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川柳的逍遥 人の世の一家言
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生きたいと願うきれいな土ふまず  森中惠美子

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高浜虚子句(下村為山画)

子規逝くや十七日の月明に  高浜虚子

子規高浜虚子を、後継者と考えていた。

文学を志すといいながら、高校への入退学を繰り返し、

同級生の河東碧梧桐とつるんで、遊び暮している虚子に、

苛立ちを覚えながら、愛情をもって接している。

後継の話を持ち出したのは、

子規の脊椎カリエスが発見されて、直後のことだった。

芋阪の団子の起り尋ねけり(明治31年)

とがらせた芯でハートを突いてみる  三村一子

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文政2年(1819)創業の老舗の団子屋の団子・餡と焼き

≪子規や漱石のはか、田山花袋、岡倉天心、泉鏡花らも愛好した≫

子規は、道灌山にある茶店で駄菓子を勧めながら、

「学問をして自分の跡を継げ」

と迫った。 しかし、虚子の答えは、

「好意に背くことは忍びんことであるけれども、自分の性行を曲げることは、

 私(あし)には出来ない」

と言うものだった。

虚子は飄然としていながら、妙に我の強いところがある。

こうして後継の話は立ち消えになったが、子規の愛情は変わらなかった。

漱石が来て虚子が来て大三十日(おおみそか)(明治28年)

≪だが少し後に、柳原極堂が松山で発行していた俳諧誌『ホトトギス』を、

 東京で引き取ることになり、編集責任者となった虚子は、

 事実上、
後継者の役を担うことになる≫

一言が過ぎて酸っぱい仲になる  吉道航太郎 

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    松山城風景画               

「子規をしのぶ」

伊予松山という佐幕の小藩出身者では、子規や真之のような才幹であっても、

中央で驥足(きそく)を展ばせないのは、目に見えていた。

しかし、歴史とは大きな偶然でもある。

子規と真之の偉いのは、思わぬ偶然から、文学と海軍の世界に進む道が、

分かれながら、ひたすら、「近代日本のために、何事かをなさん」

とする、健気な青春をてらいなく過ごした点にある。

初日さす硯の海に波もなし(明治26年)

わたくしの色に自分史染めあげる  たむらあきこ

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子規は西洋嫌いの祖父の命令で、まげ姿で小学校に通っていた。(明治7年)

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上京して2年後、初めて帰郷した際に母と記念写真。(明治18年)

(この年から、積極的に俳句を作り始める)

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19歳、第一中学校予科(東京大学予備門)の制服姿。(明治20年)

茶の花や利休の像を床の上(明治20年)

綿菓子はファンタスティックに噛みなさい  山口ろっぱ

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子規が、明治21年から4年間暮した”常磐会寄宿舎”

屋根に登って寮生と記念撮影に写る子規。

≪旧松山藩の子弟のために、旧藩主の久松家が建てた寮≫

『常磐会寄宿舎2号室(子規の部屋)は、坂の上にありて、

 家々の梅園を見下ろし、いと好(よ)きながめなり』 坂の上の雲ー(1)

(ここは、元・坪内逍遥の家で、坂の下には、樋口一葉が住んでいた)

青々と障子にうつるばせを哉(明治21年)

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大学時代の子規は、俳句や短歌のほか、ベースボールにも熱中した。(明治22年)

鴬や東よりくる庵の春(明治25年)

幸せは今日も同じ顔に会う  野村増二

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子規が絶筆三句をしたためる四畳半
                      

常磐会宿舎に4年間暮した後、根岸に移る。

名月や我は根岸の四畳半(明治26年)

俳句や短歌の革新を志した子規は、

激痛を伴う重病にかかりながら、

新聞記者として活躍したく、日清戦争にも従軍する。

もっともっと日本の夜明けのために、国民の啓発のために働きたい」

のに体が許さず、切ない思いに泣く子規。

子規は、海軍の若きエリートとして、

アメリカ研修に出かける秋山真之の抱負と自覚に、接するにつけ、

やるせない思いをする。

(しかし同時に友人の幸運を素直に祝福もしている)

いくさかな我もいでたつ花に剣(明治28年)

ドロボーが盗む米ドロボーの米  井上一筒

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       子 規 堂

子規が17歳まで暮した住居を、正宗寺住職の仏海禅師が境内に復元した。

子供時代の子規の三畳の書斎や、子規が使用の机・遺墨・遺品・原稿など展示。

≪入館料50円・・・とは、うれしい≫

いもうとが日覆(ひおい)をまくる萩の月(明治30年)

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脊椎カリエスのために伸ばせない左膝を入れるために、机は特注している。

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床の間には晩年の子規を描いた自画像を展示している。

樽柿を握るところを写生かな(明治35年)

脈々と家を繋いでいる彼岸  田中山海

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「子規と漱石」

日露戦争を描く『坂の上の雲」の登場人物に、

司馬遼太郎は、なぜ漱石でなく、子規を選んだのでしょう。

本来ならば、漱石こそが適役のはず。

なにしろ子規は、日露戦争の前に死んでしまうのですから。

実際、ロンドン留学中の漱石は、1902年の”日英同盟締結”を現地で知り。

ヴィクトリア女王の葬儀と、

敗兵の行進のようなボーア戦争の凱旋式も目撃している。

月のかけらも皿のかけらも物議あり  荒井慶子

漱石は、「坂の上の雲」のなかでは、表立った存在感を示していない。

子規の友人として、間接的に物語に登場し、文学を志しながら、

軍人への道に転じた真之との対比で語られるだけだ。

20世紀的国際情勢をロンドンで肌身にしみて感じとり、

日本の立場を思いやったのは、漱石なのである・・・が。

筒袖や秋の柩にしたがわず  夏目漱石

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≪ロンドンにて子規の訃を聞き、虚子よりの要求で書いた追悼句≫

ドラマ性も、ニュース性も、併せ持った漱石が、

三人目の登場人物としていれば、

また違ったロマンのある物語が生れたのではないかと思うのである。

≪小説のなかの子規は、何度も真之に漱石を紹介しようとするが、

 不思議なことに間が悪く、この二人は最後まで邂逅することはない≫

くちばしに残業させておきなさい  立蔵信子

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母・八重(右)と妹・律(左)

≪子規の死後、叔父・加藤拓川の息子・忠三郎を養子にして家を継がす≫

いもうと律は、どれだけ子規の支えだったか。

”坂の上の雲”NHKのドラマでも、律の健気に泣かされる。

母と二人いもうとを待つ夜寒かな(明治34年)

いもうとの帰り遅さよ五日月(明治34年)

覚悟してこっそり落ちた寒椿  早泉早人

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