部山)から南の尾根筋に築かれ、浅井長政とお市の
方との悲劇の舞台として語られる城である。



「姉川の合戦」から3年。越前の朝倉義景を滅ぼしてのち、信長は満を
持して長政の小谷城を攻めた。
浅井の軍勢に昔日の面影はなく、孤立無縁の長政は、城を枕に討ち死に
を覚悟する。
この寸刻の後、城外門前から秀吉が、長政に大声を張り上げていた。
「城を明け渡してくだされば、命だけはお助け申そう」
だが長政は、生きながらえることなど望んではいなかった。
「命を惜しんで信長に屈するよりも、たとえ浅井が滅びようとも武士と
 して潔く冥途へ参る」
と、長政は開門を拒否した。




生命戦確かめるのは辞めておく  津田照子





           お 市




「一緒に死にます」
縋るお市長政は諭した。
「そなたは死んではならぬ。吾等のなからん跡までも、菩提を弔うて得
 さすべし」
<生きて私の菩提を弔ってくれ>というのが長政の最後の言葉であった。
やがて総攻撃の日、信長はまたもや城の前で兵を止め、攻撃を中止した。
信長はあたかも暗黙のうちに、長政と言葉を交わしたかのようにお市が
城を逃れるのを待ったのである。
この三日後、長政は小谷城落城とともに自刃する。
1573(天正元)8月28日のことである。
享年29歳。お市と長政の蜜月は、7年で幕を閉じた。



終点を降りてひとりの靴の音  荒井加寿





         浅 井 長 政




小谷城脱出の夜に、信長お市を近くに呼んで、
「長政には男子が一人たというが何処に行ったのか?近い親類のことで
 心配だ」
と言いくるめて、居場所を聞き出し、市に浅井の家臣・喜内之介へ手紙
を送らせて戻ってくるように伝えさせた。
喜内之介は、「北の方(お市)が迎えを寄こす」と、仰せられているが
信用できないと考え、「殺して捨てた」とウソの返事を送った。 が、
お市が重ねて信長が「…<良きにいたわる>と言っている」と手紙を送
ってきたので、喜内之介は、納得できないと思いながらも、万福丸に伴
って、9月3日に近江国本之木に着いたところ、待っていた羽柴秀吉
万福丸を受け取った。 (『浅井三代記』)



予感かなドアノブに手が凍りつく  笠嶋恵美子




これを秀吉が報告すると、信長は、「その子を串刺しにして晒せ」と、
秀吉に命じた。(万福丸が)串刺しにされて晒されたのは哀れなことだ
ったが、生まれたばかりの次男・万寿丸がいることを知る者はいなくな
ったのでは難を逃れたという。
『浅井氏家譜大成』では、万福丸と次男は市の出子でなく継母となった
お市の養子となったとされている。
お市の方が、秀吉嫌いになったと言われてるのは……嘘つきで万福丸を
助けると、城から連れ出したにも係わらず、処刑したから、といわれる。




雲は髪ほどけて雨の糸となる  野口 祐





         柴田勝家とお市




お市
長政との間に3人の娘を儲けている。
長女・茶々(淀君)1569年(永禄12)生れ。
次女・お初(常高院)1570年(永禄13)生れ。 
三女・お江(秀忠正妻)1573年生れ。である。
(尚、10数年後、この三姉妹は予測もしない人生を送ることになる)
このほかに長政には、少なくとも2人の息子が居たことが知られている。
先の万福丸と出家していて命は助かった万寿丸である。
(いずれも市との間に設けられた子供ではないと考えられている)
それから10年。
1582年、お市は、織田筆頭家老・柴田勝家と結婚をし、
三人の娘を連れて越前国北ノ庄城へ移る。
そこでもお市に幸せが来ること無く、争いの悲劇に翻弄される事になる。



ひだまりの猫は戦を語らない  越後朱美

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