忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[1068] [1067] [1066] [1065] [1064] [1063] [1062] [1061] [1060] [1059] [1058]
きゅうりならとうに曲がっているころだ  米山明日歌





        「織田信長公相撲観覧之図」
1578年(天正6)信長が安土城にて相撲を観戦する。



「本当の織田信長とは」
「尾張の大うつけ」といえば、織田信長のこととすぐわかる。
「「尊大・厳格・短気・せっかち・神仏を信じない・造反は許さない・
天辺志向・大胆不敵」のイメージがつきまとう。
だが本当の信長はどうなんだろう。
彼がまだ10代のころのこと。普通よりも長い槍をつくり、新しい戦法
を発明した。これは、信長が天才だからできたのだろうといわれてきた。
しかし、実際は信長は、寝る時間や食べる時間を惜しんで研究し、周囲
からうつけ(からっぽ)といわれても我慢し、この長い槍の戦法を完成
させている。実は、信長はとても真面目で、研究熱心で我慢強い努力家
だったのである。 加えて私的な時間をみれば、
① 睡眠時間は短く、早朝に起床。② 酒は飲まず、食事は控えめ。
③ 極めて綺麗好き。④ ユーモア性も慈悲の心をも持ち、信頼をした
  友や部下には、とことん信を貫くことで応えた…。
それは家康と信長の長い協力関係が証明している。
反面、裏切りや立てつく者に対しては、断固冷酷になれる人物だった。


黒は黒と言い切る男の太い眉  山崎武彦





   三方ヶ原の戦いに向け鎧をつけた家康



「家康の壮年時代」 家康と信長 & 信玄


徳川家康は生涯に3度「もう死にたい」と考えたことがあるというのが、
今回の大河ドラマの主テーマ「どうする? 家康」である。
その一つが「三方ヶ原の戦い」だ。
1560年(永禄3)家康19歳のとき、ついに転機が訪れた。
今川家の総帥・義元桶狭間の合戦で尾張の信長に討ち取られてしまっ
たのである。
今川家の軛(くびき)を離れた家康は、故郷三河に戻り松平の惣領とし
て統治を開始した。
信長とは、同盟を結んで背後を固め、勢力を東のと遠江にまで広げた。
そして1570(元亀元)家康は、ここに移り住み堅固な城を築いた。
漸くにして、一国の主となり、我がものとすることができた城である。


八起き目の風にゆっくり立ち上がる  宮原せつ


ところが…。そんな家康を脅かす巨大な影が現れようとしていた。
戦国一の智略と武勇をもつと恐れられた武田信玄である。
信玄の所領は、甲斐・信濃・駿河あわせて百万石。
『人は城 人は石垣 人は堀』
その言葉通り、城や石垣に頼らず、ただその人望と統率力によってのみ
幾多の戦いを勝ち抜いてきた名将・武田信玄。
その旗印は「風林火山」である。
  疾(はや)きこと風の如く 
  徐(しず)かなること林の如く
  侵掠(しんらやく)すること火の如く
  動かざること山の如し
百戦錬磨の騎馬武者たちを主力とする武田軍団は、戦国最強の名をほし
いままにしていた。


人間が来るとざわめく山の木々  新家完司





      武 田 信 玄



この年、将軍・足利義昭の要請を受けた信玄は、京の都に上り、当時、
畿内を支配していた信長を打ち砕くべく行動を開始した。
信玄が京へ上ろうとする途上には、信長の同盟者・家康の領土が邪魔
な小石のように立ち塞がっている。
<まずは、この目障りな家康を叩きつぶす>
それが信玄の当面の目標となった。
家康は同盟者の信長に相談をした。
勇猛果敢な信玄の行動を、信長は家康より知っていた。
大井川を渡って堂々と遠江に侵入する信玄に対し、信長は家康に
「危険だから岡崎に退くように」勧めた。
<家康が信玄にかなうはずはないから、浜松を捨て三河に引き籠って時
 期を待て> と、いうのである。


紙を切るだけにしときやそのナイフ  高野末次





        浜 松 城



<やっとの思いで得た遠江国を捨ててなるものか>
そう思った家康は、信長の忠告を無視した。
<浜松を捨てるならば、刀を踏み折って武士を止める>
しかし、信玄は、家康の想像をはるかに上回る恐ろしい敵だった。
家康が従わないとみるや、無理攻めはせずに時間をかけて、家康方の武
将たちの切り崩しにかかったのである。
信玄は、家康の配下にある武将たちに次々と書状を送って、領地を与え
ることを約束し、自分の味方になるよう誘いをかけた。
「我らも信玄に属し、一族郎党の命をまっとうすべし」
と、家康の領土だった奥三河の武将・奥平家の記録に書かれている。
信玄の名声に靡いた武将たちは、若輩の家康を見限って相次ぎ離反した。
1572年(元亀3)を迎えるころには、家康の領土のおよそ二割が、
信玄に奪われ、兵力差は開く一方となった。


晴れと呼び曇りと返す磨りガラス  高橋 蘭


家康はこのころ領内の神社・小国神社に次のような願文をだしていた。
「敵は多勢 我は無勢」
ーかくなるうえは、この社の神力に頼るのみである。
兵力に劣ると知りながら、信玄を迎え撃たなければならない家康。
戦う前から、すでに家康は、信玄に追い詰められていたのである。
1572年(元亀3)10月3日、信玄は麾下の全兵力をあげて甲府を
出発。家康の領土に向け、進軍を開始した。
「ついに来た!」
浜松の城に緊張が漲った。


雨を編む何か信じていなければ  赤石ゆう


このとき信玄はすでに家康の領土の地形を知り尽くしていた。
もはや家康の領土は、信玄にとって勝手知ったる自分の庭のようなもの
であった。
11日、只来城陥落。
12日、天方城・飯田城・各和城陥落。
その矛先は、家康の居城・浜松とは目と鼻の先にある二俣城へと向けら
れた。二俣城が信玄の手に落ちてしまえば、家康の本拠・浜松城は支え
となる城を失って、裸同然になってしまう。
まもなく<二俣城危うし>との報が届くと家康は
「信長の援軍はまだ来ないのか」と、喚き続けた。
だが信長は信長で、おいそれと家康に援軍を送れない事情があった。
古い室町幕府に代わる「新たな政治体制」を築き上げようとする信長に
対し、将軍足利義昭をはじめ信長に反対する大名や宗教勢力が次つぎに
挙兵。四面楚歌となった信長は、合戦に明け暮れ、家康を省みる余裕は
なかったのである。


追伸に次つぎ雲を生んでいる  太田のりこ





           三方ヶ原の戦い図 (歌川芳虎)
左・黒馬に家康 中央・栗毛に松平忠次 互いに槍を交わしての決戦図



「三方ヶ原の合戦ー本番」




元亀3年12月22日午後2時。
家康軍1万1千と信玄2万5千遠江三方ヶ原の台地で対峙していた。
もはや蛇に睨まれた蛙も同然の家康だった。
睨みあうこと、およそ2時間。
元亀3年12月22日午後4時。三方ヶ原合戦の幕が開いた。
しかしその勝敗は、戦いがはじまる前に決していたも同然であった。
信玄はーー、
『きびしく陣を整えて、鼓を鳴らし、旗を揚げ、堂々正々として大山の
 圧すがごとく静々と進み来たる』 『武徳大成記』
一方、家康はーー、
『神君歯を切(くいしば)り、沫(あわ)を噴き、衆士を激励して騎を
 廻して反撃たもうこと三,四度、吾衆戦い疲れて支うべからず』
と武徳大成記の見聞にあるように、奮闘むなしく、家康軍は総崩れにな
っていった。
午後6時、戦いは終わった。 結果は家康軍の惨敗である。


空き缶のところどころに負傷兵  峯島 妙


あまりといえば、あまりにも惨めな敗北である。
信長の予想は的中した。
死を覚悟した家康に家臣たちは、主君を死なせるわけにはいかないと、
夏目次郎左衛門が家康の身代わりとなって、無理やり家康の乗った馬
を浜松城に蹴飛ばしたという。
馬は家康を乗せて、無事浜松城に向かったが、身代わりの夏目次郎左
衛門は討ち取られた。


いつだって身代わりになる落ち椿  村山浩吉




      家康のしかめ面
「三方ヶ原で負けた時のこの儂の姿、信玄に対する恐怖に震える体、
 歪んだ顔を、絵に写しとっておけ」




その4か月後の1573年(天正元)突如信玄は、伊那の駒場で倒れた。
信玄53歳である。家康は32歳だった。
しかし家康は、それを喜んではいなかった。
ーーあの、三方ヶ原での屈辱、そして恐怖。
負けた自分の愚かさ、そして甘さ。それをもう一度噛みしめておかない
限り、自分はまた同じ失敗をする……。
「三方ヶ原の合戦」の敗北で家康は多くのことを学んだ。
「勝つことばかり知って 負けることを知らないのは身の破滅である」
この理を肝に命じた家康は絵師を呼んだ。
絵師に家康は「屈辱と恐怖の瞬間を忘れないようにとしかめ面の表情」
の絵を描かせたのである。


言い訳はしない男の意地がある  楠本晃朗


「その後」


信玄の後を継いだ武田勝頼は、家康の遠州高天神城を奪った。
その代わりに家康は、、東三河の長篠城を攻略した。
1575年(天正3)5月、「長篠の戦い」では、織田・徳川の連合軍
が3千挺の鉄砲を用意し武田の騎馬軍団を殲滅した。
その後、遠州や駿河に入った家康は、武田支配の駿河にも侵入し駿府を
無抵抗のまま占領した。
信長の協力がなかったら、おそらく家康は、勝頼との抗争すら不可能だ
ったであろう。
三方ヶ原の戦いから10年後、武田家は滅亡した。
この時、家康は禄を失った武田家の家臣たちをそっくり召し抱えた。
「人は城 人は石垣 人は堀」
その信玄のやりかたを学ぶには、信玄を知る家臣たちを自分のものにし
てしまうのが早い。そう思ったからであった。


お手玉で遊ぶ十指の笑い声  柴辻踈星




        餅 を 搗 く 信 長




こうした強力な軍事同盟があったから、信長の命令で1579(天正7)
8月29日、武田と内通していたといわれる正妻築山殿を遠江の高塚で
殺害し、同年9月15日には、家康がことのほか愛していた息子信康
切腹自害させなければならなかったわけである。
家康38歳の時であった。
それから3年後の1582年(天正10)本能寺にて織田信長が没した。
これをもって23年に亘る家康と信長の友好関係はおわり、
この後の家康の運命も変わった。


明日という強い味方がいてくれる  津田照子

拍手[4回]

PR


Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開