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川柳的逍遥 人の世の一家言
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半分こあなたと同じ汗のいろ  津田照子


 
                                 歌川国綱 作「鞍馬山武術之図」


源義朝西乃門院清盛の継母池禅尼また人情家の重盛の助命嘆願
により伊豆へ配流になった。
では生まれたばかりの義経はどうなったか。

母の常盤御前は、7歳の今若、5歳の乙若、そして当時は牛若と呼ばれ
ていた乳飲み子の義経を連れて、奈良へと落ち延びた。
その後、今若と乙若は出家、京に戻った常盤は、公家の一条長成と再婚。
幼かった義経は常盤と一緒に住んでいたが、11歳で鞍馬寺に預けられ
ることになった。鞍馬寺は修験の寺で、山伏の修行場でもある。
義経は、この地で体を鍛え、学び、戦の天才となるための素地を作った。
この後、義経は16歳で鞍馬を出奔。一条長成の縁戚にあたる奥州平泉
藤原基成秀衡の舅)を頼ることになる。
そして、奥州で暮らした6年の間に、騎馬での戦い方をも学んだ。


自粛中こころにうんと種をまく  ふじのひろし
 
 
「鎌倉殿の13人」・ドラマを面白くみるために‐⑨


「義経ー2」


—頼朝立つ― の知らせは、たちまち全国に知れわたり、平氏に不満を
抱く武士たちが、次々と集まった。 その数20万。
そのころ「平治の乱」で敗れた義朝の子・義経は、奥州藤原氏のもとに、
身を預けていた。義経16歳だった。
義経を庇護した奥州藤原氏は、平泉を拠点に、東北一隊に絶大な権勢を
誇る豪族だった。
そもそも当主・藤原秀衡が義経を庇護したことには訳があった。
平氏と源氏双方と距離を保とうとした秀衡は、義経を奥州独立の切り札
と考えていたのである。
その4年後、「挙兵した兄・頼朝とともに戦いたい」という義経に、自
分の家臣である佐藤継信・忠信の兄弟を同行させている。
そこに源平の戦の行方を偵察させようとする狙いがあった、推測がたつ。


満月も刺股状になる妬心  山本早苗
 

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    藤原秀衡                 田中泯
 

そもそも関東に武士団が生れたのは、一つは、奥州との関りが深い。
中国の歴史において、外敵と対峙する際に辺境に兵が置かれた。
彼らはその地で自活しながら、いざというときには、外敵と戦う役目を
負っていた。奥州に対する関東の武士たちは、まさにそれにあたる。
要するに、関東の武士団にとって奥州は、仮想敵国なのである。
実際、翌年の養和元年(1181)8月には、朝廷は、藤原秀衡頼朝
を追討するように命じている。
「その奥州を背景にした義経が、関東武士団をあの手この手で束ねよう」
と努めている頼朝のもとに来た、ということになる。


人波に紛れる術を知っている  中野六助


「富士川の戦」に勝利した翌日、黄瀬川で頼朝は、義経と初対面を交わ
したとき、義経の傍らにいた佐藤兄弟をみて、俄かに疑いの念を抱いた。
<弟・義経はなぜ、藤原秀衡の家臣を従えて来たのか…、義経は秀衡と
通じているのではないか…> なのである。
この時、頼朝は奥州藤原氏に強い警戒心を抱いていた。
平氏を敵に回しているときに、背後から攻められれば、挟み撃ちに合う
可能性があったのである。
頼朝の藤原氏に対する敵愾心は、つぎのことでもよく分かる。


るつぼにも二枚三枚舌がある  森乃 鈴



「八臂弁財天」(はっぴべんざいてん)
(右手に宝剣・宝鈎・長杵・宝箭、左手に宝珠・宝戟・輪宝・宝弓を持つ)


鎌倉に幕府をおいた年、頼朝は江島神社に八臂辨財天 を奉納している。
その目的は、奥州の「藤原秀衡調伏祈願」のためであった。
像は文覚上人に命じて造らせ、二十一日間祈願させた。『吾妻鏡』
「調伏祈願」とは、頼朝の場合、呪いの祈祷である。
頼朝は、そこまで恐れた奥州藤原氏と、義経が、手を結んでいるのでは
ないかと疑ったのである。
血を分けた兄弟とはいえ、22年ぶりに初めてあった弟が、自分を庇護
してくれた秀衡に恩義を感じていても不思議はない。
ご時勢、父子兄弟の諍いはいくらでもあるのだ、頼朝は義経に全幅の信
頼を寄せることはできなかった。


神棚に神の衣の切れっぱし  くんじろう


その時抱いた頼朝の怒りを、次のような形で義経にぶつけている。
鶴岡八幡宮の上棟式の日に、居並ぶ家臣たちの前で、頼朝義経
「工匠に与える馬を曳くよう」命じた。
それは本来、身分の低い者のする仕事だった。
義経にとって、屈辱的な命令だった。 『吾妻鏡』
義経は、今でいえば、勉強はそっちのけで、野球のことにしか能がない
野球馬鹿なのである。政治には無頓着だから、
<兄上はなぜ、源氏の血を分けたこの義経に恥をかかせるのか>
になってしまうのである。
ただただ、兄の信頼を得たい義経は、屈辱に耐えて大工の馬を引いた。
そして、兄とともに「源氏再興の夢」を果たしたいという一心で、
義経は、平氏との戦いに向っていくかに見えるのである。


虐待と漢字で書ける辞書なしで  雨森茂樹


「義経、表舞台へ登場年表」
治承5年(1181)
2月・義時、頼朝近侍の11人に選ばれる。
3月、清盛死去。
12月・南都焼討 。
寿永元年(1182)
2月・伊東祐親自刃。
   父・時政、伊豆へ引き上げる。義時は鎌倉に残る。 
7月・鶴岡若宮ー社殿上棟式にて「大工の曳き馬事件」
8月・頼朝・政子の長男・頼家誕生。
11月・政子、頼朝の妾・亀ノ前を匿う小坪の邸を破壊する。
寿永2年(1183)
6月・倶利伽羅峠の戦。
8月・平氏都落ち。木曽義仲入京
10月・「寿永二年十月宣旨」
元暦元年(1184)
1月、宇治川の戦い 。(これより義経の進撃はじまる)
   そして、一ノ谷・八島壇ノ浦の戦へと続く。


カレンダーに印ついてる何だっけ  下谷憲子


 
                          左に巴御前 右に木曽義仲


「逃げる平家 逃げない巴御前」

頼朝は、富士川から逃げる平家を追撃せず、後ろの奥羽の藤原を警戒す
るように、軍団の強化に専念した。
富士川の結果を知った信州の木曽の義仲は、「ここぞ」とばかりに信州
から挙兵した。
これを受けて平家は、維盛を総大将に10万の大軍を派遣。
両者は、「越中倶利伽羅峠」で相まみえることになったが、
義仲は5百頭の牛を山頂に並べ、角に松明をくくりつけて点火し、
山腹の平家軍の幕舎目掛けて放すという奇策に出た。
この奇襲に魂消た平家の兵士は、逃げて、逃げて谷底へ、次々と転落し、
義仲は大勝利をものにした。


討つ位置で奇跡を呼んだ句読点  高浜広川


「倶利伽羅峠の戦い」に勝ち、上洛の夢を果たした木曽義仲軍だったが、
時を得ず、皇位継承を巡って、後白河法皇と対立し、統制がとれていな
い義仲軍は、京で乱暴狼藉を繰り返した。
法住寺殿に火をかけ、法皇・天皇を幽閉し、院の近臣らを殺して、自ら
征夷大将軍となり、独裁体制を敷いたのだ。
このとき清盛死後の棟梁となっていた平宗盛は、規律のない粗暴な義仲
の軍勢から避難を考え、とりあえず「逃げる」ことにした。
これが有名な清盛後の、何とも頼りない「平氏の都落ち」である。


火の粉など被らぬところから吠える  松浦英夫
 

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      巴御前                 秋元才加

「いじめに近い、宇治川の戦」

義仲上洛から3ヶ月、後白河法皇の要請を受けた頼朝は、「義仲追討」
範頼、・義経を差し向けた。「宇治川の決戦」である。
『平家物語』によれば、
宇治川に両軍が対峙しとき、その数は、範頼、義経軍2万騎、対する
義仲軍は2百騎ほど。ほぼ義仲に勝ち目はなく、近江の粟津まで逃れ
たとき、従う者はわずか4騎となっていた。
この4騎の中に義仲の愛妾・巴御前も含まれる。


さくらさくらさくらは平仮名が似合う  雨森茂樹


義仲は、戦場に連れてきていた愛人の巴御前に向い、
「お前は女だから、早くどこへなりと行け。わしは討死を覚悟している
が、万一人手にかかったら、その時は自害する。最後の戦に女連れなど
といわれたくない」と声をかけた。
巴は1,8㍍近い大女で大剛力。剛力を除けば、ミスユニバースクラス
の美貌の持ち主で、長い黒髪に、色白な顔が美しく映える巴は、
しばらく無言でいたが、やがて、
「最後の戦を、お目にかけよう」と、いうと追撃してきた30騎ばかり
の武者のなかに駈け入り、大力で知られた武蔵の恩田八郎師重に組み付
いた。
巴は、八郎の体を引き寄せて、自分の鞍の前輪におしつけ、身動きもさ
せないままに八郎の脛をねじ切ると、着ていた具足を脱ぎ捨て、東国を
めざして落ちて行った。


君のため君のためってそればかり  高野末次
 

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     木曽義仲                青木崇高.
 
義仲が討死をとげたのはその直後だった。
義仲は腹心の今井兼平のすすめに従い、自害の地と定めた松原へ向かっ
たが、途中馬が深田に足をとられ、身動きできなくなった。
兼平の姿を求めてふり向いた瞬間、義仲の兜の真向を矢が貫いた。


観音の指から私までの距離  斉藤和子

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