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川柳的逍遥 人の世の一家言
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置き去りにしたよ目尻の澎湖島  井上一筒

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賎ヶ岳羽柴秀吉VS柴田勝家布陣(CG)

「CG画の解説」

柴田勝家と羽柴秀吉の両者は、琵琶湖の北東、”近江・余呉湖畔”で対陣する。

特に、大岩山砦(CG/左辺・下)と賎ヶ岳(CG/左辺・上)で、激しい白兵戦が展開。

余呉湖戦模様・・湖の右側一辺(権現坂から堂木山砦まで)赤い幟が、柴田隊の布陣。

左上・余呉湖と琵琶湖との間に賎ヶ岳があり、

そして琵琶湖から丹羽隊が上陸する。

前田利家隊は、右辺・上・権現坂辺りに布陣していた。

左一辺、賎ヶ岳から大岩山砦まで、佐久間隊が攻めてくる。

≪この深追いが、秀吉の美濃の大返しもあり、戦の行方を決定づける≫

そして、秀吉隊は、右辺下から底辺に布陣した。

どちらが勝ちだろうと素うどんはつづく  壷内半酔

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  炎上する北ノ庄城

『賎ヶ岳の戦いー実況』

天正10年(1581)12月、

勝家の城である近江・長浜城が、大谷吉継によって落城する。

吉継は、これをきっかけに頭角を現していくのだが、

この時も、柴田勝家は、雪に阻まれて身動きがとれなかった。

天正11年2月20日、勝家は、北陸勢に一斉に出動命令を出した。

3月2日、柴田方先発隊・佐久間盛政ら先遣隊が出陣。

3月5日には、柴田方全軍が、琵琶湖北東部、”近江・柳ヶ瀬”に着陣した。

負けて勝つ解っていても負けられぬ  福一静代

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    勝家隊土塁跡

ここは、峻険な山塊がつらなる難所ながら、

近江と北陸をつなぐ交通の要所である。

山間部の戦いは、投入できる兵員の総数が限られることもあり、

兵数が少なくても有利に戦える。

勝家はこの地で、秀吉を迎撃すべく、

北国街道を挟撃する位置に、多数の砦を構築した。

大根を見て今晩の鍋決まる  稲葉 洋

一方秀吉は、3月17日、柴田勝家蜂起のしらせを受け、

”北近江・木の本”に着陣する。

が、勝家の迎撃体制の万全さを見ると、

深追いを避け長浜に下がり、長期戦にそなえた。

4月17日に、織田信孝が岐阜城で蜂起したのを受け、

秀吉は、押さえの兵のみをおいて、

主力を西美濃・大垣城に着陣した。

しかし、これは秀吉側の誘導作戦であった。

あの黒さ並みの6Bではないな  浜田さつき

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4月19日、秀吉側に寝返っていた柴田勝豊(勝家の養子)の家臣が、

密かに佐々木盛政の陣に駆け込み、

「秀吉が大垣に赴いていて、留守である」と伝えた。

これにより盛政は、中川清秀の砦を急襲する作戦を、勝家に提案する。

当初は、これに反対した勝家であったが、盛政の強い要望により妥協し、

「砦を落としたらすぐ戻ること」

という条件つきで承諾した。

盛政の急襲作戦は見事に成功し、盛政は清秀を討ち取り、

”賤ヶ岳の戦い”の緒戦を勝利に導いた。

欠点で長所で腰の軽いこと  嶋澤喜八郎

4月20日盛政が、大岩砦を占領すると、

盛政は、勝利におごり大岩砦にとどまった。

同日、大垣に「柴田勝家動く」の報せが届き、秀吉はただちに、

北近江・木ノ本へ出立する。

急ぐあまり、秀吉の馬廻衆(うままわりしゅう)が間に合わず、

秀吉は7騎で、しかも、「馬を乗り殺した」という伝説もあるほど・・・。

大垣ー木之本間、約52キロの街道には、

松明がともされ、食事が用意され、

秀吉軍の主力は、足軽本人と武具類を別便で輸送するという方式で、

驚異的なスピードで移動した。

≪この奇蹟の兵員輸送が成功したのは、石田三成の事務能力によるもので、

 すでに事前に、入念な準備が行われていた≫

パトカーが前にいるのに飛ばせるか  横山耕三

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賎ヶ岳戦場跡石碑

4月20日、午後7時頃には、秀吉軍主力は北近江・木之本に着陣していた。

秀吉軍は一転して、佐久間盛政隊を、挟撃する形となった。

4月21日深夜、佐久間盛政隊は数で劣る平地戦を避け、山沿いで撤収。

秀吉軍は、次の照準を、次蜂の勝家隊に絞った。

勝政隊が待機していた”賎ヶ岳での戦い”は、

激しい白兵戦となった。

よく見るとキツネタヌキが跳ねただけ  谷垣郁郎

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       賎ヶ岳

柴田勝政隊が陣を張っていた賎ヶ岳は、

険しい山々が連なり、

鉄砲隊の効果は薄い、

そのため槍を持っての白兵戦となった。

≪余談ー戦国時代の日本人は、実は命の危険の高い白兵戦は、あまり好きではない。

  応仁の乱から島原の乱までの、

    死傷者内訳を分析した鈴木眞哉著・『戦国鉄砲・傭兵隊』によれば、

     刀剣での死者はわずか7・1%だとある≫

職業欄生きる事だと書いてみる  神野千恵子


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    加藤清正            福島正則

そもそも一代で成り上がった秀吉には、代々の家臣がおらず、

秀吉と家臣団は精神というよりは、利害で結ばれていた。

”人は金のために人を殺すが、金のためには死ねない”

この時点での羽柴秀吉の最大の弱点は、

「秀吉のためなら死んでもいい」

と言ってくれる家臣がいないことであった。

横向いているが聞えているらしい  杉本克子

そこで長浜時代から育ててきた、福島正則・加藤清正らに先陣を命じ、

彼らが奮戦した。

これが「賎ヶ岳七本槍」である。

≪余談ー実際には、このとき功労賞を受けたのは、7人ではなく、

 石河兵助・桜井佐吉の2名を加えた、9人だったと言われている≫

大木になろうと思う草の夢  上村八重子

いずれにせよ、退路を確保していた前田利家隊が、

突如戦線を離脱した時点で、勝敗は決した。

柴田勝政隊・佐久間盛政隊は孤立し、柴田方は総崩れとなって、

越前北ノ庄へと撤退を開始。

4月21日、午前9時頃、秀吉は本陣を決戦場である賎ヶ岳に移し、

勝利を宣言した。

きざはしに革命のあと夢のあと  森中惠美子

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『お江ー第10回・「別れ」‐あらすじ』

清洲会議以降、秀吉(岸谷五朗)に押されっぱなしだった勝家(大地康雄)。

その我慢も限界にきた勝家は、

天正11年2月20日、北陸勢に一斉に出動命令を出した。

そして3月2日、甥の佐久間盛政(山田純大)が先遣隊として出陣。

つづき勝家は、雪解けを合わせたかのように、

3月3日、越前・北ノ庄をたち、5日に近江・柳ヶ瀬に着陣した。

一方、このとき対抗勢力のひとり滝川一益を攻めていた秀吉は、

勝家出陣を聞くと雌雄を決するべく、

大軍を率いて近江・木之本に進軍。

琵琶湖と余呉湖の間にある賤ヶ岳を挟んで、

勝家軍と対峙する。

こだわりを流してからの軽い靴  山崎三千代

陣地に勝るのは勝家。

数に勝るのは秀吉。

予断を許さない両軍のにらみ合いは、1か月にもおよんだ。

この膠着状態に、しびれを切らした佐久間盛政は、

岐阜城の織田信孝(金井勇太)をけん制するため、

美濃・大垣城へ進軍した秀吉の不意をついて、秀吉軍の砦を強襲。

敵将・中川清秀を討ち取るなどの戦果を挙げ、

勝家に先勝をもたらした。
.
しかし、良かったのはそこまで。

あんまりな雨に剥がれた金メッキ  山本早苗

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なおも盛政は、
いさめる勝家の命令を無視して、敵陣深くに進軍。

その報を待っていた秀吉隊は

”中国大返し”
を思わせる強行軍で、

大垣-木之本間・約52kmを、わずか5時間で駆け付けた。

佐久間隊は、その秀吉率いる大軍に囲まれ、

奮戦むなしく崩壊する。

メビウスの輪を駆けている馬と鹿  板垣孝志

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秀吉とも旧交のある勝家の与力大名・前田利家(和田啓作)の、

突然の戦線離脱も重なり、勝家は、北ノ庄へ敗走することになる。

この敗戦の結果、勝家は愛する・市(鈴木保奈美)とともに、

北ノ庄城で自刃の道を選択する。

北ノ庄城は、石田三成(萩原聖人)見上げるもとで炎上。

そして、江(上野樹里)たち三姉妹は、秀吉に保護され、

さらに数奇な運命を歩むことになる。

のんびりの時間をつくる忙しさ  ふじのひろし

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