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川柳的逍遥 人の世の一家言
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有刺鉄線越えるかキミと抱き合うか  酒井かがり




                     歌川国貞「仮名手本忠臣蔵十一段目」

赤穂浪士討入事件は、直後から浄瑠璃・歌舞伎の格好の題材となり、
「仮名手本忠臣蔵」というタイトルで大ヒットした。
胸のすく勧善懲悪劇ー自己犠牲の美学が庶民の心を打ち、その人気は現
在も継続。赤穂浪士のドラマは時代劇の中の時代劇として愛されている。



おやあなた尻尾に蝶がとまっている  くんじろう


「江戸の出来事」 「赤穂浪士討入事件」



『時は元禄15年、極月(12月)14日、所は江戸・本所松坂町』

これは吉良邸討入りの講談の枕コトバである。
しかし、旧暦の12月14日はー新暦では(1703年)1月30日ーで、
ーー現在の暦とは37日ズレる。
明治6年1月1日に和暦から西洋暦への改暦の正式な発表は、天保暦の
明治5年11月9日にあった。
「天保暦の12月3日を太陽暦の明治6年の1月1日とする」
というものである。
「何てことをするんだ!」
準備期間も短く、12月は、わずか2日しかなくなってしまった。
12月3日から大晦日までの誕生日が消えてしまったばかりか、
浅野内匠頭の刃傷があった元禄14年3月14日も4月21日となる。
12月といえば「四十七士討入り」で親しまれてきた物語りもある。
大石以下46士は、主君の命日14日に仇討ちを決行するから、
気概も奮起するのであって、筋書きも少し萎んでしまう…ではないか。



この国を嫌いにさせるなと叫ぶ  山田こいし




                                  殿中刃傷の様子
殿中松の廊下にて、浅野内匠頭が吉良上野介に斬りつける場面。
内匠頭の後ろから慌てた様子で駆け寄るのは、梶川与惣兵衛。



元禄15年(1702)12月に起った「赤穂浪士の仇討」は、江戸の
庶民のみならず、将軍幕閣をも驚愕させる重大事件だった。
事件は、前年の元禄14年に赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(ながのり)が
高家旗本の吉良上野介義央(よしたか)に遺恨を持ち、江戸城松の廊下
で吉良を斬りつけ、切腹・改易に処された、ことを発端とする。
赤穂藩国家老・大石内蔵助ら47人の赤穂浪士は1年9カ月の雌伏の末
本所の吉良邸に侵入し、上野介を討って主君の無念を見事はらした。





   吉良上野介は屋敷裏の炭小屋に隠れていた
真っ白な夜に真っ黒な所へ逃げ  江戸川柳



浅野でも忠義は深き国家老  江戸川柳



「お家断絶から討入りまで家臣団は一丸ではなかった」
とりわけ弟・大学による浅野家再興を第一に考える大石内蔵助らと江戸
在住で仇討決行を急ぐ堀部安兵衛らは、戦術をめぐって対立する。
ここで重要な役割を果たしたのが吉田忠左衛門だ。
吉田は堀部らに自重を求めるため大石の意を受け、一足先の元禄15年
3月には江戸に入り、芝松本町の前川忠太夫店に身を寄せた。
ここには前年11月に大石が最初に江戸入りした時も投宿している。
吉田は7月に新麹町6丁目に転居し、ここが次々と江戸入りする
同志の取り敢えずの落ち着き先となる。


人と人つなぐ絆が調味料  都 武志





    大石の目くらまし (一力茶屋)
大石の中に軽石一つあり  江戸川柳


「彼らの江戸での主な潜伏先を見てみよう」
吉良邸に一番近い本所相生町には、前原伊助(変名/小豆屋五兵衛)と
神崎与五郎、本所林町には、堀部安兵衛(長江長左衛門)の道場、
本所徳右衛門町には杉野十平次ら、両国橋を渡った西側の米沢町
堀部弥兵衛、新麹町6丁目には吉田忠左衛門(篠崎太郎兵衛ー田口一
ら新麹町5丁目には富森助右衛門(山本長左衛門)一家、
新麹町4丁目には中村勘助(山彦嘉兵衛)ら、南八丁堀湊町には片岡
源五右衛門ら。
そして日本橋石町に大石内蔵助(垣見五郎兵衛)らが変名を使って
隠れ住んでいた。
こうして商人に化けたり、公事(訴訟)での長期滞在を装いながらの
潜伏は、本当にうまくいったのか。
8月に同志を離れた酒寄作右衛門の大名宛の手紙によると、
吉田忠左衛門のいた柴松本町には、上杉家の忍びもいたという。


ぶりかれん知らぬ家中気がつかず  江戸川柳
(ぶりかれん=行商人 家中=吉良の家人)


「仇討決行前へ話を転じる」
大石が求めたのは、このころ上杉邸にいることが多かった吉良義央
在宅情報である。
やがてお茶会が催される日には、本所の屋敷に戻ってくることがわかる。
お茶会の宗匠は山田宗徧で吉良義央とは茶の師匠を共にする間柄である。
宗徧は老中・小笠原長重に仕えていて、この小笠原家と吉良家も礼法を
司る家同士で交流があった。
宗徧には中島五郎作という町人の弟子がいたが、中嶋の借家には羽倉斎
荷田春満)という国学者が住んでおり、羽倉は和歌の添削で吉良家に
出入りしていた。
こうした吉良人脈に大石三平大高源五という浅野人脈が繋がってくる。
大石三平は大石一族の一人で、中嶋五郎作の友人であり、羽倉とも交流
があった。また大高源五は、宗徧の弟子になっていた。


人と人つなぐ絆が調味料  都 武志




     大高源五と宝井其角
「年の瀬や水の流れと人の身は」 其角
      明日またるる宝船」 源吾




最初のお茶会の情報は12月5日だったが、これは将軍の柳沢邸御成り
に重なって直前に中止される。
しかし次の情報はすぐ来た。
14日の昼、大石三平が羽倉の手紙に
「彼の方の儀は十四日の様にちらと承り候」
とあったことを伝える。
また大高源五も吉良がお茶会開催の準備に帰宅するとの情報をもたらす。
大石内蔵助は2つの情報から判断して、14日夜の討入りを決断した。
と思われる。

あくる日は夜討ちと知らず煤を取り  江戸川柳
(江戸時代の煤払いは12月14日におこなった)




       討入り絵馬
事件の13年後の正徳5年(1715) 、但馬の織物屋たちが天橋立にある
知恩寺に奉納した絵馬。討入りの様子が生々しく描かれている。

「討入りは成功した」
吉良邸を出た46人(寺坂吉右衛門は除く)無縁寺(回向院)に入る
ことも船に乗ることも断られ、武装したまま、しばらく両国橋東詰に
屯する。
このとき最も警戒したのは上杉家による反撃だった。
ところが上杉軍は来なかった。
後にお預けになった細川家から出した大石の書状(細井広沢宛)がある。
そこで大石は、半弓など大勢の相手をする武器を用意したのに、無益に
なったのはおかしい、と書いた後、
「覚悟したほどには濡れぬ時雨かな」という句を詠んでいる。
切腹の2日前であった。
生死を賭けた大仕事を時雨に喩える…大石の器の大きさである。



目印は殿が額につけておき  江戸川柳
余は上野介でない。人違いでござる、と言い張ったけれど…)




          「泉岳寺引き揚げ」



その途中、吉田忠左衛門富森助右衛門の2名が別行動をとって、
大目付仙石伯耆守久尚に自訴し、幕府の処分を待つこととなった。
幕府は評議の結果、大石内蔵助以下17名を、熊本藩・細川綱利へ、
大石主税以下10名を伊予松山藩松平定直へ、
岡島八十右衛門以下10名を長府藩毛利綱元へ、
間十次郎以下9名を岡崎藩水野忠之へ、当分の間預けることとした。
なお、細川家には、大石内蔵助が含まれており、藩主・綱利自ら引き
取りに行くつもりでいたが、家老の三宅藤兵衛が家来とともに、
大石以下17名を迎えにいった。
一行が柴白金の細川藩邸に帰ると、綱利は早速、一同に対面した。
(毛利藩では駕籠に網をかぶせで護送した後、窓を閉めて長屋に押し込
 むなど、まるで罪人扱いだった。が毛利藩は細川藩での待遇を聞いて
 処遇を改めたという)


首筋が四捨五入の四の位置  ふじのひろし


「浪士の処遇について」

幕府の評定所から、「お預けのままで置き、後年に裁決すべき」
との意見でまとまりかけていたが、翌年、幕府から公儀を恐れざる行為
として、切腹の沙汰が下された。荻生徂徠
「ちやほやされると、間違いを起こす者が現れる」
と切腹を支持している。
吉良邸討入りから約1ヶ月半後の元禄16年2月4日、赤穂浪士に切腹の
裁定が下された。
斬首などではなく切腹に処したのは、武士としての名誉を保つ措置であっ
た。この日、浪士たちはそれぞれお預けの大名家で切腹して果てた。

化けてでる予定のリスク抱いている  平井美智子





     泉岳寺にて本懐の報告をする浪士



「幕府はなぜ、赤穂浪士を切腹させた?」

将軍のお膝元である江戸市中を騒がせ、松の廊下事件についての幕府の
裁定に異を唱えた、などと理解されている。
しかし、このとき幕府が問題視したのは、47名もの浪人が武器を携え
て集まり、大石内蔵助の指揮で組織的に行動した点にある。
江戸の治安機構で、大名や高家の監督役は大目付であった。
討入り後、赤穂浪士は、内匠頭の墓がある高輪・泉岳寺へ向かう途中
2名が隊を離れて大目付の仙石伯耆守久尚の元へ報告に向かっている。
仕組みと手続きを十分承知していた大石の差配である。
仇討ちは儒教道徳にかない賛美できる一挙だったが、
先に「浅野切腹、吉良お咎めなし」という処分を下した手前、
死刑か助命か幕府は頭を悩ませた。
結局仇討は認めなかったが、浪士に配慮した切腹に落ち着いたのである。

化けてでる予定のリスク抱いている  平井美智子

「討入当日、南北の松前嘉広・保田宗郷の両奉行は何をしていたのか?」

実は傍観するだけだった。
事件は一見、徒党を組んだ浪人たちの押込み殺人であり、浪人は取り締ま
り対象のはずだ。
だが大石らが標榜したのは「仇討ち」であり、天一坊事件の丸橋忠弥のよ
うな謀反ではないうえ、忠弥と赤穂藩元家老では、格が違っていた。
さらに事件が起ったのは、町奉行の治外法権区域である旗本吉良家の屋敷、
しかも朝廷との諸礼を司るVIPの高家であり、町奉行がおいそれと手を
出せる事件ではなかった。

もう一度引っくり返す砂時計  井本健治





大石の遺書


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