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川柳的逍遥 人の世の一家言
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「目的地周辺」ですって言ったよね  須藤しんのすけ





            天 下 餅


「織田がつき羽柴がこねし天下餅 座して食らうは徳川家康」
天保8年(1837)「道外武者御代の若餅」として
浮世絵師・歌川芳虎が描いた風刺絵。

先人が苦労して築いたものを、家康がやすやすと手に入れた経緯を風刺
したものである。
この絵は、幕府に対してきわめて不遜な意思表示として、芳虎と版元は
手鎖50日の刑罰を受け、さらに版木は焼却処分とされたが、この一枚
の絵「道外武者御代の若餅」は、密かに残された。


おめでたいことなどないがおめでとう  宮井 智


「青春時代の家康」 家康と今川義元




     25歳時の青年家康の像

肥満気味のこれまでの家康像を一新する、きりっと引き締まった家康
は馬上で首をちょっと右に向けて、眼光鋭く見つめるその双眸の先は、
自らが生れた実家がある岡崎城である。
(とても25歳には見えませんが…)
三河は、今川、武田織田に囲まれて相当な緊張状態にあった。
こうした中で、家康の父・松平広忠は一族の安寧を願って、今川の傘下
に入ることを決意した。
となると、真っ先にせねばならぬことがあった。
それは「妻・於大を離縁すること」であった。
妻・於大の実兄が織田方に帰属していたためである。
この時、わずか2歳の竹千代は、最愛の母と生き別れになった。
さらに6歳の時には、「三河松平一族」の将来を堅固にするため、
父の考えで今川の「人質」となった。


世の常と思えば風も穏やかに  津田照子


ところが、その今川への移送の途中で竹千代は、父の後妻の父・戸田康
の謀で織田方にさらわれてしまった。
そんな状況の時に、父・広忠は24歳の若さで死去する。(死因は不明)
竹千代が人質交換で「今川に」戻るのはその2年後。今川・織田両家の
抗争で今川に捕まった、信長の兄・信広との交換によってであった。
今川に竹千代は、そのまま8歳から20歳までの12年間、今川の人質
として駿府で過ごしたのだった。
だが人質とはいえ今川義元は、竹千代を大切に扱った。
逼塞生活を強要・強制せず、学問、読書も自由にさせた。
食事も粗末なものではなかった。
竹千代の元服時には、烏帽子親にもなった。
この時、竹千代は義元の「元」の字をもらって「元信」と名乗った。




ひとり身の淋しい分は自由です 油谷克己




         今 川 義 元




「家康と今川義元」


竹千代今川義元の駿府に人質として来たのは8歳の時。
駿府に来た竹千代は、大変病弱であったために祖母が付き添って面倒を
見た。祖母とは、竹千代の母・於大の方の母・源応尼(華陽院)だ。
勉学のため祖母は娘に代わって竹千代の面倒を見た。
竹千代に源応尼は、智源院の智短和尚に手習いを学ばせた。
またある時は、大岩臨済宗の今川家軍師太原雪斎からも、勉学の手ほど
きを受けさせた。


生い立ちの一部を仕舞うペンケース  清水すみれ


竹千代は、母親とは3歳で生き別れ、父親とは8裁で死別。
物心ついてから竹千代の苦難が始まったが、人質としてきた竹千代には、
じめじめとした、暗い人質のイメージはない。
今川家軍師の臨済宗・雪斎和尚からも、勉学指導を受けるなど、通常の
人質とは大きく違った。
一般的に人質という暗い座敷牢の感覚であるが、痩せても枯れても竹千
代は岡崎のプリンスである。
(歴史家は竹千代を人質と言うよりは岡崎から来た『政務見習』として
 駿府に預けられたという見方をしている)
とは言っても、竹千代が人質の身分であったことには、間違いない。


ややこしくする舌がいてややこしい  森井克子


「里帰り」
1555年(弘治元年)今川義元は、「元」の一字を竹千代に与え14
歳で元服させた。「松平次郎三郎元信」の誕生だ。
元服した翌年に元信は、岡崎へ里帰りを許された。
祖先の法要と墓参が目的である。
元信は8歳の時に父・松平広忠を失ったが、このとき初めて亡き父親へ
の墓参を果たした。
岡崎城では、城を守る鳥居忠吉(80歳)から密かに場内を案内された。
元信がやがて岡崎城に帰国したときに困らないように、軍資金や兵糧米
を蓄えていたのを見せられたという。このとき
「食う物も食わずに苦労しながらも、家臣たちは元信に夢を託している」
ことを元信は知った。
これに励まされた元信は、この時に将来の自立を誓ったという。


私からたまった水を抜いてます  柳本恵子





    桶狭間の戦いー今川義元沈没の図 (芳年画)



「結婚と初陣」
1557年(弘治3年)正月15日、元信「蔵人元康」と改名した。
義元の勧めで元康は、16歳で義元の姪である瀬名姫と結婚した。
後の築山殿である。
一人前となった元康は、その直後に西三河攻めを義元に命じられ初陣を
飾った。 それから2年後、
義元は、戦国乱世をまとめるため、京都上洛を目指して大軍を動かした。
そしてまた一年、1560(永禄3)5月19日、信玄の陣営に思いも
かけない知らせが来た。長年にわたって同盟を結んでいた今川義元が
尾張侵攻の途上、「信長の奇襲にあい戦死」したというのである。
「桶狭間の戦い」である。
義元は、雄図(ゆうと)むなしく、信長に敗れ戦国の均衡は崩れた。


信長の花押は文に収まらぬ  新川弘子




       天下餅を搗く信長




替わって織田信長の登場である。
元康は上洛軍の先鋒隊であったが、義元の戦死を境に今川家と決別し
岡崎城に戻った。
今川家を捨て信長と結んだ家康は、軍事同盟と姻戚関係を結んで信長
との絆を強くした。
ところが、敵国の武田と築山殿が内通した事件で、元康は多くの試練
を味わった。元康には、数々の難問が容赦なく降り注いだ。
1564年(永禄7)の2月には、三河の一向一揆が元康を襲い三河
領国を揺さぶった。家康23歳の時である。
家康は三河軍団を組織し、1566年(永禄9)には松平姓を捨てて
「徳川」を名乗った。徳川家康の誕生である。


解凍の途中で山が動き出す  中林典子

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