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川柳的逍遥 人の世の一家言
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欠点が少しあるのも隠し味  東 定生




「家康 どうする!?」
はてさて困った と表情豊かな家康像



天下取りに恵まれたのは1530年代生まれの世代だった。
国際情勢にまで目を配る広い視野を持ち、新しい政治と領国支配の手法
を基盤にできた者が、天下を我が物にしたのである。
それにライバルが「ちょうどよい時期」舞台から消えてくれる運に恵ま
れる必要もあった。運も実力のうちなのだ。
徳川家康は辛抱の人でもあるが、最後に幸運も呼び込んだ英雄でもあった。
天下取りにノミネートしたのは、1530年代生まれの世代だった。
今川義元  1519-1560
武田信玄  1521-1573
明智光秀  1528ー1582
上杉謙信  1530ー1578
織田信長  1534ー1582
豊臣秀吉  1536ー1598
徳川家康  1542ー1616
義元の生年から家康没年までざっと100年。
日本の統一に向かって歴史の流れが大きく回転した年だった。


狼煙へ武士の血が騒ぎだす  笠嶋恵美子








「どうする家康」 家康ってどんな人?


「家康誕生」
天文11年(1542)12月26日 、60年に一度しか訪れない壬寅
(寅年の寅の刻)に徳川家康は三河岡崎城主・松平広忠於大(伝通院)
の間に生まれた。幼名・竹千代。通称・次郎三郎、後に蔵人佐。
壬寅生まれは、ゆったり、どっしりとして「強運の人」といわれる。
今川義元の生年から家康没年までざっと100年。
日本の統一に向かって歴史の流れが大きく回転した年だった。
国際情勢にまで目を配る広い視野を持ち、新しい政治と領国支配
の手法を基盤にできた者が、天下を我が物にしたのである。
それにライバルが「ちょうどよい時期」舞台から消えてくれる
運に恵まれる必要もあった。運も実力のうちなのだ。
家康は辛抱の人でもあるが、「最後に幸運も呼び込んだ英雄」
でもあった。


小吉を大吉にするその笑窪  古崎徳造


「家康の外貌」 
「彼は中背の老人で尊敬すべき愉快な容貌を持ち太子(秀忠)のように、
 色黒くなく、肥っていた」又「下腹が膨れており、自ら下帯を締める
 ことができず、侍女に結ばせていた。偉人でありながらも、多面的な
 性格を持つ、人間味あふれる人物だった』
(『ドン・ロドリゴ日本見聞録』) 1609年謁見した家康の印象ゟ
身長159cm (当時の平均身長155㎝) 
血液型はA型。 (手形などから採取)
因みに家康の周りの人の身長はというと。
武田信玄…153cm
上杉謙信…156cm
明智光秀…156cm
徳川家康…159cm
豊臣秀吉…127cm
伊達政宗…160cm
加藤清正…161cm
織田信長…170cm
前田利家…182cm


見えすぎる鏡に笑うしかないね  靏田寿子


「趣味・興味」
家康はどんな鍛錬をした? 
家康の老人と思えぬがっちりした 体躯は日ごろの鍛錬の賜である。
剣術・馬術・水泳・鷹狩りと多岐に渡る。
剣術は奥山流と柳生新陰流の免許皆伝、馬術は大坪流でよく遠乗りに出
かけた。なかでも、水泳と鷹狩りを好み、63歳で隅田川を泳いだ。
 死の直前の75歳で、田中城外へ鷹狩りに出かけたなどの記録がある。
「鷹狩りは手足を達者にし、健康な体をつくるので、朝飯がうまく
よく眠れて夜遊びや女遊びをしなくなる」と、述べ、
生涯に千回以上も鷹狩りをしたという。
なお、囲碁・将棋は趣味を超えた人並み以上の実力だったそうだ。


思い切り右脳で煎餅をかじる  郷田みや




        精力増強剤・保命酒
保命酒を入れた備前焼の器は、現在では骨董店の店先を飾る逸品だ。


「健康オタク」
家康は、健康オタクであったことでも知られている。
医療技術が発達していない戦国時代において、武田信玄をはじめ多くの
武将が病に倒れていったなか、家康は健康に気を使い70歳を過ぎても
溌溂としていた。
健康維持のための鷹狩りや・乗馬、水泳などのほかに、食事は贅沢な物
を避け、煮物や焼き物、麦飯などを好んで食べていたという。
又、自ら漢方薬を調剤し、「万病丹」「銀液丹」と名前を付けて小さな
入れ物で携帯し常服。
のちに江戸幕府3代将軍となる孫の徳川家光が病に罹ったときも、家康
が直々に薬を調合して飲ませたと伝えられ健康に留意したことで、当時
の平均寿命が40歳であった時代に、家康は75歳まで生きたのである。


月食のディナーに菜園のレタス  前中知栄




             吾 妻 鏡




「愛読書・出版事業」
家康は好学の士として知られ『吾妻鏡』を愛読していた。
吾妻鏡以外でも『論語』『中庸』『史記』『貞観政要』『延喜式』を好
んで読んだといわれる。
家康が尊敬する源頼朝から武士の道理や治世の術を学んでいたのである。
家康が尊敬していた人物はほかに、劉邦、唐の太宗、魏徴、張良、韓信、
太公望、文王、武王、周公らが並ぶ。
面白いことに、施政・軍事・部下教育など武田家を手本にしたものが多
く、家康を苦しめた宿敵武田信玄を尊敬していた様子もある。
施政・軍事・部下教育など武田家を手本にしたものが多い。 
さらに「伏見版」と呼ばれる木版による歴史書や儒書を刊行しているし、
林羅山金地院崇伝伝に命じて銅活字による「大蔵一覧集」を125部
制作一冊ごとに朱印を押して、全国の寺に寄進している。
出版事業にも興味をしめしている。


伝えたいことがたくさんある無口  高橋レナ


「新しい物好き」
晩年の家康は、何故か時計が好きだった。
南蛮時計、日時計、砂時計などを蒐集しており、又、けひきばし(コン
パス)、鉛筆、眼鏡、ビードロ薬壺などの舶来品が遺品として現存する。


オードリーヘップバーンの指サック置いてまっせ 
                    酒井かがり


「艶福家」
信長、秀吉、家康のうち、一般に一番の女好きは秀吉、逆に信長は女に
ほとんど興味がないとか、女嫌いと評される。
では家康は、ごく平凡な女性関係だったかのかと思うととんでもない。
そもそも家康の生まれた松平家は、精力旺盛な家系だったといわれ、
3代信光はなんと48人もの子を設けている。
家康もその血筋を引いていたようで、記録に残るだけでも、正室2人、
側室15人との間に、19人の子をつくっている。
これは家斉・家慶についで歴代将軍第3位の数である。


ブランコのゆれにまかせている余生  青木敏子





         築山御前



「家康の女性の好み」
家康が好きな女性のタイプは、秀吉「血統書」つきブランド女を求め
たのに対し、もっぱら後家を好んだ。
それも身体の丈夫な、子を生むのに適した女を選んだという。
家康自身、子作りにはかなりの執着をみせたらしく、自前の薬草園で精
力増強のための薬草を育てさせたとか…。
家康は「英雄色を好む」の格言を実践した一人であった。


雑学が音符に変わる雨の午後  高野末次


「倹約家」
徳川家康は贅沢を嫌い、質素倹約を心掛けた生活をしていたという逸話
が多数残されている。
倹約家であったことを示す有名な逸話は、以下のようなものがある。
① 着物はほとんど新調せず、ぼろぼろになるまで着ていた。
 洗濯の回数を減らすため、汚れが目立たない「浅黄色」のふんどし
  を好んで着けていた。
 女中の食費が嵩むのが気になり、お代わりをさせないように漬物の
  味をものすごく塩辛くした。
 手洗いのための懐紙が風で飛ばされた際、新しい懐紙を出さず、飛
  ばされた懐紙を取りに行き家臣に笑われるが、これに対し徳川家康
  は、「わしはこれで天下を取ったのだ」と言った。


つつましく生きる人込み避けている  杉本克子


「ケチ」
 家臣が座敷で相撲をしているときに畳を裏返すように言った。
② 代官からの金銀納入報告を直に聞き、貫目単位までは蔵に収め、
  残りの匁・分単位を私用分として女房衆を集めて計算させた。
 三河にいたとき、夏に家康は麦飯を食べていた。
家康が倹約家でケチあった理由の一つに、幼い頃の人質生活の経験から
培われたものという。人質は決して贅沢はできない。
私生活だけでなく政治においても倹約家ぶりを発揮した家康は、最終的
に直轄領だけで400万石を手に入れながらも、譜代の筆頭家臣に与え
たのは、その1割にも満たない30万石のみ。
しかし、この徹底的な家康のケチ・倹約の精神が江戸幕府存続の礎にな
ったことは間違いない、と家康は自負をしている。
「おまけ」
こんなケチな家康を、蒲生氏郷は、秀吉の後に天下を取れる人物として
前田利家をあげ、家康については人に知行を多く与えないので、
「人心を得られず、天下人にはなれないだろう」と評している。


煎餅割って小さい方を孫にやる  新家完司

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茶助
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