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川柳的逍遥 人の世の一家言
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豚のしあわせ 豚が考える  河村啓子
 


 一ノ谷源平大合戦図 (一寿斎廿万員図)

右上・黒太夫に跨る義経、左横に武蔵坊弁慶
白馬に跨る川越太郎重頼、弁慶横に亀井六郎


平家の大軍が、「富士川の水鳥」におどろいて退却した翌日、
奥州から源九郎義経がやってきた。
無名の若者だった。
以後、三年余り、義経は、記録の重要な箇所に名を出さず、寿永三年
(1184)になって、木曽義仲を討滅する戦勝軍の次将として、
はじめて世に名が現れた。
 時に平氏は、瀬戸内海をおさえ、京を回復すべく、福原に大軍を集中
していた。 平家の陣地は、こんにちの神戸市の市街地である。
山々が海岸にせまり、せまい浜が東西にのびている。
野戦陣地の大手門は、東端の生田の森で、ここに城戸を築き、各地に堀
を穿ち、逆茂木を植え、櫓をあげていた。
搦手の城戸は、西端の「一ノ谷」であった。
海上には、補助兵力として多くの軍船がうかんでいた。
 源氏の大軍は、京にいた。
義経は、庶兄の範頼とともに頼朝の代官になっている。
主将の範頼は、本軍を率い、大手攻めを担当することになった。
義経は、別動隊を率いた。
かれは搦手の一ノ谷に対し、遠く丹波路を迂回した。
それも一夜で駆けた。


この隙間猫が教えてくれました  佐藤正昭


「鎌倉殿の13人」・ドラマを面白くみるために‐11
 
 

    義経馬つなぎ松

ここにあった古松はかつて「義経馬つなぎ松」呼び伝えられた。
1184年2月6日晩、福原に集まった平家10万の軍勢を攻めるため、
「義経の軍勢70騎がここに集まり、合戦の相談をした処」
高尾山山頂より見下ろすと、和田岬の周辺には、総大将宗盛と安徳天皇を
守る平家の軍勢が篝火を焚き、火の海をつくっていた。
と、立て看板に書かれている。


「義経ー4  決死のマウンテン・ダイビング
 
 
「自分という存在にかけて恥ずかしいことはできない」
と、義経は滔々と「名こそ惜しけれ」の倫理観を論じたあと、
腰の太刀を抜き、切っ先で蒼天を貫き、皆を睥睨する。
「お主たちは 如何に」
言って切っ先は、崖下に向ける。
「この下におる者どもは、天から敵が降ってくるとは思いもよらぬ。
 都より下ってくる敵は大手ににて阻む
のが常道。
 逆にに搦手敵が現れたことに焦り、挟撃に
耐えんと懸命に戦っておる。
 良いか。挟撃が、こちらの
策であると信じておるのだ」


聴く耳と聞き流す耳オンとオフ  松 風子


何故このような簡単なことがわからないのか。
いや分かっているのだ。 分かっているが、誰もやらない。
馬鹿げている。 出来はしない。
そんな言い訳で己を誤魔化し、見て見ぬふりをしているのだ。
「天から降ってくる者を防ぐような余裕は、今の敵にはない。
 崖を生きて降りさえすれば、武功はほしいままぞ。
 それを諦め、実平の後塵を拝すと申すのであれば、それは最早、
 武士にあらず。頭を丸めて寺に籠り、経でも読んでおれ」


サムライかカボチャか叩いたらわかる  新家完司





「えぇぇぇいっ!」 弁慶が石突で地を打った。
白布の下のざらついた眼が、主を睨んで離さない。
「ここまで言われて尻込みしておっては、五条大橋の鬼といわれた武蔵
 坊弁慶の名が廃る」
 荒法師を冷然と見据え、義経は、口角を吊り上げる。
「口でならば 何とでも申せよう」
弁慶の目に殺気が宿った。
「一度走り出したら止まりませぬぞ」
「それで良い」
前のめりになる栗毛の尻を薙刀の柄で強かに叩き、弁慶が崖から躍り出
た。雄叫びが崖の下へと吸い込まれてゆく中、義経は皆に向って吠える。
「良いか!生きて崖を降りた者は、敵を屠ることのみに集中せよ!
 それ以外に何も考えるなっ!」
叫び終えると同時に義経は愛馬・黒太夫の腹を蹴って弁慶の後を追った。


骨壺を入れる隙間は空けてある  くんじろう


上下左右乱暴に揺れる鞍にまたがり崖を下る。
目前に見える弁慶の馬が、左右に体を振りながら、
ずるずると、岩場を滑り落ちて行く。
頭上から喚声が聞こえてきた。
義経の近習たちが次々と崖を降ってくる。
その後を追うように、鎌倉の男たちも、馬とともに崖に踏み出していた。
「行けるっ! 儂は行けるぞぉぉぉっ!」
みずからに言い聞かせるように、弁慶が叫ぶ。
その脇を空の鞍を乗せた馬が転がり落ちて行く。
すぐその後を、馬から放りだされた男が落ちてきた。
崖を転がり落ちて行く者を、義経は見てなどいない。
無数にたなびく深紅の旗を睨みつけて、馬を駆る。


方向音痴のあとから付いてゆく  下谷憲子


 
      一ノ谷大合戦の図 (落合芳幾画)

 左白馬に跨る弁慶と六郎の前を黒大夫が一ノ谷を駆け下りる。
目の前に平家一門の旗が見えている。

ぐいぐいと旗が近づいてくる。
心の臓が、胸の骨を突き破って飛び出しそうになっている。
目は涙で霞み、鼻水が頬をぬらす。
もう少し、あと少し。
手綱から右手を放し、鞘に戻していた太刀の柄に手をやった。
「どおぉっう!」
気迫の声とともに弁慶が崖を降り終えた。
義経も続く。 眼前には怯えるような敵の顔。平家の強者どもだ。
右に左にと刃を揮い、「何が起こっているのか…」分かっていない敵を
屠ってゆく。
「武蔵坊弁慶の刃にかかって、死にたき者はかかって参れ」
崖を下る恐怖を乗り越えた弁慶の目が、長い付き合いである義経すら見
たことがないほど、紅く染まっている。
鬼と化した悪僧の頭には、戦の理などありはしない。
手あたり次第、目につく敵を薙ぎ倒してゆく。


何人も殺してしまう無表情  中田 尚


律儀に名乗りを挙げて、弓を構えようとしていた平家の侍が、
義経の目の前で、数人の男たちに囲まれて切り刻まれた。
みずからの決意の元に死地を乗り越えた義経たちにとって、
福原の奥深くに陣取っているような者など敵ではなかった。
勇敢にかかってくる者など皆無。
敵は哀れなほど無様に暴挙の刃の餌食となって、醜く屍を晒してゆく。
「聞けぇいっ! 我こそは源義朝が九郎ー源九郎義経なり!」
逃げ惑う敵に向って叫んだ。
 
 
シーソーが下がって最後の侵犯  加納美津子


 
       戦 の 浜

一ノ谷から西一帯の海岸は「戦の濱」といわれ、
毎年2月7日の夜明けには、松風と波音のなかに
軍馬の嘶く声が聞こえたとも伝えられる。


 
この日、大手と搦手双方で膠着状態にあった戦況は、義経の天からの
奇襲によって激変。 一気に形勢は源家に傾いた。 平家の武者達は、
「若しや助かると、前なる海へぞ多く走り入りける。渚には、助け船共
いくらも有りけれども、船一艘には、鎧ひたる者どもが、4,5百人・
1千人許り込み乗つたるに、渚より三町許り漕ぎ出でて、目の前にて大
船三艘沈みにけり。 その後は好き武者をば乗するとも、雑人ばらをば乗
すべからずとて、太刀・長刀にて打払ひけり。
かくする事とは知りながら、敵に逢ひては死なずして、乗せじとする舟
に取り付き掴み付き、或は臂打斬られ、或は肘打落されて、一谷の汀朱
に成つてぞ列み臥したる」 (『八坂本』)

 平家一門では、越前三位通盛、薩摩守忠度、若狭守経俊、武蔵守知章
、太夫敦盛、蔵人太夫業盛、らが討死。
惣領・平宗盛の弟である。重衡は生け捕られた。
しかし、平家の惣領・平宗盛、そして清盛の妻二位尼、母の建礼門院
に抱かれた安徳帝、「三種の神器」とともに屋島に逃れた。


去ってゆく男に持たす正露丸    平井美智子


【知恵袋】

『吾妻鏡』によれば、
「九郎義経は、勇士七十余騎を率いて、一ノ谷の後山(鵯越)に到着」
(この山は猪、鹿、兎、狐の外は、通れぬ険阻である)
「九郎が三浦十郎義連(佐原義連)ら勇士を率い、鵯越において攻防の
 間に、平氏は、商量を失い敗走、或いは、一ノ谷の舘を馬で出ようと
 策し、或いは、船で四国の地へ向かおうとした」と、ある。


   
   源範頼             源義経


『玉葉』 
九条兼実の日記)によれば、
「搦手の義経が、丹波城(三草山)を落とし、次いで一ノ谷を落とした。
 大手の範頼は、浜より福原に寄せた。多田行綱は山側から攻めて山の手
 (夢野口)を落とした」と、ある。
ここには、義経「一ノ谷の逆落し」の奇襲に関しての記述はない。


未確認飛行物体から軍手  森田律子

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