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川柳的逍遥 人の世の一家言
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産道は賽銭箱へ通じたり  筒井祥文

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       宋 船

(画面をクリックすれば大きくなります)

「平家の経済観念」

9世紀末、菅原道真の建議によって、

「遣唐使」が廃止されて以来、

外国との正式な国交は、途絶えていた。

京の貴族の間では、

中国文化の影響を離れた日本独自の、

国風文化が花開く一方、

外国をケガレの対象と見るようになり、

国際社会に対する無関心や、

外国人に対する排外思想が広まっていった。

真っ直ぐな道だ真っ直ぐ歩かねば  山本芳男

早くも9世紀末の宇多天皇は、皇子に対して、

「天皇が外人と会わなければいけない場合は、

  簾の中から見よ、直接対面してはならない」


と戒めている。

このような、海外に対する忌避感は、

実現不能の攘夷を主張し続けた幕末の、

孝明天皇まで続くのだから、

貴族の外国嫌いは、筋金入りなのだ。

関節が固くて交合成は無理  吉澤久良

それだけに、

自身の立場をわきまえない後白河の行動に、

貴族たちは眉をひそめ、

うるさがたの九条兼実などは日記に、

「天魔の所為か」と大袈裟に書きたてたのである。

目の前を過ぎる気ままな風ばかり  赤松ますみ
 
しかし、この批判のもとをつくった清盛は、

まったく悪びれる風もなく、

宋との貿易はむしろ活発になっていった。

そもそも清盛たちを批判している貴族たちも、

大陸からもたらされた文物を「唐物」などと呼んで喜び、

密貿易を行ったり、

大宰府の役人に手をまわしたりして、

手に入れていたのだ。

合理主義者の清盛にとって、貴族たちの排外意識は、

カビの生えた伝統か愚かな迷信くらいにしか

思えなかったであろう。

アルプスを斜めに越える足慣らし  井上一筒

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  宋人との貿易風景(兵庫県立考古博物館)

日本側役人の後ろに輸出品、宋人の後ろに輸入品

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清盛が貿易を重要な経済基盤としたことは、よく知られているが、

平家と日宋貿易の関係は、いつ始まったのだろうか。


遣唐使が廃止された後も、日本と中国との交流が、

完全になくなったわけではなかった。

対外貿易は九州の大宰府が一元管理していたが、

やがて国禁を破って、海外に渡り、

大陸の文物を輸入する商人が現れ、

日宋貿易はかえって活発化していく。

運命線に風の見た銭ばかりある  森中惠美子

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   宋からの輸入品

12世紀半ばには、大宰府による管理貿易とは別に、

九州沿岸の有力な荘園領主による直接貿易も

行われるようになった。


長承2年(1133)有明海に面した肥前国神崎荘に、

「宋船」が来着した。

さっそく大宰府の役人が来て、取引を始めようとしたところ、

荘園を管理していた忠盛が、

「鳥羽院の命令である」といって、

役人たちを追い払ってしまった。

攻めるのに槍を持つ人舌の人  武智三成

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  宋への輸出品

当時の神崎荘は、鳥羽院の直轄領で、

忠盛は院の命令により、荘園を管理する立場にあった。

その特権を利用して、

大胆にも鳥羽院の院宣を偽造して、

貿易を独占したのである。

忠盛が日宋貿易に目をつけたのは、

「海賊討伐」によって配下となった海賊や、

西国の在地領主から、

貿易の利益についての知識を得ていたからだろう。

また、忠盛は保安元年(1120)に越前守に任じられたが、

このころからすでに、

貿易にかかわっていた可能性も指摘されている。

三日後の空気に触角が動く  桂 昌月

宋商人は、九州の大宰府のはか、

ときには日本海の敦賀にきて、交易を行うこともあった。

敦賀は越前守の管轄下にあり、

このときに貿易のメリットを実感したのかもしれない。

神崎荘の管理も、さらに本格的に貿易に取り組むために、

鳥羽院に頼んで許されたのであろう。

せわしなく時計回りを行ってみる  中野六助

忠盛の子の代になると日宋貿易はさらに活発化し、

荘園や知行国の収入と並んで、

平家の重要な財政基盤のひとつになる。

清盛は平治の乱の前年に、

大宰府の実質的な長官である太宰大弐に任じられると、

腹心の平家貞藤原能盛を大宰府に派遣して

現地の役人を組織した。

薔薇満開もうこれ以上笑えない  倉 周三

永万2年(1166)に太宰大弐となった頼盛にいったては、

自分で直接貿易を管理するために、

大宰府の「責任者は赴任しない」という慣例を破って、

自ら現地に赴いているほどだ。

平家の経済基盤として、

貿易の重要性は、一門の人々にも、

十分認識されていたのである。

自画像の昨日の顔と今日の顔  本田哲子

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