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川柳的逍遥 人の世の一家言
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目玉焼き荒ぶる海を従えて  蟹口和枝






            大坂夏之陣屏風絵
逃げ惑う市民達、乱暴される婦女、夜盗が家々を荒らし、落武者を追い
かけ首を狙う者が描かれている。




講和事件顛末記
交渉の結果ー大坂城は本丸のみを残し、二の丸、三の丸を取り壊すこと、
織田有楽、大野治長から、家康へ人質を出すこと等を条件として、講和
することになった。
ところが、大坂方は惣構えの壕、三の丸の外側の壕を埋める」と解釈し
埋立が始まったとき、すったもんだが起きるが、後の祭。
大坂城は本丸を残して、丸裸に‥‥実際は本多正純が、
「大御所が自ら兵を出して何も戦果がないのでは過去の名声に傷がつく。
 そこで大御所の出馬記念に城の外側を取り壊してはどうか」
と言ったのが、事の真相らしい。
大坂方はうっかり承諾を与え、江戸方は拡大解釈をした。
何事も政治である。言った言わないは力関係で決まる。ご用心ご用心。




串カツの串抜きカツの衣抜き  きゅういち




家康ー大坂夏の陣・豊臣家絶滅





            日本史新聞




「難攻不落の城もわずか三日ほどで攻め落とされた」
――和睦から三か月後
家康はまたも秀頼に謀叛の疑いありとして、使者を送りつけてきた。
「断罪を免れたくば、秀頼が大坂城を出るか、牢人たちを放逐するか、
 いずれかを選べ」
それはいずれも堀の埋め立ての代わりに、家康から許されたはずの条件
だった。
その夜、淀殿の胸には、さまざまな思いがよぎっていた…。
――自分が人質になるとまで申し出たのに、家康はそれを無視し、
あくまで秀頼に狙いを定めて、無理難題を吹き掛けてくる。
 <秀頼を大坂城から出すことは、亡き秀吉の遺言に背くこと。
断じて受け入れることはできぬ。かくなるうえは、再び戦うしかない>
淀殿と秀頼は、大坂城内に兵を集め、武器をとって「家康と戦う」こと
を宣言した。




なまくらな私に黴がほくそ笑む  新井曉子





真田父子犬伏密談図 (上田市立博物館蔵)
右は真田昌幸、相向かいはその長男・信之、その間で下を向いてじっと
聞いているのが次男幸村




一方、名古屋城で義直の婚儀を終えた家康は、
「大坂城に召し抱える浪人を追い出せ」と、最後通告を出した。
かくして1615年(慶長20)5月6日、「大坂夏の陣」が始まった。
家康は30万の大軍で大坂城を包囲。
さらには三浦按針に用意させたイギリス製大筒を配備した。
堀を失った大坂城と豊臣方は、もはや、徳川方の敵ではなかった。
裸同然の大坂城に籠っては戦にならず、初めから野戦に出る他にない。
窮鼠猫を食む如く大坂方の戦意は凄まじく、しばしば家康軍を圧倒した。
とりわけ真田幸村は、茶臼山の家康本陣を急襲。旗本衆を三里ほど追い
散らし、気が付くと家康の側には、金地院崇伝(こんちいんすうでん)
と本多三弥しか、いなくなっていたという。




どのページ開いて見ても砂嵐  黒田弥生




「家康、秀頼母子の助命を説く」 (徳川公伝)
『大阪城落城ののち秀頼・淀母子は芦田曲輪に立て籠っており、
 姫君(千姫)は城をお出になり母子(秀頼と淀)の助命を、本田政信
 を通じてお願いなさると、(家康)は「姫の願いであるならばそれに
 任せよう。秀頼と淀母子を助けておいたとしても、大したことはない。
 お前が岡山に行き将軍(秀忠)にも申し上げてみよ」と、仰った。
 正信は岡山へ行き、そのことを申し上げると、将軍はもってのほかの
 ご様子で、「どうして(姫君は)余計なことを言わずに、秀頼と同じ
 ところで死なないのか」と、仰った。 正信はこれを聞き、
 「ともかく大御所(家康)のお考えにお任せになるべきです」
 と、申し上げて、姫君の方へも行き、同様に申し上げた』




一粒の涙に負けている台詞  平井美智子




 さて、八日の朝になり、両御所(家康秀忠)がお会いになり、暫く
 の間ひそかに話し合われた。諸大名が話を伺っている場で、大御所は
 将軍にむかわれ、
 「必ず秀頼の命をお助けになってください。ここが将軍の思案どころ
 です」と、仰ると将軍は「お言葉ではありますが、数回に及ぶ反逆も
 あり、これ以上は、助けるのは難しいです」と、仰った。
 大御所は、「老人であるわたしが、ここまで言うのを聞き入れてもら
 えないのであれば、これ以上はできることはない。あとはお心にお任
 せになってください」と、おっしゃられ、大変ご機嫌の悪いご様子で
 座をお立ちになった』




シャム猫のどっちつかずの毛繕い  宮井元伸




豊臣家滅亡‥‥
大坂夏の陣がはじまって翌日の、
5月7日、井伊の陣営から芦田曲輪へ鉄砲が打ち込まれ大坂城炎上。
 紅蓮の炎が天を焦がした。
5月8日、秀頼淀殿は、天守閣下の倉で自害。
2人の最期の場所は、若き日に淀殿が秀吉と遊んだ思い出の場所、山里
曲輪にある蔵のなかだった。大野治長も殉じている。
弱冠8歳の国松は、六条河原で処刑され、豊臣氏は残らず息絶えた。
淀殿47歳。 秀頼23歳だった。




終章の宴はいらぬ曼珠沙華  赤松蛍子





          瓦版 「大坂安部之合戦之図」
          瓦版 「大阪卯年図」




大坂落城の瓦版の発行
この年、大坂夏の陣を題材とした二枚の瓦版が発行された。
「大坂安部之合戦之図」「大阪卯年図」で伝存最古のものとされる。
(版木作成年次については不明な点が多い)
「大坂安部之合戦之図」は、江戸後期の狂歌師・戯作者として名声の高
かった太田南畝が紹介して以来、多くの模本が作られた。
瓦版とは、街頭で読み売られていたニュース性のある題材を内容とする
1~数枚の木版ないし土版木による印刷物で、古くは読売と呼ばれ
「瓦版」の称は江戸末期からである。
土版木は瓦を作る粘土を干し固めて軽く焼いて版木としたものといわれ、
瓦版の名はここから来たという説もある。
形式は絵入りのものが多く、内容は心中・風水害・地震・火災・仇討・
珍談奇聞が主であったが、幕末になると政治色を帯びたものが増加した。




過去からの10カウントがまた響く  くんじろう




「どうする家康」
家康は感無量である。
かつて今川義元織田信長に惨殺されたとき、家康は自分も追い腹をと、
故郷三河にある三河松平の菩提寺・大樹寺に赴き、その決意を登誉上人
に話した。しかし、その場で上人から、
「あなたには、戦も穢れもない、浄土のような世界を作る使命がある。
だから生きよ」
と、諭された日のことが思い出されたからである。
「登誉上人が仰った『争いのない世界』というのはこういう景色だった
のか」という思いである。




マウスコロコロ自分探しの果てしなく  みつ木もも花










「淀殿感傷」
やがて、徳川家の天下のもとで「淀殿」「淀君」という貶められた
呼び名を付されて、悪女のように書物に登場するようになる。
江戸時代に出版された『太閤記』のなかで、淀殿は淫乱で嫉妬深く、
秀吉の正室おねと権勢を競った女性として描かれている。
江戸中期に出版された歴史書『翁草』では、秀頼は淀殿の浮気によって
できた子どもであり、豊臣家の滅亡も、原因は淀殿の淫乱さにあると
記された。
政治に口出しをする悪女、上流社会にあるまじき蛇のような女性。 
それが淀殿に張りつけられたレッテルであった。




非通知で過去から石を投げられる  中林典子






      大阪天守閣施工記念写真 (昭和6年10月)




大坂の陣のあと、燃え尽きた大坂城の上に、徳川家は新たな城を築いた。
それが現在の大坂城である。
我が子を愛し、平和を願った淀殿の真実の姿は、秀吉の大坂城とともに、
徳川家によってつくり替えられ、永遠に葬り去られてしまったのである。




シャッターを下ろす時計を駆けあがる  高橋 蘭

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