ロンパリ!考える椅子
川柳的逍遥 人の世の一家言
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人工島築造エピソード
仏滅の睫毛しずしず燃え尽きる 井上一筒
経ヶ島縁起
「大輪田泊ー人工島築造エピソード」
福原の外港は、
「大輪田泊」
と呼ばれ、
奈良時代から瀬戸内有数の港として知られていた。
港の西側に和田岬があって、
自然の防波堤の役割を果たしていたが、
東南は海に開かれており、
風波のために、しばしば船が難破した。
清盛
が宋と貿易を始めるにあたって、
この港の整備が最大の難題であった。
いらだちの輪切り重ねて不整脈 たむらあきこ
経ヶ島
一つずつ石を積み上げて完成させたものの、
翌年、大きな風波が来て、たちまち崩れ去ってしまった。
そこで、表面にお経を書いた石を船に積み込み、
船ごと海に沈めて島を築いた。
工事は承安3年
(1173)
に始まり、
2年がかりで完成したが、この築港によって、
付近を航行する船が、
「風波にわずらわされることがなくなった」
と、
『平家物語』
は、たたえている。
息一つ吐いてしっかり打つ句点 笠嶋恵美子
経 石
はじめ石堤が崩れたとき、
公卿たちは
「人柱」
を立ててはどうかと提案した。
人柱とは、人間をいけにえとして生き埋めにし、
工事の成功を祈願する古代の呪術の一種である。
なんともおぞましい提案であるが、
「それは罪業である」
という清盛の一言によって、人柱計画は立ち消えとなり、
石にお経を書いて埋める工法がとられたという。
立ち位置が決まらないので吠えてみる 美馬りゅうこ
来迎寺
ところが、
『源平盛衰記』
によると、
逆に清盛が、人柱を発案したことになっている。
幸若舞の
『築島』
にいたっては、
清盛が30人の人柱を立てる計画にこだわったが、
最終的に清盛の近習である
松王
が、
人柱にたち、人々を救う筋立てになっており、
清盛の非道ぶりは、ここに際立っている。
≪現在、神戸市兵庫区の来迎寺には、
このとき犠牲になった松王の墓なるものまで残されている≫
ごった煮の中から真実のあぶく 三村一子
松王墓
「松王小児伝説」
清盛には、そば仕えの侍童が何人かいた。
その中のひとり、讃岐国の武将の子・松王丸という
十七歳の侍童が、人柱になる人々の惨状をみかね、
「人柱などというむごいことは、おやめください。
私が三十人の身代わりになりましょう」
と清盛に言い出した。
「侍童」=高貴な身分の人に仕え雑用や話相手などをつとめる少年のこと。
侍童には、頭脳明晰の美少年が選ばれていたという。
わが死語のあおき空かも罌栗(けし)坊主 大西泰世
松王墓台座
しかし、清盛はなかなか聞き入れなかった。
それでも松王丸はあきらめず、何度も清盛に訴え、
ついには、清盛も、松王丸の熱意に負け、
申し出を聞き入れるのである。
その後、石の櫃
(ひつ)
に入れられた松王丸は、
白馬の背に乗り港へと運ばれ、
千人の僧侶の、読経の声がひびく中で、
海の中へと沈んでいった。
それを見送った人々は、涙を流しながら、
お経を書き写した大小さまざまの石を、
海へ投げ入れたと言う。
里山の無縁仏に絶えぬ花 ふじのひろし
[2回]
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y2012/10/18 09:30 z
CATEGORY[ポエム&川柳]
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