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川柳的逍遥 人の世の一家言
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噛み切ってしまえば事は終わるのに 谷垣郁郎

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イギリスが、交易に参加することによって、日本の地図が一変する。

「長州人を破ってから、我々は長州人が好きになった」 アーネスト・ホースト 
   

江戸時代、日本は鎖国体制を敷いて、外国との関係を閉ざしていた。

≪実際は、国を閉ざしていたのではなく、「海禁」という言葉で表現されるように、

 海外の渡航や交易を厳密に管理したなかで、

 限定的かつ独占的に、交易を行なうというのが、鎖国の実態だった≫

江戸時代以前の東アジアでは、倭寇や秀吉の朝鮮出兵によって、

さまざまな国が対外関係で、大きな痛手を負った。

そこで、侵略行為などを含む干渉を相互に禁じ、

海を閉ざして管理された貿易を行うというのが、

江戸時代当時の東アジアの体制だった。

≪したがって、鎖国とはいっても、管理された状態で、小さく開いていたのである≫

原色が好きです騒がしい日本  平尾正人 

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     幕末の長崎港         

日本では、”四つの窓口”が海外に対して、開いていたとされる。

一つ目は、出島で有名な「長崎」で、ここでは幕府が直接、

  オランダや中国との交易を行なっていた。

二つ目は、「対馬」で、対馬の領主・宗氏を介して朝鮮と交易をしていた。

三つ目は、「琉球」で、琉球を武力侵略して支配していた薩摩藩を通して琉球、

  そして、中国との交易がつづいていた。

四つ目が、「蝦夷地」。これは松前藩を介してアイヌや北方民族との交易があった。

≪ちなみに幕府は、東アジアの国々と基本的には、直接対峙をしない方針があった≫

老いた香車だから後ろへも進む  井上一筒

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こうした「鎖国」の状況は、

「黒船の来航」によって完全に崩壊する。

大船の建造や、外国との貿易を厳しく管理した幕府権力の、空洞化がはじまり、

各藩は、なし崩し的に「開国」していく。

西南雄藩のように、資金力のある大藩は、

横浜や長崎を通じて、生糸や石炭を売り、

海外から軍艦や武器を買い入れ、留学生を西洋に派遣するようになっていく。

着古した夢がタンスの奥にある  錦織久
 
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しかし、やはり武家社会の常識としては、

あいかわらず、商いは忌むべきものであったし、

海軍や、船そのものについての、知識がない。

なにより、高い金を出して軍艦を買っても、

これを操縦できる船乗りが、いなかった。

≪坂本龍馬が目をつけたのは、そこである≫

当時の龍馬と、その周辺の友人は、

外洋船を動かすことができる、数少ないエキスパートだった。

しかも、幕府や藩の足かせがないので

対価さえ払えば、どのようなクライアントの依頼でも、引き受けて、

海運業や商社活動を、することが出来たのである。

小心のユダは迷路は抜けられぬ  山口ろっぱ       

勝海舟の門下生となった龍馬は、

勝の尽力で、山内容堂から脱藩の罪を許されているが、

それは土佐藩がこうした龍馬と、

その仲間の能力を、喉から手が出るほど、欲していたからである。

ちなみに、龍馬らを薩摩で引き取る立役者となったのは、

西郷隆盛や小松帯刀だった。

≪この二人は、この後、公私にわたって龍馬の面倒をみており、

 龍馬も小松のことを「天下の人物」と褒め称えている≫

龍馬はこうして、かけひきと利害を計算し、大きくなっていく。

立派な角を日毎磨いて置いてある  森 廣子

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    右の島が出島

「龍馬飛躍の場所ー長崎港」

国際港として「長崎港」が有名になるのは、

戦国末期のことである。

≪種子島に南蛮渡来の火縄銃が伝来して以来、戦国武将の地図が一変した。

長篠の戦で織田信長軍は、500挺の鉄砲で武田勢を壊滅的な打撃を与えて以来、

戦国武将と異国との、付き合いが始まる≫

瘡蓋を剥がし仏の顔に会う  太田 昭

鎖国後は、オランダが日本との、唯一の交易国になるが、

それ以前は、ポルトガルとの交流が圧倒的だった。

徳川幕府成立前は、各地の大名が、自前で外国と交流をしていた。

なんといっても、外国との交易は、文化向上だけでなく、

莫大な富をもたらしてくれた。

山頂で両手広げている空気  太下和子  

しかしポルトガル側でも、

単に日本側に利益を与えるだけでは、つまらない。

そこで貿易には必ず、「キリスト教の布教」を条件に出したのである。

その営業交渉にあたっていたのは、宣教師だからである。

当初日本側で、積極的にポルトガルを受け入れたのは、

平戸の松浦氏であった。

しかし松浦隆信の代になって、隆信は、

「キリストの布教よりも貿易の利益重視」 という考えをもち、これが

「貿易よりも、布教重視」 の考えを持つポルトガル側と、

しばしば争いがあり、殺傷事件も起こった。

ポケットの中で火種が燃えそこね  佐藤后子

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    長崎の居留地

トラブルをきらったポルトガル側では、

「平戸にかわる日本の良港」を探しはじめ、

大村湾の横瀬浦や、長崎の福田湾などが、次々と候補として試みられた。

これに日本側でも、港を支配する大村純忠有馬晴信らが、

現在で言えば、”日本の新幹線が最高ですよ”と言うように、

「うちの港は便利ですよ」と、今で言う「誘致合戦」がはじまった。

≪当初、平戸がポルトガル船の港であったが、

 領主の切支丹嫌いから、

 あるいは、ポルトガル側の希望もあって、港は順次変わり、

 先の試みから、横瀬浦、福田浦へと変わって、

 落ち着いたのは、深江浦すなわち、現在の「長崎」となったのである。

 長崎は、古くは、”深江浦とも深津江”とも呼ばれていた≫

さ迷うて水一杯のありがた味  村田己代一

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