忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[10] [11] [12] [13] [14] [15] [16] [17] [18] [19] [20]
さりげなく話しておこうあれやこれ  津田照子



 

         江戸で生まれたかわら版屋




100万都市江戸で交通事故も深刻は、社会問題だった。
当時のクルマは大八車や牛車で、車引きの不注意や牛の暴走による惨事
もあった。8代将軍・吉宗の治世下享保13年(1728)新宿で少年
が大八車に轢き殺されるという事件が起った。
 幕府は何度か、車間距離の設定・積載量の制限・狭い路地での駐車禁止
などの現代そのものの交通ルールを定めた。しかし、大八車の交通事故は
減ることは無く、ついに第8代将軍吉宗は新に「公事方御定書」を定めた。
当時、大八車は2人で乱暴に引かれており、採決は、事故を起こした側の
1人は死罪、もう一人は遠島という厳しい断を下した。
 江戸の町が混雑していたとはいえ現代の車のように猛スピードで走って
いるわけではないのに、なぜ轢かれてしまう人がいたのか?
実は、大八車による事故は坂道で起こることが多かった。
江戸という町は、非常に坂が多かったため、加速のついた大八車を歩いて
いる人がよけ切れず、轢かれて死ぬというケースが多発した、ことらしい。
こういう事故また事件を庶民の知る権利としてかわら版が報道した。


むかしなら煽り過疎への島流し  通利一遍




「江戸のあれこれ」 かわら版





       かわら版・第一号

この「大坂安部之合戦之図」は、上段に大坂城内、中断に東西両軍
の合戦、下段に将軍(秀忠)、宰相(徳川義直)、御所(家康)、常陸(徳川
頼宣)らの東軍の陣容を刻した。

かわら版の第1号は、慶長20年(1615)大坂落城時の「大坂安部
之合戦之図」「大坂卯年図」とされているが、実際にかわら版が江戸の
町で明確に刷られ盛んに出回りだしたのは、天和(1681)の頃から
らしい。
「赤穂事件」『八百屋お七放火事件』が話題になった頃。
新聞もテレビもない時代、かわら版は読んで売るから「読売・かわら版」
と呼ばれた。羽織を着、編み笠で顔を隠し、指揮棒のようなもので紙面を
叩きながら、講釈の上手い兄ちゃんが、買い気をそそるように囃すものだ
から、江戸の野次馬に大人気を博したものである。



深呼吸しながらそっと風を聞く  上坊幹子




       かわら版売りを囲む庶民




ところが、庶民がかわら版で世の動きを知ることをよしとしない幕府の
官僚は、幕府批判を助長するものとして、貞享元年(1684)事件を
速報する「印刷物の発行を禁止する」お触れを出したのである。
そのため当時のかわら版屋は、映画などで見るものとは違い、編み笠を
口だけ見える程度に深くかぶり、必ず2人以上で売り歩いた。
1人は講釈の上手い売り手、1人は警備役として…。

継続は力手のまめ足のまめ  山口文生




         かわら版が報じた大地震




徳川家康が拵えた江戸の260年。
その間には仇討事件から謀反や放火事件や天災までさまざまな大事件が
勃発している。 

「どんなものがあったのだろうか?」
① 由比正雪の乱 1651年
②  明暦の大火  1657年
   江戸の大半が焼失した大火災。世界三大大火・江戸三大大火の一つ。
   死者10万人を超える大災害であった。
③ 明暦の大火における石出帯刀の美談 1657年
④ 振袖お七放火事件 1683年
⑤ 元禄赤穂浪士討入 1702年
⑥ 天一坊事件 1728年
  8代将軍・吉宗のご落胤と称する若者が将軍に謁見しようとした。
  しかし、大岡越前が嘘を見破り天一坊を捕らえた。

生き様を皺の深さに漂わす  小原敏照



⑦ 明和の大火 1772年
  江戸三大大火の一つ。「目黒行人坂大火」とも呼ばれる。
⑧ シーボルト事件  1828年
  シーボルトが帰国する時に持ち出し禁止であった日本地図を持ち出そ
  うとして、シーボルト以下多くの関係者が処罰された出来事。
⑨ 天保の大飢饉  1833~1839年
⑩ 大塩平八郎の乱  1837年
⑪ 国貞忠治捕縛・処刑 1850年
⑫ 品川沖黒船来 1853年
  アメリカ東インド艦隊のペリー提督(黒船)が開港を迫り浦賀に来航、
⑬ 桜田門・井伊直弼事件 1860年



明日という浮き輪を投げる夜の海  ふじのひろし





松の廊下で吉良刃傷に及んだ内匠頭を羽交い絞めする梶川与惣兵衛


「松の廊下 刃傷事件」  詳報
元禄14年(1701)3月14日は、5代将軍綱吉が勅使、院使に対
し勅答する日であった。午前10時頃から午前11時過ぎに、勅使接伴
役の赤穂浅野藩5万石城主・浅野内匠頭長矩が高家筆頭の吉良上野介義
を殿中松の廊下でいきなり小サ刀で背後から切りつけ重傷を負わせる
事件が発生した。
この日は幕府にとって大切な日であったこと、江戸城内での刃傷であっ
たことから五代将軍・綱吉が激怒した。



御気は短いに袴は長い也  江戸川柳



「斬りつけの様子ー梶川与惣兵衛筆記によれば」
「誰やらん吉良殿の後より、『此間の遺恨覚えたるか』と声を掛け切付
 け
申候。その太刀音は強く聞こえ候えども、後にて承わり候えば、
 存じ
のほか切れ申さず浅手にてこれあり候。われらも驚き見候へば、
 ごち
そう人の浅野内匠頭殿なり。
 上野介殿、これはとて後の方へ振り向き申され候ところを、また切付
 られ候ゆえ、われらの方へ向きて、逃げんとせられしところをまた二
 太刀ほど切られ申候」



浅からぬ恨み額に傷をつけ  江戸川柳


「 傷の程度は?」
「此間の遺恨覚えたるか」と、叫んでいきなり背中から切りつけた。
驚いた上野介が振り向いたところを更に額に一太刀きりつける。
烏帽子の金具で止まった額の傷は3寸5分から6分(約11センチ)背中
の傷は三針縫う程度。
討ち入りの時には、額の傷痕は残っておらず、背中の傷が本人確認の決
め手となる。 栗崎道有のカルテ(外科医で幕府典医)によれば、
『ヒタイ スジカイ マミヤイノ上ノ 骨切レル 疵ノ長サ三寸五分 
 六針縫フ。背疵浅シ 然トモ 三針縫フ』とある。

目印は殿が額につけておき  江戸川柳



「五万石の大名の扱いではなかった!」
式服の大紋を脱いだ浅野内匠頭は、ノシ目小袖のままの姿で出された一
汁五菜の食事は、茶漬け二杯を食べただけ。酒、煙草も許されず、遺言
を書くことも許されなかった。
「浅野内匠頭の言葉」
内匠頭『自分は元来不肖の生まれなる上、持病のせん気があり、
心を鎮めることもならずして場所柄もわきまえず不調法仕った』
と述懐したとある。



今さらを五言絶句でものをいい  江戸川柳





風さそふ花よりもなお我はまた春の名残をいかにとやせむ





「将軍綱吉の判断」
午後1時頃に側用人の柳沢出羽守保明が綱吉に事件を伝えると、激怒し
た将軍は、始祖・徳川家康以来の喧嘩両成敗の不文律を破って浅野内匠
には、田村右京太夫にお預けの上「即日の切腹」吉良上野介には
「お構いなし」を即断した。
不公平な裁きが、武士の面目をかけた「赤穂浪士討ち入り事件」を惹起
する発端となった。
機敏、迅速であり過ぎたこと、喧嘩両成敗でなかったこと、即日の切腹
と、お家断絶は幕府裁定の三つの異常とされる。
額に斬りつけた処を、大奥留守居番の梶川与惣兵衛頼照が羽交い締めに
して取り押さえる。
当時55歳で7百石取り。功により5百石の加増を受ける。
「抱きとめた片手が二百五十石」
と、世間は武士の情けを知らぬ仕打ちと非難した。



5万石捨てては5百石拾い  江戸川柳








NHKの大河ドラマは「鎌倉殿の13人」が終わって令和5年1月8日
から徳川家康主人公の「どうする家康」へと、バトンチェンジされます。
「鎌倉殿の13人」の脚本担当の三谷幸喜さんは、僕が描きたかったこ
との随筆で「このドラマは結局は家族の話なんだと」と述べています。
その見方で行くと大変な家族であったように思いますが…。
さて次の家康の物語は、「どうなります」ことやら…。
さてこのブログも、その辺に興味を持ちながら鎌倉から江戸へ、家康が
拵えた江戸の260年のあれこれを追いかけていこうと考えております。
よろしくお願いいたします。

アフターコロナへ骨の手入れする  井上恵津子

拍手[2回]

PR
 懐かしいノイズが混じる蓄音機  くんじろう



「鎌倉殿の13人」 鎌倉のよもやま



西園寺公経(さいおんじきんつね)
小倉百人一首では入道前太政大臣
花さそふ嵐の庭のゆきならでふりゆくものは我が身なりけ

京に西園寺公経という貴族がいた。彼は頼朝の姪を妻に持つ縁故から
鎌倉幕府との親密な関係を結んでいた。
公経は承久の乱前夜、朝廷による倒幕の情報をいち早く京都守護へ告げ、
そのために幽閉を余儀なくされたが、乱後は幕府方の功労者として一挙
に太政大臣となる。
その後は、幕府と朝廷のパイプ役として権勢をふるった人物であった。
そんな公経は、洛西衣笠山に豪壮な北山別荘を営んでいる。
そして後年、この別荘が、足利将軍義満の北山殿に改築され
やがて「金閣寺」へと発展していく。
時流を察知し政治家として一時代を築いた彼も、後年自分の建てた別荘
が日本で最も建築物になろうとは思いもよらなかったであろう。



我武者羅でありたい空が美しい  上坊幹子




         「曲者/法印尊重」




承久の乱が終了し、次々と朝廷側の首謀者が幕府に捕まっていった中で、
尊重という法印は、巧みにその網をくぐりぬけていた。
(尊重とは僧侶・山伏・祈祷師などのこと)
後鳥羽上皇の側近であった彼は、武士に反感を持つ寺社勢力の代表でも
あり、倒幕を強硬に推進してきたので、当然幕府の追補リストに載って
いるはずであった。
この尊重なる人物は、猛牛に車を引かせる牛車のレースに熱中し事故を
起こして大ケガをしたり、承久の乱の最中に親幕府派の公家西園寺公経
を憂さ晴らしに殺そうとしたりと、まさに荒れ狂う坊主であった。
しかし、幕府軍が京を占領すると、彼はさっさと逃げ出してしまう。



用意万端避難袋は枕元  前中一晃




逃げ延びた尊重は吉野の奥に隠れ、還俗して地元の娘の婿になりすまし、
熊野から九州と動き回って反乱の機会を狙っていた。
そして突如京に姿を現すと、幕府に討たれた和田義盛の子息と通じて、
事を起こそうとするが、いに捕まる。
処刑の前、尊重は六波羅探題方丈・時氏に向かって
「死んでやるから、義時が飲んだ毒薬をくれ」と叫ぶ。
時氏の祖父・義時は3年前に急死しており、毒殺の噂が流れていたのだ。
尊重の嫌がらせの一言が噂を裏付ける形になってしまった。
彼は最後っ屁のように効果的な一発をかまして死んだのである。



言い勝ってむなしい心尻っぽ出す  石田すがこ




                                        「一遍上人絵伝」
京都四条付近の様子。活気あふれる庶民のしたたかさが見える。

「勝手に公道をたがやすべからず」

京の朱雀大路は、側溝などを含めて92mの幅があった。
面白いことに「延喜式」では、側溝でネギやセリや蓮などを栽培する
ことを認めている。
ところが都が荒廃するにしたがい、ドサクサに紛れて朱雀大路に畑を作
ったり、勝手に占拠して家を建てたり、する輩が増えてきた。
まるで戦後の闇市のような光景であったのかもしれない。
このようにもと公道だった畑や宅地の場所を「巷所」というが、
貞応元年(1222)には巷所の帰属をめぐって、山城国司と京都守護
が争っている。闇市の縄張りをめぐる抗争のようだが、
建久2年(1191)の新制では、巷所そのものが禁止されている。



あるがまま我が人生の如き庭  山谷町子





「ぼろぼろ」
男ー縞模様の紙衣を着たぼろぼろが女性を襲っている様子。

鎌倉時代の後期には、何らかの理由で所領を失った武士たちが、信仰を
求めて諸国を放浪する様がよく見られたという。
彼らは独特の模様の紙衣をまとい、托鉢のようなことをしながら家々を
回っていたようだ。 
人々は彼らのことを「ぼろぼろ」と呼んでいた。  『徒然草』
「ぼろぼろというもの昔はなかりけるにや。近き世にぼろんじ・梵字・
 漢字などいいける者」とある。
吉田兼好は彼らについて、世を捨てた割には我執に強く、仏道を願う割
には、争いばかりしていると、やや批判的である。
しかし「沙石集」では
「知恵も賢く器量つよく、発心もたかく、修行もはげし」
と、賞賛もされている。
「ぼろぼろ」は、仏法における解説の境地達するために、運を天にまか
せて漂泊の旅をひたすら続けたのであろうか。
絵は武士の屋敷の門前で今にも殴られそうになっている旅の男。



生き延びる運命線のババつかみ  中村牛延




「法然上人絵伝」
延暦寺の人々に墓を暴かれる前に法然の遺骸を移そうとする念仏宗徒

当時は洛中にも殺人・放火・強盗などが続出した時代。
延暦寺は、それらの犯人の多くは念仏宗徒であると非難し、彼らに暴力
を振るったりした。それはやがて、法然の墓を暴くという計画を立てる
までにエスカレートする。
念仏宗徒は事前に情報をつかんで事なきを得たが、その後も執拗な延暦
寺の弾圧により、洛中の念仏宗は一時衰えをみせた。
一方的とも見える延暦寺の弾圧だが、その原因は念仏宗徒側にもあった。
彼らは「憎悪無碍」(ぞうおむげ)を主張し、その真意を誤解した者が
わざと悪事を働くことがあったのだ。
これでは、犯人に疑われても仕方がないというものだろう。



つながっていますぶら下がっています  新井曉子




「景正作と伝わる陶製の狛犬」
陶器のことを俗に「瀬戸物」というがそれは尾張の瀬戸焼から出ている。

「瀬戸焼」の開祖は、加藤景正と伝承されながらも、その経歴は不明な
点が多い。
一説には安貞元年(1227)道元の入宋に従い、福建省で陶器の製造
法を学んだという。そして帰国後、良質の陶土を求めて諸国を遍歴し、
尾張の瀬戸に到ったと伝えられている。
鎌倉末期には、彼が伝えた製造法が一般化し、全国的にも「陶器」とい
えば「瀬戸物」という具合になった。
景正は通称を藤四郎といい、12代の子孫まで代々陶業に携わり藤四郎
を名乗った。



ゆったりとあなたの福にからまって  柴本ばっは




                                                餓鬼草紙 




「生き地獄となった大飢饉。廃した京の街の様子」



ひとたび飢饉に見舞われれば、都といえども地獄と化した。
このときの被害は全国に及んだ。
寛喜2年(1230)は異常な冷夏であった。
6月には、武蔵と美濃に雪が降った。
旧暦の6月だから今なら7月下旬頃である。
綿入れの衣が必要だったという。
当然農作物の不作はひどく、被害は甚大であった。
翌年2月には、疫病が流行し3月以降は、餓死者が道に溢れるようにな
った。
供物が供えられると人々が奪い合う。
今まで禁忌のために食されなかった牛馬の肉まで食用にされた。
麦もすべて枯れ、種麦まで食べるから種麦が米価の4倍まで高騰した。
鴨の河原には死体が散乱し、死臭が街中に漂い、盗賊が横行し、人々は
家を捨て難民となってさまよい、子を売り、妻を売った。
そんな地獄絵図が、寛喜3年の8月をピークに繰り広げられたのである。
執権北条泰時は、租税や課役を免除する徳政を命じたり、自分の分国で
ある伊豆・駿河で富民に米を放出させ、窮民の救済にあてたりして飢饉
に対応した。 また御家人の贅沢を禁じ、倹約を奨励した。
しかし天災にはなすすべもなく、正常な天候の回復を待つしかなかった
のである。



そのうちに死ねない時代生き地獄  笹百合子




     「平泰時小傳」  



「北条泰時の大岡裁き」


北条泰時には次のようなエピソードが『沙石集』にある。
九州のある地頭が、困窮のあまり所領を売ってしまったのだが、長男が
買い戻して父の知行地とした。
ところが父は、その所領を次男に譲ってしまったため、兄弟で争いにな
ってしまった。
兄は嫡子で幕府に奉公がある。弟は父の譲状を持っている。
どちらに「道理」があるのか?
法律の専門家は、「親子関係による譲渡に幕府は介入できないから弟に
分がある」という。
理屈としてはそうかも知れないのだが、泰時は御家人の兄を不憫に思い、
領主がいなくて生じた土地を与えたのである。
『御成敗式目』を定めた泰時としては「道理」が第一である。
しかし「情」を無視しては、御家人から信頼を得ることができないと
考えたのであろうか、北畠親房『神皇正統記』荒井白石『読史世論』
頼山陽『日本外史』などの歴史書は、北条家に批判的だが、この泰時に
対してだけは、公正で情け深い政治家ということで賞賛している。



手のひらで転がされたり転げたり  岡田良子



「悲しき父 執権・北条泰時」


仁治3年(1242)6月、北条泰時が亡くなった。
過労に赤痢を患ったことが原因であった。
当時の人々は隠岐に流された後鳥羽上皇の怨霊のせいだと噂したという。
泰時は頼朝の政治を踏襲しながら、合議制という政治システムを導入し
て北条政権を盤石なものにした功労者。
政治家としては、意欲に充ちていたであろうが、父親としては悲嘆に暮
れる日々であった。
安貞元年(1227)6月に泰時の次男、時実がわずか16歳の若さで
家人に殺害されている。
そして寛喜2年(1230)6月には、長男・時氏が28歳で病死。
「承久の乱」のときには、宇治川の激戦でともに戦い、いずれ執権職を
継がせようと思っていた愛息であった。
さらに8月、三浦泰村に嫁いでいた娘が出産で母子とも亡くなっている。
まさに悲しき父であった。



逢い別れ諸行無常の風の中  宮原せつ

拍手[7回]

オムレツの卵ひとつが萎えている  前中知栄





                   政子の観音像


北条政子…と言えば、足利義政の正室・日野冨子、豊臣秀吉の側室・
淀殿と共に、「日本三大悪女」の一人として有名。
夫・頼朝の死後、政子に静かな後半生は用意されていなかった。
2人の娘はすでに亡く、嫡男・頼家を失い、最後に残った次男実朝まで
もが暗殺されてしまう。
しかも加害者は、日頃から目をかけていた孫の公暁である。
その悲しみは気も狂わんばかりであっただろう。
そこには「承久の乱」に際し、尼将軍として御家人たちを結束させた
政子の印象とはほど遠い。
最愛の子どもたちに、幸福な人生を与えることが出来なかったのが政子
の不幸であった。
 だがそれは、将軍の妻・母であった彼女の宿命だったのかもしれない。
そのような自責の念からか、晩年の政子は観音像を描くことを日課とし、
その絵は今も寿福寺に残されている。
こんな政子を悪女と呼ぶのは、心もとないのではないか。



削っても削っても大黒柱  森 廣子





                                                      鎌倉御所


「鎌倉殿の13人」 政子は悪女だったのか。




「尼将軍ー最後の大仕事」

その昔、謀反を企てた北条時政の後妻・牧の方にならったわけではない
だろうが、義時急死後、その後妻である伊賀の方が北条家に災難をもた
らした。
伊賀の方は、参議右中将・一条実雅を将軍にし実子・正村を執権にする
ことで兄・伊賀光宗が実権を握ろうと謀ったのである。
そのため彼女は、有力御家人である三浦義村を抱き込もうとした。
義村は正村の烏帽子親であり、娘が泰時に嫁いで離縁されたという関係
である。
この陰謀を知った政子は、深夜女房1人だけを連れて義村を訪ねた。
政子は東国の棟梁は、泰時意外にないと説き、
「陰謀に加わるか、泰時を助けて平穏をとるか、さぁどっちなんだ」
と詰め寄った。
この政子の恫喝に義村は恐れをなし、泰時に忠誠を誓ったのである。
政子は、伊賀の方を伊豆に幽閉すると、光宗を信濃、実雅を越前に配流
させた。伊賀氏による陰謀を未然に封じ、鎌倉幕府の急場を救ったこの
一件は、70歳に近い「老尼将軍の最後の大仕事」となったのである。


ばあさまになりはったけど髪薫る  井上一筒

「なんでかこれが悪女伝説」





                 伊賀の方と正村


「政子が伊賀の方の謀反をでっち上げた?」
牧の方の乱をまねたかのような伊賀の方の乱は、実は政子伊賀の方を
陥れるために仕組んだものという説がある。
伊賀の方の実家である伊賀氏の台頭を恐れたからだという。
但し、伊賀の方に押しのけられようとしていたはずの義時の長男・泰時
自身が、意外にも「伊賀の方の謀反を否定している」ということを、
どう判断するべきか、…何とも奇妙である。



乱闘がはじまりそうな酸味かな  吉松澄子

「亀の前事件」
政子が2人目の子を懐妊中に、女好きの頼朝は、亀の前という女性を愛
し、深い仲になってしまった。
これを知った嫉妬深い政子は大激怒し、亀の前の屋敷を破壊、さらに
亀の前を追放してしまった。
当時としては、子孫を残すことは、一家の繁栄維持に欠かせないこと、
すなわち、男が妾を持つことは普通のことだった……のだが。

誤作動の指が頭に喝を入れ  宇都宮かずこ





         頼朝・富士の裾野の巻狩り



「猪や鹿を射るより源範頼」

建久4年(1193)頼朝が富士裾野での巻狩りの折、曽我祐成時致
の兄弟(伊東祐親の孫)が裾野に建つ宿舎に忍び込み、工藤祐経を殺害
をした。「曾我兄弟の仇討ち事件」である。
その後、兄の祐成は仁田忠常に討ち取られたが、弟・時致は頼朝の宿舎
をめがけて憎しみの刃を向けてくる。
頼朝も臨戦の太刀を抜くが、大友能直が間に入ってことなきを得た。
だが、これを「頼朝も討たれた」と『保暦間記』が誤報したことから、
問題が起った。
このとき、政子の傍に控えていた頼朝の弟・範頼が、政子に
「兄が亡くなっても、私がいますからご安心ください」
と言葉を掛けた。鎌倉に戻って頼朝は、政子からこの言葉を聞き、
「範頼は自分の地位を狙っている」と、疑念を持った頼朝は範頼を追放
してしまった。
告げ口から政子が悪女だと決めつけるのは早計だが、範頼を嫌った政子
が彼を追い落とすために虚言を弄したという流言が真しやかに囁かれた。

洗濯ばさみ劣化サボテンだけ元気  藤本鈴菜

「比企氏討伐と頼家殺害」

頼朝死後、長男の頼家が2代将軍となった。
が、頼家の政治は独断専行で近臣の諫言も無視、また蹴鞠や遊興に没頭
し政務も疎かだった。
ために「鎌倉殿の13人」による合議制により実権を取り上げられた。
また頼家は、母・政子よりも、父・時政よりも、妻の実家の比企氏と親
密な交わりをした。
そして頼家が病床の折、頼家・比企能員と妻の3人が「鎌倉を我が物に」
とする謀議を、政子は、廊下の通りすがりの障子の隙間から耳にする。
政子はこの大変な裏切りの密談を父・時政に通報した。
鎌倉安寧を願う時政は、比企能員を自邸に招き謀殺してしまうのである。
頼家は政子の告げ口により出家させられ、伊豆の修善寺に幽閉された。
やがて頼家は、誰がしむけたか闇の手によって殺害される。
彼女の悪女説は、比企氏の陰謀の通報から頼家殺害まで、政子が関わっ
ていた中心人物だというのである。



いつの間に担ぎ出されたど真ん中  津田照子



「北条政子を振り返る」 政子善人説





政子の遺品
政子の櫛


承久の乱から4年後、政子は嘉禄元年(1225)7月に病没。
69歳だった。弟の義時は、この前年の6月に62歳で没している。
仲の良い姉弟だったことを伺うように、政子は一年後に義時を追い逝っ
たのである。
数年前、政子の遺品として鎌倉の永福寺から、政子が身につけていた思
われるものが発掘された。
掘り出された「経筒」は一緒に女ものの櫛や数珠が発掘されたことから、
政子が埋めた可能性があると考えられている。(鎌倉国宝館保管)


昨日迄二人だったが今一人  下林正夫










「母なる政子」

政子は、弱い立場にいる女性や子どもに優しさを向け、一族の繋がりを
大切にする家族観を持っていたという。
ある時、娘の大姫の許嫁である志水の冠者・義高が殺されるといいう事
件が起った。
頼朝と朝廷よりの義仲の関係が悪化し、義仲は頼朝の鎌倉軍に滅ぼされ
てしまう。
義高は木曽義仲の息子だったため、反乱の芽を摘み取る意味で、頼朝は、
義高を殺そうと配下を差し向けるのたが、義高の危機を察知した政子は
義高を館から逃がしてやった。
結局、義高は殺されてしまうが、政子にとって義高は政敵の息子ではなく、
まず娘の許嫁で家族の一員だったのだ。

ゆっくりとほどこう母の糸車   山口ろっぱ

「こころ優しき政子」
また、義経に対する純粋な愛を舞にした静御前頼朝が叱責したとき、
公然と異を唱え、守ろうとしたことや、息子頼家が死んだ後、その子ど
もたちを頼家の弟・実朝の養子扱いしたことからも政子の優しさや家族
観はうかがえる。
もともと家族が強い絆を持って生活する東国で、政子にとっては幕府と
主従関係にある御家人たちもまた、家族の一員だったのだ。
鎌倉幕府の危機を救ったあの演説は、母として政子が息子・御家人たち
に向けた言葉だったにちがいない。

マイナンバーをわたくしの戒名に  靏田寿子  




[政子の直筆の手紙 (政子から文覚の弟子・上覚への返書)
男まさりの政子の性格がうかがえる堂々たる筆跡である。

神護寺には頼朝ゆかりの寺として知られ、頼朝の肖像画などのほかに、
政子の唯一の直筆といわれる手紙が所蔵されている。
「親が子に先立たれるというのは無情の世のならいですが、
 それでも母としては、慰められようもないほど嘆きは深いのです」
と記されている。

独り言もう言わないと独り言  掛川徹明



「政子の心根」
平家との戦を進める木曽義仲は、息子の志水冠者義高を人質として鎌倉
に送ってきた。頼朝は義高を大姫の婚約者に定めた。
寿永二年(1183)だから義仲の子・義高追討の前年のことである。
 義高11歳、大姫6歳のころであった。
ところが、頼朝と義仲は対立し、義仲が討ち死にすると、ほどなく頼朝
は義高を斬首した。
大姫は、子供心に大きな傷を負った。
大姫は義高の死以来、日ごとに憔悴し、その傷は20歳で世を去るまで
癒えることがなかった。
娘を失った政子の下に上覚上人からお悔やみ状が送られ、
それに対してゆれ動く母親の嘆きを吐露した手紙が上記の本状である。

あの世でもこの世でもない沖にいる  徳永政二





鎌倉・扇ガ谷の寿福寺にある政子の地蔵
鎌倉五山の一つとして知られる寿福寺は、正治2年(1200)に政子
僧の栄西を招き、この前年に死去した頼朝の冥福を祈って創建した臨済宗
寺院である。
願成就院の地蔵菩薩坐像は「北条政子地蔵」と呼ばれ、政子の七回忌の折、
三代執権・北条泰時が奉納したものと伝えられる。


ぬかるみに咲いて奇麗な蓮の花  通利一遍

拍手[4回]

塞翁が馬か人生浪花節  岡田幸男





            鎌倉殿の最終章



承久の乱の後、北条義時の立場はいっそう強まり、独裁体制さながらに
権力を振るうことになる。もっともその期間は短い。
乱から3年後の貞応3年(1224)義時が病により没したからだ。
彼の60余年の人生、頼朝死後、若き日の茫洋とした義時の姿はなく、
鎌倉を守るため、また北条氏を守るため、その生き様は厳格さを貫き通す
ものだった。その過程となる出来事に携わってきた義時は、
歴史的にも決して評判はよくない。


悪人もみんなやさしい絵本の絵  清水すみれ



「鎌倉殿の13人」 北条義時、没する


「義時を悪人伝説に仕立てた出来事」
   




この時は何の疑いもしなかった広常



頼朝失脚を企む御家人たちの計画を潰すため義時は、大江広元(栗原英
雄)と連携してことを収めていた。
しかし事なきを得たはずだったが、広元の筋書きには続きがあった。
広元は頼朝「見せしめ」として「誰か一人に謀反の罪を負わせる」
ことを進言していたのだ。
その一人とは、御家人の中でも上位の上総広常佐藤浩市)だった。
頼朝の命を受けた侍所所司の梶原景時は鎌倉の御所内で広常を暗殺した。
義時はその時、唖然とした顔で頼朝の冷酷さをみた。
義時の厳格と非情性は、このときに醸造が開始されたのかもしれない。


沖へ沖へ私ひとりの舟を漕ぐ  津田照子





 能員と義時の腹の探り合い


「比企の乱から派生する一連の粛清」


頼朝の死後、将軍頼家と北条氏との対立が激化すると、阿野全成(新納
慎也)は突如、謀反の罪で常陸に配流され八田知家(市原隼人)により
誅殺された。
それを画策したのが比企能員(佐藤二朗)だった。
さらに能員は頼家と「北条転覆を画策」…これは北条にとって脅威でし
かなく義時は宣戦布告し、比企氏を壊滅。そして女・子どもの区別なく
一族を掃討した。


いざこざも五色の糸も絡みつく  小谷小雪



「一幡暗殺」
つづいて義時は、頼家(金子大地)の長男で比企の血を引く一幡(相澤
壮太)を殺害するよう善児(梶原善)に命じた。
が、姉・政子の助命に掬われ一幡は一命をとりとめた。
一幡はのちの公暁である。公暁「実朝暗殺」を謀ることとなる。





             頼家と政子



「二代将軍・源頼家(金子大地)追放」
頼家が後鳥羽上皇(尾上松也)に「北条家追討」の院宣を受ける計画が
露見し、伊豆へ配流され、のちに修善寺で殺害される。
義時が後の憂いを排除するための決断だった。




彼岸花彼岸違えず畦道に  大橋恒雄





    時政を唆すりく




「北条時政とりく(牧の方)の謀反の罪」
北条時政(坂東彌十郎)とりく(宮沢りえ)は、「実朝を暗殺して娘婿
の平賀朝雅を新たな将軍にしようと陰謀を企んだ」牧の方の乱である。
それを義時政子は激怒し、父・時政とりく(牧の方)を鎌倉から追放
し伊豆へ幽閉した。
さらに実朝から鎌倉殿の座を奪おうとしたとした罪で朝雅の殺害を命じた。


誘われて乗ってしまったガラス板  靏田寿子





   義時・重忠一騎打ち




「畠山重忠の乱」
重忠(中川大志)は、時政りく(宮沢りえ)の理不尽な行動によって
窮地に陥る。重忠は頼朝以来の旧臣であり、また時政の娘婿である。
その時政が牧の方の意向か義時「重忠を討て」と命じてきた。
重忠と仲のよかった義時は反対しながらも、最終的には父の命に従う。
ここで2人の間には決定的な溝ができ、御家人のなかでも人望のあった
重忠を義時は、心ならずも誅殺した。


かみさまの杓で冷たい水を飲む  板垣孝志





  裏切りの矢に倒れる義盛



「嵌められた義盛」
泉親衡頼家の遺児を擁立して乱を謀るが失敗。
これに和田一族が加担していることが発覚した。
この事件が和田義盛(横田栄司)にまで波及、無実を訴えるも通らず、
義盛は、反北条の旗頭となり合戦に及んだ。「和田義盛の乱」である。
義盛は実朝(柿澤勇人)の説得で降参した瞬間、だまし討ちにされる。


ちり箱にシワが一枚捨ててある  通利一遍





     承久記絵巻に描かれた義時



「はじめは駄馬の如くーー義時を振り返る」




北条義時がこの世を去ったのは貞応3・元仁元年(1234)6月。
62歳で死ぬ日まで、彼は遂にナンバー2のままだった。
もっともこれは、ナンバー1たる政子が、その後も生き残ったからでも
あるが、おそらく彼自身―ナンバー2こそ望むところ。と思い続けてい
たのではあるまいか。 官職についても生涯無欲だった。
右京大夫、陸奥守といった職も、晩年には辞してしまっている。
源実朝が、あくまで官位の昇進を望み続けたのとはまさに対照的だ。
名誉欲すなわち権力欲と錯覚しがちだが、それが本質的には全く別もの
であることを、義時は身をもって示している。
官位とか肩書は、結局人生のアクセサリーにすぎないし、決して権力を
保証するものではない。
冷静な義時は、ちゃんとそのことに気がついていたのだ。
実力派、ナンバー2には肩書は不要である。
逆にいえば、肩書やら勲章をほしがるうちは、真のナンバー2にはなれ
ないということか。


解凍はゆっくりでいい土踏まず  前中知栄





    苦悩する義時


私の知る資産数十億の大社長は、ことのほかラーメンがお好みである。
汚い店にぶらりと入って、安サラリーマンと肩を並べてラーメンを啜る。
―よもや、この俺が大金持とは知るまい。
と思うとき、彼は最高の満足感を味わうらしい。
貧乏人にはまねのできない、ぜいたくな満足感である。
ラーメンをすすることは、誰でもできる。
が、数十億持ってラーメンをすすれる人はそうはいない。
義時の晩年の楽しみはそれに似てはいないか。
上皇を配流するほどの権力者でありながら、肩書らしい肩書は何もなし!
<いや、その味がこたえられんのよ>
万年ナンバー2氏は、にんまりしてそう呟いていたのではなかったか。


理性ではわかっているのに臍曲り  高田佳代子




そして、もしも、もう一度、現代人があの世に行き、
「でも残念ですねえ、りっぱな肩書がないおかげで、後世の人はあなた
 が名ナンバー2だったことさえ知らないんですよ」
といったとしたら、
<ほう、そうかい、それこそ俺の望むところさ>
と答えたかもしれない。
が、これを無欲とか人格高潔と思いこむのは早計である。
そう思いこませるほど、彼は狡猾だったのだ。
ー名もなく、清く、したたかにー
日本を蔽いつくすほどの野望を抱きながら、北畠親房にさえ褒められる
くらいに狡猾な身の処し方ができなければ、ナンバー2の生涯を全うす
るのは不可能なのである。


プライドを表に出さず枯れ葉散る  奥山節子








「義時の死線」
貞應3年6月12日、義時の体調は優れななかった。
当時の6月は現在の7月になる。脚気を患っていた義時は、老齢にその
日の暑さも敵で、体を衰弱させていたのかもしれない。
呼び寄せた陰陽師に占わせると
<戌の刻いわゆる晩方には快復に向かうだろう> とのことだった。
念のため、祈祷が行われた。
しかし、時間が経つにつれ、義時の容態は悪くなる一方である。
明け方にはいよいよ危険な状態になり、13日の太陽が真上に昇る直前、
政子が祈るように見守るなかで義時は、息を引き取った。62歳だった。


アイスピックで砕いた残念のかたち  山本早苗


「その死には、毒殺説もある」
義時が亡くなったのは貞應3年のことであるが、その死が突然であった
ことから、様々な憶測が飛び交った。
その一つが義時の3人目の妻である伊賀の方(菊地凛子)の「毒殺」に
よるというものである。
承久の乱の首謀者の一人として、六波羅探題に拷問を受けた延暦寺の僧・
尊長が苦痛に耐えかねて、つい、「義朝に妻が飲ませた薬で俺も殺せ!」
と、あたかも義時の妻が夫を毒殺したかのように吐き捨てたというのだ。
義時の死の直後、伊賀の方が、兄・伊賀光宗と共謀して、我が子・政村
を執権の地位に昇らせるよう計ったいうのである。
「牧の方の乱」をまねたわけではなかろうが、謀反発覚後、伊賀の方は
伊豆国に配流。それから程なく亡くなるという流れがある。

裏切られたのかおかしな味がした  猫田千恵子

拍手[4回]

武者震いいいえ貧乏ゆすりです  合田瑠美子



                                              「承久記絵巻」
『承久記絵巻』は、承久の乱を描く軍記物語『承久記』にもとづく絵巻
である。三代将軍源実朝亡き後の鎌倉幕府を滅ぼそうと企てた後鳥羽院
の挙兵と敗退、隠岐の島配流までを描いている。
この絵巻を収める木箱の蓋には「土佐光信」画/月輪禅定御筆」と、墨書
されていて、絵の筆者を15世紀 ~16世紀前半に土佐光信とし、詞書
の筆者を「月輪禅定」九条兼実 (1149-1207) とする。
この記載が、事実とは俄かに信じ難いが、では誰が絵を描き、詞書を書
いたのかというと、すぐには分らない。
とはいえ、「雅趣雄麗で筆法緻密」という高い評価の通り、実に見ごた
えのある絵巻である。
しかも、江戸時代以前に「承久の乱」を描いた絵画作品はほとんど現存
せず、その点からも貴重である。

深呼吸しながらそっと風を聞く  上坊幹子


実はこの絵巻、恩賜京都博物館で展示公開された後、遅くとも 1974年 
以前に所在不明となっていた。
まとまった記述は『後鳥羽天皇七百年記念拝展目録』のみで、そこに
挿図も一切ないため、長年どのような絵巻か分からなかったのである。
幸いなことに、筆者はこの絵巻を個人が所有していることを知り調査・
成果公表をお許し頂いた。
そこで、筆者が学芸員として勤務していた京都文化博物館の特別展・
「よみがえる承久の乱ー後鳥羽上皇vs鎌倉北条氏」で展示公開させ
て頂いた。
展覧会終了後の 2021年 6月下旬に『承久記絵巻』は個人から龍光院
に寄贈された。数十年ぶりに龍光院に絵巻が戻ったのである。
                    富山大学講師 長村祥知



「鎌倉殿の13人」 承久記絵巻を読む




                                            巻第2ー絵第6段


北条義時が諸人と対面しているところに、三浦義村が弟・胤義からの
私の文を持参した場面。
これより義時は後鳥羽が自らの追討を命じたことを知った。
因みに、義時は著名な人物であるが、意外にも肖像画等の存在は
確認されていなかった。この場面は義時を描く絵としても注目される。


ここでしか咲けない花もあるのです  荒井加寿




                  北条泰時が明恵上人の法談を聞く場面

絵伝記とも。明恵に帰依した北条泰時との法談を中心に構成され、3巻
15段から成る絵伝である。
詞書は多く「栂尾明恵上人伝」などの伝記系諸本からとっている。
本絵巻は近世に原本から模写されたもの。
元禄3年(1690)三宅高信が絵を描き、書家北向雲竹 1632〜1703)の
門人13人が詞書を書いたと奥書にある。
三宅高信は履歴未詳だが、「高山寺に滞在して先哲の名画を模写した」
と伝える。


あの世でもこの世でもない沖にいる  徳永政二



                                          卷第4ー絵第6段


鎌倉方は宇治川の戦いで苦戦し、多くが溺死していた。
軍勢を率いる北条泰時が、自身も宇治川を渡ろうとするが、
春日刑部三郎が諌止したところ。


大変があるかないかは明日の闇  佐藤近義



                                                卷第5ー絵第3段

京方の敗勢が決定的となる中、東寺に籠る京方の三浦胤義と鎌倉方・
三浦義村配下の佐原又太郎景吉が戦う場面


人知れず泣いたか武者の目が赤い  山本昌乃


「承久の乱の流れ」



                                     始まりは実朝暗殺

承久記絵巻 巻第1(個人蔵)通期(巻き替え)
*源氏最後の将軍・源実朝が鶴岡八幡宮で暗殺され、鎌倉方と後鳥
羽の関係が悪化。そして、歯車が狂いはじめた。


                            最初の戦い 鎌倉御家人の作戦会議

承久記絵巻 巻第2(個人蔵) 通期
*京にて、京方武士が北条義時の義兄・伊賀光季を追討。
承久記絵巻 巻第2(個人蔵) 通期
*左上の姿は北条義時、歴史資料の中で初めて確認できる。


さらさらと排除しますと決めセリフ  靏田寿子



                    鎌倉方上洛、迎えうつ京方 最大の戦い


承久記絵巻 巻第3(個人蔵)通期(巻き替え)
*上洛途中の鎌倉方と京方が美濃国莚田で合戦。
鎌倉方が勝利。


                  承久記絵巻 巻第4(個人蔵)通期

*宇治橋の合戦。宇治川をはさんで、京方と鎌倉方
が対峙。


おもうまま奔って滝壺に落ちる  橋倉久美子




                    宇治橋の激戦 京方の敗北が決定的に

承久記絵巻 巻第4(個人蔵)通期(巻き替え)
*橋板を抜いて応戦。
承久記絵巻 巻第5(個人蔵)通期(巻き替え)
*敗走する京方を追う鎌倉方。


お互いが入れた切り取り線でした  有海静枝



                         後鳥羽、隠岐に配流


承久記絵巻 巻第6(個人蔵) 通期(巻き替え)
*敗れた後鳥羽は出家し、隠岐へ。
時代不同歌合絵断簡(中務卿具平親王・愚詠)
(京都国立博物館蔵)通期
*隠岐で後鳥羽が編んだ歌合を絵画化。


傷心をいやす青銅の風鈴  森井克子


江戸時代に三宅高信が模写した3巻が全体を伝える。
この断簡は巻下第4段に相当し、明恵上人と建仁寺円空上座との
対話の場面を描く。
脇息を右に置き顔を見せているのが明恵である。
円空は栄西の弟子であり、禅定を修すべき様について明恵に問うている。


傷心をいやす青銅の風鈴  森井克子


「宇治川の戦い」




後鳥羽上皇が北条義時追討の兵を挙げたことに始まる承久の乱
絵の場面は、いよいよ軍記絵巻の華、合戦の場面。
左が後鳥羽軍、右が幕府軍。黒い馬が幕府軍の総大将・北条泰時。
左の後鳥羽軍も勇敢に幕府軍に立ち向かい、
朝廷側の総大将・藤原秀康。



幕府方に尾張と美濃で惨敗した朝廷方の最後の砦が、宇治川だった
承久3年(1221)6月14日、北条義時の嫡男・泰時率いる幕府方と、
藤原秀康が総大将の朝廷方が衝突した宇治川は、承久の乱最大の戦いの
舞台となった。

京都の入口である瀬田の大橋の決戦から、北条泰時の率いる幕府軍は
南に迂回し宇治方面に向かった。
宇治に到着すると、泰時の許可を得ないまま、幕府軍の先陣が朝廷軍と
戦いをはじめていた。
そして朝廷側の戦略は、京都への通路である橋の破壊に始まる。
吾妻鏡」には、
『橋の中央二間(の板)を曳き落とし楯を並べて鏃(やじり)を揃え』
(朝廷軍は橋の板を外し、骨組みだけにして、簡単に橋を渡れないよう
にし、そして楯を並べて、身を隠しながら矢を放って攻撃を仕掛けた)
戦いは朝廷側の弓矢を使った攻撃が成功し、幕府軍は突破に失敗をする。
『朝廷軍が矢を放つことは雨のようで、東国武士は多くがこれに
当たり、退いて平等院に立て籠もった>』『吾妻鏡』
さらに大雨が降ってきたため、この日の戦いは終了となった。


追いかける気力低下のちぎれ雲  市井美春



 
13日の戦いに北条泰時は、宇治橋を渡ることは困難であると判断するも
長雨により、川は増水したままで流れも激しい。
橋を使わずに、川を渡るのも困難だった。
翌14日泰時は、橋ではなく河を渡って切り込む作戦を考え、
泳ぎの達者な柴田兼義という御家人を呼び寄せ、
宇治川の浅瀬を探させた。
兼能は地元の白髪の翁から浅瀬の場所を教えられ、自らもその場所を
確認し、泰時にその調査・情報を持ってきた。
それを聞いて泰時は、渡河決行を決めた。


八起き目の風にゆっくり立ち上がる  宮原せつ


先陣を切ったのが佐々木信綱と芝田兼能であった。
信綱は、北条義時より与えられた「御局」に跨り、兼能は先導役として
川の中にゆっくりと馬を進めた。
それぞれが大声で先陣の名乗りを上げて川を進むと、待機していた兵士
たちもまた士気を上げ、次々と川へと入っていった。
≪兵士が多く水面に轡を並べたところ、流れが急で、まだ戦わないうちに
十人中の二、三人が死んだ≫
ところが激流となった宇治川を渡ることは容易ではなかった。
兵士たちは次々と流され、安東忠家一門14騎で渡河を決行するが、
全員が溺死したのをはじめ、幕府軍800余名が水死した。


プライドを表に出さず枯れ葉散る  奥山節子




        宇治川を渡る時氏・春日貞幸

渡河作戦は苦戦を強いられていたが、泰時は息子の時氏を呼び、
「わが軍は敗北しようとしている。お前は速やかに河を渡り、
 敵陣に切り込んで討死しろ」
と命じ、泰時も時氏に続いて川を渡ろうとした。
馬の轡を取っていた春日貞幸は、泰時の身を案じて、
「甲冑を身に着けている者は、ほとんど沈んでしまっています。
 早く鎧を外すように」と進言し、
貞幸は泰時が甲冑を脱いでいる間に馬を隠してしまった。
それは貞幸の死を覚悟した諌止であった。


頬骨を上げて台詞の大舞台  杉本俊枝


この突拍子もない春日の行為がなければ、後に御成敗式目を定め、
北条政権の基盤を固め、盤石なものにしたた名執権は、
宇治川の流れに飲まれてしまっていたかもしれない。
泰時は貞幸の機転に足止めをくらったが、息子の時氏は、見事に渡河
を成功させ、ほぼ同じころ、中州にいた佐々木信綱も渡河に成功した。
芝田兼能は、馬を朝廷軍に射られ、川に落下させられたが、泳いで
なんとか対岸にたどり着いていた。


塞翁が馬か人生浪花節  岡田幸男




                                 後鳥羽上皇 隠岐へ配流


戦闘がある程度進み、幕府軍は近隣の民家を壊して筏をつくり、ついに
泰時も筏に乗って宇治川を渡り切った。
『泰時が岸に着いた後には、武蔵・相模の者が特に攻めて戦った』
「吾妻鏡」
こうして宇治戦線が崩壊し、敵の大将である源有雅、藤原範茂は逃亡。
朝廷軍の兵士もほとんど逃げ出していた。
次なる将軍として、藤原朝俊が将軍に任じられたが防戦一方で儚く戦死。
幕府軍は、瀬田(東)宇治(西)の二方向から京都に入った。
後鳥羽上皇が義時追討を宣してからわずか一ヵ月で幕府軍の
勝利に終わった。


承久記(谷村文庫)冒頭
『百王八十二代ノ御門ヲハ後鳥羽院トソ申ケル。
            隠岐国ニ隠レサセ給シカハ隠岐院トモ申ス』

旅人は立方体の海に着く  くんじろう

拍手[5回]



Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開