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川柳的逍遥 人の世の一家言
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無数を穿つ夜の眼 星の残酷  山口ろっぱ

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「保元軍記白河殿合戦」

(東京中央図書館誌料文庫蔵)

画像はクリックで大きくなります。


「保元の乱」(1156)の結果、処刑された敗者たち

保元の乱で敗れた者たちの運命は、

どのようなものだったか。

取り合えず地下まで降りるエレベーター  中野六助

まず、乱の中心人物について見ると、

崇徳院は仁和寺に逃れて出家したが、

そのまま讃岐国へ配流され、都に戻ることなく

長寛2年(1164)に死去した。

その子の重仁親王も同じく、仁和寺で出家したが、

応保2年(1162)に若くして、

この世を去っている。

首筋に歯型くっきり虫しぐれ  増田えんじぇる

藤原頼長は、敗走中に流れ矢に当たり、

奈良にいた父・忠実の許まで逃れたものの、

追い返され、そのまま死去した。

その忠実は、直接参戦しなかったこともあって、

罪にこそ問われなかったが、

完全に引退して、京都の知足院で余生を過ごし、

応保2年に死去した。

躓いたところへ飾る余命表  桜 風子

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   後鳥羽上皇木像

ここに、後白河天皇はライバルを葬り去り、

藤原忠通も摂関家を完全に掌握したのである。

ただし、忠通の摂関家継承は、

後白河天皇の命令によっておこなわれたので、

忠通は、後白河天皇に従属する立場となり、

摂関家の地位は、大きく低下することとなった。

あの頃の影探してる下り坂  勝山ちゑ子

また、崇徳院側について戦った武士に対する処罰は、

苛烈を極め、源為義・平忠正・平正弘はいずれも、

斬罪に処された。

その一族郎党も、武勇に免じて、

伊豆大島への流罪とされた源為朝を除き、

参戦したほとんどの者が、処刑されている。

しかも、

為義の処刑役は、長男の義朝であり、

忠正の処刑役は、甥の清盛であった。


いずれも同族によって処刑が行なわれている。

≪平安初期の「薬子の変」以来、350年ぶりの死刑の復活であった≫

他人事と思おう 月は欠けてゆく  高橋謡子

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「保元の乱勝者たちの得た恩賞」

論功行賞は、

合戦当日の7月11日の中に早速行なわれた。

清盛は最大兵力を動員しながら、

積極的に兵を動かしていない。

にもかかわらず、

乱後、最大の恩賞を手にしたのは、

清盛と平家一門であった。

清盛は安芸守から、

受領の最上国の一つである、播磨守に栄進。

教盛、頼盛の2人の弟が、内昇殿を許されている。

滑っても溶けてもトタン屋根の上  酒井かがり

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乱において、父・為義以下、多くの人材を犠牲にし、

もっとも積極果敢に戦った義朝は、

大きな恩賞を期待した。

ところが、義朝が右馬権頭を任じられただけであった。

そこで義朝は、「これでは、過少である」

と不満を述べ、改めて、左馬頭に任じられた。

右馬権頭では、馬寮の次官に過ぎないのに対して、

  
左馬頭は、長官でずっと格上の職である≫

そのほか、8月3日には、

義康が従五位下に昇進し、

翌年の正月24日には、

義朝が従五位上に昇進している。

春の野でなければならぬ落下点  森田律子

以上のような論功行賞の結果については、

しばしば、

「信西が平家をひいきしたので、

  平家に比べて恩賞が少なかった源義朝は、

  不満を持ち、そのことが、

  『平治の乱』の原因のひとつとなった」


という言い方がされる。

はたしてそうだろうか?

ての平の感情線を握りしめ  谷口 義

確かに、平家では清盛以外の者にも、

恩賞が与えられており、

合戦でこれといった軍功を上げていない割には、

実に恵まれているようにも見える。

しかし、何も戦場での武勲だけが、功績ではない。

言い訳はよそう心に風が吹く  武内美佐子

清盛の一門は、

関わりが深かった崇徳院を見限り、

こぞって、後白河天皇側につくことで、

実際の戦闘に入る前から、

後白河天皇側の優勢を決定的にした。

その功績は、戦場での働きに劣らず大きい。

また、清盛は乱の前にすでに、

正四位下と公卿の一歩手前の地位にあり、

受領としてもすでに、肥後守・安芸守を経験している。

いつもの場所に私の椅子が置いてある  河村啓子

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    馬上の義朝

(画像はクリックで大きくなります)

これに対し、義朝は、

乱の時点で従五位下・下野守と、

まだ駆け出しの受領に過ぎなかった。

しかも、清盛の弟や子どもたちも、

乱以前からすでに貴族として、

それなりの地位を得ており、

清盛はその一門を挙げて、参戦したのだから、

各自に恩賞が与えられれば、

その合計が、膨大になるのも当然なのだ。

わたくしが歩む線です太く引く  早泉早人

両者はそもそものスタート地点が違うのだから、

乱の結果与えられた恩賞に、

格差があるのも当然だろう。

むしろ、義朝に与えられた恩賞は、

左馬頭も内昇殿も河内源氏にとって、

前人未到の待遇であり、

平家ではかつて、

清盛の父・忠盛が獲得した地位であった。

この恩賞を得たことで、

義朝は武士としても、後白河天皇の近臣としても、

清盛の有力な追走者に、躍り出たのである。

宇宙基地からは縄梯子で戻る  井上一筒

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