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川柳的逍遥 人の世の一家言
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喉元を過ぎれば明日のカレンダー  細見さちこ




         賤ヶ岳合戦図屏風  右隻
大岩山・岩崎山の攻防と佐久間勢の撤退、秀吉軍の追撃の模様を描く。
(中央部分に「七本槍」の戦いの様子も描かれている)
実際の激しい戦闘を忠実に描いたというより7人の目覚ましい働きぶり
を象徴的・伝説的に描き出したもの。


織田信長の天下統一の夢への野望は、「本能寺の変」によって、その命
とともに炎に焼かれてしまった…信長の跡を継ぐのは誰なのか?
変直後、いち早く謀反人・明智光秀を討ち取った羽柴秀吉は、事実上、
信長の天下統一の継承者として名乗りをあげることとなった。
しかし、信長の3男・信孝や信長の家臣の中でも、屈指の実力をもつ
田勝家らは、秀吉の政策に不満を募らせ、次第に対立を深めていく。
天下人への野望をさらける秀吉の運命の瞬間に立ち塞がるのは、
秀吉の若武者・7人であった。




 『賤ケ岳山頂から柴田軍の砦を見下ろす七本槍』 (歌川豊宣画) 
中央・秀吉 手前右・福島正則 手前左・片桐且元 左奥・加藤清正
福島正則後右から加藤嘉明 脇坂安治 平野長泰 木の横・糟屋武則


鉛筆の重い日もある句読点  荒井加寿


家康ー賤ケ岳七本槍



      福島正則
尾張の桶屋を父に、秀吉の伯母を母に持つ正則は、秀吉にとっては従兄
弟にあたる。そうした血縁の近さもあってか、天正6年以来、秀吉に近
く仕え、早くからその能力を認められていた。
賤ケ岳の合戦で拝郷五左衛門を討ち取ったのは正則だという説もあり、
恩賞は「七本槍」の中でも随一の5千石だった。
そのことが加藤清正らの不満を生んだともいわれている。
(天正6年=1578年)


秀吉子飼いの若武者たちのデビュー戦
1583年(天正11)3月には、秀吉勝家の両軍が、北近江で対陣、
同時に岐阜で信孝が挙兵という形で対立は戦いへと発展する。
秀吉は信孝を討つため、4月16日に大垣城へ入るが、その隙をついて
勝家は、北近江に残る秀吉の留守部隊に襲いかかった。
引き返すべく秀吉が大垣を発ったのは、4月20日午後4時頃、ひたすら
駆けて、夜には余呉付近にまで全部隊を集結させる。
大岩山砦で秀吉軍を待ち受けていたのは、勝家の甥・佐久間盛政である。


再起する朝の光を身に受けて    興津幸代



       加藤清正
秀吉と同郷出身の清正は、9歳の頃から秀吉の台所方に仕えた。
秀吉のもとで元服した後は、虎之助清正と名乗り「虎、虎」と秀吉夫妻
に可愛がられた。清正の母は、秀吉の母・大政所と従姉妹同士、即ち、
秀吉と清正は又従兄弟の関係でもあった。
賤ケ岳では敵将・山路将監と槍同士の一騎打ちを演じ、見事その首を討
ち取る。一説には、拝郷五左衛門の鉄砲頭の首だったともあるが、いず
れにしろ、誠実で忠誠心の厚い臣下だった。

佐久間盛政隊は、秀吉軍のあまりの勢いに一旦は退くものの、21日未明
撤退しながら、鉄砲隊で待ち伏せるという逆襲をかけ、激しく抵抗した。
折よく柴田勝政(盛政の弟)隊の援護も得られ、盛政の兵はほとんど無
傷で権現坂辺りまで撤退することができた。
しかしその間、秀吉の舞台もさらに人数を増し、賤ケ岳に
その兵力を集中させていた。そして21日朝、盛政の部隊に合流しようと
動いた盛政隊めがけ、秀吉の号令一下、賤ケ岳山頂から精鋭たちが駈け
下りていく。
その隊列の中に、福島正則、加藤清正、片桐勝元、脇坂安治、糟屋武則、
加藤嘉明、らの姿があった。
後世「賤ケ岳七本槍」と語り継がれる若者たちである。


天空と綱引きをする凧の糸  大森昭恵



      片桐且元
浅井長政の重臣であった直盛(且元)の父・直貞は、姉川の合戦後信長
に寝返って秀吉の配下となっている。従って且元も弟の貞隆とともに、
幼少の頃より秀吉に仕えることになった。
賤ケ岳の合戦では、敵将・拝郷五左衛門を討ち取ったといわれる。
秀頼付きの家臣を監察する役目を仰せつかる。


賤ケ岳七本槍の戦いぶり
隊列を乱して敗走する勝政の兵に、激しく襲いかかる秀吉軍の兵たち。
なかでもめざましい働きをみせたのが、秀吉子飼いの若き武士たちで
あった。
一方、盛政、勝政両隊にも、勇名を馳せる武将は多い。
信長配下随一といわれた拝郷五左衛門や剛力の誉れ高い山路将監、宿屋
七左衛門らは、単身敵方に乗り込み、夥しい数の秀吉軍の兵を槍で突き
斬り殺していった。


弱点があって人間らしくなる    大高正和




   糟屋武則(かすやたけのり)
播磨三木城の別所長治に属していたが、天正6年頃から秀吉の小姓とし
て仕え始めたといわれる。後に、その三木城は、秀吉によって攻められ
落城。賤ケ岳では、秀吉の弟・秀長の近習である桜井佐吉が、宿屋七左
衛門の槍に追い詰められていたところを、武則が脇から突きかかって、
宿屋を討ち取った。その槍さばきは電光の閃きのようだったという。


しかし、「七本槍」に取り囲まれるうちに彼らの勢いも失せ、1人また
1人とその命を断たれていくのだった。隊長の勝政自身、戦闘のさなか
無念の討死をしている。戦場となった余呉湖畔には兵たちの死体が溢れ
彼らの流す血によって湖面が赤く染められたという。
敗色濃厚となるも、盛政は、諦めることなく部隊を立て直して反撃に出
ようとしていた。
しかし、援護を期待していた前田利家隊の突然の撤退によって盛政隊は
壊滅、勝家本隊も、やがて窮地に追い込まれることになる。


ふるさとがだんだん点になっていく 小出順子



       脇坂安治
近江国の生まれ、永禄12年の丹波黒井城攻めが初陣で、最初は信長
仕えたが、のちに秀吉配下となり、三木城攻め、賤ケ岳と戦功を重ねた。
秀吉に仕えたいあまり命令に背いて伺候したため、何度も秀吉の叱責を
受けたが、結局、その志と熱意が受け入れられて信頼を勝ち取ることが
できたという。武功だけでなく和漢の学門に通じ、和歌をも嗜む意外な
一面を持っていた。 (永禄12年=1569年)


柴田勝家は、やむなく北ノ庄城へと敗走し、数日後には妻・お市の方
ともに自害して果てた。
ここに、賤ケ岳の合戦での秀吉の圧勝と天下人としての運命が決定的と
なる。その勝機をもたらしたのが「七本槍」のめざましい働きであった。


戦争が終わる大きな穴あけて  板垣孝志



      加藤嘉明
13歳の頃から秀吉の養子・秀勝に仕えた嘉明は、秀吉の播磨出兵に際
し、秀勝の許可なく秀吉軍に参加する。このため、秀吉の正室・おね
不満を買うが、秀吉は義昭の志をくみ、そのまま直属の軍に加えた。
以来、秀吉のあるところには必ず加藤義昭の姿があり、常に冷静に次々
と武勲を立てたという。


賤ケ岳での武勲を受けて、秀吉からは手柄の大きい者たちへ「一番槍」
と、称える感状と格別の恩賞が与えられた。
福島正則には、5千石、他の6名には、それぞれ3千石である。
それ以外に秀吉の弟・秀長の家臣であった桜井佐吉と秀吉の養子である
秀勝の家臣、石川兵助にも、恩賞を与えられたが、この2名は、秀吉の
直臣でなかったため後世「七本槍」には数えられなかった。


モニターの癖に暑いとか言うな  森 茂俊



      平野長泰
長泰秀吉に仕えたのは、天正7年21歳の年からというから、賤ケ岳
の合戦の時には24歳であった。その出自や具体的な働きについては、
明らかではないが、数々の戦功によってのちには豊臣姓を賜り、遠江守
にまで任じられた。 (天正7年=1579年)


「賤ケ岳七本槍」と、呼ばれた男たちはいずれも、若くして秀吉の配下
に入り、20代という充実した時代に、賤ケ岳の合戦に参戦して存分の
働きを見せた。
幼少の頃から小姓として仕えた者、秀吉と血縁関係にある者、強い志を
貫いて仕え、秀吉の信頼を勝ち得た者など、「馬廻」と呼ばれ、親衛隊
のような役割を担った近習たちは、主人と個人的に強く結びついた特別
な家臣だった。
この戦いの後も秀吉は、彼らを優遇して生涯そばに置き、ともに戦い続
けた。
天下人を目指して猛進する秀吉にとって、賤ケ岳の合戦を勝利に導いて
くれた子飼いの若者たちこそが、かけがえのない腹心の部下だったので
ある。


過去形で語るカーブミラーのゆがみ  山崎夫三子

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孤独の深さ分かち合うはぐれ雲  靏田寿子









「切腹」
家康の嫡男・岡崎三郎信康は、母である築山御前ともども武田家との内
通を疑われて、死へ追いやられるという悲しい運命を辿った。
自分と同盟を結んだ家康に、信長が2人の殺害を命じたとされる。
そして1579年9月15日、家康は、服部半蔵天方山城守に信康の
介錯をするよう命じた。
服部半蔵と天方山城守は、「信康の助命」を願ったが、最後は、家康の
胸中を慮り信康の待つ二俣城へ出向いた。
二人が到着して間もなく、殿中の一室で、屏風に囲まれ白装束の裃姿で
信康は、三方に乗せられた短刀に手にとり、死を前にして静かに構えて
いた。信康の覚悟は決まっていた。








半蔵信康の斜め立つと、信康は一息に短刀を腹に刺した。
半蔵は「殿!御免!」と、声を振り絞り上段に構えた。
だが、その太刀を振り下ろすことができない。
腹を切り、苦しむ信康を前に、泣き崩れる半蔵……。
やむなく、天方山城守が半蔵に代わり介錯を実行した。

逃げるのがとっても下手な蚯蚓です  大葉美千代


家康ーゆかりの女性の墓と信康の墓




           華 陽 院
華陽院は家康の祖母・源応尼の墓所。

元の名は知源院といい、家康の生涯に最も影響を与えた人である。
家康が祖母である源応尼の50回忌の法要をした際、その法名から華陽
と改めたという。
源応尼(於富の方)は、人質時代の家康を世話した母方の祖母。
浜松で訃報を聞き、三河松を墓所に植えることを頼み、その冥福を
祈ったという。



       市 姫 の 墓
源応尼の墓と並んで家康の娘・市姫や側室・お久の方の墓がある。
市姫は、1610年(慶長15)に亡くなった家康の娘。


切り抜いた満月すらも愛される  前中知栄



          貞 松 山 蓮永寺  (仁王門)
        養珠院 (お万の方)の供養塔
 1569年(永禄12)兵火に罹り伽藍を焼失して荒廃し、1615年
(元和元)に敬虔な日蓮宗の信者であった家康の側室・養珠院の発願に
より再興された。駿河城を守る鬼門として、駿河沓谷へ移転し蓮永寺と
改称された。


養珠院(お万の方)
伊豆で成長したお万は1596(慶長元)家康に見初められ側室となる。
そして1602年(慶長7)年3月に長福丸(徳川頼宣)を、さらに、
翌年8月に鶴千代(徳川頼房)を生んだ。
長福丸は、1603年(慶長8)に、水戸20万石が与えられ、
鶴千代は、1609年(慶長11)に、下総下妻10万石が与えられた。
その後長福丸は駿河・遠江50万石に、鶴千代は、水戸25万石に移封
された。ともに慶長14年のことである。


ばあちゃんの昔話を聞く子猫  加藤 胖




           瑞 龍 寺
瑞龍寺は、駿河七ヶ寺の1つとして格式が高く、家康が駿府城に在城の
時は、時折七ヶ寺の住職を集め法門を聞いたとされる。
門柱の右には泰雲山 左には瑞龍寺とある。
瑞龍寺に秀吉の妹・旭姫の墓がある。

          旭 姫 の 墓




秀吉の妹・旭姫は、臨済宗に帰依していた事から、菩提は京都の東福寺
の塔頭南明院に法名「南明院殿光室宗王大禅尼」として葬られている。
それとは別に領内にも、旭姫を供養する寺院が求められ、家康が法名
「瑞龍寺殿光室総旭大禅定尼」に因み、寺号を瑞龍寺に改称し境内に
供養塔を建立した。
秀吉は家康との縁組を進める為、すでに別家に嫁いでいた妹・旭姫を
強制的に離婚させ、家康の正室として徳川家に嫁がせた。
しかし、2年後、1588年(天正16)に生母・大政所の病気介護と
いう理由を付け別居、以後、京都の聚楽第で生活をはじめた。
1590年(天正18)旭姫は享年48歳で死去する。


横になる茶柱いつも見捨てられ  ふじのひろし




          宝 台 院 の 墓
家康の側室・お愛の方(西郷の局)の菩提寺。
2代将軍・秀忠が、この地に大伽藍を建て大法要を営み、寺名も金米山
法台院龍泉寺となった。


西郷の局は、27歳より家康に仕え、浜松城にあり、「三方ヶ原の戦い」
「設楽原の戦い」「小牧長久手の戦い」など、家康が最も苦難にあった
時の浜松城の台所を仕切った人で、三河武士団に最も人望のあった糟糠
の妻だった人。また、二代将軍・秀忠、尾張の松平忠吉の生母でもある。


よく笑う風が私の一張羅  田辺与志魚





   江浄寺・岡崎三郎信康の墓
家康の嫡子・岡崎三郎信康の遺髪を祀る御廟所がある。
江浄寺は江尻宿の中心にある寺であり、東海道を往来する大名たちは、
行列を止め、必ずこの御廟に参ったという。
遺髪のこと――信康の切腹に立ち会った家臣・平岩親吉が持っていた
遺髪を、久能城の城主・榊原清政が譲り受け、当初、勝沢山・江浄寺
に祀られたが、江戸時代に江尻宿の開宿とともに、墓所をつくり祀ら
れたものである。

信康は、家康の嫡子として、家康がまだ元康松平と名乗っていた今川氏
の人質時代の1559年(永禄2)に駿府で生まれた。
家康亡き後、徳川幕府・2代将軍を継承する資格ある人物である。
母は元康の正室で、今川義元の姪である築山殿
もともと、徳川という姓は、将軍家と御三家のみしか名乗ることが許さ
れなかったので、正確には松平信康と称される。
さらに9歳にして、岡崎城の城主となったので岡崎三郎信康と呼ばれた。
しかし、1560年(永禄3)の今川・徳川先鋒軍 VS 織田軍の「桶狭
間の戦い」において、今川義元が討ち死にすると、家康は、13年間の
人質生活にピリオドをうち、駿府から領地の三河に戻った。
その後、家康は織田信長と清洲同盟を結んだため、信康は一転して今川
氏側の捕虜となる。だが、その後の捕虜交換により岡崎城に帰った。


片方の耳を隠して生きている   目黒友遊




        松 平 信 康




1567年(永禄10)、家康は磐田城の築城に失敗したため、信長から
改易を指示されると、信康に信長の娘・徳姫を迎える政略結婚により、
織田家と姻戚関係を結んだ。その際、信康の「信」は信長から「康」
家康から一字を授かった。
その後、信康と築山殿武田勝頼と内通しているという嫌疑がかけられ、
また信康の武勇とその有能な資質をおそれた信長の命により、天正7年
幽閉されていた遠州・二俣城で21歳という若さで切腹した。

才気溢れる釘は斜めに打っておく  高浜広川

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飛ぶ準備完了あとは風になる  上坊幹子




          豪傑奇術競 (長谷川小信画)
伊賀は忍者の郷、野盗も物の怪も棲んでいる。



その日は突然やってっきた。
このとき徳川家康は、長年の同盟関係の労をねぎらう信長の招待を受け、
安土城でもてなしを受けたあと、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊
直政ら家康の四天王のほか石川数正・服部半蔵、穴山梅雪らとともに、
堺見物をし、京都にいる信長にお礼のあいさつに向かう途中だった。
河内の飯盛山の麓まで来たところで、「本能寺の変」茶屋四郎の早便
でもたらされた。



鉛筆の重い日もある句読点  荒井加寿



四郎 「本日未明、信長公がが宿泊されている本能寺が武装した軍団に
    襲撃されました」
数正 「……京の周辺は織田の領内、敵対する勢力は存在しない筈だぞ、
    一体誰が」
康政 「襲撃した軍勢が掲げていた紋様は、桔梗紋。織田家で桔梗紋を
    掲げているのは、明智光秀しかおりません」
四郎 「手前は商人ですので辛くも京を抜け出せましたが、洛中は明智
    の兵で満ち溢れております」
数正 「ここから30㌔と離れていない、ここにいては危ないな」
 供の総勢は猛者揃いの34名だ。「京へ行き信長の弔い合戦をすべし」
という意見も出たが、武装もしていない平伏の格好である。
軍を率いる明智に対抗するには、あまりにも無謀すぎる。



斬り捨てた昨日が風に戻される  小林すみえ



忠勝 「……殿!! どういたしましょうか?」
家康は家臣の意見をききながら沈黙を通していた。が、
家康 「儂はこれより知恩院に入り、上総之助殿の後を追う」
家康の言葉を聞いて家臣は耳を疑った。
あまりの衝撃に、錯乱したのか、発狂したのか、と本気で思った者も少
なくなかった。
忠勝 「殿、殿は、何度こうした難儀を乗り越えられてきましたか!」
勝ち目のない状況に一時、家康は知恩院で自刃することを決意するが、
本多忠勝の説得により、三河岡崎城への帰城を決意する。
そこで家康の一行は、伊賀を越え、伊勢の海から船で三河に渡る最短の
経路を選択した。
堺から南山城へ出て、近江の信楽から伊賀丸柱を経て、鈴鹿の山を越え、
伊勢国へのルートだ。



そうねえと話半分聞いてない  曾根田 夢




家康公伊賀越えの道の出発点とした四条畷神社
家康一行は、茶屋四郎の信長自刃の報に接した飯盛山西麓の四条畷神社
からスタートした。



家康ー伊賀越え




「伊賀越えの厳しさ、むずかしさ」
それでも危険にはかわりない。
未知の土地に何が待っているのかわからないのだ。
当時、伊賀には「総国一揆」といわれる自治組織が存在していた。
一揆の勢力範囲は、伊賀の国を超えるほどだという。
本能寺の変の1年前、信長は、この伊賀惣国一揆を徹底的に攻撃し殲滅
させている。「天正伊賀の乱」といわれる。
本能寺の変が起きたときも、伊賀国では、大規模な一揆が起きていたと
されており、伊賀はまさに危険区域だった。
そんな背景を踏まえての「大脱出劇」であった。




草いきれ生きる権利を主張する  靏田寿子




         草内の渡し立札




「よくぞ御無事で! あの伊賀を越えられてお戻りになられたとは」
この祝福のコトバから「神君伊賀越え」の見出しが生れた。
この感動の言葉からも察せられるように、ともかく武者と言えど、少人
数で伊賀の山を越えることは、危険きわまりないことなのだ。
地侍や土民の一揆の恐れがあり、家康の巻き添えは御免と家康一行から
少し離れ別行動をとった穴山梅雪は、草内の渡しあたりで、土民の一揆
に襲われ落命している。
家康の一行も、途中、地侍や土民に襲われたともある。



韋駄天の友が一番先に逝く  八木幸彦




家康「伊賀越え」について石川忠総(ただふさ)の『石川忠総留書』
の記述が最も信憑性が高いとされている。
石川忠総(ただふさ)は、家康の堺見物に同行していた家康の堺に同行
していた大久保忠隣の長男であり、石川数正の従兄弟・石川康通とは、
親戚筋にあたる。つまり『石川忠総留書』は、現地に行った者からの聞
き取り情報なのである。
そして、その記録には、伊賀越えのルートが記されている。
6月2日 堺―南山城路―山城国宇治田原山口館(泊)13里
6月3日 山口館―南近江路―近江国甲賀郡信楽小川館(泊)6里
6月4日 小川館―北伊賀路―伊勢国長太―舟(泊)17里
6月5日 舟―三河国大浜―三河岡崎城着




切り取り線は常に正しい位置にある  寺川弘一




       伊賀越えールート




家康一行は、道に詳しい長谷川秀一の案内で、山城から近江の甲賀伊賀
を通り、白子浜から伊勢湾を横切り、常滑へ船で渡る最短ルート、後世
<神君伊賀越え>と呼ばれるルートを選択する。
(長谷川秀一=信長の側近で奉公職や検使などを務めた。
家康一行が、信長の本拠地安土を訪れた時。秀一は、接待を命じられ、
上方見物の案内も務めた。しかし、堺滞在中に、信長が本能寺で襲われ
たため、家康らと伊賀越えで熱田まで同一行動をとることになった)




忠義に厚い武士だった服部半蔵




道中には、家康の命を狙う百姓一揆や落武者狩りなどの危険があったが、
同行していた家康の家臣・服部半蔵の父・保長は伊賀出身だった。
そこで半蔵は、父の故郷の土豪や忍のもとに出向いて協力を求め、
2百人を動員して家康を守護させ、険しい間道を通って無事伊勢へ到達
させたといわれる。




武士としても有能だった茶屋四郎



また豪商・茶屋四郎『茶屋由緒紀』によると、茶屋四郎が先回りして
未然に落ち武者狩りを防ぐため、要所要所で金銭をばらまき、通行の安
全を確保し。金には弱い地元の者が道案内をしたという。
これはイエズス会宣教師の記録にも出てくるため、事実の可能性が高い。
どちらにせよ、家康は様々な助けを経て、岡崎城に達したとされている。




四捨五入何も無かったことにする  津田照子



道中の日程は次の通り。
6月2日のうちに家康は、山城国宇治田原に入った。
堺から13里(52㌔)、この地で山口光弘の馳走を受けて一泊。
3日は、近江国甲賀郡信楽の小川村の多羅尾光俊の城館に泊まり、
翌4日には、多羅尾の案内でいよいよ伊賀を通過した。
そして丸柱から石川、河合などを経て伊勢へ入り、関、亀山を経由して
白子から船で三河へ…この危険な道のりを、先々で信長派の城主や土地
に詳しい案内者の協力を得て、3日間の決死の逃避行のあと、無事三河
にある岡崎城に帰城した。



頬杖のはるかに八月の鯨  小川佳恵



「追記 ①」 <事実のあかし>
『乙夜之書物』関屋政春氏は白子の商人・角屋七郎の知人を取材して
「角屋は白子で家康に船を提供して、褒美に舟役の免許をもらった」
記している。
『徳川実紀』にも「家康は角屋七郎次郎の船に乗った」とあり、角屋が
用意した船に乗って、白子から常滑に渡り、陸路で知多半島を横断して
再び船で大浜に着いた」という史実がのこる。




ひょっとしてわたし淀川の牛蛙  井上恵津子



「追記 ②」 <あとのまつり>

伊賀を抜けた6月4日、家康信長の武将である蒲生賢秀・氏郷父子に
「信長の長年の恩が忘れがたいので、是非とも光秀を成敗するつもりだ」
と弔い合戦の決意を述べている。
実際、家康は領内に大規模な動員をかけた。
ただ雨など天候悪化などにより、家康が出立したのは三河に着いてから
10日も経った6月14日になった。
ところが、この前日、「山崎の合戦」で秀吉明智軍を撃破していた。



合掌の中で心を問い直す  柴辻踈星



「追記 ③」 <褒められて…>

伊賀越えの功績が評価され、服部半蔵は、遠江国に8千石を賜った。
さらに、家康を守護した伊賀者は、徳川家の家臣となり、半蔵が与力・
同心である彼らを統轄することになり、伊賀同心たちは四谷に屋敷を
与えられたという。
茶屋四郎もまた、その功績により家康の御用商人として取り立てられ、
徳川家の呉服御用を一任されることになった。
さらに、江戸城下に屋敷を拝領。朝廷や天下人・秀吉との橋渡し役を
担い自由な出入りを許された。



薬だな故郷の大地そして風  堂上泰女



「<家康どうする>でこんな役で出ています」




   
 茶屋四郎次郎     中村勘九郎




「追記 ④」  <困ったときに現れる京の豪商>

茶屋四郎次郎 
ちっぽけな三河の田舎大名・家康に財を預け、出世を見込んで大博打を
打った商魂たくましい陽気な男。
数々のピンチを救い、家康のサクセストーリーとともに国づくりを支え、
日本一への豪商へとのしあがる。



「追記 ⑤」 <風見鶏の元祖>





   




穴山梅雪
武田一門・穴山家の当主。信玄からの信頼厚く、抜群の知略を生かし、
外交戦略のエキスパートとして活躍。武田軍の駿河侵攻においては、
先兵として今川家の切り崩しを行った。
寝返りの巧みな梅雪はのち、裏切り者や卑怯者と武田家中で罵られる。
信長に黄金2千枚、家康に2人の美女を献上して信長陣営に仲間入り。
武田勝頼を滅ぼす道案内までした。勝頼は穴山梅雪の手引きもあって、
信長にに滅ぼされた。

『どうする家康』では、田辺誠一さんが演じる穴山信君
信君の死を見た家康は、木津川の河原で追腹を遂げようとするが、
本多忠勝が「追腹するほどのことではない。ここから宇治・信楽を経て
伊勢に出て、船で三河に帰ろう」と提案し、伊賀越えが始まった。
草内の渡しの位置は不明だが、木津川は飯盛山と宇治田原の間を流れて
いるから、通説のルートとは矛盾はない。



包装紙折り目正しく戻せない  ふじのひろし

拍手[3回]

縄電車みんな途中でいなくなり  北原おさ虫




                         「清洲会議」・周参見王子神社の絵馬 (すさみ町指定文化財)


「勝家vs秀吉」
織田信長が本能寺に倒れた後、織田家重臣たちによる「清須会議」を経
て、自分中心の流れをつくった羽柴秀吉は、京都の大徳寺で信長の葬儀
を盛大に行った。
対立する柴田勝家派の面々が欠席する中、秀吉はこの葬儀に織田家家臣
団の大半を結集することに成功し、自分が信長の後継者であることを、
天下にアピールする。
秀吉のライバル勝家に与する者は、信長の3男で美濃岐阜の織田信孝
伊勢長島の滝川一益
勢力範囲が近畿中心にまとまっている秀吉は、彼らから三方に囲まれて
いる状態であり、戦略上の表現をつかえば、勝家の「外線」に対して、
「内線」作戦をとる形となった。

立ち位置を決めかねている草いきれ  山本昌乃




 VS 
       秀 吉             勝 家




秀吉の最悪のシナリオは、勝家「外線」体制に、西の毛利輝元と東の
徳川家康が呼応して連動するという事態である。
毛利が勝家に応ずれば、秀吉の西の防衛線が突破されるであろうし、
家康が応ずれば信孝一益とともに、秀吉方である尾張の織田信雄を封
じ込めることが可能になる。
秀吉は、この「外線」包囲網に追い込まれ、四面楚歌に陥ってしまう。
そこで秀吉はまず、越後の上杉景勝と誓書を交わして、協力関係を結ぶ。
越中には勝家方の佐々木成政がいたが、この成政を釘付けにするために
景勝を利用したのである。
そして、家康対策としては、尾張の信雄から度々連絡をとらせて両者の
友好関係を強くさせ、秀吉自らも家康に情報を伝えるなどの配慮をした。
さらに毛利に対しても常々警戒を怠らず、折にうれて盛んに贈答を送る
などして懐柔策に余念がなかった。
巧妙な外交がつくりだした完璧な布陣によって、秀吉の勝利は合戦の前
に決まっていたのである。


花いちもんめ仲間だったね青もみじ  市井美春



家康ー狡い猿と一途な狼





清洲会議-三法師を抱きあげる秀吉
『大徳寺ノ焼香ニ秀吉諸将ヲ挫ク』


「清須会議」
織田家中の出世頭・羽柴秀吉は、山崎の合戦で主の仇である明智光秀
討つことによって得たアドバンテージを背景に「ポスト信長」を決める
「清須会議」に臨んだ。
信長が落命した同月の1582年(天正10)の末のことである。
ここで秀吉は、「本能寺の変」で討死した織田信忠の嫡男である3歳の
三法師を擁し、対する柴田勝家は信忠の弟・信孝を擁立する。
会談は、終始秀吉ペースで進み、京を中心とする畿内主要部は、秀吉と
その腹心が独占。
勝家は、滝川一益といった信長の老臣、それに信長の一族は美濃・尾張
伊勢といった畿内周辺部や北陸に位置することとなる。
勝家は山崎の合戦に続いて、清須会議でも、後れをとってしまったのだ。
会議後、秀吉は筋金入りのアンチ秀吉派と思われていた織田信雄(のぶ
かつ・信孝の兄)を自陣に取り込み、勝家と結んだ信孝を挑発する。


ずるいなあ線にリールをつけている  河村啓子



信孝もこれに乗り秀吉・信雄ラインに対抗し、勝家との結びつきを一層
強めた。
「秀吉憎し」の一念の信孝が、前夫・浅井長政との死別後、孤閨を保っ
ていた姉・お市の方を勝家に娶らせたのは、秀吉にとって誤算だったろ
うが、そのほかは秀吉の目論見通り。
放っておけば、義に厚い勝家は信孝を奉じて挙兵せざるを得なくなる。
秀吉はそうした勝家の気性までも見抜いていたのである。


草いきれ答えは風の中にある  前中一晃





        『賤ヶ嶽大合戦の図』 (歌川豊宣画)
(右端・秀吉、北ノ庄城を包囲する図)


「賤ケ岳の戦い」
1582年(天正10)9月、秀吉は、光秀を打ち破った山崎の地に新
たな城を築き始めた。畿内の要地で大規模な築城工事を行う秀吉を勝家
は非難するが、その声に賛同する者はない。
同年10月に信長の葬儀が、秀吉主宰で開催されると、勝家主導による
織田家再興の夢は遠のくばかりであった。


空き缶よ君も友達居ないのか  潮田春雄



……冬が近づいた。
冬になれば、勝家の本拠である越前は数カ月の間、雪に閉ざされる。
その隙に乗じて秀吉が何をするかわかったものではない。
やむを得ず勝家は秀吉と講和した。
にも拘らず秀吉は、北陸の地に閉ざされている勝家を尻目に、暮れから
年初にかけて露骨に反勝家の行動を展開する。
まず近江の長浜城主で勝家の養子である柴田勝豊を誘降し、岐阜の織田
信孝を攻めてこれを降伏させる。
次に翌年2月、反秀吉の兵を挙げた北伊勢の滝川一益攻撃。
勝家のいぬ間にとばかりに伊勢になだれ込む秀吉の攻勢ぶりを、
北ノ庄城の勝家は、歯がみする思いで聞いていたに違いない。
しかし、雪に閉ざされた北陸からは微動だにできなかった。
それでも一益は春まで持ちこたえてくれた。


律儀さが少し気になる鳩時計  三村一子





    出陣へ柴田勝家の武運を託すお市の方


ようやく春の兆しが見えた1583年2月下旬、北陸軍は残雪を踏み分
けて南下し、琵琶湖北方の賤ケ岳周辺に進出。
岐阜では、一時秀吉に降っていた信孝が再度挙兵し、伊勢の滝川一益
ともに秀吉包囲網が完成した。
岐阜の信孝を攻撃するために秀吉が賤ケ岳を離れたため、当初は、北陸
軍優位で戦いは進んだが、秀吉本陣が猛スピードで戻って来たため形勢
は逆転する。
前田利家、金森長近、不破勝光といった北陸軍の離反もあり、勝家は北
の庄に敗走し、妻・お市とともに自刃する道を選ばざるを得なかった。


約束をしたように咲く彼岸花  新海信二



「勝家と秀吉の違い」
本能寺における信長の訃報に接した秀吉は、直後に、自分をその後継者
と定め、光秀を討つ途上で、天下人への道をはっきりと心に描いていた。
だからこそ、清須会議の前後から賤ケ岳に至る秀吉の素早さと的確さは、
政治と軍事の両面で勝家を圧倒できたのだ。
一方、信長が倒れたという一報がもたらされた時、猛将で名高い勝家の
甥・佐久間盛政は勝家に「すぐさま京へ攻め上りましょう」と進言した。
しかし勝家は、「北陸情勢が予断を許さない」ことを理由に、これを退
けている。すなわち守旧派の勝家は、信長亡きあとの織田家をいかに守
り抜くかしか考えていない。
織田家の外を見た秀吉と中しか見なかった勝家----群雄割拠の時代なのだ。
この違いが両者の運命を分けた。


戦争が済むまで神は旅をする  ふじのひろし


本能寺の変の直前は、信長家臣団の世代交代の時期でもあった。
秀吉はこうした状況を活かし、信長家臣団を無傷のまま自己の家臣団
に模様替えしてしまおうと意図する。
その際、排除しなければならない要素が、織田家中心の体制にこだわる
勝家一益であり、秀吉に対し、主家であり続けようとする信長の遺児
だった。
秀吉は、「賤ケ岳の合戦」に勝利し勝家を乗り越えたことにより、織田
家臣団を受継ぎ、天下人の地位を織田家から引き継ぐ正当性を獲得した。
思えばお市の方が、勝家に殉じたことは、織田家の命運を象徴している。


あしたへと繋ぐ夕日が美しい  宮原せつ




        お 市 の 方
淀君の命によって描いた画像 (高野山持明院)


「お市の方のこと」
1573年(天正元)8月、浅井長政信長に滅ぼされた時、お市と3
人の娘は、城を脱出して織田氏のもとへ帰った。
信長は妹という理由で、しばらく弟・信包に預けた後、清洲城へ移して
扶持米を与え、その三人の女とともに養育したという。 『総見記』
後にお市は、織田氏の宿老・柴田勝家に嫁すことになった。
この再婚は信長の命令であったともいう。
が、勝家が「縁辺之儀弥其分ニ候」『南行雑録』)(天正十年十月六
日付覚書)と述べているから、秀吉と申合せのあったことが推測される。
おそらく信長の死後、天正10年6月27日の清洲会議によって、決定
したものであろう。
(のちに秀吉ならびに織田信雄と対抗した織田信孝の尽力があり、婚儀
は信孝の拠点岐阜において行われ、お市は3人の女とともに勝家の居城
越前北庄に起居することとなった)


指飾る石に見栄などいりません  若林くに彦





        勝家夫婦辞世の和歌を詠ずる (絵本太閤記)


しかし1582年(天正11)4月24日、お市は、賤ヶ岳の戦におい
て惨敗した勝家と運命をともにし、自裁の道を選ぶこととなる。
 『秀吉事記』には、『勝家は城を出るように説得したが、お市はと
もに自害することを主張した』と伝えている。
勝家「市 そなたはこれより城を出るがよい。秀吉とて長年想い焦がれ
   ておったそなたを、無碍にはすまい」
お市「いえ! 市は先の浅井家でも落城の憂き目にあい…こたびも……
   もはや、再び同じ辱めは受けとうございません」
勝家「……」
お市「市は 殿とご一緒させていただきとうございます」
勝家「…それで、いいのか」
お市「はい! なれど娘たちの命だけは……」
勝家「わかった。娘たちはすぐに脱出させよう」
お市「……これで思い残すことなく、厭わしき我が命も…終えることが
   できまする」
勝家「秀吉に何もかも後れをとった儂であったが、そなたを得たことで
   は、秀吉に勝てたようじゃな」


裏切りを赦せば夕日やわらかい  宮崎美知代


秀吉の一代記『太閤記』によれば、勝家は秀吉軍に包囲される中、
北ノ庄の城内では「最後の宴」が行われた。
勝家らは踊り謡い、もはやこれまでと知るや天守閣に登って火を放つ。
次に勝家は、愛妻・お市の方を刺し殺し、自分の腹を十文字にかき切っ
たうえ、秀吉には渡すまいと、爆薬をしかけて自らを吹き飛ばしたので
ある。 まさに猛将の名に恥じぬ見事な最後であった。

お市の方 辞世
さらぬだに打ちぬるほども夏の夜の 夢路をさそうほととぎすかな 
 勝家辞世
夏の夜の夢路はかなき跡の名を 雲井にあげよ山ほととぎす 

 ついでの事乍ら、お市の三人の女は、秀吉に引き取られ、長女は秀吉
の側室(淀君)に、次女は京極高次室(常高院)に、三女は徳川秀忠室
(崇源院)になった。


木登りのてっぺん泣いていたんだね  山本早苗

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過去なんて問わぬ土竜の一頻り  岸井ふさゑ




                    石 尊 詣 青 雲 桟 道    韋 駄 天    (歌川国芳)



秀吉と柴田勝家の戦い------「中国大返し」から一ヵ月。
秀吉が、1万5千の主力部隊を1583年(天正11)4月20日 pm
4時ごろ。賤ケ岳の麓の木ノ本に到着したのが、pm9時ごろといわれて
いるから53㎞をたった53時間で走破したことになる。
 この驚異的なスピードを可能にしたのが、部隊の8割を占める足軽の
装備にあったと考えられる。
当時の足軽の軍装は、甲冑よりも軽い胴丸が主流であったが、それでも
5㎏近くの重さがあり、時速10㎞で走ることは不可能。
そこで秀吉は、足軽たちを、手甲や脚絆などの軽装で走りに走らせた。
戦場に到着してから、槍や胴丸を貸し与えるというシステム「レンタル
具足」を思いついた。 アイデアマン秀吉ならではの知恵である。



農道の端でイタチとご挨拶     斉尾くにこ





    月百姿 山城 小栗栖月    月岡芳年
山崎の戦いで秀吉に敗れ、落ち延びようとする光秀(左奥)と
小栗栖で落ち武者狩りをする村人。


家康ー本能寺の変・その後・episode




「本能寺の変」が起こったのは、1582年(天正10)6月2日の早朝。
その翌3日、信長の居城・安土城では、午後2時前後より信長の妻子ら
を退去させている。
因みに、身の危険を顧みずに行動したのは、蒲生賢秀・氏郷父子だった。
特に、蒲生氏郷は、信長がその才に惚れて、娘婿にした戦国武将である。
当時、氏郷は日野城にいたようだが、父の賢秀が安土城の留守役だった
ため、急遽、安土城へ、迫りくる明智軍と対峙することも覚悟しつつ、
父と共に、信長の妻子らを日野城へと避難させるのである。
                          『信長公記』


がちがちやないか熱湯かけたろか  藤井康信



  
実は、その中に信長の側室「お鍋の方」がいた。
最愛の人の死を知らされた彼女は、悲しみに暮れるのを後回しにして。
即刻、信長の位牌所の確保に乗り出した。
避難先の日野城から岐阜城へと向かい、こちらの神護山崇福寺宛てに
「黒印状」を出したのである。
内容は以下の通り。
「かくべつに折り紙に書いて申します。この崇福寺は、信長様の位牌所
 でありますので、何人といえども寺地を違乱しようとする者があれば、
 おことわりするのがよろしい。そのために一筆申し上げます。
                天正十年六月六日 なべ(黒印)」
                     (『戦国武将』楠戸義昭)



マイナンバー首に吊るして彼岸まで 平井美智子





            蒲 生 氏 郷

蒲生氏郷公の辞世の句。
「限りあれば 吹かねど 花は散るものを こころみじかき 春の山風」
「風なんか吹かなくたって、花の一生はそもそも限りがあり、そのうち
 いつかは散ってしまうもの。それをどおして春の山風は、短気に花を
    散らしてしまうのか。」




書状の日付けは、「本能寺の変」が起きた4日後。
あまりにも素早い動きとしか言いようがない。
ただ逆に、それほど事態は切迫していたとも……。
直ぐにも保護しなければ、大事な織田家の菩提寺が争いに巻込まれる。
そんな危機感がお鍋の方を突き動かしたのかもしれない。



戦場でぶらりと垂らすティーバッグ 西澤葉火




大徳寺総見院の織田一族の墓に眠るお鍋の方




「お鍋の方」
お鍋の方も、織田信長に救いを求めたうちの1人である。
もともと彼女は、山上城主の小倉賢治(かたはる)に嫁いでいたのだが。
小倉賢治は、六角氏に敗れて自刃、大事な息子2人も人質に取られる。
この悲劇に、彼女は果敢に立ち向かった。
なんとしても、息子を取り返すため、信長を頼ったのである。
これが縁で「お鍋の方」は信長の側室となり、人質となった息子2人も
無事救出されたのであった。
なお、信長との間には二男一女をもうけており、信長の家臣らも「お鍋
の方」に敬意を払っていたようである。



押しピンをはずすと君は蝶になる  和田洋子



「殿のご恩を決して忘れてはいけません」
救出された2人の息子「甚五郎」「松千代」は、常々、母から言い聞
かせられていたという。 この2人は、信長の家臣となり、うち1人は
「本能寺の変」にて、信長のもとへと駆け付けて討死している。
最愛の人の死------その悲しみさえも、後回しにして奔走した「お鍋の方」
であった。信長に献身的だった彼女は、その後も、ひっそりと弔い続け
たに違いない。お鍋の方は、京都で没した。
今は、大徳寺総見院の織田一族の墓に眠っている。



時という忘れ薬もありました  平田元三








「中国大返しを検証する」
京都で味方集めに苦戦していた光秀に衝撃の情報が入った。
中国地方で毛利氏と対峙していたはずの秀吉が、
「明智討ちに京都に迫っている」というのである。
当時、信長旗下の主な軍団は、柴田勝家が北陸地方で上杉氏と、
羽柴秀吉が、中国地方で毛利氏とそれぞれ対峙し、
滝川一益は、関東地方で戦後処理に追われていたため、
光秀は、彼らがそう簡単に引き返して来られるはずがないと考えていた。
しかし秀吉は、いち早く本能寺の変の情報を知ると毛利氏と和議を結び、
軍を反転してきたのである。名高い「中国大返し」である。



「目的地周辺」ですっていったよね  須藤しんのすけ




だが、秀吉が中国地方の毛利氏攻略のため布陣していた備中高松城から、
2万人の軍勢を、光秀との決戦の場となった山崎までの行軍は生半可な
ものではない。
まず、2万人分の秀吉側の軍勢の食料の確保が必要になる。
すなわち、毎日約20万個のおにぎりを準備せねばならないことになる。
189㎞を6月5日に出て13日に重い鎧をつけ槍を提げ、山崎につく
まで、一日平均25㌔を走破しなければならない。
当時の山陽道は未整備で険しい山道が多く、とくに最大の難所とされる
船坂峠は高低差が大きく、道も狭くて滑りやすく、梅雨時でもあること
から行軍にはかなりの困難をともなったはずである。
(秀吉はこの時の苦労からレンタル武具を思いついたのだろう)



伸びて縮んでその場限りの理想論  高浜広川










「秀吉は光秀の謀反を知っていた」
織田家臣団のなかで生き残りを懸けて光秀との派閥抗争の渦中にあった
秀吉は、「本能寺の変」を事前に想定していたのではないか。
実際に、光秀の謀反の真因に関連して、変からわずか4ヵ月後の天正
10年『惟任退治記』(大村由己筆)に、
『光秀は、将軍足利義昭を推戴し、2万余騎の軍勢を編成して、備中に
 向かわずに、謀反をを企てた。これはまったく発作的な恨みからでは
 なく、年来の逆心があったことを(人々は)知り察していた』
大村らの秀吉側の人間にとっては、光秀が信長に対して「年来の逆心」
を抱いていることは、常識的範疇だったというのである。


偶然をよそおうための距離に居る  大葉美千代





           秀 吉 と 安 国 寺 恵 瓊
  


「秀吉と安国寺恵瓊の密談」
羽柴秀吉安国寺恵瓊を密かに石井山の陣所に呼んで、毛利氏の領国を
平定するための「私の謀を見せよう」と仰り、味方になった武将たちの
連判状を恵瓊に投げ広げた。
 そこに洩れている毛利家の主な武将は、五名にすぎなかった。
恵瓊は肝を潰し、膝を震わせた。
秀吉はこのような計略は、かつて日本にはなかったと思っていたところ、
「毛利輝元殿の謀が深かったため、信長公がお果てになってしまった」
と仰り、したがって、
「今は毛利・吉川・小早川の御三家と和睦して上方に戻り、明智光秀を
 討ち果たして信長の恩に報いたいので、御同心いただきたい」
と、起請文を作成のうえで申し出た。



ややこしい人にややこしいもの貰う  河村啓子




    南 光 房 天 海


「光秀は生きている」
明智光秀は、姿を変えて生き延び、天海であるという説がある。
天海の出自は不明だが、家康の側近として主に外交面で活躍したほか、
江戸城と江戸の街づくりに関して、宗教的な側面から家康に助言をした
といわれている。
家康没後には、「家康を東照大権現」として祀ることを提言し、
これが採用されるなど、家康死後も幕府において強い影響力を誇った。



今しばらくはドクダミのままでいる  岡谷 樹

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