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川柳的逍遥 人の世の一家言
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二代目の振る舞い方は方は鷹だけど  新海信二





      女性を遠ざけてみる秀忠





家康は1603年(慶長8)に征夷大将軍となってからたったの2年で
将軍職を嫡子・秀忠に譲った。どうしてなのか?
「関ケ原の戦い」の後、豊臣家は領地を削減されて約60万石の一大名
となったが、秀頼を主君と仰ぐ大名は少なからずいた。
早期に将軍職を自らの嫡子に継承することで、家康は、日本の統治者が
徳川家であることを天下に示そうとしたのである。
1611年には、二条城で「三カ条の法度」を発し、諸大名に幕府法へ
の遵守を誓わせて、幕府が最高権力機関であることを示した。
1615年には「大坂の陣」によって豊臣家を滅ぼした家康は、諸大名
を伏見城に集め、「徳川秀忠の命」という形で、諸大名統制のための全
13ヶ条の法令を発布した。 いわゆる「武家諸法度」である。
秀忠は、凡庸な2代目とされ、家臣の人望やカリスマ性はなかったが、
知力・政治力は家康も認めるところであり、幕府の礎づくりを任せた形
である。 豹変して、秀忠は家康の期待に応えて、強権政治を行った。


色落ちしてはならぬと武家諸法度  酒井かがり






 甘える女性にご満悦の家康




家康
ー永井路子さんが語る秀忠




「親父殿も女に目がなかったが、息子も…というのは芸がなさすぎる」
秀忠はどうやらこれの逆手を使ったらしい。
どうやら、こうしたマジメ人間秀忠の話は、彼自身の演出によるところ
も多いらしい。 (秀忠の)マジメ人間が定着したころ、家康
「ああ、律儀でも困ったものだ。世の中律儀だけではいかぬからな」
と、側近の本田正信に洩らしたという。正信が秀忠に
「ですから、たまにはウソを仰ったほうがいいのでは」
と、すすめると秀忠は大マジメに答えた。
「父君の空言なら買う者もあろうが、俺のウソなど誰が買うものか」
が、これで見る限り、秀忠は全くのクソマジメ人間ではなく、なかなか
ユーモアに富んだ人物ではなかったか。
ともあれ、秀忠は密かに父と違う自分を印象づけるのに成功した。


快晴の笑いを放つメロンパン  川畑まゆみ





   女性には興味のない家光





秀忠はあまり趣味のない男だが、「鼓」を打つことだけは好きだった。
が、家康が死ぬと、その楽しみもぴたりとやめてしまった。
側近が見かねて
「何もそこまでなさらぬとも…お道楽とてなさらぬ上様、せめて鼓ぐら
いのお楽しみはお続けになったら」
というと、彼はきっぱり答えた。
「いや、これまで自分は大御所さまの蔭に隠れていたから、何をしよう
 とも世間の注目をあびなかった。しかしこれからは違う、世の耳目は
 自分に集まる。自分が鼓好きとわかれば、ゴマを擂ろうとして、天下
 の者みな鼓打ちになってしまうだろう」
よく読めば、彼がかなり意識して、家康の蔭に隠れていたことがわかる。
またそれが彼のゼスチャーだったということを人々に分からせるために
彼は鼓という絶妙な小道具を使ったのである。



海老反りで小股掬いをしのぎ切る  宮井元伸




しかも秀忠の言葉は、意味深長でもある。
鼓を愛すれば大名もこの真似をする。
いやそれだけではない。 鼓打ちが政治的にチョロチョロしはじめる。
秀吉「茶」が好きだったのにつけこんで、茶堂の利休が政治的に暗躍
したこともある. 秀吉もはじめは茶を政治に利用しようとした。
ここでは身分の違う者が、かなり自由に顔をあわせることができる。
たとえば、武士と町人が政治がらみの密談をするには、絶好のチャンス
であり、事実、利休やそれ以前の茶人たちも、こうしたフィクサー役に
はうってつけだった。こうして利休は私設官房長官的存在になってゆく。
が、秀吉が博多商人と接触し、次の膨張策を考え出したとき…、
利休は<小うるさい存在>になってしまったのだ。


誰もいなくなるあさってのニュース  森田律子




「今まではオヤジ(家康)に従っていた、が、もうこれからの俺はこれ
 までの俺ではないぞ」
こうして、秀忠は、二代目将軍として腕を揮い始める。
そして、その一つ一つが、実は、徳川幕藩体制を固めるための重要施策
ばかりだった。 この秀忠時代こそ幕府の基礎を固めた時代ともいえる。
もし彼が、世評のように凡庸な二代目だったら、たちまちに徳川政権は
崩壊してしまったろう。
しかもそれらの施策は、実は秀忠がナンバー2時代に温めてきたもので
あり、それが実現できたのは、彼の握った人脈のお蔭である。




二度とない今生きていく骨密度  靏田寿子




秀忠がもっとも力を入れたのは、大名の転封、改易、つまり人員の配置
転換と人事掌握である。
江戸時代大名は、将軍が変わるたびに、改めて朱印状をもらわなければ
ならない。 このしきたり元祖が秀忠なのである。
これによって、秀忠と大名との主従関係が再確認される。
とりわけ領地が増えるわけではないが、朱印状を頂いたというだけで、
<ありがたきしあわせ> なのである。
同時に効果的な配置転換や加増も行われた。
大坂の陣などの論巧行賞も含んでいる。
とりわけ近畿の場合は、京都及び西国大名に眼を光らせるために、拠点
を信頼できる譜代の連中に守らせた。
<そなたたちを頼みに思うぞ>という意思表示であったえ、彼らは秀忠
への恩義を感じ、忠誠を誓ったはずである。


猫の肉球ネットワークができましいた  市井美春


「宇都宮釣天井事件」


なかでも注目すべきは、福島正則本田正純「改易」である。
広島の大名・福島正則は、周知のとおり秀吉の子飼いである。
が、関ヶ原の合戦にあたっても、いち早く徳川支持を打ち出した正則に
ついては、家康もさすがに手を伸ばしかねてかねていた。
その大物を、秀忠はついに改易してしまった。
理由は、幕府の許可を得ずに広島城の修築を行ったからである。
そして、もう一人の本田正純の改易も、それを理由にしている。
つまり「法度違反」である。
こうして改易させられた二人だが、正則と正純の場合はいささか事情が
違っている。



出し抜いたのは鴨ですか葱ですか  田口和代





     福島正則




福島正則の場合は、あきらかに秀吉系の大名の取潰しであり、西国九州
筋の有力大名への見せしめだった。
<いかなる大身でも容赦はしないぞ> というゼスチャーなのだ。
一方の本多正純の事件は、「宇都宮釣天井事件」として有名である。
<正純が釣天井という怪しげな仕掛けをつくり、日光東照宮参拝のため
 にここに泊った秀忠を亡き者にしようとした>、というのだが、
これはもちろん作り話である。
真相は<秀忠宿泊の折に手落ちがあっては>、と正純が密かに城の防備
を手直ししたということらしいのだが、この時も秀忠は、
「動機は何であれ、無断修築は法度違反」
として正純を改易してしまった。




張り紙は禁止と書いてある背中  笠嶋恵美子




     本多正純




正純は父・本多正信とともに、亡き家康の側近だった。
若年ながら、幕閣の最高機密にタッチし、人から一目おかれていた。
諸大名も、何かといえば、正純に、<取りなしを頼む>、というような
ことが多かったらしい。
こうした先代の側近という人間くらい扱い難いものはない。
<少しはウソをつきなさい>と進めたのは、正純の父・本田正信である。
このような調子で、<正純にも人生の指南役などされてたまるか>
というのが、秀忠の本心であったのではなかろうか。



父に似た信楽焼をなでてみる  宮原せつ



秀忠がこれだけ思い切った手を打てたのは、もちろん彼の周囲によき側近
がいたからである。 ただし彼らは、いわゆる怪物的な側近ではない。
年寄衆と呼ばれ、のちに老中にあたる。
安藤重信、酒井忠世、土井利勝、酒井忠利らがそれで、つまり彼らが一つ
の組織として機能し、秀忠を支えたのである。
<俺が乗り出せば、社長もいやとはいえない>といった類の、得体のしれ
ない人物をのさばらせるのではなくて、組織による運営、合議による決定
という合理性を打ち出したのだ。
家康もその方向に向かって進みつつあったが、その形を強化・固定させた
のは秀忠なのだ。




人様に知られていない腹黒さ  大高正和




「宇都宮釣天井7コマ解説」















箇条書きすると私が見えてくる  津田照子

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おい不死身 右が二重になってるで  酒井かがり





         「東京開化名勝ノ[内]」 (東京中央図書館所蔵)
家康から精神的解放され快活な秀忠。左・本多正純。



生まれながらにしてナンバー2を予約されたような人物がいる。
個人会社的な色彩の強い企業体の二代目・三代目がそれにあたる。
ナンバー2、いや3,4,5…だって至難のこのごろ、羨ましいような
話だが、しかし、ある意味では、最も危険にさらされているのは彼らか
もしれない。
現代よく見られる同族会社の内紛は、それをよく示している。
<ー創業時代の苦労を知らない坊ちゃん育ち…だ…>
と言われることが多い。二代目の辛いところはそのあたりにある。
うまくいってもともと、少しでも失敗すれば、やはり器ではないの何の
とたちまち袋叩きに遭う…。
と、始まる「はじめは駄馬の如く」を執筆をされた永井路子さんが令和
5年1月27日、老衰で死去された。97歳だった。

記憶とや鍋にいっぱい羊雲  山本早苗



「歴史をさわがせた女たち」「一豊の妻」など女性の視点から描いた
歴史小説やエッセイを数多く執筆。「北条政子」「毛利元就の妻」
どは、それぞれNHK大河ドラマの原作になった。
「炎環」65年直木賞、「永輪」82年女流文学賞、菊池寛賞、そして
「雲と風と」88年吉川栄治賞と数々の賞を受けている。
「言葉ってものは用心しなきゃいけない。美しい言葉の裏に何が隠れて
 いるか。そこまで見なければ、歴史ものはかけない」
「これは私の遺言状」と笑いながら熱のこもった口調で話していた姿が、
心に残っている。


亡き人の宴だろうか茜雲  佐藤 瞳






       秀忠と家康  やっぱり親子



家康ー2代将軍・徳川秀忠



ー創業時代の苦労を知らない坊ちゃん育ち…?
歴史上にも、こうした「幸運」に泣いた人物が何人かいた。
その一人として、徳川秀忠をとりあげてみたい。
いうまでもなく家康の息子、徳川幕府の「二代将軍」である。
実をいうと彼は生まれついてのナンバー2ではない。
何故なら彼は家康の三男坊、そのままの地位でいれば、とうてい将軍の
座は廻ってくるはずがなかった。
ところが、長兄の信康は悲運の最期を遂げた。
まだ家康にさほど力がなかった頃、信長の娘・督姫と結婚させられたが、
さまざまの経緯があって、信長のために自刃させられてしまった。
<政略結婚の悲劇であるが、これは信長が信康の才幹を見抜き、
 生かしておいては、将来の憂いになると思って殺してしまった>
とも言われているが、真偽のほどは、とにかく、そう思われても当然な
くらい、信康は優秀な若者だった。


洗濯場霊安室の横にある  富山やよい




次兄の秀康も早死にした。
秀康秀吉の養子となり、中世以来の名門結城氏を継いでいる。
これも秀吉と家康との政治的な取引で、いわば家康が秀吉に息子をむし
りとられたようなところがある。
しぜん秀忠が徳川家の後継に決まった形になったが、勇猛な武人タイプ
の秀康に比べると秀忠はどうも冴えない。
<こいつではなぁー> 家康も秀忠を後継にすることには、
内心不安を感じたのではないだろうか。
大人しくて、正直なのが取得といえば取得だが、しかし、戦国乱世では
むしろこんな取得は最大の欠点であるからだ。




誤作動のまんま冷や汗かいている  山本昌乃




      お 江 与




もっとも秀忠にとっても、後継の座は決して、有難いものではなかった
かもしれない。そう決まると、秀吉お声がかりで、八つも年上の女を妻
にしなければならなかったのだから…。
彼女の名は、おごうお江、小督などとも書く。
淀殿の妹、つまり、信長の妹のお市が近江の浅井長政に嫁いで設けた三
人娘の末妹だ。 このときおごうは23歳、すでに二度の結婚歴がある。
一度は生別、二度目は死別。
いずれも秀吉の決めた縁談で、二度目の夫は秀吉の甥の秀勝だった。
秀勝が朝鮮半島出兵の折に病死したので、その間に生まれた女の子を姉
の淀に托して、秀忠と結婚することになったのである。


マジシャンの指の先から日が昇る  笠嶋恵美子




17歳の秀忠はもちろん初婚、選りに選って年上の古女房をあてがわれ
るとは…。 嬉しくもなんともなかったろうが、おとなしくこの古女房
を受け入れた。その後も浮気らしい浮気もせず、2人の間には多くの子
女が生れた。
思えばこれが、ナンバー2としての我慢の第一歩である。



手を振って笑ったような猫だった  森  茂俊




  胸を張って失敗をする秀忠




その後、秀忠は取り返しのつかない大失敗をしてしまう。
秀吉の死後に起った「関ヶ原の合戦」に後れをとってしまったのだ。
このとき、家康は東海道を進んだが、、秀忠は中山道を進んだ。
ところがその行く手に、真田昌幸の守る上田城があった。
昌幸は音に聞こえた戦さ上手である。
秀忠はその城を攻めあぐね、やっと関ケ原に着いたときは、戦いはすで
に終わっていた。
「何たるドジ、マヌケ!」
家康が怒るのも無理はない。
天下分け目の戦いに間にあわなかったのだから。
「面目次第もござりませぬ」
秀忠は平謝りに謝るばかりである。
「父上だって途中で抵抗されたら、うまく関ケ原で戦えたかどうか」
などとは言えない。ましてや
「父君だってお若いころは、三方ヶ原の戦いにお負けになったではあり
 ませんか」
などと言ってしまえばおしまいである。



緊張の糸はそんなに伸ばせない  上坊幹子




しかしこのことは、秀忠にはかなりこたえたらしい。
のちに大坂冬の陣の折りには、
「今度こそは、関ヶ原の二の舞はしないぞ」
とばかり、先鋒の伊達政宗を追い越さんばかりの猛スピードで、息せき
切って大阪に駆けつけた。
が、そのために、またもや家康から大目玉を喰う。
「隊伍を乱して慌てて駆けつけるとは、何ごとか。それで大将がつとま
 ると思うか」
なるほど、この時は、秀忠の本隊だけが先行してしまって、彼の率いる
大部隊はこれに追いつけなかった。
総指揮官としては、確かに手落ちである。
重ね重ねの大失点、大失策。
正直すぎてはったりがきかない。秀忠らしい生き方が丸出しである。


屋根裏に埃被っている兜  但見石花菜



このとき秀忠はすでに父の譲りをうけて将軍の座についている。
名目的にはナンバー1であるはずの彼が、作戦=つまりそのころの中心
課題で落第点をつけられるとは、まったくの形なしではないか。
「もう俺がナンバー1なんだ。隠居は黙っていてもらおうじゃないか」
こう言いたいところである。あるいは
「文句があるなら、そっと伝えてくれりゃいいのに。あれじゃ、こっち
 の面目丸潰れだ。今後、下の者への示しがきかなくなる」
というようなことにまで発展しかねない。
では、秀忠はどうしたか、じっと堪えて家康に頭を下げた。
思えば秀忠は、ナンバー2にとって慰めの星である。
彼は決して凡庸な二代目ではない。
こうして我慢しながら、彼は彼なりの生き方で、じわじわ独自の世界を
築き上げていたのである。



ほんのりと海馬の裏が赤くなる  蟹口和枝




   これはこれは忝い賜りもの…




「一方美人」 episode
家康が駿府に引退してからのことだ。
あるとき、秀忠がご機嫌伺いに罷り出ると、
「よく参った。ゆるりと休んでゆくがよい」
家康は手回しよく、側の女房の中から目鼻立ちの整ったのを選んで、
秀忠の許に菓子を届けさせた。
<独り寝は寂しかろうから…>
女好きの家康らしい粋な計らいである。 ところが秀忠は
「大御所様からのお使い」
と聞くと、恭しく招じ入れ、彼女を上座に据えて、
「これはこれは忝い(かたじけない)賜りもの」
四角張って菓子をおし頂いた。
が、会話はそこまで、一向にその先へと進展しない。
意を含められてきた若い女房ももじもじしている。
と、秀忠は訝しそうに言った。
「はて大御所さまからの菓子も頂戴つかまつった。
 もうお役目も終ったはず。ほかに何か大御所さまよりの御伝言でも」


凡人と呼ばれ気楽なシャボン玉  下林正夫


「いえ、あのー…」
「あ、左様か。もう伝言もないか。ご苦労であった。では、お見送り
 つかまつろう」
あくまでも大御所さま御名代として、丁重に扱い、彼女を送り返して
しまった…さすがの家康も、
「そこだけは真似られぬ。梯子をかけても俺はあいつには及びもつかぬ」
と、言ったという。
何とも融通のきかぬ石部金吉!
家康ならずとも、こんな真似はできるか、「阿保くさ!」と言いたいと
ころだが、実は、ここにセールスポイントの秘密があるのだ。
家康は知っての通りの多妻主義。
それも後家やら素性の知れない庶民の女など、手あたりしだい、
という趣がある。


ごめんねと金平糖を五つほど  指方宏子


                        秀忠②へ つづく



【永井路子ー作品プロフィール】
1925年(大正14)東京生まれ。東京女子大学国語専攻部卒業後、
小学館勤務を経て文筆業に入る。64年(昭和39)『炎環』直木賞
82年『氷輪』女流文学賞、84年菊池寛賞、88年『雲と風と』
一連の歴史小説吉川英治文学賞、2009年(平成21)『岩倉具視』
毎日芸術賞
著書に『絵巻』『北条政子』『つわものの賦』『この世をば』『茜さす』
『山霧』『元就、そして女たち』などのほか、『永井路子歴史小説全集』
がある。

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いらっしゃいませどの淋しさにしましょうか 赤石ゆう




                          阿根川大合戦の図      (月岡芳年)




織田信長
には妹がいた。近国無双の美人と讃えられたお市である。
このお市を浅井長政に嫁がせて、「同盟」を結ぼうと考えた。
浅井長政さえ味方にしてしまえば、京の都への道は開けたも同然になる。
長政は信長の本拠・岐阜と京の間にあって、強固な基盤を築いていた戦
国大名である。その長政の城・小谷城は、「信長が、天下布武の理念を
実現し、天下に覇を唱える」ために京を目指す途上に聳えていた。
1568(永禄11)兄・信長の命に従ってお市長政に嫁いだ。
絶世の美貌を持つお市を娶った長政は「大果報の人」と羨まれた。
見も知らぬ他国へ輿入れした花嫁を、長政は優しく迎えた。
政略結婚で嫁いだとはいえ、お市は夫・長政を深く愛するようになった。




人生は薔薇を受けたり渡したり  市井美春





       浅井長政・お市画像



「どうする家康」
 お市の悲劇




永禄11年9月26日、信長は6万の軍勢を引き連れて京へ進撃した。
長政を味方にし、側面から攻撃される憂いをなくしていた信長軍は敵対
勢力を破竹の勢いで蹴散らして、上洛を果たした。
京に上った信長は、すかさず諸国の武士に命令を下した。
天皇や将軍に挨拶をする為に、ただちに京に馳せ参じよというのである。
この命令は、「天皇・将軍のために」という名目を掲げていたが、実質
的には「信長に従え」というものであった。
日出の勢いともいえる信長の力を恐れ、多くの大名が京の都に集まった。




ヘタを切り落とすと大人しくなった  竹内ゆみこ




だが信長の命に対し、中々態度を明らかにしようとしない大名がいた。
越前国(福井県)を支配する朝倉義景である。
朝倉家は、五代百年にわたって続いてきた名門で、古い家柄と格式を誇
っていた。 信長の命令に対し、朝倉家の家臣たちは口々に異を唱えた。
ー朝倉家は、代々、大国を預かってきた由緒ある家柄である。
どうして成り上がりの信長如きに従う必要があろうか。
義景は結局、信長の命令を無視してしまった。
これは信長にとって、思う壺であった。
天皇・将軍のためにという命令を無視したからには、
逆賊として討伐できる。




少量のニンニク添えた減らず口  宮井元伸




    浅井長政が、織田信長と戦っていた陣中から出した書状




1570(永禄13)4月20日、信長は3万の軍勢を率い、朝倉の越
前一乗谷に侵攻した。先陣をつとめるのは、売り出し中の木下秀吉
の若き盟友・徳川家康である。
不意を打たれた朝倉勢は壊滅した。
奇襲は成功し一気に朝倉の本拠に迫ろうとしていた矢先、思いがけない
知らせが、信長の陣にもたらされた。
「江北浅井備前手の反復の由」
浅井長政が朝倉方について、信長に叛旗を翻したというのである。
この時の信長が吐いた言葉は「虚脱たるべき」であった。
ー嘘であろう。まさか、あのお市を嫁がせた長政が裏切るとは……。
長政の「裏切り」を知ったその日、意外なことが起った。
信長が突如として戦場から姿を消してしまったのである。
「是非に及ばず」 あとに残したのは、このひと言だけであった。
戦場に3万の軍勢を残して、信長は消えた。
同盟者として参戦していた家康にすら、その行動は知らされなかった。



裏切りの予感は蜜を抱いている  前中知栄



目まぐるしく動く永禄13年は、元亀に改元された年でもある。
信長が消えてからの「姉川合戦」へと続く、激しい戦況を見てみると、
4月28日 取り残された織田軍に朝倉軍は、逆襲を開始した。 
      織田勢の殿(しんがり)となって敵を防いだのは、
      家康・秀吉・光秀の三武将であった。
      戦場から姿を消した信長は突然京の都に姿を現した。
6月19日 信長、近江に侵攻し長政の居城・小谷城に迫る。
6月21日 信長、小谷城に火を放ち虎御前山に布陣。
6月24日 浅井家の横山城を包囲。
6月25日 長政、小谷城を出て大依山に陣を移す。
6月26日 朝倉景建が長政の援軍として着陣。
      浅井・朝倉軍の兵力1万8千となる。
6月27日 浅井・朝倉軍、姉川北岸の野村三田村に布陣。
      織田・徳川軍、姉川南岸の上坂に布陣。
6月28日 徳川軍の朝倉軍への突撃から「姉川の合戦」がはじまり、
      浅井朝倉軍が敗退する。
合戦城周辺には「血原」「千人斬りの丘」などの地名が残り、戦いの
壮絶さを偲ばせる。
(血原とは兵卒たちの血で真っ赤に染まったとされる場所)



最後尾の星が一番泣いていた  矢沢和女





     日本五大山城の一つに数えられる小谷城。


標高約495m小谷山(伊部山)から南の尾根筋に築かれ、浅井長政とお市の
方との悲劇の舞台として語られる城である。



「姉川の合戦」から3年。越前の朝倉義景を滅ぼしてのち、信長は満を
持して長政の小谷城を攻めた。
浅井の軍勢に昔日の面影はなく、孤立無縁の長政は、城を枕に討ち死に
を覚悟する。
この寸刻の後、城外門前から秀吉が、長政に大声を張り上げていた。
「城を明け渡してくだされば、命だけはお助け申そう」
だが長政は、生きながらえることなど望んではいなかった。
「命を惜しんで信長に屈するよりも、たとえ浅井が滅びようとも武士と
 して潔く冥途へ参る」
と、長政は開門を拒否した。




生命戦確かめるのは辞めておく  津田照子





           お 市




「一緒に死にます」
縋るお市長政は諭した。
「そなたは死んではならぬ。吾等のなからん跡までも、菩提を弔うて得
 さすべし」
<生きて私の菩提を弔ってくれ>というのが長政の最後の言葉であった。
やがて総攻撃の日、信長はまたもや城の前で兵を止め、攻撃を中止した。
信長はあたかも暗黙のうちに、長政と言葉を交わしたかのようにお市が
城を逃れるのを待ったのである。
この三日後、長政は小谷城落城とともに自刃する。
1573(天正元)8月28日のことである。
享年29歳。お市と長政の蜜月は、7年で幕を閉じた。



終点を降りてひとりの靴の音  荒井加寿





         浅 井 長 政




小谷城脱出の夜に、信長お市を近くに呼んで、
「長政には男子が一人たというが何処に行ったのか?近い親類のことで
 心配だ」
と言いくるめて、居場所を聞き出し、市に浅井の家臣・喜内之介へ手紙
を送らせて戻ってくるように伝えさせた。
喜内之介は、「北の方(お市)が迎えを寄こす」と、仰せられているが
信用できないと考え、「殺して捨てた」とウソの返事を送った。 が、
お市が重ねて信長が「…<良きにいたわる>と言っている」と手紙を送
ってきたので、喜内之介は、納得できないと思いながらも、万福丸に伴
って、9月3日に近江国本之木に着いたところ、待っていた羽柴秀吉
万福丸を受け取った。 (『浅井三代記』)



予感かなドアノブに手が凍りつく  笠嶋恵美子




これを秀吉が報告すると、信長は、「その子を串刺しにして晒せ」と、
秀吉に命じた。(万福丸が)串刺しにされて晒されたのは哀れなことだ
ったが、生まれたばかりの次男・万寿丸がいることを知る者はいなくな
ったのでは難を逃れたという。
『浅井氏家譜大成』では、万福丸と次男は市の出子でなく継母となった
お市の養子となったとされている。
お市の方が、秀吉嫌いになったと言われてるのは……嘘つきで万福丸を
助けると、城から連れ出したにも係わらず、処刑したから、といわれる。




雲は髪ほどけて雨の糸となる  野口 祐





         柴田勝家とお市




お市
長政との間に3人の娘を儲けている。
長女・茶々(淀君)1569年(永禄12)生れ。
次女・お初(常高院)1570年(永禄13)生れ。 
三女・お江(秀忠正妻)1573年生れ。である。
(尚、10数年後、この三姉妹は予測もしない人生を送ることになる)
このほかに長政には、少なくとも2人の息子が居たことが知られている。
先の万福丸と出家していて命は助かった万寿丸である。
(いずれも市との間に設けられた子供ではないと考えられている)
それから10年。
1582年、お市は、織田筆頭家老・柴田勝家と結婚をし、
三人の娘を連れて越前国北ノ庄城へ移る。
そこでもお市に幸せが来ること無く、争いの悲劇に翻弄される事になる。



ひだまりの猫は戦を語らない  越後朱美

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二度づけをしてからなんとなく不死身  田村ひろ子





          つくりごとか史実か




「宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘」

通説によってこの対決をまとめると次のようになる。武蔵は約束の時間
に遅れ小舟に乗ってようやく登場。見え透いた武蔵の作戦に、小次郎が
怒りのあまり、刀の鞘を海に投げ捨てると「小次郎早や破れたり!」と
有名なセリフを吐く。勝つ者がなぜ、刀の鞘を捨てるか、というのだ。
これに焦った小次郎は平常心を失い、はからずも武蔵の剣に屈した。
古い記録を検証すると、小次郎が3尺にあまる長い刀を用い、武蔵が木
刀を用いたということは、どの記録でも一致しているそうである。




消えてしまった天国への階段  藤井孝作

「私たちが、今知っている歴史が正しいものとは限らない」


① 史実とは「その時点で確認されている事柄」に過ぎず、本当にその
  時代にそれが起こっていたのかどうか? は、その時代その場所に
  いってみないと確認できないのだから…。
否、その時代その場所にいても真実は見えていないこともある。
② 史実とは 歴史学者などの間で一般的に事実と認められていること
  を指す。それは、当時の、文献や証言、物証などから事実とされる。
ただし、証言や文献も間違いが非常に多くあるので、何を史実とするかは
難しいと歴史学者は本音を漏らす。


棒読みであれシガシガのガムであれ  酒井かがり






史実を少し折り曲げて面白くする歌舞伎の演目



「どうする家康」 時代考証






             歴史の新説

比叡山周辺で織田信長と対陣していた浅井長政が、大浦黒山寺に宛てた
税の免除と安全確保を約束した新発見書状(覚伝寺蔵




さてここで大河ドラマ「どうする家康」「時代考証」である。
NHKで時代考証を担当するディレクターは、「
「ドラマの時代考証とは、番組で取り上げられる史実・時代背景・美術
 小道具等をチェックして、なるべく史的に正しい形にしていく作業、
 つき詰めれば <へんなものを出さない>ための仕事>という。
その流れは、台本の初稿ができあがると、脚本家・演出家、外部の専門
家(各種考証担当者)および、制作側の考証担当者が、定期的に集まる
「考証会議」が設けられる。
原稿の「読み合わせ」が行われ、考証の見地からの意見が出されて議論
が行われ、「台本原稿が修正」されていき、最終的な台本が仕上がる。
考証会議で物語そのものが、変更されることは、基本的にはないという。
又考証者の見解をどの程度反映するかは、脚本家や演出家の判断となる。

壁紙が主張しすぎていませんか  徳山泰子

シナリオチェックでは、セリフの言葉遣いや、歴史的事実<このような
出来事はあり得ない>また<この人物がここにいるのはおかしい>など
の確認が行われる。
そして当時代に使われていた日本語かどうかも細かくチェックする。
例えば、「絶対家族を守る」というセリフがあるとする。
だが「絶対」「家族」も当時の日本語にはないのだ。さらにありがち
なのは『現代の感覚を過去にさかのぼらせたことによる誤り』だ。
また歴史人物の名前の読み方である。
例えば、お市の方の夫になる浅井長政は、<あさいながまさ>ではなく
<あざいながまさ>でなければならない。
さて本編では『どうなる 浅井』は…?
役者はちゃんとた正しく読むのだろうか……そこが見どころ。

本物のいたこだスワヒリ語のお告げ  宮井いずみ


「どうする家康の第四話をリピートでみてみよう」




        おいちの肖像画  (竜安寺)
お市の長女の淀殿は、父・長政の十七回忌、及び、母・市の七回忌に菩
提を弔うために、両親の肖像画を描かせた。
この肖像画は高野山の持明院に伝えられている。

「その前にお市を予習しておこう」


通説では、1547年(天文16)尾張那古野城内で生まれたとする。
父は織田信秀、母は土田御前とされているが、生母は不詳。
信長の妹で五女と伝えられ信長とは13歳離れている。
『祖父物語』によればお市は「天下一の美人の聞へ」と美人の誉が高く
『賤嶽合戦記』では「天下第一番の御生(みあれ)付」と、あって
「貴人として尊敬された」という描写がある。
戦国の三大美女の一人である。肖像画をみても、市の血を引く三人の娘
(淀・江・江与)をみても、お市の美しさは本物だろう。
(残る三大美女は、2位に明智玉子(細川ガラシャ)3位に松の丸殿
(秀吉側室)と続く)



黒髪が一駅ごとに上下する  稲葉良岩



     
家康が織田家で人質生活を送った1547年(天文16)から1548
年の2年間、家康と信長は交流があったとされるが、お市は、この15
47年(天文16)に生まれている。
当時5歳だった家康と生まれたてのお市の方の間に、接する機会があっ
たのか? お市の幼少のころの記録は、不詳と伝承されている。
次のような説もある。
(徳川家臣・松平家忠「家忠日記」によると、家康とお市の方の間に、
結婚話がもちあがっていたというのである。
「家忠日記」に「天正10年(1582)5月に、織田信長が徳川家康
とお市の方を娶せた」という記録が残っているのだ。
お市35歳である。
その年の5月といえば、信長が「本能寺の変」で落命する一ヶ月前だ。

オプションで笑う機能が付いている  川田由紀子


この日の『家忠日記』によると、信長みずから家康の食事を配膳し、
当時、人気のあったお菓子・「麦こがし」を作り、もてなしたとある。
その際、信長から家康に「引き出物」として与えられた品の中には、
女性用の絹織物である「紅の生絹(すずし)」も入っていた。
これこそ、信長がお市と家康の婚約を祝った行為ではないか…を根拠と
しているようだが、「本能寺の変」の翌年にお市の方は、二番目の夫・
柴田勝家と自害している。あり得ないことを堂々と書く日記もある。

そんなことしたら和尚に叱られる  吉川  幸







 
「四話のリピートへ戻る」

信長元康と相撲をとるシーンがある。信長の勝利で決着がつくと、
そこへ木下藤吉郎(ムロツヨシ)があらわれ、
「元康さま、もう一人、手合わせしたいという方がいらっしゃいます」
というと、元康は訝しい顔をして藤吉郎に向かい「もう一人?」と訊ね
ると、小柄な仮面の人物が登場し、いきなり木製の薙刀で元康に攻撃を
仕掛けてくる。
元康も稽古用の槍を柴田勝家から受け取り、槍をもって激しく応戦する。
最後は、元康が優位に追い詰めたところで相手の仮面を剥ぎ取ると、
信長の妹・お市の方(北川景子)顔があった。
信長は相撲が趣味だったから良いとして、お市に武道の心得を証明する
記録はない。

こんなところで息継ぎを間違える  藤本鈴菜








男勝りな少女だったお市との15年ぶりの再会だった。
お市 「お久しゅうございます。竹殿」
信長 「覚えておるか。いつも俺の後をくっついていた妹・市じゃ」
元康 「お市さま…」
元康が織田家の人質だったころの、いつもそばにいたお市の姿を元康は
思い出す。
お市は、元康に清州を案内するといい、2人は馬に乗り、高台に立ち、
栄える清須の町を見下ろしていた。
(清須城は、濃尾平野のほぼ中央部に位置し、周囲の地形は真っ平で、
また、信長時代の清須城はそれほど大きなものではなく、ドラマに出て
きたような、まるで中国の「紫禁城」を思わせるほどの規模とは、まっ
たく別物。視聴者はどうみたのだろうか)


月光はすべて私のために降る  吉川幸子





     清州城             紫禁城




翌日、元康は正装して信長の待つ清州城に赴いた。
門前では柴田勝家藤吉郎が待っており、元康が見た清州城は荘厳その
ものだった。そこで元康は織田と盟約を結ぶことになる。
勝家「織田は、何をおいても松平を助け、松平はなにをおいても織田
   を助ける。以上が、この度の盟約です。異論ございませんな」
強引にも元康は、勝家からそういわれて、元康はサインさせられた。
「乱世とは真に愉快な世であることよ。力さえあれば、何でも手に入る。
 力さえあれば、どんなに大きな夢も描ける。愉快この上ない」
すだれが開くと信長がいて元康に持論をまくしたてた。
(元康が今川家と断交し、信長と結んだのは、1561年(永禄4)で、
この時、お市は14歳。翌年元康は家康へ改名している)

頸動脈切るなら堺の包丁  井上一筒









「清洲同盟 嘘・真」


『徳川実紀』によると、家康は清洲城に足を運び、信長を訪問。会見後
に同盟を結んだとされてきた。いわゆる「清洲同盟」である。
『徳川実紀』だけではなく、『武徳編年集成』をはじめとする江戸幕府
の編纂した歴史書でも、1562年(永禄5)1月、家康は清洲城を訪
れたとしている。
だが、今川氏と交戦していた家康が、城を空けて信長を訪問することは、
不可能である。また、家康が清洲城を訪れたという記載は『三河物語』
『松平記』という戦国期に近い史料には見られない。
信長側の動向を書いた『信長公記』でも、触れられていない。




記憶とや鍋にいっぱい羊雲  山本早苗



そしてさらに両家の結びつきを強めるため、信長お市を娶れと命じた。
元康「わたくしには、妻と子がおります」
信長「駿府に捨ててきたのであろう。あれは、その辺の男よりも頼り
   になるぞ。駿府の姫よりも遥かにお主の役に立つ」
元康「お市さまがどう考えられましょうか」
信長「もう2、3日おって、形だけでも祝言をあげておけ」
何事につけ信長は、一方的である。
(お市の元康との結婚についてはすでに述べた通り)


ああ しなやかに蔦のからまる薬指  山口ろっぱ

その頃、駿府の瀬名(有村架純)は厳しい状況にたたされていた。
今川氏真(溝端淳平)の側女にさせられようとしていたのである。
それを知った元康が、破談を申し出ようとすると、お市
「やはり嫌です。兄の言いつけとはいえ、元康殿のようなか弱き男の妻
 となるのは、やはり嫌じゃ。この話、お断り申し上げたい」
元康に背を向けた市の目には涙。 振り返り、元康に近寄ると
「竹殿、申したはずです。この世は力だと。欲しい物は、力で奪い取る
 のです」と背中を押した。
(1562年2月、氏真は家康に戦い(牛久保城の戦い)を挑んだが
 見事に叩きのめされている)

いきなりの本論 いきなりの挫折  中村幸彦

信長「どんな気分じゃ。初めて男にそっぽを向かれた気持ちは。
しかも恋い焦がれた男に」
幼少期、川に飛び込み、溺れたお市を救ったのが元康(竹千代)だった。
「(元康を)大切になさいませ。兄上が心から信を置けるお方は、あの
  方お一人かもしれませぬから――」 と、市は兄信長に呟いた。
(今川義元の死後、嫡男の氏真が家督を継いだが、戦さ経験はほとんど
 ゼロで、「当主見習い期間」のようなもの、家康も参陣した桶狭間の
 敗戦から8年後の1568年、今川氏は事実上の滅亡を迎えた)
根気よく胸板ぐるり巻く昆布  山本早苗







【余談】

そもそも「歴史研究」は、どのようにして行われるのか?
歴史研究の根本は史料にあり、大別して「一次史料と二次史料」がある。
一次史料とは、同時代の古文書(書状など)や日記を意味する。
例えば、豊臣秀吉の書状、公家や僧侶の書いた日記など。同時代に成立
したものなので、信頼度が高い。
ただ、一次史料がすべて正しいとは限らないので、史料批判を行って子
細に検討する必要がある。
端的に言えば、史実は一次史料によって確定される。
次に、二次史料とは、後世に作成された史料で、系図、家譜、軍記物語、
奉公書、覚書など。一般的に、二次史料は、時間が経過してから作成
されるので、史料的な性質が劣るとされている。
二次史料の作成に際しては、残った一次史料はもとより、口伝、関係
者の聞き取りなど多種多様である。
口伝や聞き取りの場合は、記憶違いなどによる誤りも少なくない。

充電をしなさい水が枯れぬうち  平尾正人

新説の問題
天正10年6月の本能寺の変で、明智光秀は本能寺を攻撃せず、鳥羽に控え
ていたとの新説が発表された。
 根拠は『乙夜之書物』(いつやのかきもの)という二次史料である。
『乙夜之書物』は、加賀藩の兵学者・関屋政春が執筆したもので、その成立
は、寛文9年(1669)~同11年(1671)といわれている。
内容は、著者の政春が500前後の逸話を聞き取ったものとされている。
『乙夜之書物』は、注目すべき史料なのかもしれないが、その記述の多くが
ほかの史料で裏付けられないことに難がある。あくまで逸話にすぎない。
2ミリほど伸ばした爪がテープ切る  宮井元伸

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それはもう言いようのない馬鹿笑い  木戸利枝




水戸藩主徳川斉昭・平戸藩第藩主松浦静山・信州松代藩主真田幸貫




家康ー戦国武将を表現した狂句





            甲 子 夜 話

松浦静山の随筆『甲子夜話』(かっしやわ)の中に有名な三人の戦国武
将の性格をを表現した次のような文章がある。

『夜話のとき或る人の言ひけるは、人の仮託に出づるものならんが、
 その人の情実によく適へりとなん。
 郭公を贈り参らせし人あり。されども鳴かざりければ、
「鳴かぬなら殺してしまへ時鳥  織田右府」 信長
「鳴かずとも鳴かして見せう杜鵑  豊太閤」 秀吉
「鳴かぬなら鳴くまで待つよ郭公  大権現様」 家康
 このあとに二首を添ふ。
 これ憚るところあるが上、もとより仮託のことなれば、作家を記せず。
「鳴かぬなら鳥屋へやれよほとゝぎす」
「鳴かぬなら貰つて置けよほとゝぎす」
(「時鳥」「杜鵑」「郭公」は、全部ほととぎす)



翌日の指に残っている火照り  きゅういち









明治天皇
の曾祖父である松浦静山は、47歳となった文化3年(1806年)
に三男・(ひろむ)に家督を譲って隠居し、以後82歳で死ぬまでの
35年ほどを武芸と文筆活動など、好きなことに没頭した。
文筆活動においては、自ら活字を作り、印刷を試み、随筆「甲子夜話」
「日光道之記」「百人一首解」「江東歌集」を著している。
上記の「甲子夜話」は、幕府の儒官、大学頭家の林述斎から
「個人の善業、嘉言はこれを記し後世に伝えるべきである」
と進められたもので、文政4年(1821)11月「甲子の夜に執筆を開始」
したことから名付けられたという。
他には詩歌・書画を残した他、当時の文人墨客とも深く関わり、化政文
化をリードした。
故に「ほととぎすの句」は静山の作ではないかとも…思われていた。



両の手の器ぐらいが丁度いい  津田照子



ところが「ほととぎす」の三首は、静山よりも23年早く生まれた江戸
時代中期の旗本で勘定奉行・南町奉行を務めた根岸鎮衛(やすもり)が、
佐渡奉行在任中の天明5年 (1785) ~文化11年 (1814) 迄の30年間に
亘って書き溜めた世間話の随筆集『耳嚢』(みみぶくろ)に,紹介されて
いるのである。ということは、三人の性格を表現したものとして、よく
知られる「ホトトギス三首」は、いつ、誰が、詠んだ歌なのか……?
不明のままなのである。
(耳嚢又は耳袋=同僚や来訪者、古老から聞き取った武士から町人層ま
で身分を問わず、様々な人々についての事柄の珍談・奇談・怪談が記録
したもの)



テトラポットの角に降りつもる誤解  酒井かがり





         耳 嚢




根岸鎮衛『耳嚢』には、次のように紹介されている。
『古物語にあるや、また人の作り事や、それは知らざれど、信長、秀吉、
 恐れながら神君ご参会の時、卯月のころ「いまだ郭公を聞かず」との
 物語いでけるに、信長、
「鳴かずんば殺してしまえ時鳥」  
 とありしに秀吉、
「なかずともなかせて聞こう時鳥」  
 とありしに
「なかぬならなく時聞こう時鳥」  
 と、遊ばれしは神君の由。
 自然とその温順なる、又残忍、広量なる所、
 その自然をあらわしたるが、紹巴(じょうは)もその席にありて
「なかぬなら鳴かぬのもよし郭公」 
 と、吟じけるとや。
これで三首の発祥が連歌の会の座興とまでは分る。
(里村紹巴とは、本能寺の変で、明智光秀が亀山城を出陣する
数日前に張行した連歌の会(愛宕百韻)の参加者の一人)



理性一番喜怒哀楽を削除して  矢沢和女



 【おまけ】


野球の野村監督が有名にした名言は静山のコトバがある。
「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」である。
 意味は=心形刀流免許皆伝・松浦静山の『常静子剣談』この一文にある。
剣道では試合後の反省によく用いられる教えで、負けた時には必ず理に適わ
ない原因がある、というのである。
「イカサマ」の語源。
イカの墨で字を書くと1年くらいで文字が消えてしまうことから、
と、甲子夜話のネタで静山が発信したコトバ。



おい不死身 右が二重になってるで  酒井かがり
 








「ここから信長・秀吉・家康の性格のエピソード」



「なめかたで織田ほど勝った者はなし」

「なめかた」とは銭を投げて、裏が出るか表が出るかの博打。
信長は出陣に際し、熱田神宮で銭の裏に賭け、裏と出たので勝てると踏
み、大敵に挑んだ。つまり信長は、かなり験を担いだ人だったようだ。
 政略のため ”マムシ” と恐れられていた隣国美濃の斎藤道三の娘、濃姫
を妻に娶った。道三にしてみれば可愛い娘の婿だが、そこは戦国時代。
やがて道三が倅の義龍に殺され、その義龍が病死すると、信長は棚ぼた
で美濃を手中にした。



サイの目は起死回生のピンである  松浦英夫



とはいえ信長はまだまだ弱小の国主。
駿河の今川義元は5万の大軍を仕立てて、信長を軽く蹴散らかそうと軍
を差し向けてくる。
信長は自領の尾張に入ってきた今川軍が、織田の支城を次々に落してい
くのを「わざとされるまま」にして、今川軍が桶狭間の谷間に進み隊列
が帯のように長く伸び切ったところを見計らい、豪雨をついて、僅かの
兵を率い稜頂より一気に駆け下り、混戦のなか義元の首級を挙げた。
信長にとって、桶狭間は一世一代のイチかバチかのデビュウー戦だった。



それはもう目の前にある三途川  黒田忠昭



「すべて計算 秀吉の人たらし」


織田家につかえ、美濃を攻略するときのこと。
秀吉は、敵の武将を味方につけることに成功した。
しかし信長は、その武将を殺してしまえと命じる。
ふつうの人間なら、武将を殺してしまうだろう。
しかし、秀吉はそうはしなかった。
武将に「すぐに逃げられよ」といい、刀を捨てて、万が一の時は自分を
人質にするよう申し出たのだ。
これは、単に秀吉の人の良さをしめすエピソードではない。
秀吉は「武将は感激してわしの評判を美濃で広めるだろう」と、考えて、
逃がしたのだ。
秀吉の人の良さは、「深い計算」にもとづいていた。



点滴のチューブの先の花結び  美馬りゅうこ



「タヌキ親爺の本領発揮」


本能寺の変以降、織田家の後継者を決める「清須会議」からも排除され
てしまうなどの、豊臣秀吉にずっと先を越されっぱなしの徳川家康
すべてが秀吉の思惑通りに動いていくのを、家康は穏やかではなかった
はず。
秀吉が信長の長男・信忠の子である三法師を推し、柴田勝家が3男の
推す中、家康は、2男の信雄が家督を継ぐのが筋だと考えていた。
勝家側から味方につくように働きがけがあったとき「反秀吉」という点
で一致しながら、結局勝家に乗らなかったのは、一つにこの後継問題が
あったのである。
また秀吉と勝家が争って、互いに消耗することは、自分にとってプラス
だという計算があったのだろう。
家康は自らの力を温存しつつ「賤ケ岳の合戦」に対しては静観を決め込
んだ。



ハニワ顔そんじょそこらの目ではない  森 茂俊



家康は、戦況や秀吉の動きを細かく把握していたのだ。
そして秀吉勝利の報がもたらされると、その祝いの品として天下の名品
「初花肩衝(はつばなかたつき)」を贈った。
茶の湯好きの秀吉は大喜びし、家康が、秀吉と勝家両方に距離を置いて
いたことはこれによってチャラになる。
表面上はこうして秀吉と友好的なふりを装いながら、一方で北条氏直
娘の督姫を嫁がせ、関東を統べる北条氏との同盟を結ぶなど、家康の
「タヌキ親爺」ぶりはさすがである。



聞き上手話し上手にしてあげる  ふじのひろし










「最後に女性の好みから三人の性格を診断」


信長女性にそれほど関心はない。
秀吉容貌と身分の高い女性が好きな女たらし。
家康容貌は二の次で健康的な側室を選ぶ。



思い出し笑いあなたが一位です  市井美春

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