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川柳的逍遥 人の世の一家言
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越えるなと言われた線が動き出す  黒川孤遊

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    坂の上の雲・船出

『日清戦争「武士道の精神」にみる美談』

日清・日露に活躍した将官には、

戊辰戦争や西南戦争に出動した経験の持ち主が、

非常に多いという事に気づく。

いわば、これらの男たちは、幕末まで”武士として”育ち、

明治日本の近代化と並行して、”軍人として”の道を歩み始めたのである。

ということは、日清・日露戦争には、

「まだ、武士道の精神が生きていた時代に行なわれた対外戦争」

という一面が見えてくる。

草に寝て空をわたしの空にする  宮崎ただじ

たとえば、旧薩摩藩に生まれ、薩英戦争に参加して、

イギリス海軍の強さを、間近に見せつけられた『伊東祐亨』(いとうすけゆき)という、

豪放磊落な薩摩人がいる。

これを契機として海軍を志した伊東は、

西南戦争に際しては、軍艦「日進」の艦長として薩軍追討に参加。

日清戦争がはじまると、連合艦隊の初代司令官として、

黄海海戦、威海衛突入戦で、清国の北洋水師を、鎧袖一触してみせた。

☆ 鎧袖一触(がいしゅういっしょく)

(鎧の袖を少し触れた程度の力で敵を倒す意から、相手をたやすく打ち負かすこと)

司馬遼の風武士を連れてくる  夏井誠治

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    伊東祐亨

そして、北洋水師の提督・丁汝昌が敗北の責任を取って、

服毒自殺したと報じられた時。

伊東はその柩が、不潔なジャンクに載せられて、故郷に運ばれると聞くや、

戦利品として、捕獲したばかりの運送船・「康済号」を清国側に返還し、

これに、「丁汝昌の遺体と遺品を載せて送るように」指示した。

そればかりか、「余裕があれば将士を乗せてもよい」と付言した。

腐葉土の中にも半跏思惟像  井上一筒

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   北清事変講和条約

大日本帝国憲法のもとでは、

宣戦講和や条約締結は、天皇の大権に属するから、

いかに司令長官とはいえ、戦利品の一部を勝手に敵国に返すことは許されない。

というのに、あえてこのように命じたところに、

伊東なりの武士道の精神があったのだ。

この美談は、博文館発行の『日清戦争実記』に大きく報じられ、

一夜にして伊東は、英雄としてもてはやされることになった。

しかし彼は、つぎのような和歌を詠むばかりであった。    

”もろともに建てし功をおのれのみ世にうたはるる名こそつらけれ”

富士山の肩にマフラー巻きつける  松下ヒロス

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日英の蜜月関係にロシアが嫉妬している様子を描いている。
                              (1902年英『パンチ』誌)

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日英同盟は清国と韓国において互いの権益を承認保護し合う。

「日英同盟」

日清戦争に敗れた清国は、

大国にもかかわらず、弱体だったことが暴露される形となり、

ロシア・ドイツ・フランス・イギリスなどの列強が、

一気に中国へ進出してくる状況を迎えた。

特にロシアには、悲願があった。

”凍らない港”の確保である。

≪結果、ロシアは、満州北部横断の東清鉄敷設権と旅順・大連・金州の租借権を獲得。

 フランスは、安南鉄道延長権、広東三省等の鉱山採掘権と広州湾の租借権を、手に入れ、

 ドイツは、膠州湾の租借権と山東省の鉄道敷設権・鉱山採掘権を、手に入れた。

 イギリスもまた、九龍半島と威海衛の租借権を、手に入れている≫

抹茶椀水の甘さを知りつくす  亀山 緑

こうした列国の中国進出を怒った民衆が、反乱を起こした。

「義和団の乱」である。

義和団というのは、農民を中心とする宗教的秘密結社で、

「扶清滅洋」(ふしんめつよう)をスローガンに、

明治33年(1900)蜂起し、鉄道を破壊したり教会を焼いたり、

北京の外国公使館などを襲撃したりした。

≪当時、清国の利権は列強諸国に食い荒らされ、とくに鉄道の敷設によって、

 地方では、重い税金をかけられ、清国の農民は死ぬ苦しみを味わっていた≫

石ひとつ投げて波紋を見届ける  吉岡 修

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このとき、地理的にも一番近い日本は、

すぐ鎮圧のための軍隊を、出そうと思えば出せたのだが、

「列国を困難に陥らしめて後、これを救うのが得策」 (桂太郎)

という”作戦”によって、すぐには派兵しなかった。

事実、その作戦は当たり、イギリスからは日本軍の出兵を求め、

財政援助まで申し出てきたのである。

結局、日本は1万2千の兵を送り、義和団鎮圧を成し遂げた。

≪翌34年、「北京議定書」が調印されることになった。

 この一連の動きを「北清事変」とよんでいるが

 日本の「極東の憲兵」としての位置づけを、列強も認めはじめる出来事だった≫

戦国の世に爪だけは静かなり  壷内半酔
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この北清事変を通して、日本とイギリスとの間は、さらに接近する形となった。

イギリスは、果てしないロシアの南下政策を止めるには、

「日本の武力」が必要と考え、

また日本は、「イギリスの資本と技術」を高く評価し、

明治35年1月30日、ロンドンにおいて、

「日英同盟協約」が結ばれることになる。

当面する利害の一致で、結ばれた日英同盟が、

その後の、「日本の軍国主義的方向を決定づけてしまった」といえる。

かさぶたの剥がれるときを待てません  たむらあきこ

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