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川柳的逍遥 人の世の一家言
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過去形を消そうのりたま振りかけて  山本昌乃

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    市の石碑

母・お市の方が三の丸門まで見送ってくれた。

かがり火に母の顔が揺らぐ。

お江姉の茶々、初と同じ一つの輿の窓から、あるだけの涙を流し、

遠ざかってゆく母を見つめた。

翌日、母は自害した。

その遺骸を乗せた北の庄城の九重天守が、

激しい炎に包まれたかと思った瞬間、

仕掛けた爆薬によって、越前の天空高く砕け飛び散った。

秀吉の陣があった足羽山(あすわやま)まで、その距離1,2キロ、

腹を突き刺すような揺れと轟音、爆風がお江ら浅井三姉妹を襲う。

口笛を吹く 失ったもの多し  進藤一車

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『市が、小谷城のときと違って、「どうして死を選んだのか?」』

については、いろいろな説明がある。

三姉妹は、小谷城の時と同じように、

「母が一緒に落ち延びてくる」

と思っていただけに、

母が、「城内に残る」と、言ったことには衝撃を感じた。

どうして三姉妹を残して、自刃の道を選んだのか・・・?

は、理解できないところがあるが、

負け戦で、集団自決を迫られたとき、それに反対する事は難しく、

その場の雰囲気として、柴田一族と運命をともにするのが、

自然な選択になってしまったもの・・・なのだろう考える。

どう跳ねてみてもこの世の中のこと  たむらあきこ

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福井城は北ノ庄城の遺構を用いて築城された

その時代としては、近代的な考えの者が多かった織田の家中にあって、

ただひとり

『古武士らしい振る舞いに徹することが誇り』 
だった勝家は、

こうして多くの人を道連れに、

少し芝居がかった戦国武者としての、人生にピリオドを打った。

瘡蓋ができたらメールいたします  西山春日子

宣教師・フロイス
の報告で、市たちの最期の様子を知ることが出来る。

『勝家が話術に巧みな老女に、

すべてを見届けたあとに、城外に出て、

 敵方に自分達の最期の様子を、語らせるように命じた』 

とある。

転け方も泣き方も負けたくはない  前中知栄

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三姉妹神社(柴田神社の境内にある)

市に別れを告げた江たち三姉妹は、羽柴軍の陣営に送り届けらた。

そこから、前田の居城である府中に立ち寄ったあと、

しばらく、湖北の寺院に預けられ、

やがて、三法師がいる安土城に住むことになった。

こうして越前での戦いが終わったことで、岐阜の信孝も孤立無援になる。

結局、信雄の勧告で城を出、

5月2日に、尾張の知多半島にある大御堂寺で自害した。

”昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前”

敵の耳葬る塚の歴史悲話  ふじのひろし

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【豆蘊蓄】

≪「昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」

 そのとき、信孝がこの辞世を詠んだというが、

 切腹を命じたのは信雄であって、これの真偽は少し疑わしい≫

『長政を失ってからの市の人生は、

 自らの死に場所を探し求めるものだったかも知れない。

 今がそのときと、彼女は北ノ庄城落城とともに、37年の生涯を閉じた・・・』

生かされて流れて今日にたどり着き  櫻崎篤子

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北の庄城の石瓦(地元の笏谷石を使っている)

「賎ヶ岳その後」

賎ヶ岳の合戦が終わったあとの織田政権を、現代の企業にたとえれば、

三法師は代表権のない会長として、誰も異議をもたない。

問題はその次である。

織田信雄は、自分が社長で、秀吉の実力ナンバー1であることは、

認めるにせよ、

あくまで、秀吉は副社長に過ぎないと考えていた。

ところが秀吉には、信雄に家来扱いされる憶えはなかった。

噛みくだくたびに話がもつれだす  谷垣郁郎

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北ノ庄城の遺構を用いて築城された福井城跡

信雄に織田一家をとりまとめる能力が、あるとは到底おもえず、

信雄は名目だけの副会長、自分が社長とこまでで、

精一杯、織田家を十分立てた形だと、考えたのである。

”賎ヶ岳の戦い”の翌年にあたる天正12年(1584)の正月、

とりあえずの再建がなった安土城で、

諸侯は、三法師を抱いた秀吉の前で賀詞を述べ、

ついで、信雄の屋敷に伺候したが、

秀吉は、信雄邸には姿を現さなかった。

生命線今年あたりで切れている  森 廣子

1月に、大津の園城寺(三井寺)で、秀吉・信雄会談が行われたが、

信雄は最初の会談のあと、暗殺をおそれて、

家臣たちを置き去りにしたまま、伊勢へ逃げ帰ってしまった。

このとき、信雄に取り入ったのが家康である。

”本能寺の変”のあとに、家康は

信長から家臣たちに与えられた甲斐や信濃を、横領しており、

「これを返せ」と言われないように、予防線を張ったのである。

≪本能寺の変のあと、上杉と北条が取った残りを、

家康が、ちゃっかり我が物にしてしまっていたのである≫

あの謀叛なら鍋にして食べました  居谷真理子

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「小牧・長久手合戦」の屏風

家康にしてみれば、まず何よりも自分の領地へ、信雄に侵入されてはたまらない。

そこで、家康には信雄を篭絡する必要が生じ、

「信長公のご恩に報いるため、いつでも力になる」

と涙ながらに語った。

信雄は、「家康が味方になる」というので、

秀吉に高飛車に出はじめる。

3月になって、信雄は、秀吉に内通したとして、

津川義冬、岡田重孝、浅井長時の三人の家老を斬殺した。

この三家老殺害が、「信雄側から秀吉への挑戦状」ということになり、

こうして、世にいう「小牧・長久手の戦い」へと発展していくのである。

そのうちに座る閻魔の前の席  井上一筒

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