忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[1095] [1093] [1092] [1091] [1090] [1089] [1088] [1087] [1086] [1085] [1084]
喉元を過ぎれば明日のカレンダー  細見さちこ




         賤ヶ岳合戦図屏風  右隻
大岩山・岩崎山の攻防と佐久間勢の撤退、秀吉軍の追撃の模様を描く。
(中央部分に「七本槍」の戦いの様子も描かれている)
実際の激しい戦闘を忠実に描いたというより7人の目覚ましい働きぶり
を象徴的・伝説的に描き出したもの。


織田信長の天下統一の夢への野望は、「本能寺の変」によって、その命
とともに炎に焼かれてしまった…信長の跡を継ぐのは誰なのか?
変直後、いち早く謀反人・明智光秀を討ち取った羽柴秀吉は、事実上、
信長の天下統一の継承者として名乗りをあげることとなった。
しかし、信長の3男・信孝や信長の家臣の中でも、屈指の実力をもつ
田勝家らは、秀吉の政策に不満を募らせ、次第に対立を深めていく。
天下人への野望をさらける秀吉の運命の瞬間に立ち塞がるのは、
秀吉の若武者・7人であった。




 『賤ケ岳山頂から柴田軍の砦を見下ろす七本槍』 (歌川豊宣画) 
中央・秀吉 手前右・福島正則 手前左・片桐且元 左奥・加藤清正
福島正則後右から加藤嘉明 脇坂安治 平野長泰 木の横・糟屋武則


鉛筆の重い日もある句読点  荒井加寿


家康ー賤ケ岳七本槍



      福島正則
尾張の桶屋を父に、秀吉の伯母を母に持つ正則は、秀吉にとっては従兄
弟にあたる。そうした血縁の近さもあってか、天正6年以来、秀吉に近
く仕え、早くからその能力を認められていた。
賤ケ岳の合戦で拝郷五左衛門を討ち取ったのは正則だという説もあり、
恩賞は「七本槍」の中でも随一の5千石だった。
そのことが加藤清正らの不満を生んだともいわれている。
(天正6年=1578年)


秀吉子飼いの若武者たちのデビュー戦
1583年(天正11)3月には、秀吉勝家の両軍が、北近江で対陣、
同時に岐阜で信孝が挙兵という形で対立は戦いへと発展する。
秀吉は信孝を討つため、4月16日に大垣城へ入るが、その隙をついて
勝家は、北近江に残る秀吉の留守部隊に襲いかかった。
引き返すべく秀吉が大垣を発ったのは、4月20日午後4時頃、ひたすら
駆けて、夜には余呉付近にまで全部隊を集結させる。
大岩山砦で秀吉軍を待ち受けていたのは、勝家の甥・佐久間盛政である。


再起する朝の光を身に受けて    興津幸代



       加藤清正
秀吉と同郷出身の清正は、9歳の頃から秀吉の台所方に仕えた。
秀吉のもとで元服した後は、虎之助清正と名乗り「虎、虎」と秀吉夫妻
に可愛がられた。清正の母は、秀吉の母・大政所と従姉妹同士、即ち、
秀吉と清正は又従兄弟の関係でもあった。
賤ケ岳では敵将・山路将監と槍同士の一騎打ちを演じ、見事その首を討
ち取る。一説には、拝郷五左衛門の鉄砲頭の首だったともあるが、いず
れにしろ、誠実で忠誠心の厚い臣下だった。

佐久間盛政隊は、秀吉軍のあまりの勢いに一旦は退くものの、21日未明
撤退しながら、鉄砲隊で待ち伏せるという逆襲をかけ、激しく抵抗した。
折よく柴田勝政(盛政の弟)隊の援護も得られ、盛政の兵はほとんど無
傷で権現坂辺りまで撤退することができた。
しかしその間、秀吉の舞台もさらに人数を増し、賤ケ岳に
その兵力を集中させていた。そして21日朝、盛政の部隊に合流しようと
動いた盛政隊めがけ、秀吉の号令一下、賤ケ岳山頂から精鋭たちが駈け
下りていく。
その隊列の中に、福島正則、加藤清正、片桐勝元、脇坂安治、糟屋武則、
加藤嘉明、らの姿があった。
後世「賤ケ岳七本槍」と語り継がれる若者たちである。


天空と綱引きをする凧の糸  大森昭恵



      片桐且元
浅井長政の重臣であった直盛(且元)の父・直貞は、姉川の合戦後信長
に寝返って秀吉の配下となっている。従って且元も弟の貞隆とともに、
幼少の頃より秀吉に仕えることになった。
賤ケ岳の合戦では、敵将・拝郷五左衛門を討ち取ったといわれる。
秀頼付きの家臣を監察する役目を仰せつかる。


賤ケ岳七本槍の戦いぶり
隊列を乱して敗走する勝政の兵に、激しく襲いかかる秀吉軍の兵たち。
なかでもめざましい働きをみせたのが、秀吉子飼いの若き武士たちで
あった。
一方、盛政、勝政両隊にも、勇名を馳せる武将は多い。
信長配下随一といわれた拝郷五左衛門や剛力の誉れ高い山路将監、宿屋
七左衛門らは、単身敵方に乗り込み、夥しい数の秀吉軍の兵を槍で突き
斬り殺していった。


弱点があって人間らしくなる    大高正和




   糟屋武則(かすやたけのり)
播磨三木城の別所長治に属していたが、天正6年頃から秀吉の小姓とし
て仕え始めたといわれる。後に、その三木城は、秀吉によって攻められ
落城。賤ケ岳では、秀吉の弟・秀長の近習である桜井佐吉が、宿屋七左
衛門の槍に追い詰められていたところを、武則が脇から突きかかって、
宿屋を討ち取った。その槍さばきは電光の閃きのようだったという。


しかし、「七本槍」に取り囲まれるうちに彼らの勢いも失せ、1人また
1人とその命を断たれていくのだった。隊長の勝政自身、戦闘のさなか
無念の討死をしている。戦場となった余呉湖畔には兵たちの死体が溢れ
彼らの流す血によって湖面が赤く染められたという。
敗色濃厚となるも、盛政は、諦めることなく部隊を立て直して反撃に出
ようとしていた。
しかし、援護を期待していた前田利家隊の突然の撤退によって盛政隊は
壊滅、勝家本隊も、やがて窮地に追い込まれることになる。


ふるさとがだんだん点になっていく 小出順子



       脇坂安治
近江国の生まれ、永禄12年の丹波黒井城攻めが初陣で、最初は信長
仕えたが、のちに秀吉配下となり、三木城攻め、賤ケ岳と戦功を重ねた。
秀吉に仕えたいあまり命令に背いて伺候したため、何度も秀吉の叱責を
受けたが、結局、その志と熱意が受け入れられて信頼を勝ち取ることが
できたという。武功だけでなく和漢の学門に通じ、和歌をも嗜む意外な
一面を持っていた。 (永禄12年=1569年)


柴田勝家は、やむなく北ノ庄城へと敗走し、数日後には妻・お市の方
ともに自害して果てた。
ここに、賤ケ岳の合戦での秀吉の圧勝と天下人としての運命が決定的と
なる。その勝機をもたらしたのが「七本槍」のめざましい働きであった。


戦争が終わる大きな穴あけて  板垣孝志



      加藤嘉明
13歳の頃から秀吉の養子・秀勝に仕えた嘉明は、秀吉の播磨出兵に際
し、秀勝の許可なく秀吉軍に参加する。このため、秀吉の正室・おね
不満を買うが、秀吉は義昭の志をくみ、そのまま直属の軍に加えた。
以来、秀吉のあるところには必ず加藤義昭の姿があり、常に冷静に次々
と武勲を立てたという。


賤ケ岳での武勲を受けて、秀吉からは手柄の大きい者たちへ「一番槍」
と、称える感状と格別の恩賞が与えられた。
福島正則には、5千石、他の6名には、それぞれ3千石である。
それ以外に秀吉の弟・秀長の家臣であった桜井佐吉と秀吉の養子である
秀勝の家臣、石川兵助にも、恩賞を与えられたが、この2名は、秀吉の
直臣でなかったため後世「七本槍」には数えられなかった。


モニターの癖に暑いとか言うな  森 茂俊



      平野長泰
長泰秀吉に仕えたのは、天正7年21歳の年からというから、賤ケ岳
の合戦の時には24歳であった。その出自や具体的な働きについては、
明らかではないが、数々の戦功によってのちには豊臣姓を賜り、遠江守
にまで任じられた。 (天正7年=1579年)


「賤ケ岳七本槍」と、呼ばれた男たちはいずれも、若くして秀吉の配下
に入り、20代という充実した時代に、賤ケ岳の合戦に参戦して存分の
働きを見せた。
幼少の頃から小姓として仕えた者、秀吉と血縁関係にある者、強い志を
貫いて仕え、秀吉の信頼を勝ち得た者など、「馬廻」と呼ばれ、親衛隊
のような役割を担った近習たちは、主人と個人的に強く結びついた特別
な家臣だった。
この戦いの後も秀吉は、彼らを優遇して生涯そばに置き、ともに戦い続
けた。
天下人を目指して猛進する秀吉にとって、賤ケ岳の合戦を勝利に導いて
くれた子飼いの若者たちこそが、かけがえのない腹心の部下だったので
ある。


過去形で語るカーブミラーのゆがみ  山崎夫三子

拍手[7回]

PR


Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開