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川柳的逍遥 人の世の一家言
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さりげなく話しておこうあれやこれ  津田照子



 

         江戸で生まれたかわら版屋




100万都市江戸で交通事故も深刻は、社会問題だった。
当時のクルマは大八車や牛車で、車引きの不注意や牛の暴走による惨事
もあった。8代将軍・吉宗の治世下享保13年(1728)新宿で少年
が大八車に轢き殺されるという事件が起った。
 幕府は何度か、車間距離の設定・積載量の制限・狭い路地での駐車禁止
などの現代そのものの交通ルールを定めた。しかし、大八車の交通事故は
減ることは無く、ついに第8代将軍吉宗は新に「公事方御定書」を定めた。
当時、大八車は2人で乱暴に引かれており、採決は、事故を起こした側の
1人は死罪、もう一人は遠島という厳しい断を下した。
 江戸の町が混雑していたとはいえ現代の車のように猛スピードで走って
いるわけではないのに、なぜ轢かれてしまう人がいたのか?
実は、大八車による事故は坂道で起こることが多かった。
江戸という町は、非常に坂が多かったため、加速のついた大八車を歩いて
いる人がよけ切れず、轢かれて死ぬというケースが多発した、ことらしい。
こういう事故また事件を庶民の知る権利としてかわら版が報道した。


むかしなら煽り過疎への島流し  通利一遍




「江戸のあれこれ」 かわら版





       かわら版・第一号

この「大坂安部之合戦之図」は、上段に大坂城内、中断に東西両軍
の合戦、下段に将軍(秀忠)、宰相(徳川義直)、御所(家康)、常陸(徳川
頼宣)らの東軍の陣容を刻した。

かわら版の第1号は、慶長20年(1615)大坂落城時の「大坂安部
之合戦之図」「大坂卯年図」とされているが、実際にかわら版が江戸の
町で明確に刷られ盛んに出回りだしたのは、天和(1681)の頃から
らしい。
「赤穂事件」『八百屋お七放火事件』が話題になった頃。
新聞もテレビもない時代、かわら版は読んで売るから「読売・かわら版」
と呼ばれた。羽織を着、編み笠で顔を隠し、指揮棒のようなもので紙面を
叩きながら、講釈の上手い兄ちゃんが、買い気をそそるように囃すものだ
から、江戸の野次馬に大人気を博したものである。



深呼吸しながらそっと風を聞く  上坊幹子




       かわら版売りを囲む庶民




ところが、庶民がかわら版で世の動きを知ることをよしとしない幕府の
官僚は、幕府批判を助長するものとして、貞享元年(1684)事件を
速報する「印刷物の発行を禁止する」お触れを出したのである。
そのため当時のかわら版屋は、映画などで見るものとは違い、編み笠を
口だけ見える程度に深くかぶり、必ず2人以上で売り歩いた。
1人は講釈の上手い売り手、1人は警備役として…。

継続は力手のまめ足のまめ  山口文生




         かわら版が報じた大地震




徳川家康が拵えた江戸の260年。
その間には仇討事件から謀反や放火事件や天災までさまざまな大事件が
勃発している。 

「どんなものがあったのだろうか?」
① 由比正雪の乱 1651年
②  明暦の大火  1657年
   江戸の大半が焼失した大火災。世界三大大火・江戸三大大火の一つ。
   死者10万人を超える大災害であった。
③ 明暦の大火における石出帯刀の美談 1657年
④ 振袖お七放火事件 1683年
⑤ 元禄赤穂浪士討入 1702年
⑥ 天一坊事件 1728年
  8代将軍・吉宗のご落胤と称する若者が将軍に謁見しようとした。
  しかし、大岡越前が嘘を見破り天一坊を捕らえた。

生き様を皺の深さに漂わす  小原敏照



⑦ 明和の大火 1772年
  江戸三大大火の一つ。「目黒行人坂大火」とも呼ばれる。
⑧ シーボルト事件  1828年
  シーボルトが帰国する時に持ち出し禁止であった日本地図を持ち出そ
  うとして、シーボルト以下多くの関係者が処罰された出来事。
⑨ 天保の大飢饉  1833~1839年
⑩ 大塩平八郎の乱  1837年
⑪ 国貞忠治捕縛・処刑 1850年
⑫ 品川沖黒船来 1853年
  アメリカ東インド艦隊のペリー提督(黒船)が開港を迫り浦賀に来航、
⑬ 桜田門・井伊直弼事件 1860年



明日という浮き輪を投げる夜の海  ふじのひろし





松の廊下で吉良刃傷に及んだ内匠頭を羽交い絞めする梶川与惣兵衛


「松の廊下 刃傷事件」  詳報
元禄14年(1701)3月14日は、5代将軍綱吉が勅使、院使に対
し勅答する日であった。午前10時頃から午前11時過ぎに、勅使接伴
役の赤穂浅野藩5万石城主・浅野内匠頭長矩が高家筆頭の吉良上野介義
を殿中松の廊下でいきなり小サ刀で背後から切りつけ重傷を負わせる
事件が発生した。
この日は幕府にとって大切な日であったこと、江戸城内での刃傷であっ
たことから五代将軍・綱吉が激怒した。



御気は短いに袴は長い也  江戸川柳



「斬りつけの様子ー梶川与惣兵衛筆記によれば」
「誰やらん吉良殿の後より、『此間の遺恨覚えたるか』と声を掛け切付
 け
申候。その太刀音は強く聞こえ候えども、後にて承わり候えば、
 存じ
のほか切れ申さず浅手にてこれあり候。われらも驚き見候へば、
 ごち
そう人の浅野内匠頭殿なり。
 上野介殿、これはとて後の方へ振り向き申され候ところを、また切付
 られ候ゆえ、われらの方へ向きて、逃げんとせられしところをまた二
 太刀ほど切られ申候」



浅からぬ恨み額に傷をつけ  江戸川柳


「 傷の程度は?」
「此間の遺恨覚えたるか」と、叫んでいきなり背中から切りつけた。
驚いた上野介が振り向いたところを更に額に一太刀きりつける。
烏帽子の金具で止まった額の傷は3寸5分から6分(約11センチ)背中
の傷は三針縫う程度。
討ち入りの時には、額の傷痕は残っておらず、背中の傷が本人確認の決
め手となる。 栗崎道有のカルテ(外科医で幕府典医)によれば、
『ヒタイ スジカイ マミヤイノ上ノ 骨切レル 疵ノ長サ三寸五分 
 六針縫フ。背疵浅シ 然トモ 三針縫フ』とある。

目印は殿が額につけておき  江戸川柳



「五万石の大名の扱いではなかった!」
式服の大紋を脱いだ浅野内匠頭は、ノシ目小袖のままの姿で出された一
汁五菜の食事は、茶漬け二杯を食べただけ。酒、煙草も許されず、遺言
を書くことも許されなかった。
「浅野内匠頭の言葉」
内匠頭『自分は元来不肖の生まれなる上、持病のせん気があり、
心を鎮めることもならずして場所柄もわきまえず不調法仕った』
と述懐したとある。



今さらを五言絶句でものをいい  江戸川柳





風さそふ花よりもなお我はまた春の名残をいかにとやせむ





「将軍綱吉の判断」
午後1時頃に側用人の柳沢出羽守保明が綱吉に事件を伝えると、激怒し
た将軍は、始祖・徳川家康以来の喧嘩両成敗の不文律を破って浅野内匠
には、田村右京太夫にお預けの上「即日の切腹」吉良上野介には
「お構いなし」を即断した。
不公平な裁きが、武士の面目をかけた「赤穂浪士討ち入り事件」を惹起
する発端となった。
機敏、迅速であり過ぎたこと、喧嘩両成敗でなかったこと、即日の切腹
と、お家断絶は幕府裁定の三つの異常とされる。
額に斬りつけた処を、大奥留守居番の梶川与惣兵衛頼照が羽交い締めに
して取り押さえる。
当時55歳で7百石取り。功により5百石の加増を受ける。
「抱きとめた片手が二百五十石」
と、世間は武士の情けを知らぬ仕打ちと非難した。



5万石捨てては5百石拾い  江戸川柳








NHKの大河ドラマは「鎌倉殿の13人」が終わって令和5年1月8日
から徳川家康主人公の「どうする家康」へと、バトンチェンジされます。
「鎌倉殿の13人」の脚本担当の三谷幸喜さんは、僕が描きたかったこ
との随筆で「このドラマは結局は家族の話なんだと」と述べています。
その見方で行くと大変な家族であったように思いますが…。
さて次の家康の物語は、「どうなります」ことやら…。
さてこのブログも、その辺に興味を持ちながら鎌倉から江戸へ、家康が
拵えた江戸の260年のあれこれを追いかけていこうと考えております。
よろしくお願いいたします。

アフターコロナへ骨の手入れする  井上恵津子

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