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川柳的逍遥 人の世の一家言
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鍵括弧の中が沸騰しています  雨森茂樹




     「長久手合戦図屏風」 (徳川美術館蔵)

長久手の追撃戦における井伊直政の活躍が中心に描かれており、
康政の姿をみることはできない。
右から5番目の第5扇・上部には森長可、第4扇の下部には、
池田恒興の討死の様が描かれている


第5扇  黒い旗印は森長可か

第4扇 二本の槍に倒れる池田恒興 




1584年(天正12)3月、織田信長亡き後の覇権を争って羽柴秀吉
徳川家康の両雄が対決した。
「小牧長久手の合戦」である。
両軍は、相手が動き出すのを待って睨み合ったまま、戦線は膠着状態に
陥っていた。その最中、家康の陣営から一枚の「檄」が発せられた。




屏風図にはっきりと描かれている旗印

  井伊直政    酒井忠次    森長可     池田恒興



流氷のにおいを抱いている手紙  赤松ますみ




家康ー榊原康政の檄文





榊原康政の石像  東岡崎駅近く桜城橋に立つ
右手に筆をもち檄文を書き終えた様子で立つ。






「家康ー危ない檄文の中身」
「檄」とは、敵の罪悪などを挙げるとともに、自らの主張も述べて広く
知らせる文書のこと。 これを読んだ秀吉は、烈火のごとく怒った。
書かれていた内容は、凡そ次のようなものである。
『信長公が倒れると、秀吉はその恩も忘れて、まず信孝公(信長の3男)
を殺し、今また信雄公(信長の2男)を討って主家を倒そうとしている。
これは大逆無道の振る舞いで、言うも愚かである。
一方、家康公は、信長公との親交を想って憤慨に耐えず、信雄公を助け
て大義のために立ちあがり、秀吉を討とうとしている。
天下の諸侯よ、逆賊・秀吉に味方して千載の恨みを残すより、我ら義軍
に味方して逆賊を討ち、その名を後世に伝えられよ』



セレナーデ流す壊れた鍵穴に  河村啓子




これより先の1582年(天正10)6月、信長が本能寺に倒れると秀吉
は、「山崎の合戦」で主君の仇・明智光秀を討ち、自ら天下取りに乗り
出した。 翌年4月には、「賤ケ岳の合戦」で柴田勝家を倒し、勝家に
味方した信孝を自害させている。
次に邪魔になったのは、事実上、信長の跡を継いだ信雄や、今川義元
き今「海道一の弓取り」と称される徳川家康だ。
秀吉は、信雄の家老たちの離反をはかるなど、得意の外交で揺さぶりを
かけるが、信雄は、家康に応援を求め、両者の同盟が成立した。



一丁噛み流れに棹をさしたがる  油谷克己




   
        榊 原 康 政              




これによって家康には、「主君信長の遺児に味方して逆賊を討つ」とい
う大義名分ができ、一方の秀吉には、「主家の織田家に弓を引く」とい
う弱みが生じていたのである。
家康陣営から発せられた「檄」は、秀吉の一番痛いところを突いていた。
秀吉が激怒したのも無理はない。
檄を書いたのは、徳川四天王のひとり・榊原康政で、怒り心頭の秀吉は、
「康政の首を取った者には恩賞望み次第」という触れをだしたという。



人間味嗅ぐとあの人鼻つまみ  ふじのひろし




   榊原康政小牧山檄文檄文の図  (揚州周延)



「榊原康政とは」
筆一本で秀吉を激怒させた男・榊原康政は、1548年(天文17) 三河
上野郷で生まれた。榊原氏は、代々松平家に仕えた三河武士で、康政は
15歳のときに、家康にその器量を認められお側付きとなった。
当時の三河では一向宗が強い勢力を持っていたが、康政が家康に仕え始
めた翌年の1563年(永禄6)、大規模な一向一揆が起った。
16歳になった康政の初陣の相手は、この一揆軍であった。
三河上野の戦いで、彼はめざましい働きをする。
その功により、家康から「康」の一字を与えられ、それまでの小平次と
いう名を改めて「康政」と名乗るようになった。




未使用の命につけるGPS  森乃 鈴



「三河一向一揆」は、翌年の2月にようやく平定され、家康は勢力拡大
へと動き始める。康政も家康とともに、数々の戦塵を潜ることになった。
「三方ヶ原の戦い」では、武田信玄のために手痛い目に遭ったりしたが、
領国拡大のための多くの合戦では、常に先陣を切って戦い、
「あるいは城を攻め、あるいは野に戦うこと数えきれず、およそ康政が
向かうところ、打ち破らず、ということなし」
と、称えられたほどの活躍をしている。



連帯の覚悟を問うている戦禍  前中知栄





        小 牧 山 陣 形


1584年(天正12)3月、信長の遺児・信雄を支援するという大義名
分をもって家康は、秀吉と戦端を開く。
家康は小牧山に本営を置いたが、これは康政の進言によるものであった。
小牧山は標高86m。たいして高くはないが、平坦な野にあるため周囲
を一望できる戦略上の要地である。
当然、秀吉方もそこに目をつけ、ただちに配下の森長可森蘭丸の兄)
軍を8km北方の羽黒へ進出させたが、康政らが奇襲をかけて、これを
潰走させた。
秀吉軍は、小牧山の北東3kmに本営を構え、徳川軍と向かい合う。
4月6日、羽黒での敗戦の挽回を狙う森長可とその義父・池田恒興らは、
家康が留守にしている三河の本拠地を攻撃する作戦を立て、ひそかに出
発した。



ウインナーワルツ鳴門の渦になる二人  井上恵津子





            小 牧 山 康 政 秀 吉 を 追 う




しかし、家康はこの行動をすぐに察知し、康政らを率いて追撃に入った。
池田恒興森長可は、まっすぐ三河へ進むべきなのに、途中の小城の攻
略に時間をとられ、長久手の付近で徳川軍に追いつかれてしまう。
池田・森軍は、背後から急襲されて大混乱に陥り、池田恒興も森長可も、
乱戦の中であえなく討死。徳川軍の大勝利であったが、いうまでもなく
この戦いでも康政は奮戦した。
この「長久手での戦い」の後、両軍は対陣したまま相手の出方を窺って、
戦線は膠着状態に入った。
康政の檄はこのときに書かれたものである。



青かった地球に少し焦げ目つき  真鍋心平太





       初花肩衝
和議に際し秀吉から家康に贈られた信長の茶壷




結局「小牧長久手の戦い」は前哨戦の「羽黒の戦い」「長久手の追撃」
以外には、戦闘らしい戦闘は行われず、11月に秀吉からの申し入れで、
講和が成立した。
これら一連の功績に家康は、康政に千貫を加増し「笹穂の槍」を与えて、
その功を賞している。




しがらみをやっとたち切り無重力  松浦英夫





2年後、秀吉は、家康の後妻として妹の旭姫を輿入れさせることにし、
その結納に際し、家康側の使者として、榊原康政を希望した。
康政と対面した秀吉は、例の「檄」について
「あの時は腹が立って、そなたの首をとってやろうと思ったが、今は主
 君に対する忠誠の志と感じ入っている…。それを言うためにここに呼
 んだ。儂もお主を小平太と呼んでよいか。徳川殿は小平太殿のような
 武将を持っていて羨ましい。その功を賞して、従五位下・式部大輔の
 官位を贈ろう」と言い、祝宴まで開いたという




その時はその時深く考えぬ  柴本ばっは




    奮闘虚しく徳川軍に捕らえられる木下勘解由利匡




「小牧長久手の合戦、終了の模様」
岡崎城を目指し三河に侵攻した秀吉軍は総勢2万。
秀吉の甥・三好信吉(のちの秀次)が総大将を務める主力8千は、
その最後尾を進んでいた。これを徳川追撃軍の先遣隊4千5百が密かに
追尾していることに、三好隊は全く気付いていない。
1584年(天正12)4月7日早朝、徳川軍の銃口が一斉に火を噴く
と先遣隊が三好隊に襲いかかった。
凄まじいばかりの猛攻に、秀吉軍はたちまち総崩れとなり、信吉も馬を
倒され歩いて逃げざるを得ないほど。
この大ピンチを救ったのが家来の木下勘解由利匡(としただ)である。
利匡の差し出す馬に乗って信吉は、命からがら犬山城に逃げ帰った。
利匡は奮戦したものの、徳川軍の前に戦死。
ここに小牧長久手の合戦は事実上終戦した。




終止符を打った古傷又疼く  大島美智代

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