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川柳的逍遥 人の世の一家言
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死に神よなんでおまえがそこに立つ  藤村亜成



        「一之谷源平大合戦併八島壇ノ浦の図」


「司馬遼太郎氏の義経ー2」

義経は一ノ谷でその卓抜な作戦構想を成功させて、俄かに名声を高めた。
昨日までは、全く無名だった頼朝の弟・義経なる人物が今日の京都では、
上は後白河、下は物売り娘までにももてはやされる。
まさにスター誕生だ。
無名の人間が一朝にして有名になるということは、
義経以前には、日本の社会にはなかった。
ちょっと古い喩えだが、美空ひばりでも、石原裕次郎でも、スターの誰
でもが味わうことを、日本の歴史の中では、義経が最初に経験した。
そのときに、「義経の自己崩壊」がはじまった。
自己崩壊とまで言うと、義経が可哀そうだけれども…、
法皇や関白に可愛がられ、都の人気者になってある程度いい気になる。


さて、三谷幸喜演出のドラマ・「鎌倉殿の13人」の義経は、今回は
メインではないから仕方がないとしても、やたら義経「戦争バカ」
ぶりを表面に出してくる。らしいらしいと言えば、三谷演出らしいが、
さてこの後、どうなりますことやら。
義経はそれを知らず、平家滅亡の後、義経の不幸がはじまる。
 
 
びしょ濡れになっても別の靴がある  新家完司


「鎌倉殿の13人」・ドラマを面白くみるために‐12


 
一ノ谷源平大合戦併八島壇ノ浦の図①

駕籠の中には、源氏襲来から逃げる安徳天皇
左黒馬に熊谷次郎・白馬に平敦盛、中央黒馬には平教経


「義経ー5」 屋島の戦
 
 
義経は福原の西、搦手の一ノ谷から攻撃を仕掛けた。
このとき義経は、背後の崖から少数の騎馬で駆け下り、
平氏軍を混乱に陥れた。
このため義経人気は絶大となり、後白河も軍功に報いて検非違使(けび
いし)と左衛門尉の官職を与え、さらに従五位に叙し、昇殿を許した。
頼朝は配下の武士に、
「私の許可なく、朝廷から位階をもらってはならぬ」
と戒めていた。
義経はそれを無視したのだ。頼朝は怒った。


三度目も直球投げている愚直  津田照子


「司馬遼太郎の義経ー3」

一方、京に留まっていた義経は、後白河法皇に引き立てられ、
従五位下に昇り、昇殿を許され、いい気になっていました。
義経には、政治感覚がまるでない。
このあたりが義経の困ったところ。
兄の頼朝が鎌倉にいる。
頼朝の政権の基盤は、鎌倉の大小の地主たち、つまり関東武士である。
彼らは、その権益を守るために頼朝を擁して、京都の律令体制にチャレ
ンジしている。
しかし義経は、その律令体制の寵児となって兄の立場を理解していない。
知らず〳〵京都と鎌倉との抗争に巻き込まれていることに気がつかない。
頼朝にとっては、弟が体制側のとりこになり、そして大きな人気を得て
いるために、最大の敵となっていく…ことに苛立ち、腹立たしかった。


何事もなかったように窓明かり  荒井加寿


 
一ノ谷源平大合戦併八島壇ノ浦の図②
中央左上松の木の横に源義経が小さく描かれている。


「屋島の戦」

一ノ谷で敗れた平氏は、四国八島に後退するが、相変わらず瀬戸内海を
制していた。
そこで頼朝は、元暦2年(1185)正月、範頼を総大将に軍を九州豊
後へ遣わしたが、手痛い敗北を喫してしまう。
このため、頼朝は義経を頼らざるを得なくなる。
この時、義経は京で戦から離れ、法皇の近習を手伝っていた。
平家軍は、「今度は負けぬ」ということで、源氏と比較して水軍の力が
有効に活用できる周囲が海に囲まれた屋島に内裏を作り、万全の体制で、
源氏を迎え討つ態勢にあった。
平家は、あくまで得意な水軍の力を使い、海から進んでくる源氏軍を討
ち負かす作戦を立てていた。


蓮根の穴に恨みの練り辛子  くんじろう


 
一ノ谷源平大合戦併八島壇ノ浦の図③
女官に囲まれてご満悦の平宗盛


八島の戦いの指揮を任された義経は、悪天候の中も出陣を兵士に求めた。
梶原景時ら周囲の諸将は、「自滅でしかない」と反対をした。
船頭らも、暴風を恐れて出港を拒んでいる。
この時、景時は鎌倉へ手紙を送り
「義経が高慢で、諫言も聞かずに勝手に行動する。だから私の役目を免
じ鎌倉にもどしてほしい」
と、頼んでいる。
「勝機を手繰り寄せるにはこのときしかない。敵の意表を突くのだ」
義経は、ここでも「奇襲作戦」の考えを譲らない。
そして2月18日午前2時、摂津水軍などを味方につけて、暴風雨の中、
義経は、僅か5艘150騎で、屋島に向けて出陣を強行した。
午前6時、義経の船団は、通常3日の航路を4時間ほどで、
阿波国勝浦に到着した。


偶然の中のひとつと生きている  大野風柳



           一ノ谷・屋島合戦図    (狩野吉信)


勝浦に上陸した義経は、まず在地の武士近藤親家を味方につけた。
この時、屋島の平氏は、田口成直が3千騎を率いて、伊予の河野通信
伐へ向かっており、千騎程しか残っておらず、また阿波・讃岐などの港
に配分しており、屋島は手薄であると探索の兵が伝えてきた。
その情報を得て義経は、平氏方の豪族桜庭良遠の舘を襲って打ち破り、
そのまま徹夜で進撃し、2月19日には、屋島の対岸に立った。
孤島である屋島は、干潮時には騎馬で島へ渡れる。
それを知った義経は、強襲を決意した。
寡兵であることを悟られないために、周辺の民家に火をかけて、
大軍の襲来と見せかけ、一気に屋島の内裏へ攻め込んだ。
海上からの攻撃のみを予想していた平氏軍の兵は狼狽し、
内裏を捨てて、屋島と庵治半島の間の檀ノ浦へと逃げ出す者が出た。
戦が優勢に進んだ中で、義経が唯一悔やんだのは、奥羽平泉からともに
戦って来た郎党の佐藤継信が義経の盾となり、平氏随一の剛勇平教経に
射られて討ち死にしたことであった。


僥倖を連れて来たのは泣きぼくろ  岸井ふさゑ
 
 
 
   「平家物語」エピソードゟ 源義経弓流し

海へ落とした弓を武士の誇りを掛けて拾い上げる源義経。
平氏は義経の負けん気をはやしたてた。


「遊びの時間」

休戦状態の夕刻、平氏軍から美女の乗った小舟が現れ、「竿の先の扇の
的を射よ」と、義経の負けん気にけしかけるように挑発してきた。
断れば嘲笑を浴びる、外せば源氏の名折れになる。
どちらをとっても源氏側に損だが、義経の性格を刺激してきたのだった。
それに応じた義経は、手だれの武士を探し、畠山重忠に命じるが、
重忠は辞退し、代りに下野国の武士・那須十郎を推薦する。
十郎も傷が癒えずと辞退し、弟の那須与一を推薦した。
与一はやむなくこれを引き受けた。


 種無しぶどうの種から来たオファー  中村幸彦


「平家物語」エピソードゟ 『扇の的』那須与一

二月十八日、戦も休戦状態の午後六時頃のことであったが、折から北風が
激しく吹いて、岸を打つ波も高かった。
舟は、揺り上げられ揺り落とされ上下に漂っているので、竿頭(かんとう)
の扇もそれにつれて揺れ動き、しばらくも静止していない。
沖には、平家が、海上一面に舟を並べて見物している。
陸では、源氏が、馬のくつわを連ねてこれを見守っている。
どちらを見ても、まことに晴れがましい情景である。


活断層の裂けた音また耳に  靏田寿子



    「屋島合戦、那須与一扇の的の図」


那須与一は目を閉じて、
 「南無八幡大菩薩、我が故郷の神々の、日光の権現、宇都宮大明神、那須
の湯泉大明神、願わくは、あの扇の真ん中を射させたまえ。
これを射損じれば、弓を折り腹をかき切って、再び、人にまみえる心はあり
ませぬ。いま一度、本国へ帰そうとおぼしめされるならば、この矢を外させ
たもうな」
と念じながら、目をかっと見開いて見ると、うれしや風も少し収まり、
的の扇も静まって射やすくなっていた。


入口は三つ出口はありません  米山明日歌


那須与一は、鏑矢(かぶらゆみ)を取ってつがえ、十分に引き絞って、
ひょうと放った。 小兵とはいいながら、矢は十二束三伏で、弓は強い。
鏑矢は、浦一帯に鳴り響くほど長いうなりを立てて、あやまたず扇の要から
一寸ほど離れた所をひいてふっと射切った。
鏑矢は飛んで海へ落ち、扇は空へと舞い上がった。
しばしの間、空に舞っていたが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさっと
散り落ちた。
夕日に輝く白い波の上に、金の日輪を描いた真っ赤な扇が漂って、浮きつ沈
みつ揺れているのを、沖では平家が、舟端をたたいて感嘆し、陸では源氏が、
箙(えびら)をたたいてはやし立てた。
※ えびら=矢をさし入れて腰に付ける箱形の容納具。


マメの木を登り切ったら黄泉のくに 丸山威青

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