忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[297] [296] [295] [294] [293] [292] [291] [290] [289] [288] [287]
仏滅の睫毛しずしず燃え尽きる  井上一筒

e5949fb8.jpeg

     経ヶ島縁起

「大輪田泊ー人工島築造エピソード」


福原の外港は、「大輪田泊」と呼ばれ、

奈良時代から瀬戸内有数の港として知られていた。

港の西側に和田岬があって、

自然の防波堤の役割を果たしていたが、

東南は海に開かれており、

風波のために、しばしば船が難破した。

清盛が宋と貿易を始めるにあたって、

この港の整備が最大の難題であった。

いらだちの輪切り重ねて不整脈  たむらあきこ

c035d9b2.jpeg

       経ヶ島

一つずつ石を積み上げて完成させたものの、

翌年、大きな風波が来て、たちまち崩れ去ってしまった。

そこで、表面にお経を書いた石を船に積み込み、

船ごと海に沈めて島を築いた。

工事は承安3年(1173)に始まり、

2年がかりで完成したが、この築港によって、

付近を航行する船が、

「風波にわずらわされることがなくなった」

と、『平家物語』は、たたえている。

息一つ吐いてしっかり打つ句点  笠嶋恵美子

7306d430.jpeg  1614504e.jpeg

                 経 石

はじめ石堤が崩れたとき、

公卿たちは「人柱」を立ててはどうかと提案した。

人柱とは、人間をいけにえとして生き埋めにし、

工事の成功を祈願する古代の呪術の一種である。

なんともおぞましい提案であるが、

「それは罪業である」

という清盛の一言によって、人柱計画は立ち消えとなり、

石にお経を書いて埋める工法がとられたという。

立ち位置が決まらないので吠えてみる  美馬りゅうこ

77250b4e.jpeg


      来迎寺

ところが、『源平盛衰記』によると、

逆に清盛が、人柱を発案したことになっている。

幸若舞の『築島』にいたっては、

清盛が30人の人柱を立てる計画にこだわったが、

最終的に清盛の近習である松王が、

人柱にたち、人々を救う筋立てになっており、

清盛の非道ぶりは、ここに際立っている。

≪現在、神戸市兵庫区の来迎寺には、

このとき犠牲になった松王の墓なるものまで残されている≫


ごった煮の中から真実のあぶく  三村一子

0ce68e61.jpeg

    松王墓


「松王小児伝説」

清盛には、そば仕えの侍童が何人かいた。

その中のひとり、讃岐国の武将の子・松王丸という

十七歳の侍童が、人柱になる人々の惨状をみかね、
 
「人柱などというむごいことは、おやめください。

  私が三十人の身代わりになりましょう」


 と清盛に言い出した。

「侍童」=高貴な身分の人に仕え雑用や話相手などをつとめる少年のこと。

侍童には、頭脳明晰の美少年が選ばれていたという。


わが死語のあおき空かも罌栗(けし)坊主  大西泰世

893509f1.jpeg

     松王墓台座

しかし、清盛はなかなか聞き入れなかった。

それでも松王丸はあきらめず、何度も清盛に訴え、

ついには、清盛も、松王丸の熱意に負け、

申し出を聞き入れるのである。

その後、石の櫃(ひつ)に入れられた松王丸は、

白馬の背に乗り港へと運ばれ、

千人の僧侶の、読経の声がひびく中で、

海の中へと沈んでいった。

それを見送った人々は、涙を流しながら、

お経を書き写した大小さまざまの石を、

海へ投げ入れたと言う。

里山の無縁仏に絶えぬ花  ふじのひろし

拍手[2回]

PR


Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開