忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[122] [119] [117] [116] [114] [113] [112] [111] [110] [109] [108]

煙突が傾いている寒さかな  嶋澤喜八郎

e7ee2483.jpeg

 宮城を襲った津波の爪跡

百年後には、「平成の大地震」と呼ばれているるだろう三陸沖を震源とする地震が、

2011年3月11日(PM2時46分)に発生。

マグニチュードー9 震度ー7 明治以来、観測史上最大だという。

正式には、「平成23年 東北地方太平洋沖地震」と命名された。

この地震によって、東京以外の神奈川、千葉、茨城、長野などに、

別の断層を呼び起こし、関東・東日本は大揺れに揺れている。

人間の知恵は、自然の前に、いとも簡単に打ちのめされた。

人工のすべてが無力と思い知る  原 隼

df96c38a.jpeg

陸上に打ち上げられた船が家の上に

もちろん東京も”震度5”の針がぶれ、揺れた。

このブログを打っている時点でも揺れているそうだ。

コンビニから単3の電池とカップ麺が消えていく。

ただ東京の場合は、横浜のような地割れもなく、揺れただけである。

どういう意味かと言えば、地震観測によれば、

東京23区の地下には、「断層」が存在しないのである

失礼な言い方をすれば、貧乏ゆすりの前の机が揺れている状態なのだ。

そんな東京(江戸)を、家康は”首都”と決めた。

自然体でいなさいと無理な注文  清水すみれ

38eaff33.jpeg

   江戸城内総監図   

「太田道灌は、江戸城の真下に、

   ”断層がないことを知っていた”かのように江戸に城を築いた」

扇谷上杉氏の家宰太田道灌は、

古河公方方の有力武将である、房総の千葉氏を抑えるため、

両勢力の境界である利根川下流域に、城を築く必要があった。

康正2年(1456)に着工。

翌、長禄元年(1457)4月、ほぼ完成し入城。

現在の”江戸城の内本丸”の一帯で、

自然の地形を利用した中世的な、城であったとされる。

このころは、江城といわれ、まだ江戸城とは呼んではいない。

広目天なら体温をあずけよう  森中惠美子

d4a0c276.jpeg

    太田道灌

『永享記』には、

『資長(すけなが)が「霊夢のお告げ」によって江戸の地に城を築いた』 

とある。

道灌は、諸書を求めて「兵学」を学び、殊に『易経』に通じ、

当時の軍師の必須の教養であった『易学』を修め、

また「武経七書」にも通じていた。

なぜ城の位置が、この場所(江戸)になったのかは、

道灌が、数々の教養と「陰陽五行」、『中国風水学』を駆使したものと思われる。

”わがいほは 松原つづき 海近く 富士の高嶺を のきばにぞみる”

一服の煙を吐いて街を見る  両澤行兵衛

e2b34a7e.jpeg

御城内外御作事御手伝方丁場絵図

「江戸城は、鬼門・裏鬼門をはじめ、風水学を計算してつくられていた」

江戸城は、慶長8年(1603)、徳川家康によって江戸幕府の本拠地とされる。

道灌が築城した江城に、家康が幕府の拠点を置いたのは、

家康・秀忠・家光の三代の将軍に仕え、

108歳で大往生した、

天台宗の天海僧正の、献策があったからといわれている。

昨日燃えつきました右脳五グラム  山口ろっぱ

f47a69e8.jpeg

天海僧正は、徳川幕府の永代存続を祈願して、上野山に寛永寺を建立。

寛永寺は江戸城の東北方「鬼門封じ」のために、建てられた。
 
上野山という”龍脈”の突端に建てられた寛永寺は、

おそらく、江戸城の”鬼門除け”としては最強であったとされる。

ちなみに、易学では東北鬼門方位は”艮(ごん)の卦”で示され、

「万物万象の終結を成すところであり、かつまた開始を成すところでもある」

とする。

江戸城が、自然災害に強く、江戸幕府が、270年間存続できたのは、

「天海僧正お陰」といわれる由縁である。

* (龍脈とは、地気が蜿蜿起状して突起し連なった山脈)

* (艮の卦ー周囲に闇の静けさが広がっていく状態。
   その穏やかな暗さは、人に安堵をもたらす瞬間なのだという)

裏側は地球を背負う摩崖仏  海老地洋

6f37f96d.jpeg 824a815f.jpeg


         日本列島を襲う津波の様子

『お江とゆかりのあるー「天正大地震」』


天正13年(1586)11月29日。

(この翌年に、お江千姫を出産している)

当時、三河にいた松平家忠の日記によると、

『地震は亥刻に発生し、翌日の丑刻にも大規模な余震が発生。

その後も余震は続き、翌月23日まで一日を除いて、地震があった』

と記されている。

震源地は、岐阜県北西部、マグニチュードは7.9 - 8.1と推定。

近畿から東海、北陸にかけての広い範囲に跨って、

甚大な被害を及ぼしたと伝えられ、このことから、この地震は、

”複数の断層がほぼ同時に動いたもの” 
と推定されている。

海岸線が後ずさりしている地球  籠島恵子

琵琶湖では、下坂浜千軒遺跡となる現・長浜市の集落が、液状化現象により、水没。

越中国では木舟城が地震で倒壊、

城主・前田秀継前田利家の弟)夫妻など多数が死亡。

また、飛騨国帰雲城は、帰雲山の山崩れによって埋没し、

城主・内ヶ島氏理とその一族は、全員死亡し、内ヶ島氏は滅亡した。

そして、周辺の集落数百戸も、同時に埋没の被害に遭い、多くの犠牲者を出している。

また、お江ゆかりの美濃国・大垣城が全壊焼失、近江国・長浜城が全壊し、

城主・山内一豊の息女・与祢姫、家老の乾和信夫妻が死亡している。

海破れるたった二行のペンの先  増田佐代子

1d154724.jpeg

    江戸城中の門

「江戸時代、江府内で石垣が崩壊するほどの大地震」

寛永5年(1628)寛永地震、 寛永7年(1630)寛永2次地震、

正保4年(1647)正保地震、 慶安2年(1649)慶安地震、

元禄16年(1703)元禄地震、 宝永3年(1706)宝永地震、

安政2年(1855)、篤姫、和宮らが経験した安政地震の、

7回が記録されている。

木々に風失くしたものに声がある  一戸涼子

c61ef56c.jpeg

このうち最大級の被害をもたらしたのが、「元禄の大地震」ある。

震源地房総半島沖・25Kmで、推定マグニチュード8.2 という巨大なものであり、

震源地に近い安房、上総や三浦半島では、震度7 の強い揺れが襲ったという。

この地震で、家屋倒壊や土砂の崩落もとより、

巨大津波 も発生し、人的被害も甚大で

江戸を除く、安房、上総、相模、伊豆の地域だけでも、

7千名以上の犠牲者が生じている。

一方、江戸でも、石垣の崩落など地震による大きな揺れがあり、

死者も相当数のぼった。

(この死者のほとんどは、地震後の火災が原因といわれる)

六角に裁断された水の耳  井上一筒

地震は、鎌倉、小田原、箱根などで大きく、

特に小田原での被害は甚大で、

小田原城が大破し、城下町の建物は大破、倒壊が夥しく、

直後の出火によって壊滅状態となった。
 
また、地震直後に発生した津波によって、

相模湾沿岸や房総半島の太平洋沿岸、伊豆半島東岸などが、

甚大な被害を受けた。

ごらんの通り、この「元禄の大地震」は、

今回の「平成の大地震」にそっくりなのである。

台本にない人生にうろたえる  太田 昭

bf78a6bb.jpeg

   江戸城虎ノ門

【江戸城ー豆辞典】

関が原の合戦(1600年)に勝利した家康は、慶長8年(1603年)江戸に幕府を開く。

家康が入城した当初は、道灌築城時のままの姿を残した、

比較的小規模で、質素な城であったため、

全国の大名を動員の天下普請によって、

江戸城造営の本格工事に着手する。

そこはかと飢えたピラニアの輪郭  酒井かがり

慶長9年6月1日、江戸城大増築工事が発令されたが、

実際に郭の石垣工事は、家康が将軍職を秀忠に譲った翌年、

慶長11年3月から藤堂高虎の設計で建設が始まり、

この工事によって、雉子橋から溜池に至る外郭・本丸・二ノ丸・三ノ丸の石垣と

本丸御殿の一部が造営され、

同年9月23日、落成した本丸に新将軍・秀忠が移った。

(この年の6月、お江が家光弟・忠長を出産している)

また慶長12年(1607)五層の天守閣が落成。

(この年から家康は、駿府城に移り、お江春日局の確執がはじまる)

その後16~17年にかけて、西丸の修築工事、

18年~西丸下の石垣工事が、”大阪冬の陣”で中断されるまで続いた。

手加減を知らぬ自然の恐ろしさ  古田哲也

関東・東日本の地震に被災された方々に心より、お見舞い申し上げます。

拍手[4回]

PR


Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開