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川柳的逍遥 人の世の一家言
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水ゴクリ危ない啖呵きりに行く  美馬りゅうこ


   真田昌幸

「油断がならない者」

混乱の中で、沼田城や岩櫃城を滝川から取り戻した真田昌幸は、

以後、自分自身を取り巻く情勢を的確に読み、

大大名を手玉にとって独立大名の地位へと躍進する。

この混乱を振り返ってみると、まず煮え湯を飲まされたのが北条であった。

信長横死後、北信濃を窺う上杉に従属した昌幸は、

7月中旬に
北条の大軍が信濃に侵攻してくると、

上杉から離れて北条に従う。


とりあえず醤油をかけて様子見る  竹内ゆみこ

しかし、昌幸は次の一手をすかさず打つ。

北条が上杉に挑まず、徳川と対峙すべく南に転進すると、

昌幸は上杉への備えを主張して信州小県に残留。

一見、北条の後顧の憂いを除く提案である。

しかし、昌幸の思惑は別にあった。

すなわち昌幸は独立に向けて自然な形で北条と距離を置いたのである。

そして北条と徳川が対峙すると徳川家康は、

昌幸の存在を奇貨として陣営に
誘い、昌幸はこれを受けて

北条から徳川へと鞍替えして、
北条の兵站を遮断する。

両面のテープもいつか風化する  高島啓子


  天正壬午の乱 (六文銭に対し北条の大軍の幟がはためく)

北条氏直にすれば見事に昌幸に急所を衝かれた格好で、

結果、形勢不利となり信濃からの撤退を余儀なくされた。

天正壬午の乱のキャスティングボートは、

正に真田が握っていたのである。


巧みに真田を取り込んだと思われた家康ですら、

実は掌の上で転がされているに過ぎなかった。

まず昌幸は家康に越後の上杉の脅威を訴え、

徳川の前面支援を受けて尼ヶ淵に築いた新城が上田城であった。

後に二度も徳川撃退の舞台となる上田城を昌幸は実は、

家康を利用して築いていたのだ。

手首から先は鴎になりたがる  八上桐子

ところが問題が起きる。

家康は北条との和睦の際、真田の沼田城の引渡しを勝手に約束していた。

しかし昌幸は断固としてこれを拒否。

家康は自分に従わぬ昌幸を亡き者にすべく信濃の国衆・室賀正武を使って

暗殺を試みるが、事前に計画を察知した昌幸は逆に室賀を討ち取った。

家康と断交間近と読んだ昌幸が新たな帰属先に選んだのが、

これまで対立を重ねてきた上杉景勝であった。

この時、真田が上杉と結びつくために差し出した人質が信繁である。

あの「うん」がこんな結果になるなんて 佐藤美はる



話は天正14年へととぶが、信濃の小さな大名に過ぎない真田氏が

東国で角逐する徳川・北条・上杉といった大大名を振り回していることを

秀吉もよく承知しており、天下統一のため、東国の支配秩序確立のために、

大大名優先の策をとった。

その一環として、家康と昌幸との懸案になっていた沼田・吾妻領問題で、

家康に味方し、真田氏討伐さえ許可するとともに、

真田氏の後ろ盾になっている景勝にも、

真田方の肩入れしないように牽制した。
     ひょうりひきょう
それが『表裏比興の者』という有名な文言である。

人だから人を欺くこともある  大海幸生

「真田事…表裏比興の者に候間、成敗を加えらるべき旨、仰せ出され候」

と昌幸名指しで非難し、成敗を加えてもよいと伝えている。

「表裏比興」とは裏表があって卑怯であり、信用できない人物という意味。

まさに悪名といってよいが、逆にいえば、

昌幸の油断ならぬ器量を秀吉が認めていたともいえる。

実際、家康の真田氏成敗は実施されず、

むしろ、真田氏を家康の与力大名に組み入れることで決着したのである。

有様もあらざるものも現世  山口ろっぱ

その後、北条と真田との沼田領分割問題でも、

秀吉は北条に有利な裁定を下したが、北条がその裁定に従わず、

真田方の名胡桃を奪ったため、一転して北条氏が成敗されることになった。

秀吉は一方の当事者である真田を前田利家、上杉景勝の北陸勢に

組み入れ、上州口からの侵攻にあたらせた。

秀吉の目指す東国平定で、真田はあくまで副次的な存在でしかなかったが、

徳川・上杉・北条といった大大名を服属させるうえで、

道具にも阻害物にもなった厄介な存在であった。

修正へ吹きこぼれるを待っている  山本早苗

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