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川柳的逍遥 人の世の一家言
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黄昏て三行目から黴てゆく  山口ろっぱ
 

汁かけご飯を食べる氏政

北条氏4代目・北条氏政に関して、こんな逸話が残っている。

食事の時、ご飯に味噌汁をかけたが その量が少なく もう一度汁をかけた。

それを見た父の氏康は、「毎日の食事であるにも関わらず、

ご飯にかける汁の量が分からないとは、北条家も終わりだな・・・」

と嘆いたという。

「プライドばかりの北条氏政」


息子・氏直とも他の大名とも「笏」(しゃく)置く位置が違う。

北条は北条早雲に始まり氏綱・氏康へと続くおよそ100年もの間、

関東に君臨し続けた戦国大名。

その4代目が氏康の嫡男・北条氏政である。

武田信玄の娘と結婚するが、信玄と対立。

弟の三郎(景虎)上杉謙信の養子に出し武田家を牽制する。

その後、謙信との関係が悪化すると信玄と和睦。

信玄没後、勝頼が景虎支援の約束を反故にしたため、勝頼との同盟を破棄。

武田勢に苦戦すると信長に従属を表明し、武田領の挟撃を図る。

長男・氏直に家督を譲っても発言権を保持した。

仏壇も家紋も背後霊だろう  美馬りゅうこ

信長の死後、氏政は、空白地帯となった信濃を手に入れようと、

氏直と氏邦に命じ大軍を上野に侵攻、滝川一益と対峙した。

この戦いは、たった2日、一益の惨敗をもって決着。

その足で北条軍は、碓氷峠から信濃に進出、真田昌幸・木曾義昌

諏訪頼忠などを取り込み、信濃東部と中部を占領下に置く。

その後、北条軍は甲斐に侵攻してきた徳川家康と対峙する。

長期戦となった家康との戦いは、秀吉の関東統一を睨む動向と

真田昌幸が徳川方についたことで風船が縮むように沈静化、

家康の娘・督姫を長男・氏直の嫁に向かい入れて和睦と同盟を結び、

合意の条項に甲斐・信濃を徳川領、上野を北条領とすることが含まれる。

昌幸とって沼田城を北条に明け渡すことは、断固として譲れなかった。

家康に不審を抱いた昌幸は、徳川を離れ上杉景勝に従属、

上田・沼田城にて、
徳川・北条と抗戦することとなる。

相槌がインプラントを逆撫でる  岩根彰子



これらの懸案が後の「沼田問題」さらに「名胡桃事件」の伏線となる。

「小田原北条征伐」の導火線がそこにあった。

秀吉が時の権力者となると、北条氏政と北条氏直に上洛するように

求められたが、成り上がりの秀吉に対して、

北条氏政は
弟・北条氏照北条氏邦と共に、

空気読めない強硬姿勢をとりはじめ、


空気を読める北条氏直北条氏規との間で意見がまとまらなかった。

事ここに至って、秀吉は小田原征伐を決定して宣戦布告したのである。

対し北条氏政は、籠城を決め徹底抗戦を決めた。

100年にわたる戦国大名・北条氏による関東支配の終焉とも知らず。

正解を失くしてからの猛吹雪  中野六助


「北条記」につぎのような言葉が残る。

「四世の氏政は愚か者で、老臣の松田入道の悪いたくらみにまどわされ、

    国政を乱したけれども、まだ父氏康君の武徳のおかげがあって、

    どうやら無事であった」

オルガンのファ~の音から出られない  蟹口和枝


氏直は「笏」胸前に持つ

「虚弱な北条氏直」

北条氏政の次男。

母親は武田信玄の娘である黄梅院。幼名は国王丸。


武田・北条・今川のいわゆる「三国同盟」から生まれた子供であった。

15歳で元服し、里見義弘との抗争で初陣を飾る。

天正8年(1580)、父・氏政から家督を譲り受けるもお飾りの当主で、

実権は依然として氏政が握って離さなかった。

「本能寺の変」後、上野を攻め滝川一益の軍を「神流川の戦い」で破る。

その後、信濃から甲斐に侵攻し徳川家と対抗するが、和睦に至り、

家康の娘・督姫を娶る。

頭陀袋の中で柵笑ってる  中川隆充

北条と徳川との和睦の条件の一つであった沼田領統治をめぐり、

真田家とは幾度となく争うが、決着がつかなかった。

そして、天正17年(1589)豊臣秀吉が仲介に入り、

昌幸が占拠していた沼田3万石のうち2万石が氏政に返還、

残った1万石の「名胡桃城」は、

昌幸が「ここは先祖の墓がある土地なので」 
と主張し

引き続き昌幸のものとして残る。


また、昌幸が失った2万石は家康が自領から分け与えることとなる。

歯車の歯は欠け欠けて稼働中  藤井孝作
                                    いのまたくにのり
これで一件落着かと思われた矢先、北条配下の沼田城主・猪俣邦憲が、

名胡桃城の家臣を買収して工作し、

城を乗っ取ってしまうという事案が発生。


これを聞いた秀吉は、大名同士の私闘を禁じた「惣無事令違反」だと激怒。

しかも再度上洛を要請しているにも関らず、

未だに上洛する気配のない氏政に愛想を尽かした秀吉は、


武力で北条一族を討伐する意志を固めたのである。

失望というな名の船が打ち寄せる  高橋謡々

北条を滅ぼす大義名分(口実)を得た秀吉は、

20万という
未曽有の大軍を率いて小田原に乗り込んできた。

小田原合戦の幕開けである。

一夜城、調略、兵糧攻めなど、秀吉が得意とする持久戦に持ち込むと、

さすがに難攻不落の小田原城も内部からも崩壊していき、

5ヶ月の長期戦の末、降伏を余儀なくされる。

夕暮れにラッキョウの声になっている  河村啓子



戦後処理は、城兵を助命するという条件と引換えに責任者の処罰。

氏政氏照とともに弟・北条氏規の介錯をうけ切腹。

氏政は享年53歳であった。


また氏直は助命、北条氏規らとともに出家して高野山に入る。

翌年、氏直は秀吉によって赦免され、大坂の織田信雄の屋敷で暮らす。

その後 秀吉から河内国に1万石の領地を与えられたが、

現地に赴く前に死去。

享年30歳であった。


運命と貧乏神に尽くし抜く  森吉留里恵

父の言われるがまま30年を生きた氏直を評価する、

「北条記」によると、


「五世の氏直君は、ずいぶん判断力に富んでいたが、

    惜しいかな虚弱な体質であったために みずから裁決せず、

    人まかせにするあやまちをおかしたために、

    ついにその家を失うことになった」


「4代・北条氏政が実権を握り続けたことから、北条家は滅亡した」

と巷では囁かれている。

気がかりを形にすれば干しぶどう  嶋沢喜八郎

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