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川柳的逍遥 人の世の一家言
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一服しなはれうどんがのびてます  和田洋子






          金の鯱が載る五重の天守閣
将軍の居所であり、同時に幕府政治の中枢である江戸城本丸は、政務を
執る将軍を中心に、将軍夫人をはじめ、大奥に勤める女性たちの生活の
場である。





          江戸図屏風絵 (国立歴史民俗博物館蔵)




17世紀前半の江戸の姿を書き留めた江戸図屏風絵で江戸を見る。
江戸城の修築改築工事は、1603年(慶長8)から本格的に進められ、
1612年(慶長17)に、ほぼ完成をみた。
さらに城郭を境にして山の手に武家地が、下町に町人町がつくられた。
江戸図屏風絵は、明暦の大火(1657年)で、焼失する以前に描かれ
たもので江戸初期の町の姿を再現している。
(金の鯱の載る五重の天主閣は、2代秀忠によって1623年(元和9)
 また、江戸城が最終的に完成するのは1636年(慶長13)である)





砂時計どこへも行けぬ時刻む  山口美千代




家康ー江戸を建てるー③









徳川家康がはじめて江戸入りしたのは、1590年(天正18)8月1日
のこと、江戸を建てる①でも述べたが、家康入国当時の江戸は、どこま
でも丈なす草原がつづく武蔵野の原野であった。
その草深い江戸は、関ヶ原の戦いで天下人の座を勝ち取った家康であっ
たが、はたして彼はこれほどの大都市に発展すると想像し得ただろうか。
16世紀末の江戸は、関東240万石の大大名である「徳川氏の居城」
としてはいかにも「みすぼらしい」ものであった。
よって家康は、文禄~慶長(1592-1615)にかけて、大名を総動員して
城郭の整備拡大と武家町、町人町の造成を進めた。
(また、この江戸城拡充工事によって、廓内や旧城門前にあった宝田村
千代田村、平河天神・山王社、神田明神・日輪寺といった寺院・神社を
周辺に移転させている)
この大工事は、大名千石につき一人づつの増員、俗に「千石夫」と、呼
ばれた人夫たちが、江戸に集まり活況を呈し、江戸に繁栄をもたらした。 
いわゆる「慶長の町割」である。




発想の煌めき脳は多面体  森井克子





            高石垣の石積工事





「天下の江戸の城造り」
石垣工事は技術に優れている西国大名が担当した。
石垣を組むのも大変だが、巨石を伊豆から運ぶのも難事で、石船が大風
のため一度に数百隻も沈没したことがある。
これらの石高合計530万石にのぼり、10万石に付き、百人持ちの巨
石1120個を課せられた。
(福島正則の場合、4.982×1.120=5.580個となる)
3千艘の運搬船に1艘あたり2個積み、江戸と伊豆の海路を月2往復と
定められた。




もう石になったことさえわからない  竹内ゆみこ




大名にキツイ負担」
いよいよ1603年(慶長8)、江戸の大改造・拡張工事がはじまった。
福島正則、浅野長政・加藤清正ら外様大名を中心に70家の大名がこの
プロジェクトに参加した。
1606年(慶長11)3月1日からの江戸城の大修築には、将軍の住ま
いに、城を築くため、32の大名に普請が命じられた。
この事業は「天下普請」と呼ばれ、全国の大名には諸工事「御手伝普請」
が賦課された。おもに西日本の大名に対しては、千石夫といって、所領
千石につき人夫10人の労役供出が原則だったが、外様大名たちは幕府
への忠誠を競って、想定以上の人数を供出したので、4万人もの労働者
が集まったという。




まな板の平行根は沖である  清水すみれ





伊豆から石材が運ばれ、石高10万石につき100人持ちの巨石が11
20玉という基準で調達された。
幕府は、総額1万両あまりの補助を行ったが、人夫・水夫の賃金、食糧
などは自弁で準備しなければならず、動員された外様大名には、大きな
負担だった。
それでも大名たちは競うようにして自ら陣頭指揮に立ったという。
翌慶長12年には、5層6階の天主閣も完成。
江戸城は、将軍の住まいとする城としての体裁を整えた。




この時とばかり職人腕が鳴る  三輪幸子





        百人持ちの石垣運搬用舟入堀




1606年(慶長11)月から築城石運搬船の造船、石切出場の調査、運
搬準備が行われた。賦役を課せられた主な西国の外様大名は、浅野幸長
(和歌山藩37万5千石)、福島正則(広島鞆藩49万8千2百石)、蜂須賀
至鎮(徳島藩25万7千石)、細川忠興(中津藩39万9千石)、黒田長政
(福岡藩52万3千石)、尼崎又次郎(堺の豪商ら運搬船100隻献上)で
あった。




この波をやり過ごす三角すわり  三つ木もも花





             石 曳 き





運搬船より江戸で陸揚げした巨石は、砂利道に蝦夷産の昆布を敷き詰め、
丸太を円滑に回転させて人力で運んだ。
これらの巨石は百人の人夫を必要としたことから百人石と呼ばれていた。




炎天下大八車鞭と馬  原  茂幸





                                            石 材 の 切 出 し





石材の切出し方法は、寸法に見合う石の目を読める石工が墨壷でケガキ
を入れ、その線に沿って石工がノミと玄翁で小さな箭穴(やあな)を
一定の間隔で穿つ。その箭穴に張り廻しでクサビを打込むと石が割れた。
それでも割れない場合は、樫の木の楔を打込み、水を入れて一晩置くと
木が水を含んで膨張し自然と割れる。




変身をじっと見ていた百度石  柳本恵子





 
           日 本 橋 (民族博物館蔵)
家康の都市計画事業に伴い、水路を東に延長して架けられた。


「日本橋大拡張工事」
江戸は湿地帯が多く、早くから「埋立工事」が進められたが、駿河台か
らお茶の水に至る丘陵地、神田山を掘り崩して、砂洲や干潟等の低湿地
を埋め立て、浜町から新橋にかけての、町々となる広大な市街地を造成
した。
この工事では、城郭拡充用の水路を東に延長して、堀川(今の日本橋川)
を開き、橋が架けられ、自然に「日本橋」と呼ばれるようになった。
1604年(慶長9)この日本橋は、五街道の基点となり、ここから新
橋にかけて町屋(町人が住む街)が広がって、この界隈は物と人が集散
する経済の中心地となっていく。




あの橋は杭が一本足りません  くんじろう






     日本橋界隈に並ぶ商店





「日本橋界隈の風景」 上の日本橋図
日本橋は繁栄の象徴でもある。橋の左上には幕府の高札場があり、高札
を眺める人々がたむろし、橋の右下には魚河岸があって、船荷を下ろす
様子がいきいきと描かれている。
日本橋、日本橋高札場、小網町、江戸の町屋(本小田原町の魚店)、
江戸下町の河岸(米俵の荷揚げ)




幾つかの窓は希望であるらしい  中野六助





         日本橋附近の魚市場




不意の客もてなす腕の見せどころ  竹尾佳代子





         神田の町筋の商店街

左から竹屋、檜物屋(ひものや)、酒屋




箱は四角で一ミリも無い隙間  藤本鈴菜





         品 川 宿 の 木 戸

幕府は治安維持のために大きな街道の分岐点に木戸を設けた。
この木戸は東海道を上下する人々を取り締まった。




跳ね橋をじぐざぐ帰る渡り鳥  藤本鈴菜






           大 名 屋 敷





松平伊予守の屋敷
結城秀康の次男。徳川家康の孫・松平忠昌
大坂の夏の陣において大坂城に越前軍として槍を片手に騎馬に跨り一番
乗りで突入した。もはや落城必至の大坂城だったが、その時、忠昌に、
大坂方の剣術の達人と伝わる「左太夫」という侍が襲いかかった。
忠昌の危機に越前家中の者5、6名が駆けつけて、後に笠持の高瀬某
左太夫の腕を切り、忠昌を救出した。
左太夫は数人がかりでやっと討ち取られた、という話が伝わる。




好き勝手生きて迷惑掛けぬ意気  高橋太一郎





      伊達家屋敷の正門前


外様大名の門構えー外桜田には松平陸奥守(伊達家)の御成門の前には、
門の豪華さに見とれる女性たちが描かれている。
隣の櫓門は松平長門守(毛利家)の屋敷である。




私の昔に興味無い他人  戴けいこ





     外桜田門の上杉弾正の屋敷





大名の数は時代によって異なるが、大体260~270ぐらいの間を上
下していた。大名は、徳川氏との縁故によって親藩・譜代・外様に大別
されて、譜代・外様の大名は、城地の有無、領地の大小により国持・
国持並・城持・城持並・無城の五階級に分かれていた。
国持とは、一国以上の大領地を持つ大名、国持並は、これに準ずる大名
であるが、必ずしも、一国以上の領有ということでなく、一種の格式で
もあった。
城持は中級の大名で城地を構えるもの、城持並は、陣屋住いながら城持
大名の格式を許されたものである。




猫町の猫の額を分譲中  井上恵津子





「江戸図屏風に描かれた江戸のにぎわい」






              京 橋

             京 橋 日 比 谷 門        
    
               日 本 橋





ついでに名古屋のにぎわい





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           源 太 夫 社




「名古屋城も建てた」
1609年(慶長14)家康は9男・義直のために、織田信長が若いころ
居城とした那古野城の地に、新しい城・名古屋城を築城することにした。
もちろん天下普請で行われ、西国の外様大名ら20家が指名された。
江戸の町普請からはじまって、江戸城築城に付き合わされるだけでも
大変なのに、度重なる課役に大名たちも不満がつのり、福島正則などは
「末っ子(義直)の城まで手伝わされるのはたまらん」
と、つい愚痴になる。
それを聞いた加藤清正が「大御所に謀反する踏ん切りがつかないのなら
まぁ黙って仕事をすることだな」とからかった。
諸大名は競って工事を急ぎ、慶長15年9月には概ね完成にこぎつけた。
規模は江戸城についで2番目の大きさ、金の鯱で知られる名城の完成である。




鵜匠に尋ねる働き方改革  赤松蛍子





【おまけ】



宇喜多秀家最期の言葉
江戸の町づくりが本格化した1603年(慶長8)、自首して出てきた
関ヶ原の敗将がいた。備中57万石の太守・宇喜多秀家である。
彼は少年のころから秀吉に可愛がられ養子になったぐらいで、五大老の
1人でもあった。
関ケ原に敗れ兵が四散した西軍の将のうち、無事に逃げ延びたただ1人
の男である。
伊吹山山中をさまよううち、落ち武者狩りの頭目・矢野五右衛門という
ものに救われた。
その後、密かに大坂に潜入した秀家は、船を雇って脱出に成功。
島津家に約3年間潜伏していたが、島津と家康の間に和議が成ったので
島津家にはいられなくなり、自首してでたのである。
1606年(慶長11)八丈島に流刑。
島での生活は苦しかったようで、偶然寄港した加藤清正の家来に、酒を
無心した逸話などが残っている。
実に50年の歳月を流刑囚として暮らし、1655年(明暦元)11月
20日、84歳で没した。
「八丈実記」によれば秀家の最期の言葉は「米の粥を食って死にたい」
だったという。



二日酔いするほど飲めぬ養命酒  月波与生

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